表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
butterfly  作者: 彩夏-ayaka-
第一章
1/4

つまらない日常

(…さぁ、今日のはじまりだ)


 清水しみず あおいは、目を覚ました瞬間真っ先にそんなことを思う。『世界がなくなっていればいいのに』という願いは、今日もまた叶わなかったようだ。


 きしり、とベッドのスプリングが鳴り、葵は思いきり顔をしかめる。静かにしないと、今日もまた()に叱られてしまう。 

 ――いや、『母』という仮面をつけた、()()にか。


 部屋の隅にある三面鏡の前に座り、長い黒髪を櫛で梳いていく。ちゃんと整えないと、『母』は朝食をとることすら許してくれないのだ。勿論、高校に行くことも。


 半袖シャツに腕を通し、音を立てないように気をつけながら櫛をしまう。磨き上げられた黒革の通学カバンを持ち上げ、はぁと一息ため息をついた。


 行きたくはないが、『母』は時間にも厳しいのだ。すすすすす、とほとんどすり足で階下のダイニングルームに降りた。


「…おはようございます、母さん」

「おはよう、葵。…あら、その恰好は何?」

「制服です。7月から、半袖を着ていいことになっているので」

「そう」


 短く言葉を交わし、素朴な木の椅子に座る。今日の朝ご飯は目玉焼きに白米、豆腐とワカメの味噌汁だ。葵は、好物に少し…ほんの少しだけ表情を緩め、「いただきます」と箸を手に取った。


 会話をすることもなく、黙々とご飯を口に運び続ける。それなら別々に食べたっていいとは思うが、『母』がふたりで食べることに拘るのだ。『母』に逆らえない葵は、言葉を飲み込むしかなかった。


「ごちそうさまでした」


 無機質な声で告げ、席を立つ。すると、『母』に声をかけられた。


「…葵。やっぱり半袖を着るのはやめなさい。長袖の気品あるブレザーが一番、貴女に似合っているのだから」

「分かり、ました。着替えてきます」


 顔を歪めそうになるのを必死で堪え、ポーカーフェイスを貫いた。消え入りそうな声で応え、行き先を玄関から部屋に変更する。


(面倒くさい…)


 内心でそう思いつつも、結局は『母』の言いなりになっている。まるで、操り人形のように――…


 幼い頃は、『母』に反抗していたのだ。言いなりは嫌だ、好きにさせて、と。返ってきたのは――葵に対する罵倒と、理不尽な暴力だった。痛くて泣くと、静かにしろと暴力が襲ってくる。『母』を怒らせないためには、言いなりになる以外ない。幼いながらに葵はそう、理解してしまったのだった。


 部屋に着くと、温度的にちょうどよかった半袖の制服を脱ぎ捨てる。せめてもの反抗にと服を放置しているが、これは『母』の小言を増やすだけだろう。そう分かっていても、やめることはできなかった。

 これをやめたら、『葵』という人間が壊れてしまう気がして――…


「いってきます」

「いってらっしゃい。――今日は晩ごはんが作れそうにないからね。自分で作るのよ」

「・・・分かりました」


 手を振りもしない『母』の姿を見たくなくて、ぐっとドアノブに力を込める。ばたん!と大きな音を立てて、ドアが閉められた。後ろから『母』の叱る声が聞こえてきたものの、葵は無視して駆け出した。


(あぁ、もう、イライラする!)


 いつもの朝。つまらない日常。それに葵はもう飽き飽きしていた。どすどすと大きく足音が鳴り、横を歩いていた人がぎょっとした顔をする。

 爽やかで、でも少し蒸し暑い夏の空気。それには、やはり長袖は暑い。ミーンミーンと鳴くセミの声が、体感温度をさらに上昇させている気までしてくる。


 なので、駅に着くなり葵は『変身』した。

 女子トイレに入って長袖のブレザーを脱ぎ捨てると、長い髪を黒いゴムで結んでポニーテールにする。ブレザーの下にこっそり半袖シャツを着てきていたので、あとは薄くメイクをすればいいだけだ。


