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麦の穂を守る人
曇天と穏やかな河川の間を滑空する、春を告げる鳥は悠々と翼を広げて餌を求める。対岸は春の麦の盛り。
春鳥は黄金の麦を求めて川を渡っていくが、空気が湿気を帯びて重いのか、その高度はかなり低い。
水面に影が映るほど低空へと降下した時、水面が波を打ち始め、そして勢いよく何かが飛び出した。
水飛沫を上げて飛び出るのは無数の人の腕のような物体で、血色の失せた五本指の腕はぐっと伸びて、小さな春鳥を難なく捕まえる。
そして捕獲した鳥の鳴き声をかき消すように、慌ただしく水音を鳴らして水中へと攫っていく。
春鳥に麦は奪われてはならない。
毒鳥を対岸に入れさせてはいけないのだ。
エアルの手記より。
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記憶の中の父はいつも後ろ姿で、私はいつも低い位置からあの広い背中を見上げている。
金色の春麦が冬の冷たい光をサワサワと反射する。そんな眩しい視界の中、父に置いて行かれないように必死について行く私は、ずっと一つの事をぐるぐると考えていた。
いつか必ず、私がこの背中に鎌を突き立ててやる、と。
新年が明けて一ヶ月が過ぎた頃、私の住むウミロ村では春麦の花が咲き始める。
この時期からは冬鳥に突かれないように案山子を畑に作るのが通例で、私も畑の所々に作った十字の木の杭に人型に見えるように布切れで頭と手を作る「サブリナ、帽子を持ってきたよ」
私と同い年のウィミというゼノの女の子が家からボロボロの麦わら帽子を持ってきた。
「毎年同じ帽子だと、鳥にもバレるのかな」
冬鳥に突かれた帽子は穴だらけで、いかにも人間が被りそうにない痛み具合だ。
「去年は最小限で済んだから、今年も大丈夫だよ」
ウィミの表情は大丈夫と言う割にはどこか心配そうで、今年の麦の出来は半分ぐらい鳥に取られるかもしれないと、不安になる。
私が麦わら帽子を編めればいいのだけど、自分でも嫌になる程の不器用で何度か試してみたが、帽子の形にはならなかった。ウィミは器用で何でも作ってくれるのだが、彼女は仕事がとても忙しく、麦わら帽子を作る時間がない。
「おじさんに買ってきてもらうようお願いしてみる?」
「父さんは帽子なんて買わないよ。自分の畑に興味なんてないから」
父はこの村で収穫した春麦を売る仕事をしている。自分の持っている畑は全部、私とウィミに任せきりで全くと言っていいほど携わることはない。
「とにかく、綺麗そうなのは使って、ボロボロなのはなんとか補修してみるよ」
「サブリナには無理だと思うけど……」
「わ、私だってやればできると思う」
ウィミは心配そうに私を見つめ、そして比較的綺麗な帽子を案山子に被せていく。
そんな時だった、北東の山道から声が聞こえる。この辺りは何もない田舎で村の殆どが山と畑だ。北東に広がる深い山から続く細い道はこの畑の脇道に繋がっていて、道なり進んでいくとハサミ川という大きな川に行き着く。川の反対側は首都のメルがかすかに見える。
この山道は大昔、隣国から旅人が首都メルに向かう時よく使われた道なのだとか。頻繁に使われていたというのに質素で道幅も狭く、舗装もされていない土道なのだが。
「だから、引き返そうって言ったじゃなか!」
「その話は終わったでしょう?先に進むって決めたんだから、つべこべ言わないでよ!」
「ソラは本当にそれでいいの?」
「私の旅の目的はキュフとケルウスに行くことなんだよ。南に戻るなんてそんな時間無いって言ってるじゃない」
「そうやっていつも人のことばかり考える。自分の気持ちとか願望とかはないの?」
「だから、先に進むことが私の考えなの。キュフだって元の体に戻りたいでしょう?」
「ああ、もう!そうやってボクを理由にするのをやめてよ!」
山道から聞こえる声は男女のようで、どちらも子どもの声で、何やら揉めているようだ。だんだん声が大きくなっていて、会話の内容が聞き取れるくらい。
「キュフの事を理由に旅をしてるんだから当たり前でしょう!私が好き好んで徒歩の旅をしてるとでも思ってた訳?」
「自分の記憶探しをしてるんだとばかり思ってたよ。一緒に行動してくれる都合の良い人間を見つけたから、一緒に行動してるんだと思ってた」
「キュフを都合の良い旅仲間なんて思ってる訳ないでしょう。私のこと今までそんな風に思ってたなんて、知らなかった」
「ああ、こっちだって知らなかったよ。ソラヤがそんなに分からずやだとわ」
「そっちこそ偏屈だと思ってもみなかった」
木の影から男女が姿を表すと二人は、今にも掴み掛かろうとするのではないかという怒りっぷりで、こっちが心配になるくらいだ。
子ども二人は、姉弟のように年齢差があり、女性は十代後半頃、男性は十代前半で、見た目は似ていない。
女性は男装をしているが声で女性だとすぐに分かった。それにしても珍しい髪の色をしている。白っぽい砂色の髪が綺麗で、自分のくすんだ焦茶色の髪を撫でながら一つため息をついた。
