異食転生 スパゲティモンスターの禍殃
朝の静寂は、サルミアッキの声によって破られた。
「トドオカさんっ! 新聞読みました?」
「はい?」
自室でのんびりとルートビアを飲んでいたところだった私は眉をひそめた。私の反応に構わず、サルミアッキは新聞を握りしめたまま詰め寄ってくる。
「サルミアッキ。何度も言うようですが、寝室に入ってくる時はノックをしてください」
「それどころじゃないんですよ! スパゲティモンスターの話ですよ!」
「例の来訪神ですか。それがどうしました」
諦めて、この場でサルミアッキの話を聞くことにした。先ほどまで横になっていたベッドに腰をおろす。
スパゲティモンスターがこの世界から観測できるようになったのは、ほんの半年前のことだ。宙より姿を現したその巨大なモンスターの存在は、たちまちのうちに世界のあり方を変えた。
かつてこの世界に君臨していた七大災厄のうち、シュールストレミング、ウイトラコチェ、バラムツ、カース・マルツゥがたちまちのうちにスパゲティモンスターに駆逐された。それは戦いですらなく、ただ、自然の摂理として、これまでの神が世界から姿を消したのだ。
今、まさに天はスパゲティモンスターに覆われ、世界は滅亡しようとしていた。
「スパゲティモンスターに関してはベーコン教団が動いていると聞いていましたよ、サルミアッキ」
「おっしゃる通り、ベーコン教団は月神ベーコンの召喚に成功しました。トドオカさん」
「じゃあ、問題ないじゃないですか」
ベーコン教団は、主要な宗教団体の一つだ。彼らは、ある意味では王権を凌ぐ権力を持っている。
「月神ベーコンが吸収された……というのが今回のニュースです」
サルミアッキがばっと新聞を広げる。私は目を細めて新聞を受け取った。
「ベーコン神が吸収されて、スパゲティモンスターはさらに強大化……教団は四散」
このスパゲティモンスター厄災について、私は認識を改めなければならないようだった。
この世界において邪神の降臨自体は珍しいことではない。かつての世界で例えるならば戦争が起きる、くらいの認識だ。直接の関係が薄いならば一件のニュースに過ぎず、自身が直面したらその時ようやく実感し、命が左右されうる。
だが、世界最高権力の一つであるベーコン教団が敗れ、事実上機能を喪失したとなれば話は別だ。
人類と来訪神、どちらが生き残るかという生存競争というのが明確になっていた。
「ふうん……」
鼻から息を吐く私を、サルミアッキが心配そうに見つめている。
「サルミアッキ、好きなスパゲティ料理はありますか?」
私が唐突に聞くと、サルミアッキはきょとんとした視線を返してきた。いつも私に対して何かと喧しい彼女がこんな顔をするのは珍しい。
「トドオカさん、スパゲティモンスター討伐に動かれるおつもりなんですか?」
「ま、たまにはパスタ料理も悪くないかと」
「良かったぁ」
サルミアッキは、大げさに胸をなで下ろして見せた。
「実は、魔法通信で各方面からトドオカさんの出陣を要請する話が来ていましてね。どうやってトドオカさんを焚きつけるか悩んでいたのですよ。これを放置したら、“無職”のトドオカの名前が泣きますからね」
“無職”というのは職がない、という意味ではなく、職めるものなし、つまりは全てに通じている、という意味であって、私の二つ名の一つ。数ある二つ名の中では、気に入っているほうだ。
「スパゲティモンスターの所在、および今わかっている生態、戦闘能力についてできるだけ軍から情報を引きずり出しておいてください。多少無茶をしてもいい。私としても、余裕のあるメニューではなさそうですから」
「畏まりました、マイマスター」
サルミアッキは優雅に会釈する。
「そういうのは得意ですから」
「期待していますよ、サルミアッキ」
そう告げて、私は立ち上がった。
不思議と、私の胸は高鳴っていた。
この世界で、最大の好敵手がやってきたのかもしれなかった。
そのやりとりから一週間。
私たちは、スパゲティモンスターを視認できる位置にいた。
充分に情報を収集していたつもりだが、その異容を目の当たりにすると怖気を振るう。
まさに、異邦神。
大量の触手が絡まったような姿は数百キロメートルに及ぶらしく、全体のサイズは現段階をして不明のまま。まるで、命を持った特大の入道雲のようだ。
その身体で太陽を阻まれた大地は闇に閉ざされ、全ての命は死に絶える。
この地に至るまで、スパゲティモンスターから逃れようとする多くの姿を見てきた。難民は言うに及ばず、逃げ出した鳥の影が空を覆い、虫や鼠に至るまで全ての生命がスパゲティモンスターから逃げ出していた。
スパゲティモンスターは、人類にとっての敵でも文明にとっての敵でもない。
全生命共通の敵だ。
「トドオカさん、なぜ笑っているんです?」
横に立つサルミアッキに言われて、はっと頬に手をやる。
そうか、私は笑っていたのか。
なぜ?