 葵はいつも、電車に乗る前に『変身』する。『母』の決めた自分ではなくなりたいからという思いもあるが、一番の理由はそうではなかった。



「おっはよー、あおたん!」

「みぃ、朝からテンション高いよー。おはよう、葵」

「あ・・・おはよ、みぃ、香音かのん


 教室に着くなり大きな声で笹島ささじま 美以子みいこ糸原いとはら 香音に挨拶され、注目の的になった葵はぎこちなく挨拶を返した。

 美以子と香音は、一言で表せば『オシャレ』といったようなイマドキ女子だ。特に香音は、映画のヒロインさながらの美少女である。

 葵が『変身』するのは、このふたりに合わせてのことなのだ。ふたりともオシャレすぎて、元々の生真面目な格好では合わない。


(みぃも香音も、いい子なんだけどなぁ・・・)


 ふたりが"いい人"なのは、初対面のときからわかっていた。きっと、いつも『母』に言われてする格好でも受け入れてくれるだろう。

 それがわかっていても、葵は怖かった。ふたりの反応が、ではない。――周りの反応が、だった。


『何あれ。あんな格好じゃ、ふたりには全然釣り合ってないじゃん』

『ホントホント。ダサッ』

『いっつもつきまとってさぁ、みぃも香音も迷惑してるんじゃない?ウザいよね』


 そう言われるのが、怖かった。それに、その反応のせいでふたりが離れていってしまうのも、同じぐらい怖かった。だから、葵は今日も周りに合わせる。美以子と、香音に合わせた『オシャレ』をする。

 そうしなければ、ここにいる資格は与えられないから。ずっと『母』に叱られて、いいなりになっている葵は、そう思い込んでしまっていた。本当は、そんなことはないはずなのに――


(やっぱり、無理だよ・・・)


 どんなに理屈で説明されたって、そうすることはできない。本当のことを打ち明けることだけは、絶対に。葵はぎゅっと心臓が縮こまるような感覚を覚え、周りのざわざわとした喧騒が遠のき――


「・・・い?葵?」

「あーおーたーんっ!帰ってこーい!!」


 ・・・香音と美以子の声で現実に引き戻された。葵はいつの間にか固く閉じていた瞼をばちっという音が鳴りそうな勢いで見開き、きょろきょろと回りを見回す。

 隣で、美以子が爆笑していた。香音は口元を押さえているが、よく見れば肩が震えている。


「も~!笑わないでよ」

「あははははっ…ごめん、ごめんっ…ヤバい、苦しー」

「……っ」

「香音も!こっそり笑ってるでしょ?!」

「「ごめんって~」」

「こういうときだけハモらない!!」


 文字通りぷんぷんと怒り、ぷいっとふたりに背を向ける。美以子が後ろで謝っている声が聞こえるものの、葵は当分許すつもりはなかった。

 でも――


(でも、なんか気がほぐれたなぁ)


 朝からずっと張り詰めていた何かがほぐれたように感じ、葵は微かに作ったものではない笑顔をこぼした。

 隣では、からかわれていたとわかった美以子が怒っている。けれどもその顔は笑っていて、3人は顔を見合わせると、どこからともなく笑いを弾けさせた。――葵だけは、合わせたぎこちない笑顔だったが。


 しばらくすると予鈴のチャイムが鳴り、美以子は慌てたようすでばたばたと、香音は優雅な動作で席に戻っていった。


◇  ◇  ◇  


(あーあ、つまんないな・・・)


 教師の声が響く教室で数学の授業を受けながら、葵はぼんやりと窓を眺めていた。前に公式を書いて説明しているようだが、それはとっくの前に理解し、演習問題まで解けるようになっている。――『母』が無理矢理受けさせているオンライン塾によって。

 昼一番の授業だからか、教室内にはどこかゆったりとした空気が漂っていた。暖かい日光が開かれた窓から差し込み、うつらうつらとしている人が数人いる。美以子もそのひとりだった。


