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ココロノコト

作者: 和久井志絆

序章


 人はみな孤独だという。

 わかるようでわからない、名言風に聞こえるだけで中身のない戯れ言だと、本多守は思っている。本当の孤独というものを知っている人が身近にいるからだ。

 その人はいつも真面目で、人から嫌われるような人にはとても見えない。友達もたくさんいるように思える。それでも、常に孤独感が拭えないんだそうだ。

 本多と同じ邦島高校に勤務する、青井心路と言う日本史教師のことだ。

「青い心の路」と書いて「あおいこころ」。子供のように純粋な心を持った人。教育熱心で生徒からの信望も厚い。歳は本多より五つも下だが、彼から教わることは本当に多い。

 まず、賢い。知識が豊富で頭の回転も速い。それでいて気取らず、ユーモアがあり人の気持ちを思いやる誠実さもある。見た目にも清潔感のある二枚目で悪い印象は全く受けない。この人から指導を受ける子供たちが本当に羨ましいと思う。彼の人徳を物語るエピソードはいくつもあるのだ。

 例えば、あれはいつぞや、体育祭の準備をしていた頃のことか。邦島高校では新クラスの親睦を早い段階で深めておくために、四月も半ばを過ぎればすぐに行事の準備期間に入る。

 血気盛んな青春時代。部活にも行事にもメラメラと燃えまくるのは素晴らしいことだ。だが中にはそうした事に積極的になれない子もいる。

 朝早くから夜遅くまでノリノリでみんなと過ごす、ということが耐え難い苦痛になることもある。本多はそういう子の気持ちのほうがよくわかる。それで練習をパスしがちになることもあるだろう。

 しかし、そうした生徒たちを「怠けている」と非難した者がいた。青井先生はこれに怒った。

 自分の物差しが絶対に正しいと思うな。当たり前に出来ることが当たり前に出来ない人もいる。人の気持ちを想像しようとも思わない人にはなるな、と。

 普段は温厚な青井先生。だが彼は平和主義ではあっても事勿れ主義ではない。優しくなればなるほどに、信念は強くなる人だ。この一件で本多はそう思った。

 そんなおよそ非の打ちどころがないと思われた青井先生に対する認識が、ある時から少しずつ揺らぎ始める。きっかけは二年前、「人形ちゃん」と呼ばれる少女が我が校に入学してきたことだ。

 その少女の名は一之瀬環。読書家の本多はもちろん、あまり本を読まない人でも名前くらいは知っている有名作家、一之瀬工の一人娘だ。

 彼女は例えるならまるで人形のようだった。血の通わない人形のように黙して語らない。笑いもしない。

 小さい頃は単に内向的で大人しい子として認識されていた。人見知り、引っ込み思案、さほど珍しいことでもないと。

 だが、それが小学生に上がると、もはや「大人しい」では済まされなくなってきた。

 授業中、指名されても答えない。それどころかホームルームで出欠を取る時も返事をしない。話しかけられても無反応。挨拶も声を出さず頷くだけ。

 場面緘黙症ーと診断されたそうだ。

 本多は初め、「なんですか、それ」と聞いてしまった。「教育者として知っとかないとダメですよ」と青井先生からは注意された。

 家庭などでは普通に喋れるのだが、学校などの特定の「場面」に於いて全く言葉を発することが出来なくなる。

 説明されても本多にはピンとこない。身体的に会話する能力はあるんでしょう、と思ってしまう。

 だが青井先生は彼女に対して、まるで自分のことのように親身になった。彼が精神的な障害を持っていることは周囲の人間もみな知っている。心理学とかそういう分野にとても詳しいことも知っている。しかし本多には彼が環に対して更に特別な感情を抱いているように思えてならなかった。

 肩が隠れるくらいの長い黒髪と、掴んだら折れてしまいそうな細い手足。聡明さを感じさせる整った顔立ちは美人に分類していいだろう。一之瀬環は外見には、華やかではないものの上品さを醸し出す、十分に魅力的な女性に見えた。

 だが、その瞳は冷たく暗く、誰にも理解してもらえない苦しみを宿していると、青井先生は言った。

「僕も同じようなことで苦しんだことがありますから」

 以前、飲みの席で話してくれたことがある。普段は人懐っこい彼が、今まで見せたことがないくらいシリアスな顔で。

 その時に本多は、彼がただ爽やかで素敵な好青年というだけではないと気付いた。それはどちらかと言えば良い意味でだと思う。彼ほどに優しい人間になるためにはたくさん辛い思いもしてきたんだろうと、妙に納得出来たからだ。

 彼が環と共鳴した痛み。孤独という地獄から抜け出そうと、二人は同じ未来を見ていた。

 それは梅雨に入るより前、まだ春の香りが漂う五月のことだった。

 一之瀬環が放課後の誰もいない教室をウロウロとしている。そこへ偶然やってきた運動部の女子生徒三人組が不思議に思い話しかけた。

「環ちゃん、どうしたの?」

 環はビクンとしたが、一呼吸置いてボソッと話した。

「写真、入ってるペンダントが……」

 親切な女生徒は言わんとしていることにすぐ気付いた。

「探し物してるの? 手伝おうか?」

 環はコクコクと頭を縦に振った。

 探していたのは環が大事にしている、母親の写真が入ったペンダントだった。環の母親、一ノ瀬要は環が小さい頃に交通事故で死んでいる。緘黙との因果関係をそこに指摘する者もいるが、実際にはなんとも言えない。

