あなたの夫婦愛、1億円で買います ―天空のセレブ妻―
「おふたりの夫婦愛を1億円で買わせてください」
テーブル越しに男が静かに告げた。
年齢は四十代ぐらい。高級そうなスーツを着て眼鏡をかけていた。見た目は会計士のようなきちっとした雰囲気だ。
テーブル越しに男と対面しているのは三十代の夫婦。夫の祥吾は36歳、妻の果穂は34歳である。
夫婦が突然の申し出に戸惑っていると、男が弁解がましく言った。
「急にすいません。驚かせてしまいましたね。……つまり、奥さんを二週間、私に〝貸して〟いただき、その対価として1億円をお支払いしたい、という意味です」
あの、と夫の祥吾が不審げに訊ねた。
「……妻を貸す、とはどういう意味でしょうか?」
「言葉通りの意味です。僕の自宅で一緒に住み、食事をして、日々の出来事を話し合い、同じ寝室で寝ていただきます。同居を始めたときに五千万、二週間後に残りの五千万円をお支払いします」
テーブルに沈黙が落ちる。特に「同じ寝室で寝る」のくだりで夫の顔が強張った。
男が説明を続ける。
「ご夫婦の状況は存じております。折りからの不況で、ご主人のレストランの経営が厳しくなり、このままではお店を手放さなくてはならないそうですね」
祥吾の眉間が苦しげに寄る。男が隣にいる果穂に目を向けた。
「奥様のお母様は脳こうそくで倒れ、介護の問題で困ってらっしゃるとか」
果穂はテーブルの隅に置かれた男の名刺にちらっと目をやった。名刺には「鈴木慎司」と書かれていた。肩書きはなく、住所と電話番号が記載されている。
ある日、突然「鈴木」と名乗る男から連絡がきて、レストランに融資ができるかもしれないと言われた。
半信半疑で夫婦で出向いたところ、1億円で夫婦愛を買わせてほしい、と奇妙な提案をされた。
「どうしてそれを?……」
果穂が訊ねると、男が答えた。
「私は手広くビジネスをやっているので、いろいろなところから情報が入ります」
男の言ったことは事実だった。このままでは夫の店は人手にわたってしまう。脳こうそくになった母を専門の介護施設に入れるのにお金が必要だった。
夫の祥吾が絞り出すように訊ねた。
「……つまり、私たち夫婦がお金に困っているから、私が妻を差し出すだろうと?」
「いえ、そういうわけでは……ただ、私はお金を持っています。ご夫婦の苦境を助けるお手伝いができるかもしれないと思いました」
ただし、それはタダではない。妻を14日間貸し出す対価としてもらえるものだ。
重苦しい沈黙がテーブルに落ち、男が気遣うように口を開いた。
「すぐにお返事いただかなくてもかまいません。ご夫婦で話し合ってみていただけないでしょうか。そうですね……一週間後に改めてお返事をいただくのはどうでしょうか?」
男が財布から自分のコーヒー代を出し、テーブルの隅に置いた。
「いいお返事をお待ちしています」
鈴木が席を立ち、喫茶店を出て行った。テーブルには夫婦が残された。くそっ、という祥吾の声が隣から聞こえる。
「ふざけてる。会うんじゃなかった」
果穂は押し黙っていた。「夫婦愛を買いたい」などと言っているが、ようは売春の申し出だ。祥吾が憤慨するのも当然だった。
(だけど一億円なんて……)
女一人を抱くのに見合わない金額だ。自分はブスとは言わないが、女優やモデルのような美人でもない。
(1億もあれば、プロの美しい女性をいくらでも抱けるはず……)
鈴木は金持ちで、見た目も悪くない。女性に不自由はしていないはずだ。なぜ一億円も出して見ず知らずの平凡な女を抱きたがるのか?