男女二人が畑の脇道を喧嘩しなが歩いていると、ウィミがその光景に黙っていられなくなったのか、駆け寄って声をかけた。
「あの、どうしたんですか?」
姉弟喧嘩または痴話喧嘩なんて放っておけば良いのにと私は心の中で呟いた、まさにその時、山の中から一羽の大きな赤い鳥が飛んでくるのが見えた。そして鳥は速度を落とす事なく子ども達の方に向かって突っ込んでくる。
「うわぁ!」
赤い鳥が高速で正面から飛び込んできたら、誰だって狼狽えるだろう。しかし驚いて尻餅をついたのはウィミだけで、女はなんてことない表情で当たり前のように鳥を腕に停まらせた。
「ウィミ!」
鳥にびっくりしたウィミは派手に後ろにひっくり返ってどたん、と嫌な音を立てて転がった。
「大丈夫ですか。ロアがビックリさせてごめんなさい」
「いいえ。大丈夫……痛い」
麦を踏まないように注意しながら駆けつけると、ウィミの右足が明後日の方向に曲がっているのが見えて、私の頭皮に冷や汗がパッと吹き出るのが分かった。
「ウィミ!大丈夫?」
「サブリナ。足が、足が」
驚いて後ろ向きに倒れ込んだ時、ちょうど石を踏んで足首が外側に捻るような形になったようだった。「病院へ行きましょう。早く手当しないと!」
少年がそう言うと、私にウィミの右足を持つように指示し、女性に体を後ろから抱えるように言って、彼は左足を持つ。そして三人でウィミを川沿いの診療所に運ぶことになった。
「あの、貴女はこの方のご家族ですか?」
診療所までの道中、旅人の女性が私にそう尋ねる。ウィミと私の関係を聞きたいのだろうが、しかしこの関係に名前はあるのだろうか。
「いいえ。家族ではないけど、ウィミは私の……」
言葉に困っていると少年がとにかく手当をと急かすので、私達は診療所に急いで向うべく加速するのだった。
診療所のお爺ちゃん先生はウィミの足をパッと見ただけで「骨折」と診断した。曲がった足を戻し、添え木をして包帯でぐるぐる巻きにする。
治療中のウィミの悲鳴を聞いていると、こちらの胃が痛くなるが、もっと痛そうな顔をしているのが、旅人の二人だ。ゲガをさせて心を痛めているのだろう。
お爺ちゃん先生は私にキツい痛み止めの薬を処方しようとしたが、ウィミが高価な薬はいらないと必死に止めたので、一般的な頭痛薬を貰って帰宅した。
我が家は私と父とウィミの三人暮らしで、必要最低限の物しか置いていなくて、痛みに苦しむウィミに個室を与えてあげることもできない。
「大変、申し訳ございませんでした」
「本当にごめんなさい」
少年が大人っぽい謝罪をし、続いて女性が深々と頭を下げ、涙声で謝る。
「頭を上げて。謝られても足は治らないし。それに謝罪するならウィミに言って」
二人はウィミに頭を下げようとしたが、ウィミが痛みでうなされているのを目の当たりにし、絶句した。
「私達、ウィミさんの代わりになんでもしますので、どうか償う機会をください」
少年が瞳を潤ませて私を見上げてくる。ウィミが仕事を掛け持ちしていて、彼女が動けなくなると困る人は多いが、よく知らない彼にその仕事を任せても良いのだろうか。
「私は、痛み止めの薬の作り方を知っていますので、薬を作りますし、ウィミさんの看病もします!」
薬を作れると言うのは立派な特技だと思うけれど、果たしてそれは信用できる薬なのだろうか。そんな怪しげな薬をウィミに服用させるには気が引ける。
私は返答に困っていると、家の扉が力強く叩かれた。
扉を開けるとそこに立っていたのは、ゼノの男性だった。名前が思い出せない。年齢は二十代後半くらいで、日に焼けた肌に喉元に刺青の入った、キラキラ輝く瞳を持つ、背の高い愛想の悪い男。
「ウィミが怪我をしたと聞いて」
「ええ、骨折で、当分は安静にと言われています」
「そうか、分かった。ウィミにはしっかり休むように言っておいてくれ」
「ウィミの仕事はどうしたら?」
「こちらで何とかするから、サブリナは気にすることはないよ」
男性がそう言うと、扉を閉めて帰ろうとする。すると旅人の少年が扉を抑えた。
「ウィミの仕事はボクがするから、なんでも言って」
「サブリナ、この子は?」
私が首を傾げて「なんて言うか」と説明に困っていると、少年は自分で説明を始めた。
「ボクはキュフ。ウィミはボク達の鳥が驚かせたせいで、足を怪我したんだ。責任を取るから仕事をさせて」
少年は真っ直ぐな瞳で男性を見上げると、刺青の男は少し考えたのち、ならついて来いと言って少年を外に連れ出すのだった。
ウィミはあの男性が所属しているゼノのグループで雑用をしていたから、きっと下働きを任せるのだろう。
「名前、何だったかな?」
向こうはしっかり私の名前を覚えているのに、私はどうしてかあの男性の名前を思い出せないでいる。そしてあの男が所属しているグループが集まって何をしているのか、何を作っているのかも知らない。
人種が違うということもあって、ウィミにも聞き出せないまま数年が経っていた。
ゼノ達はあんな山奥で集まって、何をしているのだろう。
今更、そんな疑問がふと浮かんで、簡単に消えないでいる。