 夕暮れの近い教室で四人は手分けして探したがなかなか見つからない。

「最後に見たのはどこ? そこから探していこうよ」

「もう、いいよ」

「えっ?」

「いいよ、もう、ごめん」

 それだけ言って逃げるように教室を去って行ってしまった。

「環ちゃん!」

 彼女は職員室へ向かった。落とし物が届いていないかと思ったからだ。だが、ドアを叩くことが出来ない。怖くて。

「環ちゃん、もう! どうしたのさ!」

 やっと追いついた女子たちは、環が教室でほとんど喋らないことを知っている。実際、話しかけたのも初めてだったと、その時に気付いた。

「あれ、どうしたの?」

 話し声に気付いてドアを開けてくれたのが青井先生だった。

「そうだ、先生、ペンダントの落とし物って届いてない?」

 先生はそれを聞いて嬉しそうにパンっと手を叩いた。

「あっ、来てるよ。なんだ、白井さんのだったか」

「いや、あたしじゃなくて……」

「ん? あぁ、もしかして一之瀬さんの?」

 環はコクリと頷いた。そして微かにだが、笑った。

 呆気に取られて女子たちが顔を見合わせる。

「笑ってんの初めて見たー!」

「私もーなんだ! 超かわいいじゃん!」

「えー、環ちゃん、いつも笑っててくれればいいのにー」

 環はカーっと顔を赤らめた。それを見た青井先生も目を細める。

「はいっ、大事な物なんでしょ! もう落とさないでね!」

 ポンポンと頭を叩かれて環は更に赤くなる。そしてギュッとペンダントを握り締めると「あ、ありがとうございます!」とだけ言って、ダッシュで逃げ出した。残された三人と青井先生は思わずぷぷっと笑ってしまう。

「面白い子だね」

 遠く隔たっていたクラスメイトたちと環の心の距離が、少しだけ縮まった出来事だった。

 その距離がまた広がっては縮まり、やがて一つになる物語の、始まりの出来事だった。



第一章 夏の日に


   1


 教師という立場にあると、夏休みという期間は意外と忙しい。心路が自ら予定を詰めまくっているせいもあるのだが。

 夏は受験の天王山と言われる。邦島高校も御多分に漏れず、どの教師も部活で燃え尽きた生徒たちの情熱を再び着火させるために、夏期講習に精を出している。

「なんで勉強なんてしなきゃいけないの?」

 教師をやっていると千回は聞かれる。特に心路の担当する歴史は、若者の向学心を発奮させるのが最も困難な学問だろう。鉄砲が1543年に伝わったからなんだと言うのだ。

 だから心路はいつも最初の授業では歴史を学ぶ「意味」ではなく「楽しさ」を説くようにしている。

 歴史という学問で大切なのはまず「知る」こと。そして、自分の頭で「考える」こと。それを「覚える」のは誰かに「伝える」ためだ。

 心路はこれを「知考覚伝」と名付け、自身の教育論の金科玉条としている。歴史をつまらない、意味がないと感じるのはこの一番大切な「考」の部分をすっ飛ばし「覚」にのみ重きを置いてしまうからだ。

「はい、今から言うところ全部暗記な」

 それでいて受験科目としての歴史はどうしても丸暗記が中心になってしまう。心路はいつもこのジレンマに迷わされている。それでも自分を慕ってついてきてくれる生徒たちに、心路は逆に感謝と尊敬の念を抱くのだ。

 中堅と言える私大を卒業し、教師という仕事に就いて早五年。アラサー、独身、彼女なし。メンタルな病気持ち。

 十代の頃はイケメンで通ったが薬の副作用で激太り。社会人になると逆に心労でやつれ、現在は中肉中背。

授業中は眼鏡を掛けているが普段は物がはっきり見えるのが却って不愉快で外している。特に鏡を見るのが嫌いだった。外見に自信がないわけではではないのだが、上手く笑えているか考えてしまうのが怖い。

 それでも人からはかわいい、と言われることが多い。男らしい性格ではないが、女々しいというほどやわではない。そんな感じだ。

 心路は今の仕事や日常を楽しんでいる。それが一番大事だと思う。

「よし、今日はここまで。お疲れさん」

 とりあえず午前の授業が終わった。心路の授業は人気があるので、同じ内容でも三回はやる必要がある。参加希望者が多いし、他の科目の授業との兼ね合いもあるからだ。

 昼食を取るために、一旦職員室へ戻る。途中、音楽室から歌が聞こえた。

 そう言えば合唱部ももうすぐ三年生にとっては最後になる大会が控えていると聞いた。ちょっと廊下で足を止めて中を覗いてみる。お目当ては歌ではないのだがー。

 その人は指揮者の横で真剣に歌を聴いていた。大きくはないがよく通る声で部員に指示を出している。

 音楽科教師の志野恵子先生。通称、シノちゃん。心路が想いを寄せる人。

 かわいいなぁ。今日はお団子にしてる。あぁ、うなじ綺麗。あっ、笑った。くそー、松田のやろう。俺のシノちゃんに変なこと言ったな。ダメだ、ジロジロ見ちゃ。あっ、こっち向いた。目、合っちゃったかな。やべー。

「何やってんですか? 青井先生」

 ドッキーン!ガバッと振り返る。

「本多先生、おどかさないでくださいよ」

「こっちが驚きますよ」

 慌てふためく心路の横から本多も中を覗く。

「また志野先生見てたんですか? あの人、彼氏いるんですよ。諦めましょう」

「ぼ、僕が勝手に憧れてるだけです。ほっといてください」

「なに赤くなってんですか。恋する乙女ですか。童心忘れないのは結構ですけどピュア過ぎると生徒になめられますよ」

「耳にたこです」

 そう言って口を尖らせる心路を見て本多は和む。とても微笑ましく思うのだ。

 志野先生は今年で三年目。音大時代から優秀なピアニストとして将来を嘱望されてきたが、「学校の先生」という夢を捨てきれず、演奏家より指導者として音楽に携わる道を選んだ。

 色白の美人で性格は向日葵のように明るく、蒲公英のように優しい。150にも満たない小柄な身体はよく男子生徒からからかわれているが、それもまたかわいい。

 彼女が顧問になってから、合唱部はいつも笑いが絶えない。前の顧問は非常に厳しい人で、あまりにも細かいところまで指示してくるので「合唱部に入って歌うことが嫌いになった」とまで言う人が少なくなかった。

 志野はとにかく楽しければそれでよしという主義。初めは志野の美貌に惹かれ入部した者も多かったが、「合唱部に入って歌うことが大好きになった」と言う人がたくさんいる。

 それでいて邦島の合唱部は去年、コンクールで銀賞を取った。「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったもので、志野の音楽に対する情熱は部員たちの向上心を揺り動かしたのだ。