「サルミアッキ、私は転生する前の記憶がおぼろげと言ったことがありましたね」
「はい? そうですね。以前、伺いました」
「でも、かつての私もきっと、好奇心旺盛で、知らない食材を見るとワクワクするような人格だったんじゃないかと思います。だから、今もちょっとそんな気持ちが残っている」
それに……。
私がこの世界に転生したことに理由があるのだとしたら、この来訪神を倒すためなのかもしれない。
私が強いことに意味があるのだとしたら、きっと、世界を守るために遣わされたものなのだろう。
腰のダマスカス包丁を抜き放つ。
私は、大きく踏み込んでスパゲティモンスターに向けて走り出し……。
そして、意識は途絶した。
「今回のトドオカも失敗でしたね」
トドオカの意識が途絶してからすぐに、サルミアッキは帰還していた。
帰還した先は、大量のモニタが並んだ薄暗いフロア。
かつては何十人ものスタッフが詰めていたこの空間も、もはや残るのは一人だけだ。主を失った無数の椅子にさみしさを感じる人間も、もういなくなる。
「申し訳ありません、ドク」
「想定していたことだよ、サルミアッキ」
ドクと呼ばれた女性は、なんの感情も浮かばない表情で言い、それから慌てて笑顔を浮かべて、
「今回は惜しかったな。相手があれでは仕方がないよ」
とサルミアッキに声をかけた。
「私に気を遣って頂く必要はありませんよ、アンドロイドなんですから、私は」
サルミアッキは頭部を取り外して器具に接続し、ボディも装置に横たえて自分で簡易メンテナンスを開始した。
コードネーム『サルミアッキ』。柔軟で強靱なフレーム、人間と遜色ない知性、高度な演算能力を持ち、さらに魔力、と呼ばれる特殊粒子を取り込むことで数百年単位の活動が可能な人類技術の粋。
それがサルミアッキだ。
「違うよ。君に気を遣って『惜しかった』なんて言ったわけじゃない。私も、時々そうした人間らしいことを言わないと、気がおかしくなるんだよ」
ドクは伸びてしまった髪をかき上げて、ドラッグのアンプルを左腕に注射した。
「ドク、人類の残り世界人口は?」
ボディから外した頭部から、サルミアッキは喋る。
「三百万人くらいかな……。もう、北アメリカもダメだ。残っている大きなコロニーは南米くらいしかない」
「いよいよ、時間がありませんね」
「悪いね。サルミアッキ、簡易メンテナンスが済んだら次の世界にすぐに飛んで貰いたい」
「ずっと以前から、もうそんな感じでしょうに。正規メンテナンスを受けたのがいつだったか、ドクも覚えていないでしょう」
「サルミアッキは覚えているのか。いいなあ」
「人工知能ですので」
人類の滅亡が始まったのは、西暦20021年のことだ。原因は、食料の変質。人類がそれまで利用していた麦、米、トウモロコシといった主要な農産物に病変が起き、とても食べることができないまでに食味が悪化した。人類は限られた食事を求めて相争い、国家レベルの戦争が始まるまでさほど時間はかからなかった。
戦争と食糧事情の悪化に対応すべく、人類はオペレーション・ピルグリムを発動した。異世界への移住計画である。
以前より、異世界、と呼ばれる世界が無限に存在していること、そして未知の技術が存在すること自体は認識されていたが、世界協定により積極的な介入は禁止されていた。接触は学術分野での研究や国連主導の調査団程度にとどまっていたが、今更そんな協定を気にするような情勢ではない。
そして、多くの人類が移住を試みて、失敗した。
理由はここで述べるにはあまりに多すぎる。現地の環境に適応することができなかった、というのが主要な理由だが、その中には魔力の濃厚さ、現地民との軋轢、伝染病の蔓延、農業生産量の限界など多様な理由が内包されている。
そこで、人類は先遣隊を派遣して、人類にとって安全な異世界を探した上での移住、という形に計画を修正した。
その先遣こそが、トドオカ。
人類でありながら、人類にあらざる強靱な生命力と精神力、消化力を持った彼が異世界を探訪し、移住適地を探す。もともとは、食料異変への適合のために開発された技術だったが、その時点で既に人類は地球での生存を諦めざるを得ないほどに衰弱していたのだ。
トドオカのクローンは多く創造され、サルミアッキと共に無数の世界を旅してきた。
トドオカ。
とど【トド】1.ぼらの成魚の異名。転じて、物事の終わり。
おか【岡】1.小高くなった土地。山の低いもの。
すなわち、トドオカという検体名には人類にとって最後の切り札という意味が込められている。
「簡易メンテナンスが終わりました、ドク」
サルミアッキは頭部をボディに接続し直して言った。
「ドク、次のトドオカさんの用意、できました?」
「ああ」
ドクは短く応えて、少し言葉に詰まり、
「サルミアッキ。次の転生が終わるのがいつになるのかわからない。その頃、私はもう死んでいるかもしれない」
ドクの声は震えていた。
「その時は……人類を、頼む」
「仕方ないですねえ、人類は」
サルミアッキはにへらと笑って、ぱちんとウインクした。
「では、次の世界に行ってきますよ、ドク。またお会いしましょう」
私は、見知らぬ場所で目を覚ました。
その世界には、広い広い草原が広がっていた。薫風が、草原を吹き抜ける。
傍らには、少女がいた。
見たこともないようであるし、何百年という時間を共に過ごしていたようにも思える。
「君は……?」
「初めまして、トドオカさん。私、サルミアッキと言います」