男の目的がわからず、果穂は困惑した。
◇
「やあ、果穂さん、いらっしゃい」
鈴木に招き入れられ、キャリーバッグを手に玄関に入った果穂はあっけにとられたように周りを見た。
天然石の床材、淡い色合いを作る間接照明……そこは玄関というよりエントランスホールだった。
「どうぞ、お上がりください。あ、お持ちしますよ」
鈴木はひょいとキャリーバッグを持ち上げ、先に歩き始めた。果穂は後について廊下を進み、リビングに入った。
(うわあ……)
都心のタワーマンションの最上階は想像を超える世界だった。
三十畳はあろうかという広いリビング、高級そうな調度類、高い天井……角部屋は全面ガラス張りで、澄み渡った青空が頭上に広がっているようだ。
「すごい……周りに遮る建物が何もないからスカイツリーまで見えるんですね」
窓の外に広がる大パノラマに感動した。ここに自分はこれから二週間住むのだ。
「マンションのパンフレットには〝天空の城〟なんて書かれてました。さながらあなたは天空のセレブ妻かな」
夫婦は話し合いの末、男の申し出を受けることにした。このままでは夫は苦労して手に入れた店を手放さなくてはならないし、お金があれば、果穂は母親を施設に預けることができた。
『あなた、鈴木さんの話を受けましょう。私が二週間、我慢すればぜんぶ解決するのよ』
夕食後、リビングのソファに並んで座り、果穂から切り出した。
『果穂はそれでいいのか?……』
『いいとは思ってないわ。でも今の私たちに他に方法がある?』
夫は苦しげに黙り込んだ。親、親戚、兄弟、友人……金策に駆け回り、祥吾の顔には疲労の色が濃い。
『大丈夫。私は何も変わらないから』
夫の手に自らの手をそっと重ねる。
売春まがりのことをするのに最初は抵抗があった。だが1億円だ。14日間の日割りで考えれば、一晩抱かれるだけで700万もらえるのだ。
最近、自分たち夫婦はレスだった。レストランの経営が傾き、夫は仕事に追われ、妻を抱くどころではなかった。そんなとき、鈴木からこの申し出があった。
(私は一晩700万の価値がある女なんだ……)
それは果穂の女としの自尊心を少なからず満たした。
(そうよ、これは私たち夫婦の未来のためなのよ……)
翌日、果穂自ら鈴木に連絡をとり、申し出を受けると伝えた。
そして鈴木との14日間の〝夫婦生活〟が始まる日を迎えた。果穂は衣類などを詰めたキャリーバッグを転がし、教えられた都心のタワーマンションの最上階を訪れた。
緊張はしていたし、警戒心もあったが、〝天空の城〟とも言うべき大パノラマの出迎えにすべてが吹き飛んでしまった。
◇
その夜――果穂と鈴木はリビングで夕食をとっていた。窓の外には東京の夜景が広がっている。
テーブルにはフレンチ料理が並び、ワインクーラーには高級ワインの瓶が氷の中に横たえられている。
果穂がフォークで肉を口に運ぶ。
「このフォアグラのステーキ、すごく柔らかいです。口の中でバターみたいに溶けます。バルサミコ酢を使ったソースも絶品ですね」
鈴木がおだやかな笑みを浮かべる。
「レストランを経営されている果穂さんに褒めていただいて光栄です」
料理は近所のフレンチレストランからケータリングされた。シェフ自らがキッチンで仕上げをしたので、味も盛り付けも完璧だった。
「普段からこうやって取り寄せて、お食べになるんですか?」
「ほとんど外食で、たまにケータリングを使っています。店で食べるより家の方が気楽でいいですからね」
そう言って鈴木は果穂のグラスに瓶のワインを注いでくれた。1本300万円以上とするボルドー産のロマネ・コンティだった。
その後、鈴木は仕事や観光で訪れた海外の話をおもしろおかしくしゃべった。トークの巧みさとアルコールの酔いもあり、果穂はよく笑った。
鈴木は四十代で独身。普段は五つの会社を経営しているらしい。
「五つも会社を? 大変じゃないですか」
「信頼できる人間に任せていますので」
いずれは会社は部下に譲り、自身はエンジェル投資家として、次世代の起業家を支援したいと鈴木は語った。