「青井先生、いつまで見てるんですか?」

 うっとりと見つめていた心路が我に返る。

「あっ、そうだ。お腹空いてるんだった。ご飯食べないと」

 そそくさと職員室に戻った心路はお手製の弁当を食べた。一人暮らしが長いので大半の家事はこなせる。

 朝昼晩と食事は一人で取ることが多いので、自然に早食いになった。ゆっくり食べたほうが健康にはいいのだろうが、それを言ったら心路は健康にいいことなど何もしていない。その方が精神衛生にはいいと思うのは悪いサイクルだろうか。

 弁当を食べ終わると心路は明日の小テストの作成に取り掛かる。熱心な教師ほど仕事は増える。

 邦島高校は中の上くらいの学力の学校である。そのことが却ってより偏差値の高い高校へのコンプレックスを強めている。

 心路としては文系にしろ理系にしろ、私立にしろ国立にしろ、最高峰の大学を目指してほしいと思っている。しかしやる気だけは他人にはコントロール出来ないのが現実だ。やる気さえ出してくれれば、知識や思考力はいくらでも伸ばしてやる自信があるのだが。

 邦島の教師たちは全体的に、大学受験のためだけの勉強を蔑視している傾向がある。それに対して生徒たちの未来を真に案じている心路は、授業でも「受験テク」をふんだんに盛り込んだ指導をしている。だから他の教師とは少し折り合いが悪い。その点では本多も同様だ。

「綺麗事じゃないんですよ。教育は」

「同感です」

 そんな会話をよくする。

 13時、職員室を出て次の教室へ向かう途中で志野先生とばったり会った。ちょっと雑談オーケーですか?神様。

「今日も元気ですね、合唱部」

「そうですね。私も負けないようにしないと」

「勉強にも回して欲しいですけどね」

 冗談のつもりで言ったが、真面目な志野は本気にした。

「あ、ごめんなさい。受験生ですもんね」

「いや、謝ることじゃ」

 あたふたする心路に、志野は微笑み軽く頭を下げて行ってしまった。取り残された心路は「いかんいかん」と右手で頬を叩く。すると左手に持っていた資料を落としてしまう。

 誰かに見られなかったかと辺りを見回したが誰もいなかった。ほっとする反面、志野が見ていたら笑ってくれてたかなと思う。

 コミュニケーション能力に自信がなかったのは遠い昔のことと思っていた。だが心路は、今でも自分が不器用で口下手だと思い知らされる。

 夏も後半に差し掛かったが、まだ暑さの厳しい日が続く。心路は廊下を歩きながら額の汗を拭った。そして次の教室のドアを開けた。

「起立、礼」

 今時、これは珍しいのだろうか。だが心路はこれをやらないと授業を始める気が起きない。

「しかし暑いな、今日も」

「いきなりなんですか、先生」

 なんでこの学校には冷房がないんだ。自分ならこんなとこただでも来たくない。だが心路は清潔で涼しい塾よりも自分の講習を選んでくれる生徒たちに、やはり感謝の念を抱くのだった。



   2


「青井先生、また見てたね」

「シノちゃんは気付いてんのかな」

「さすがに気付いてるっしょ」

 書類を取りに志野が音楽室を出ていくと、合唱部は少しガヤガヤし出した。

「お似合いだと思うけどなぁ」

「でもシノちゃん彼氏いるからねぇ」

「きゃー、青井先生、かわいそう」

 ケラケラと笑う女性陣に教壇に立つ小川月人がパンッと手を叩く。

「はい、練習、練習。アルトさっき言われたとこ直ってないよ」

「ほーい、でもここ難しいんだよ。わかる?」

「でもとだっては言わない約束。難しくても練習すれば出来る」

 鬼、悪魔とブーイングが起きる。だが目は怒っていない。

 小川月人はストイックだ。ピアノも歌も人一倍努力しているので抜群に上手い。でも、というかだからか、合唱部では指揮者をやっている。顧問の志野からの信望も厚い。

 自分にも人にも厳しい性格で、自ら憎まれ役を買って出る勇気もある。だがそれが優しさと音楽への情熱故だとみなわかっているので、本当のところ誰も憎んではいない。

 窓の外では運動部が汗を流している。近隣住民や授業中の生徒への配慮から音楽室の窓はいつも閉め切られている。合唱部は文化部とはいえ、歌うことはかなりの肉体労働だ。普段は制服だが夏休みなのでみなTシャツにジャージといった出で立ちで練習している。

 大会などで印象が悪いのでほとんどが黒髪。ほとんど、というからにはそうでない者もいる。

「それと誠琴、何回言えばわかるんだ? 髪は黒くしてこい」

 水沢誠琴。「誠琴」と書いて「まことこと」とは読まない。「まこと」と読むこの男。根が誠実だとは逆立ちしても言えないが一応、月人とは十年来の付き合いになる。

「月人君、君こそ何回言えばわかるの? 誠琴君はもともと地毛が明るい色なんだよ」

「そうやっていちいち審査員に説明するのか? マイナスの要素は最初っから取り除いたほうが無難だって言ってるんだよ」

「そんな頭ごなしに言わなくてもいいでしょ。悪気はないんだから」

「つーか、俺は誠琴に言ってんだよ。なんで部長が答えるんだ。あと誠琴、これも何回言わせるんだ? 表情が固い。怒ってるように見えるぞ」

「……この歌は笑って歌う歌じゃないと俺は解釈してんだよ。表情までお前に指図されたくない」

「だー、喧嘩はやめろよ。何考えてんだ、お前ら」

 不穏な空気になったので他の部員が制する。月人が誠琴に対して最初から喧嘩腰なのは合唱部の大きな問題点の一つだ。みんなには優しいのに誠琴に対しては嫌悪を通り越して敵意を抱いているようにすら見える。

