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旅人の女性はソラヤという。南から北上してきてこんなマキナ国の田舎の村まで徒歩で来たらしい。
もう一人の少年はキュフと言ってソラヤとは血縁関係ではないらしく、複雑な成り行きで一緒に旅をしているとのことだそうだ。
「ソラヤさん、どうしてあんな山道を通ってきたの?南からなら東の方に広い街道があるから、ほとんどの人はあんな道通らないよ」
ソラヤさんは早速山から植物をたくさん摘んできて、包丁で刻み始めている。ウィミの為に化膿止めを作るのだという。
「ちょっとアルス国に会わなければいけない人がいて、それで山道を通らざるをえなくなったんです」
「ケルウスに行くんでしょう?なら、川を渡らないといけないけど、渡し船が見つかるかどうか……」
春麦の収穫時期になると渡し船や少し大きめの船が行き来するのだが、この季節は休眠状態だ。
包丁を握りながら、ソラヤさんは首を傾げてうーんと唸った。
「迂回して街道から大橋を渡ったほうが無難かもしれないけど、もう少し東に向かって歩かないといけない。もし急ぎの旅ならすぐにでもここを発ったほうがいいかも」
川沿いを辿って東に一日ほど歩いた先に、大橋と呼ばれるハサミ川を横断できる橋が掛かっている。
大昔魔法使いが作ったと言われる、古いがとても頑丈な橋で、突風が吹いても川が増水してもびくともしない。橋の幅もとても広いので、その昔はケルウス帝国の数万人の大軍が一度に渡っても壊れなかったとか。
しかし今ではその橋には関所が置かれ、通行許可書が必要になっていて、一般人が軽々しく通ることが出来なくなったと聞いている。
「大橋の関所では通行書が必要らしいんだけど、貨物車の荷台にも隠れさせえてもらえれば通れるって聞いたことがあるから商人の馬車を見つけて……」
「ねえ、サブリナさん。その川ってそんなに広いの?」
サブリナさんなんてさん付けで呼ばれたことなどなかった私は、少しその呼び方に居心地の悪さを感じている。
「対岸がほとんど見えないくらい川幅が広いんだよ。グッタの商人でも海と間違えるくらい」
「そうなんですね。じゃあ、泳いで渡るっていうのは無理なのか」
「泳ぐ!」
私は驚きのあまり大声を出してしまって、包丁を握っているソラヤさんが目を丸くさせて、作業の手を止めた。
「ソラヤさん、泳ぐなんて絶対に無理。非現実的。それに川には人魚が住んでいて水底に引き摺り込まれるっていう噂があるんだから」
「人魚?人魚が川に生息しているんですか?」
「多分、子どもを驚かせる作り話だとは思うんだけど、この辺りの子ども達はみんなこの話を聞かされて、信じているんだよね」
私も幼い頃は人魚を本当に信じていて、川がとても怖かった。父が首都に行く時、渡し船が人魚に捕まるのではないかと常に心配になっていた。
「しかも父さんが目の前で人魚に足を引っ張られた旅人を何人も見たとか、遠くの方で鳥が人魚に捕まっていたとかって言うし。私とウィミはよく夜眠れなくて……」
話していて恥ずかしくなって来たので、途中で話すのをやめた。初対面の人に何をペラペラ話しているのだろうか。
「人魚か。見てみたいです」
ソラヤさんはニコニコ微笑んでいて、どうやら子どもの頃の私たちの姿を妄想したようだった。
「悪い人魚だよ。関わらないほうが絶対に安全だから、泳いで渡るという方法は諦めて」
「大丈夫。冬に泳いだりしないですよ」
「それもそうか」
季節は新年を迎えてから一ヶ月ほど。春はもう少し先になる。そもそも春でも川の水はとても冷たいので、泳ぐというのは冗談だったのだろう。