(なんでこんな魅力的な人が、私を1億円で抱きたいなんて言ってきたんだろう……)
それとなく訊ねると、鈴木は恥ずかしそうに告白した。
「経営者仲間の友人とタクシーに乗っていたら、たまたま歩道を歩いている果穂さんをお見かけしたんです」
果穂が首をかしげる。
「なんて素敵な人なんだろうと思って……お恥ずかしい話ですが、その場で興信所に電話をしてあなたのことを調べてもらいました」
街でたまたま見かけた女を探偵に尾行させて素性を調べる――金を持て余した人間のやることは果穂には理解できない。
「どうか怒らないでください。果穂さんにもう一度だけ会いたい――それしか考えていなかったんです」
たしかに褒められた経緯ではない。一歩間違えばストーカーだ。ただ、鈴木のようなハイスペックな男からそこまで求められたことに、果穂は誇らしい気持ちになった。
食事が終わり、果穂は鈴木にすすめられてお風呂に入った。まるで高級リゾートホテルのような広い浴室で、浴槽からは風呂用の〝中庭〟を鑑賞できた。
風呂を出た果穂は、コットンの白いバスローブ姿で洗面台の鏡を見ていた。
(いよいよ、鈴木さんに抱かれるのね……)
覚悟はしてきたとはいえ、やはりその時がくると緊張した。お風呂で入念に身体を洗い、ムダ毛の処理もして寝化粧も施した。
(私は1億円の女……がっかりさせないようにしないと……)
今はもう鈴木に抱かれるのを嫌だとは思わなかった。天空の夜景とロマネ・コンティに理性を溶かされ、本当に鈴木の〝妻〟になった気分だった。
脱衣場を出ると、廊下を進み、寝室のドアを開ける。紺色のパジャマ姿の鈴木がベッドのヘッドボードに背中を預けていた。
果穂の姿を認め、手元のタブレットPCから顔を上げる。
「お風呂はどうでしたか?」
「すばらしかったです。お風呂の中に庭があってびっくりしました」
「今度、ミストサウナも試してみてください。肌がしっとりしますよ」
寝室にはシングルベッドが二つ並んでいた。果穂は空いているベッドに上がり、緊張しながら鈴木がやってくるのを待った。だが――
「じゃあ、電気を消しますね」
鈴木はサイドテーブルのベッドランプを消し、「おやすみなさい」と背中を向けて寝てしまった。しばらくすると、薄闇の中からかすかな寝息が聞こえてくる。
(どういうこと?……私を抱かないの?……)
果穂は困惑しながら、隣のベッドを見つめていた。
思った。鈴木はシャイなのだ。よく言えば紳士なのだ。初日はお互いを知ることに重点を置いのだろう。
(明日はきっと私を抱きに来る……)
そう自分に言い聞かせ、果穂はまぶたを閉じた。ホテルのようなふかふかのベッドとワインの酔いも手伝い、すぐに眠りに落ちた。
◇
翌朝、鈴木は「これで何でも好きなものを買ってください」とクレジットカードを渡し、自身が経営する会社に出社していった。
果穂は昼間はエステに行ったり、観劇を楽しんだ。さらにブランドショップに行って、カードで服やバッグを買いまくった。
(だって好きなものを何でも買えって……いいわよね、あんなにお金持ちなんだから……)
移動は鈴木が手配してくれた黒塗りのハイヤー、ランチは最高級のレストラン。まるで女王かお姫様になった気分だった。
だが夜になると、寝室では同じ光景が繰り返された。すぐに鈴木は寝てしまい、一度たりとも果穂の肌に触れることはなかった。
ある夜の寝室、果穂は意を決して鈴木に訊ねた。
「あの……鈴木さん、私たち、今のままでいいんでしょうか?」
「と言いますと?」
「その……14日間、夫婦として暮らすということでしたけど、私たち何もしていません……」
果穂がモジモジと顔を赤らめると、鈴木は察したようにうなずいた。
「ああ、なるほど……いえ、すいません。僕は今の果穂さんとの〝夫婦生活〟に満足しています。果穂さんと一緒においしいご飯を食べ、ソファで並んで映画を見て、おしゃべりを楽しむ――それではいけませんか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「果穂さんがウチに来てくれてから、日々が充実して、仕事にもハリが出ているんです。僕は今のままで充分幸せですよ」