「休憩にしよう。誠琴は廊下に出ろ」

 月人が指揮棒で外を指す。誠琴も仏頂面で廊下に出た。

「頭冷やして来いよ。二人とも」

 緊張の残る音楽室で銘々昼食を取ることになった。二十人以上いる部員は基本的に仲良しだが、こういう時は四、五人に分かれる。

「あの二人なんなのさ」

「どっちか部活やめろよ」

「ツッキーがやめたら困るだろ。誠琴がやめればいい」

「そういうこと言うなよ。悪い奴じゃないんだから」

 言いたいことははっきり言うようにしようと心掛けてはいるが、角が立つので面と向かっては言えない。陰口が多くなる。大会を控え、団結しなければいけない中で、どうも雰囲気が悪い。

「環ちゃんに申し訳ないな」

 一人の女生徒がぽつりと洩らした。

「一之瀬さん、もう学校来ないのかな」

「今さら来られても困るよ。大会まで二週間切ってるんだぞ」

「だからそういうこと言うなって」

 一之瀬環は合唱部に所属してはいるがほとんど幽霊部員だ。月人や誠琴とは幼馴染だが、もう関係はすっかり冷たくなっているように周りは感じている。

「ちゃんと卒業出来るのかな」

「夏休み明けたらきっと来るよ」

「いい報告出来るように練習しようぜ」

「そうだね」

 十分ほどで月人と誠琴が帰ってきた。

「みんな、ごめんな」

 月人がさっきまでと別人のように気さくな笑顔を見せた。

「気にすんなって。誠琴もあんまカリカリすんなよ」

「……してねぇし」

 常に不機嫌そうに見えるのは元からそういう顔なんだろうか。誠琴は窓際の席にどかっと座り、売店で買ってきたパンを食べ始めた。

 数か月前まで、誠琴は軽音部でロックバンドのギターボーカルとして活動していた。だが掛け持ちしていたバスケ部で左手を怪我したために、ギターを弾けなくなった。

 もともと協調性のない誠琴は、それが切っ掛けとなって軽音部からもバスケ部からもハブかれることになる。それでも、いい音楽は一人では生まれないということを誠琴は知っていた。捨て切れないプライドに足を取られながら合唱部に逃げ込んだ誠琴は、過去も未来も見えぬままいつまでも歌うことに縋り付いている。

「ごめんねー、遅くなっちゃって。みんなまだ元気?」

「バリバリ元気でーす」

「よーし」

 昼食を食べ終えた頃に志野が帰ってきた。優しい志野先生に情けない姿は見せられない。先ほどの悪い空気を絶ち切るように、合唱部は声を掛け合う。

「サビの前、もうちょっと固めとこう」

「バスが表現大袈裟なんだよ」

「そこ一息で行くとこじゃないでしょ」

 もう少しで引退。悔いは残したくない彼らは、精一杯を歌に込めて、歌う。


   3


 海に夕日が沈んでいくのを見渡せる丘。邦島高校から最寄り駅までの途中にあり、よく学生たちの待ち合わせに使われたり、男子が女の子を口説くためロマンチックな雰囲気を演出するのに利用されたりする。

 そんな場所が心路も好きだった。人気スポット過ぎて一人になりたい人が来るのには向かないように思えるが、不思議と自分の世界に入り込める魔力があるのだ。

「青井先生」

 しわがれた声で呼ばれ振り返る。

「こんばんは、どうもすいませんね。こちらから出向くところを」

「いえ、私から言い出したんですから。先生もお忙しいでしょう」

 環の父親、一之瀬工とは度々面会している。娘のことでいろいろと話し合う必要があるからだ。

「いつもの定食屋で大丈夫ですか?」

「はい」

 今日も暑いですね、と言うと工はおっと、と口を押さえた。

「すいませんね。年寄りは天気の話が好きで」

「いえ、僕も好きですよ」

 海の近くにある邦島高校はいつも風が強い。今日はまだ穏やかなほうだが、台風の時などは傘もさせない。

 工と二人ですぐ近くの定食屋に向かう。ここは安くて美味くて量が多いので高校生も通いやすい。店主とその奥さん、それとバイトの大学生の三人で切り盛りしている。かなりの老舗だが店内はいつも清潔だ。

「環さんは夏バテしていませんか? 夏は起き上がるために振り絞らないといけない気力が涼しい時の何倍にもなるんですよ」

 テーブルに着いてさっさと注文すると心路から切り出した。

「部屋に籠ってばかりですよ。男親としてはどう接していいのかもわからなくて」

 一之瀬工は弱冠二十歳で文芸誌の新人賞を受賞してデビュー。コンスタントに作品を発表し続け、今は還暦に近い。代表作はデビューして三年目に書いた恋愛小説で映画化もされた「悲しみのない世界へ」と言われているが、ある時を境に作風がガラリと変わり、古くからのファンはどんどん離れて行っている。

「昨日、あの子と喧嘩してしまいましてね」

「そうですか」

 悲しそうに遠くを見つめる工は、ぽつりぽつりと語り出した。


 午後六時半、一之瀬環は何度目かわからない寝返りを打つ。携帯が点滅している。完全に眠りに落ちていたわけではないと思うが、着信に気付かなかったか。

「携帯を開く」という表現はもう死語だろう。だが未だスマホに替える必要性が見出だせない環は今日も「携帯を開く」。

【体調どう? 合唱コン、応援にだけでも来れないかな?】

 月人からだった。環を心配してよくメールをくれる。それ自体は嬉しいのだが、いつも返信が億劫だ。

【悪くないけど、行けそうにない。ごめんね】

 ただこれだけの文章を考えるのにもずいぶん時間がかかった。なんて言えばいいのかわからない。変に思うんじゃないか。気を悪くするんじゃないか。いちいち考えてしまう。

 よれよれのTシャツが汗で濡れて気持ち悪い。これまたよれよれのTシャツに着替えた。下から環を呼ぶ声がする。もうご飯の時間だ。食欲なんてないけど、人間は食べなければ死んでしまうという事実は永久に変わらない。