(これはまた、テスト前に泣きつかれるかなー・・・)


 そんな未来予想図が簡単に予測できて、思わず苦笑いする。前も、美以子はギリギリ――テスト一週間前を切った頃に勉強を教えて、と頭を下げてきたのだ。葵と香音に。


『一生のお願い!勉強教えてぇぇえー!!』


 そう絶叫していた前回のことがくっきりと記憶に甦り、小さく「あー・・・」と漏らしながら葵はこつんと額を叩いた。出会ってから何回、美以子の『一生のお願い』を聞いただろうか?と脳内で数え、10を越えたところでやめた。


「――笹島さん、この問題を解いてください」

「・・・へ?ひゃ、ひゃいっ!」


 声が聞こえて黒板に目を向けると、眠っていたからか美以子が数学教師に当てられていた。解くことになった問題は、黒板に書かれている中でも特に難しいもので、美以子はパニックを起こしている。それを、香音が微笑ましいといったようすで見守っていた。

 葵も同じように眺め、ふいに爽やかな匂いと共に風が吹き込んできたことで窓に視線を戻した。よくよく見ると、一番端っこの窓が開き、カーテンがパタパタとはためいていた。


 直そうにも、授業中は立ったり移動することは禁止されているのでどうにもならない。その窓は葵の隣の席の人を挟んだところにあるのだ。隣の席の人が直してくれないかぎり、あれはそのままだろう。しかし、その人は熟睡しているようで気付くよしもない。


(起きてくれないかなぁ・・・そうだ、シャーペンとかでつついたら!)


 そう思ってちょんちょんとつつくものの、少し身動ぎするぐらいで全くもって起きる気配がない。近寄ったときにふわっと爽やかなミントの香りが漂い、「ああ、あの匂いはこの人のだったんだ」と葵は囁き声で独り言を言った。

 大きな声を出したら目立ち、美以子の二の舞になるためだ。結局起きないまま授業は終了し、無駄な労力を使った、と葵は深いため息をついた。


(6時限目が終わったら、まず帰りにスーパーに寄って晩ごはんの材料を買う。母さんはいつもと同じだろうから、晩ごはんはふたり分作っとかなきゃ)


 6時限目の準備をしながら、葵はこのあとの予定を組み上げていく。その途中でぽんっと勢いよく肩が叩かれ、びくりと大げさなぐらいに肩が跳ねた。


「わっ!!」

「ふみゃっ?!・・・もー、あおたん、大きい声ださないでよぅ。こっちがびっくりしたよー」

「私は寿命が縮むかと思ったよ・・・」

「ごめんね、葵。で、本題だけど、今日カフェに行かない?」

「カフェ?」


 思わずおうむ返しにして返してしまう。きっと今、目は大きく見開かれていることだろう。


「そーだよー!近くにできたんだ。学校から・・・えーっと、どのぐらいかかるんだっけ?」

「5分ぐらい、でしょ」

「あっ、そうだったー。・・・どうする?あたし達は行くけど、あおたんも来る?」


(どうしよう・・・)


 葵はかなり悩んだ。『母』が帰ってくるのは深夜過ぎだろうから、行っても別に問題はない。けれど、誘われたのが初めてだったため、葵は少し狼狽えてしまった。

 そして結局――


「ごめん、今日は用事があって・・・また誘って?」


そう答えてしまった。せっかくの、ふたりとさらに仲良くなるチャンスだったというのに。


「そっかあー、残念。じゃあ、あたし達だけで行ってくるね」

「用事があるなら仕方ないよね。持ち帰りができるの、何か買ってくるよ」

「行けなくてごめんね、みぃ、香音。ありがとう」

「気にしないでいいよー。時間はこれからたっぷりあるんだからさ!」


 そう言って朗らかに笑った美以子に少し胸がチクッとし、罪悪感を覚えたものの、葵は今日何度目かもしれないぎこちない笑顔を浮かべた。そのようすをひとりの男子が見つめていることには気付かないまま――・・・

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