「はぁ……」
操を守れることを喜ぶべきなのだろうが、果穂はどこかがっかりしている自分がいることに気づいた。
(これは喜ぶべきことなのよね……)
こうして約束の二週間が過ぎ、果穂はタワーマンションから自宅に戻った。
自分のもとに帰ってきた妻を、夫の祥吾は複雑な表情で迎えた。当然、妻が鈴木に抱かれたと思ったのだろう。果穂もあえて否定しなかった。
(抱かれていないと言っても、絶対に信じてもらえないもの……)
1億円を手に入れたのに、夫婦の関係はギクシャクしはじめた。他人に抱かれた(と思っている)妻に、夫は厳しく当たるようになった。
「本当は鈴木とあのまま一緒にいたかったかったんだろう? タワマン暮らしが忘れられないんだ。おまえはそういう女だよ」
お酒に酔うと夫は本音を吐き出すようになった。
そうなると夫の悪いところばかりが目につきはじめた。3LDKの賃貸マンションはメゾネットのタワマンとはえらい違いだった。
「ひどいわ。あなたやお店のためにやったのよ」
「何があなたのため、だ。本当は金持ちに求められてうれしかったんだろう?」
それは図星であるがゆえに果穂の怒りに火を注いだ。
「ええ、鈴木さんは優しかったし、心も広かったわ。あんたみたいな甲斐性のない男、こっちから願い下げよ!」
着の身着のままで家を飛び出し、気づけば足は鈴木のタワマンに向いていた。
突然、訪れてきた果穂を、鈴木は驚いて出迎えた。
「どうされたのですか?……」
「あの……私、夫と喧嘩して……どこにも行くところがないんです」
所持金が少ないことも素直に打ち明けた。
「それはお気の毒に……もちろん、あなたをお泊めしたいのですが、今回は旦那さんのご許可を得ていません。既婚者であるあなたを泊めてしまったら、私は訴えられかねません」
「そうですよね……」
前回は夫公認で、事前に契約書まで結んだ。今の状況はただの不倫だ。とはいえ、他に行くアテもない。
「あの……私が既婚者だからダメなんですよね。夫と別れるとしたらどうでしょうか?」
「それはつまり……」
「私、夫と別れて、鈴木さんと人生をやり直したいんです」
自分が既婚者でなければ、鈴木は結婚してるはずだ。街で一目惚れし、興信所を使ってまで果穂の素性を調べたほどなのだから。
「旦那さんと離婚して私と一緒になりたい――それは果穂さんの本心ですか?」
念を押すように鈴木が訊ねる。
「はい、夫とは別れます」
きっぱりと果穂は答えた。その瞬間、鈴木が満面の笑みになり、つられるように果穂も相好を崩した。
不意に鈴木は上着の胸ポケットからスマホを取り出し、耳にあてた。
「今の聞いたな?」
ハンズフリーで回線が繋ぎっぱなしになっていたらしく、スマホから相手の男の声が聞こえてきた。
『……ああ、俺の負けだよ』
鈴木は拳を握りしめてガッツポーズを作った。
「約束だぞ! 賭けは僕の勝ちだ。金はちゃんと払えよ」
そう言って電話を切った鈴木は、困惑している果穂に告げた。
「ああ、すいません。実は経営者仲間の友人と賭けをしていたんです。街でたまたま見かけた幸せそうな夫婦を別れさせ、僕の妻になりたいと一ヶ月以内に言わせれば、2億円を出すと」
ようやく果穂にも話が理解できた。鈴木は自分たち夫婦に1億円を払ったとしても、賭けに勝てば2億円が手に入り、差し引き1億円の儲けになるのだ。
「いやあ、ありがとうございます。あなたのおかげで1億円を手にできました。ああ、これ、今晩のホテル代です。好きなホテルにお泊まりください」
男はそう言って1万円を押しつけると、呆然とする果穂を玄関から追い出した。
「旦那さんと仲直りした方がいいですよ」
そう言うなり、果穂の目の前でバタンとドアが閉められた。
(完)
「あなたの夫婦愛、1億円で買います」をテーマにした短編は他に……
「あなたの夫婦愛、1億円で買います ―究極の選択―」
……があります。