 階段を降りて居間に向かう。足がふらふらする。気分が悪い。工はおうとだけ言った。

 テレビが陰鬱なニュースばかり吐き出している。会話も上の空。ご飯も味がしない。麻婆豆腐、好物のはずなのにな。

「お父さん、一日中一人でパソコンに向かってるだけでいい仕事ってないかな?」

「環?」

 急に話し始めたことをすぐに後悔した。実の親と話すことすらぎくしゃくする自分を嫌になりながら環は続ける。

「卒業したら、出来たら、働く。もう人と関わりたくない」

「何を言い出すんだ。大学くらい行かせてやるぞ」

 お椀の中の最後の一口を口に放ると、箸をカチャンと置いて父親の目を真っ直ぐ見た。

「今のままじゃ勉強なんて出来ないよ。人の視線にびくびくして、いちいち失敗して、もう疲れたの」

「つらいのはきっと今だけだ。大学で友達だって作れるさ。そしたら毎日楽しくなるさ」

 環は工の言葉を無視するようにぐっとコップの中のウーロン茶を飲み干し立ち上がった。

「待て、環」

 工も慌てて席を立ち娘の腕を掴んだ。そして、あまりの細さに驚き、息を飲む。

「放して」

「なら話せ。何かあったか?」

「言ったってわからないよ」

「わかるかわからんか話してみなきゃわからんだろ。ずっと部屋に閉じこもって、口を開けたと思ったらすぐ黙り込んで、誰が助けてくれるんだ」

 環は頭にカーッと血が昇るのを感じた。腕に力を入れて、とりあえず父親の手を払った。

「どうして苦しいの? 私の何が悪かったの?」

 声が震え、目に涙が浮かぶ。工はただ首を横に振った。

「苦しいと思い込んでるだけだ。お前は病気で、でも治らない病気なんてない」

「他人事みたいに言わないで!」

 声を荒げる娘に工はまた驚く。そして反省するように、俯くしかなかった。

「お父さんには人の痛みなんてわかんないよ。推理と犯人当てだけ楽しむようなミステリーばっか書いて。動機なんて編集さんが後付けで決めてるんでしょ」

「環、それは違う。確かに要が死んで俺の作風は変わった。でも本当は今でも、読んだ人の心が幸せに包まれるような、優しい物語が書きたいんだ」

「嘘!」

「嘘じゃない!」

 怒りとも悲しみともつかない顔を浮かべ、環ははっきりと父親に背を向けた。その肩に工が手を置いた。

「放して」

「じゃあ離れないでくれ」

 いつの間にか女らしくなった娘の身体の、体温を感じる。だが、その心は冷たく、時間が止まってしまったかのようだった。


「娘の病気は、治らないんですか?」

「僕も専門家ではないのでなんとも。ただ種類は若干違いますが僕も似たような障害を持ってますから、一つ言えるのは十代の頃より症状は格段によくなってます」

 そうですか、と言って工は食べることに意識を移す。心路もそうする振りをして物思いに沈んだ。しばらく沈黙が続く。

 店内には邦島の学生も多い。部活終わりだろうか。帰宅部だった心路は羨ましく思う。仲間といい汗かいた後の美味い食事。この上ない喜びだ。

「以前から考えていたんですが……」

 コロッケ定食をあらかた平らげた頃に工が口を開いた。

「環には卒業後は施設に通わせようと思います」

「施設?」

 障害者のための就労移行支援施設。今時はそんなのがあるらしい。

「障害者同士ならあの子も友達を作れるかもしれない。それが一番の望みです。仕事は、焦ることはないと思います」

「同感です」

 小中学生の頃は、進級や卒業の何がめでたいんだと不思議だった。だが、高校生になって、それが厳しく難しいことになった。

 環も自分と同じ道を辿っている。無事に卒業出来るように心路は精力的に動いている。

 だが、他の教師陣は非協力的だった。冷たいわけじゃない。ただ戸惑っているんだ。精神病がすっかり一般化してきた今日でも「なぜ学校に来ないのか」という根本的なところで、理解に苦しむ部分がある。

「朝が苦しいのはもちろんあると思います。だから、午後からでも顔を出してくれるだけでもだいぶ話が変わります」

「そう言っておきます」

 誰かと食べる生姜焼き定食は、平凡でも美味しかった。こんな当たり前の幸せを嚙み締められることを、心路は嬉しく思う。ずっと味わえなかった気持ちだから。

 店を出ると「少し用事がありますので」と二人は別れた。見渡す夜の海はとても穏やかだった。


   4


 時間は矢のように過ぎていく。合唱部もコンクールに向けてラストスパートに入っていた。

「花火大会?」

 部長の立井真澄から提案されたのが三日前のことだ。

「必勝祈願、っていうか前夜祭かな。みんなで行こうよ」

「んー、でもみんな勉強もあるからな」

「一日くらいいいじゃん。みんなちょっとギスギスしてるしさ。気分転換になるよ」

 部長の気持ちはわかってる。人間にとって楽しむということはいついかなる時も大事だ。最高の気分で本番に臨みたい。それはこの段階になると歌う練習よりも重要かもしれない。

「環も誘っていいか?」

 真澄の提案を肯定的に受け取った上で、重ねて提案した。

「えっ、いいけど。来てくれるかな」

「一番気分転換が必要なのはあいつでしょ」

 それで環にも声を掛けたわけだが、気が進まなかったらしい。結局断られた。他の部員も「じゃあいいや」という感じで花火大会の話はおじゃんになった。

 それでも今、月人は真澄と一緒にいる。この二人はお互い一緒にいて落ち着くような関係。周りには付き合っているのかと思っている者もいるが、はっきり言って月人は環にべタ惚れだった。

「環ちゃんのためなんでしょ? 心理学やりたいって」

「まぁ、ほとんどそうだな」

 夜遅くまで予備校の自習室で勉強してた帰り道。邦島の合唱部には変なプレッシャーがない。明日は大会だというのにみないつも通りの夜を過ごしていた。

 大学で心理学を学びたいと考えている月人。だが心理学というのは雑誌の心理テストの延長みたいなものを想像してはいけない。ましてや精神病について学びたいなら心理学は直結してはいない。と、担任の心路は指摘した。

 それでも、環のために何かしたいと月人は考えている。よく「頑張れと言ってはいけない」と言われる。しかし例外がないわけじゃない。環は「頑張れ」と言われると嬉しそうな顔をする。と、父親の工から言われた。