「ウィミさんの怪我が少し良くなるまでは、ここに居させてくれませんか。キュフも仕事を任されて気合いが入っていたし、私も罪悪感で先を進むのは嫌なんです」
「気持ちは分かるけど、うちは狭いし、寝るところもないからな」
一日二日なら、床で寝たりするのも耐えられるけど、連日なると床は硬いし、冷たいしとても辛いと思う。それに食費だって二人増えるのは家計的にとても厳しいのだ。
「ご迷惑なのは分かっています。せめて、鎮痛薬を作る間は居させていただけませんか?」
薬代をまともに払ってもやれない悔しさや、なさ泣けなさもあって、私は仕方なくソラヤさんとキュフ君を受け入れることにした。
私の寝台にソラヤさんに寝てもらい、父のカビ臭いであろう寝台にはキュフ君に寝てもらったので、私は台所の床で寝る羽目になった。客人を床で寝かせる訳にはいかないので、この生活は二日続いた。
背中が痛い。腰か痛い。骨盤とか、首も痛い。床で寝ることの辛さを感じる日々で、骨折しているウィミに比べれば大したことはないのだと、と言い聞かせて畑仕事をする。
ソラヤさんが手伝ってくれるので、畑仕事に関しては今のところ問題はない。ゼノ仕事はキュフ君が代わりに働いてくれているので、ゼノたちから文句などは聞こえてきていない。
「ウィミ、お昼ご飯だよ」
カチコチのパンと野菜を炒めたものをお盆に乗せ、寝台まで運ぶと、ウィミはすっきりした表情でお盆を受け取った。
「ありがとう。私、そろそろ歩けそうなので、家のことを再開するよ」
「バカなこと言わないでよ。お爺ちゃん先生は三ヶ月は無理してはいけないって言ってたんだよ。安静にしてて」
「ソラヤさんのくださる薬を飲むと、痛みが取れるから。しかも、患部の熱も引いていくし、もう治っているような気がするっていうか」
初日はあんなに夜も魘されていたウィミが、ソラヤさんの薬を飲み始めた二日目の朝から急に表情が穏やかになった。
「薬が効いているだけで、骨がくっついた訳じゃないって、ソラヤさんは言ってたよ。無理しないの」
「じっとしているのが、慣れなくて」
ウィミがうちに来てから、大人しく家で寝ていることは殆どなかった。風邪を引いて寝込む以外は、毎日外の仕事や畑仕事に出ていた。ゼノは働き者の種族だと聞いていたけど、こんなにも毎日働き続けられるなんて感心する。
「ここに来てからずっと働き詰めだったんだから、ゆっくり休めばいんだよ。誰も責めたり怒ったりなんかしない」
「そうなら良いんだけど……」
ウィミは窓の外に目を向けて、黄金色の春麦畑をじっと見つめた。
「収穫までにはまだ時間があるし、ウィミは怪我を治すことだけ考えればいいの」
「サブリナ。おじさんっていつ帰ってくるのかな?」
きっと収穫時のことを気にしているのだろう。春麦は後一ヶ月ほどで収穫期を迎える。その頃はまだウィミの足はまだ回復していないだろうから、人手不足になる恐れを気にしているのだろう。
「さあ。あのクソ親父は気まぐれだから予想つかないけど、毎年麦の収穫期にはフラッと帰ってくるから、そろそろじゃないかな?」
「そうだよね、そろそろ帰ってくるんだよね」
どこかすっきりしない返答で、どこか心配そうな顔色をしてパンを齧るウィミ。なにかあの風来坊の親父に心配事でもあるのだろうか。
「そうか、寝るところなかった。親父が帰ってきても追い返さないとダメだね」
「おじさん、どんな顔するかな?」
ウィミがクスッと可愛らしく笑みをこぼした。
「それなりに困った顔はするだろうけど、自業自得よ。娘たちに家業を任せっきりで家を空けてるんだから。当然の報いだ」
ウィミは「そうかもね」と冗談っぽく言って笑顔を見せた。その笑顔がとても嘘っぽくて、どうして
か私の心の端に引っかかって仕方なかった。