 応援してくれる人がいると思うだけで、少し気持ちを鼓舞出来る。それ以上に嬉しいのは「頑張ったね」と褒められること。それは努力家の月人が自ら感じていることだ。

「環ちゃん、元気になるといいね」

 真澄がつぶやく。今夜は月が綺麗だった。

「俺、ちょっと環んち寄ってくよ」

「うん、そうしてあげて」

「明日、頑張ろうな」

「月人君はいつも頑張ってんじゃん」

 ふっと笑って、途中の駅で二人は別れた。それから月人は環の家へ向かう。

 夏はまだもう少し続きそうだが夜風は心地よい。環は今頃何をしているだろうか。

 駅から十分ほど歩いて一之瀬宅に着く。インターホンを押すと中から工が出てきた。

「おぉ、月人君か。環かい? 今呼ぶよ」

「うん、ありがとう」

 少ししてTシャツにジャージ姿の環が現れた。寝癖が立ってる。

「ごめんね、こんなかっこで」

「いや、いいよ」

 目に生気がない。確かに花火大会に行けるような状態には見えない。あまり長居しないほうがいいかもしれない。

「これ、楽譜と練習用のテープ。記念に持っときなよ」

「ありがとう」

「……」

「……」

 沈黙。いつものことだがいつも以上に空気が暗い。

「何か、あった?」

「……別に」

「ならいいけど」

「ごめん、今課題やってたところだから」

「あ、ごめんね」

 目を伏せて環は引っ込んでしまう。月人は引き留めることが出来なかった。

 入れ替わりに工がまた顔を出す。

「すまないね。ちょっとナーバスになってるみたいでね」

「うん、大丈夫」

「いよいよ明日だね。頑張ってね」

「うん、ありがとう」

 軽く頭を下げて一之瀬宅を辞去した。ふと昨日のことを思い出す。

 青井先生に職員室に呼び出された。部活が終わってからでいいから来てほしいと。

「月人君は環さんのことが好きなのかい?」

 職員室に入り向き合うなり、単刀直入に切り出されて驚いた。

「なんでそんなこと聞くんですか?」

「好きなら好きと伝えてあげてほしい。きっと励みになる」

 なんとなくむっとした。なんか上から目線だ。

「上から目線だと思うかもしれない。でも月人君を利用するわけじゃないんだ」

 月人は心中を見透かされたようでいい気持ちはしなかった。でもこの感情はたぶん、嫉妬だ。

「環は……いや、なんでもないです」

「ん?」

 少年のような真っ直ぐな目で見られると何も言えなくなる。いい先生だと思う。

 結局、その後は勉強の話を少ししただけだった。それでも青井先生と過ごす時間は思い返してみていつも快い。

 月人はまた夜の空を見上げた。また一日が終わる。家に帰るとすることは寝るだけだ。

 朝が来たらもう少し素直になりたい。その晩、夢は見なかった。




   5


 コンクール当日、晴天に恵まれたことを喜ぶ余裕もなく、邦島の合唱部員は慌てふためいていた。ハプニングが起きた。

「電話出ないのか?」

「ツッキー何やってんだよ」

「どうする?」

「どうしよう」

「どうしよう」

「どうしよう」

 集合時間を三十分過ぎても月人が現れないのだ。

「ギリギリまで待とう。来なかったら私が指揮する」

 真澄が部長としてみんなを落ち着けようとする。だが当の真澄も混乱のあまり心臓がバクバクと鳴っていた。隣にいる志野に不安な目線を向ける。

「シノちゃん」

「わかってる。きっと月人君に何かあったんだと思うけど」

「交通事故とか……」

 一人が言い出すと部員たちが更にざわめく。そんな中で誠琴がぼそっと呟く。

「寝坊じゃね?」

 みなが一斉に視線を移す。

「そんなわけないだろ!」

「あの時おまえだってー」

「馬鹿! 今そんな話するな!」

 あの時―月人と誠琴の友情にひびが入った時。

「みんな落ち着いて」

 控室のドアが開いて大人の男の声がした。

「青井先生!」

「大変だよ! ツッキーが来ないの!」

「うん、志野先生から聞いたよ。今は観覧席にいたんだけどね。係の人に話して入れてもらった」

 心路の登場で場の空気が少し和んだ。そうなると女子部員の気持ちは逆に悲しくなってしまう。

「あぁ、最後の大会なのに。こんな気持ちじゃ上手く歌えないよ」

「待って! 月人君から電話!」

 真澄が声を張り上げた。みなが息を飲む。

「真澄、ごめん! 電車が事故で止まってて! 今から急ぐ! 大丈夫、間に合う!」

「なんで今まで連絡くれないの?」

「パニクってた!」

「……馬鹿、でもよかった。月人君に怪我はないのね?」

「うん、みんなに平常心でって言っといて」

「わかった」

 真澄が電話を切った。大丈夫、すぐ来るよ。平常心でね。それだけ伝えた。志野が代表してみんなに呼びかける。

「よかったね。じゃあみんな、まだ時間は十分あるから落ち着いてね」

 こくこくと頷く若者たち。心路も胸をなでおろした。

「僕はこの辺で。みんな応援してるからね」

「ありがとうございます」

 心路は「頑張れ」とは言わなかった。もう十分頑張ってここまで来たんだ。あとは楽しんで歌ってほしい。邦島だけじゃない。どの学校も精一杯、今を楽しんでほしい。

 結果が出なければ落ち込みもするだろう。それでいい。一生懸命努力した証だから。

 観覧席へ戻る道すがら、そんなことを考える。でも、なぜだろう。嫌な予感がする。


 大会が開幕した。一つ一つと参加校が演目をこなしていく。規定は課題曲を一曲と自由曲を一曲の計二曲。合わせて十分もない。その僅かな時間に三年間をぶつける。

 一之瀬環は結局会場に姿を見せなかった。そのことが邦島の部員たちに不穏な影を落としている。中心人物である月人の抱えている闇が晴れていない。誠琴との確執も。

 歌えるのか。心路は思う。腹の底から歌えるのか。そんな状態で。

 いよいよ邦島の順番がやってきた。心臓が高鳴る。

 心路は超常現象の類を信じない。幽霊も超能力も「まだ」科学で解明されていないだけ。「いずれ」解明されるのだと。

 だが、今までに何度も体験しているのだ。飛行機が墜落する夢を三日続けて見た時、気にしないでいたら次の日、友人の乗った飛行機が墜ちた。猛烈な腹痛に襲われて仕事を休んだ日には、いつも乗っている電車が事故を起こした。

 そんなことが何度もあった。今も、先ほどから頭痛がする。何かが起こる。そんな緊張感が張り詰めて、心路が立ち上がってしまいそうになった時だった。


「ああああああああああああああああああああああああああああああ」


 客席の後方、重厚な出入り口のドアを開けて大柄な男が入ってきた。

「こら、健一! あぁ、ごめんなさい! ごめんなさい!」

 会場中がざわめく。自然、合唱は中断された。一体何があった?

 戸惑う邦島合唱部の中で、顔を青くしているのはテノールの向坂賢二君だ。

「兄ちゃん……」

 心路も気付いた。向坂君のお兄さんの向坂健一君だ。重度の知的障害を持っていると聞いている。

 やがて警備員が動き出す騒ぎになった。客席から非難の声が上がり始める。

「なんだ、頭おかしい奴か」

「白けるな」

「親も連れてくんなよ」

 ホールの中が異様な空気に包まれる。心路は胸が暴れ出すのを感じていた。頭、おかしい奴ー

 呼吸が荒くなっていく。隣の席の人が心配して話しかけてきた。

「あの、大丈夫ですか? 顔色が良くないですよ」

「すいません、大丈夫ー」

 心路は居たたまれなくなって立ち上がった。そして外へ逃げようとした。だが、数歩歩いたところで気を失い、倒れた。


   6


「なんで喋んねぇの。馬鹿にしてんの。俺らのこと」

 不良少年に囲まれても何も言わず立ち尽くしている。

「喋れ。あって言ってみろ」

「あ」

「いって言ってみろ」

「い」

 タケダが顔をぴくぴくさせる。やばい。

「お前、なめてんの」

「やめとけ」

 掴みかからんばかりのタケダをイシイが制する。

 三人から睨まれてどうすることも出来ないまま、結局逃げ出した。

「おめえ、うぜえんだよ」

 ノムラの罵声を背中に受けても決して振り返らなかった。

 青井心路、中学一年の頃のこと。

 何がめでたいのかもわからないまま、なんとなく小学校を卒業してから三カ月、何一つ変わらない日々を過ごしていた。

 幼稚園の頃から、ひょっとしたらもっと前から、人と話すことが苦手だった。親の傍から離れると火が付いたように泣き出す。友達の家に遊びに行っても何も話さない。尿意を催しても「トイレに行きたい」とすら言えずに結局漏らす。

 元気の欠片もない。笑いもしない。変な子だと回りからは思われていた。保護者達ですらそうだから子供たちは尚更気味悪がった。

「ねぇ、なんで喋らないの?」

「おはようも言わないの?」

「心路君って変なの」

 小学校に入って状況は更に悪化した。

 国語の朗読が出来ない。三分間スピーチが出来ない。班に分かれての作業が地獄。個人面談も地獄。

 運動も苦痛。体が緊張で石のように強張るから上手く動けない。体育の授業では目立ってしまう。目立ちたくないのに。

 友達もいないから休み時間はそこら中をうろついて過ごす。校庭の隅の誰も立ち入らない一角が心路の居場所。ただ教室で大人しく本を読んでいることすらも出来ない。本屋で本を買うことも出来なかったからだ。

 兄弟もいないから家でも一人で過ごす。親からもいつも怒鳴られた。ずっと何もせずに空しく過ごしていたから。もっと活き活きと生きて欲しかったんだろう。でもそれが出来ない。他の子供たちがぐんぐんと自分の世界を広げていく中で、ずっと精神の檻に閉じ込められていた。

「あいつ、頭おかしいんじゃねぇの」

 そんな声が聞こえてくる。どうかお願い。陰口は聞こえないところで言ってください。

 人が怖くなった。どう思われているか、はっきりと分かるから。自分では自分が分からないというのに。

 そんな苦しみに満ちた毎日で、少しずつ風向きが変わっていったのが中学二年の頃。救世主が現れたのだ。

 きっかけは心路が初めての趣味として小説を書き始めたこと。ずっと頭の中で嘆き足掻き続けてきた想いを書き殴った。書き始めたら止まらなくなった。憑かれたように文字で埋めていくうちに、ノートは一冊二冊三冊と増えていった。

 ある日、一人でぼんやりしている心路に、その人は声を掛けてきた。

「青井君、私とコンビ組まない?」

 名前は仲元幸花。文科系だが活発な性格で学級委員も務めるクラスの中心人物だ。

「このノート、あなたのでしょ? すっごい文才あるんだね。びっくりしちゃった」

 どっかで無くしたと思ってたノート。仲元さんに拾われて読まれていたか!

「幸花、そいつに絡むのやめなよ。つまんないよ」

 遠巻きに見ていた女子が口を挟む。

「そんなことないよー。青井君ていっつも掃除とか真面目にやってるし勉強も出来るし! いい人だよ! あとね、知ってる? 笑うとすっごい可愛い顔になるんだよ」

 珍しく女の子に褒められて心路は俯いてしまう。でも嬉しい。

「私さ、絵描くの好きだから漫画家になりたいって思ってるんだ。でもストーリー考えるのダメでさ。青井君が考えて私が漫画にすんの、どう?」

 ペラペラと捲し立てる仲元に他のクラスメートも興味を持ったようで、次第に心路の席を取り囲んだ。そして、みんながノートを回し読みし始めた。顔から火が出るほど恥ずかしい。

「すごーい、小説なんて書けるんだ」

「私も本読むの好きだよ」

「あ、あのー」

 声にならないくらいの音量でなんとか伝えようとする。でも言葉に出来ない。代わりに静かに、笑った。

「あー、青井君、笑ったー」

「えー、ロボットみたいだと思ってたのにー」

「いい顔になるじゃん」

 つられたように笑い出す級友に幸花は勝ち誇ったように胸を張った。

「言ったでしょー! 青井君も笑うんだよー! 私ちゃんと知ってたもんねー」

 心路の気恥ずかしさは頂点に達した。そして、逃げ出す。

「青井クーン!」

「何、照れてんのかな?」

「ちょっとあの人謎過ぎるよー」

 ざわめく教室の中心で幸花はクスクスと笑っていた。

 その一件で周囲の青井心路に対する印象は変わった。大人しくて可愛い子―そんな感じに。

 結局、幸花とコンビを組むことはなかった。照れ臭くなって小説を書くこともやめてしまった。

 だが、心路の中に初めての感情が芽生えた。「恋」じゃないと思う。たぶんこれは「感謝」の気持ちだ。

 誤解されることも多いが対人恐怖、対人緊張というのは誰か特定の人を「怖い人」だと思うわけではない。「人と接する」ということが怖いのだ。

 心路も今まで人と距離を置くことを余儀なくされていた。精神が最初から人の進入を受け付けられないからだ。でも―

 幸花がいてくれたから初めて人を近しく感じられた。

 幸花がいてくれたから顔を上げて生きていく覚悟が出来た。

 幸花はいつも自分を気にかけてくれた。

 幸花はいつも温かな笑顔をくれた。

 幸花の周りにはいつもたくさんの人が集まって、幸花はその中に自分がいることを許してくれた。

 幸花がいたから、強くなりたいと思えた。

 伝えたかった。「好き」とかじゃなくて、もっと大切な気持ちを。

 でも、仲元幸花はある日、唐突に、この世を去った。

 心路の胸に咲いた「幸せの花」は散った。

 そして、心路は精神を病んだ。


 第二章 青春時代


   1


「そうなんですね」

「うん、でも月人君も悔いはないって言ってたから。これからは勉強に専念するって」

「はい」

 今、心路は電話で環と話している。直接話すことは少ない。普段から工とはよく話すのだが。

 向坂兄の闖入で気持ちを乱した邦島合唱部は結局残念な結果に終わった。倒れた心路は医務室に運ばれたが、すぐに意識を取り戻した。精神的な原因ではなく貧血のような感じだった。

「私、九月から学校行きます」

「よかった。みんな待ってるからね」

「はい」

 環はこの頃、近所を散歩するのを日課にしているそうだ。これから涼しくなってきてくれれば、更に外に出やすくなるだろう。

 とりあえずそこで電話を切った。心路もなにかと忙しい。季節の変わり目で少し体調も悪い。今日倒れたのも疲れがたまっていたせいも大きいだろう。

 一人暮らしになってもうずいぶん長くなる。誰に見られるわけでもないが、部屋はいつも綺麗にしている。

 ここ数年は寝込むこともほとんどなくなった。学生時代は布団の中で過ごす時間も今と比べ物にならないくらい長かった。枕を濡らす夜も多かった。

 今日の夕食は餃子と野菜炒めとスープとご飯。餃子は冷凍だが他はお手製だ。それも食べ終わり、片付けもすんだ。

 テレビはほとんど見ない。ニュースくらいは見た方がいいとは思っているが、あまり世間のことに興味がない。人類の平和には興味があるのに日本の政治には興味がないのだ。学生の頃からそうだ。本業の日本史も好きだが現代社会、政治経済なんかは正直苦手だった。

 なんだかエアコンが効き過ぎてる気がする。設定は省エネ温度になってるはずだが。

 馬鹿だ。十八度になってる。うっかりボタンに触れてしまってってことは誰にもあるだろうが、ここまで極端なのはそうそういない。

 感覚が鈍っているのだろうか。神経はむしろ過敏になっていると思っていたが。

 大会を終えた部員たちに、あえて心路は労いの言葉は掛けなかった。それは顧問である志野の仕事だから。向坂君は責任を感じていたようだ。

「なんで連れてくるのさ!」と親に怒鳴りつけたらしい。

 だが月人は意外なほどさっぱりしていた。

「世界から歌がなくなるわけじゃない。このメンバーで歌う機会がなくなるだけですから」

 悟りきっているかのようなその言葉と表情に心路は彼の年齢の割に落ち着いた思考を感じた。野球部が甲子園に行けるのは高校生のうちだけだが、引退したら野球が出来なくなるわけじゃない。それとよく似ている。

 もうすぐで夏休みは終わる。これで全ての部活で三年生が引退した。多くの者が受験勉強に集中することになる。教師としてこれからが真価を見せる時だ。

 三十を間近に控え、時の流れは常に一定ではないのかと感じる。「子供」として過ごす三年と「大人」として過ごす三年。同じ三年と思えない。自分が本当に大人になれたかは別の問題として。

「高校の教員を目指したい」

 そう言ってくる生徒は毎年何人かいる。その場合、大きく二通りに分かれる。自分自身が高校生活を謳歌出来たか否かだ。

 学校という空間が好きで、大人になってもそこで過ごしたいと思うか。あるいは学校生活をあまり楽しめずに、今度は教師という別の立場から青春をやり直したいと思うか。

 前者なら教師冥利に尽きるが、心路自身の場合は後者だった。それプラスで、未来ある青年たちに自分と同じような満たされない毎日を過ごしてほしくないという心理も加わっている。

 中堅私大を出た人間が高校教師になっても中間層が中間層を再生産するだけと、揶揄する声もある。だが世の中には出藍の誉れという言葉もある。

 この世に生まれたからには、自分が生まれる前より少しでもいい世界に変えたい。そう願う人は少なくない。だが多くの人は世界を変えてしまえるだけの力は持ち得ない。

 でも、この世界を変えてしまえるだけの素晴らしい人間を育てることは出来るかもしれない。そんな人間が、いつかノーベル平和賞でも取ってしまって、記者会見で涙ながらに「青井心路先生のおかげです」と言ってくれたら最高だ。

 それが心路の夢。いつかきっと叶えてみせる。

 そう胸に言い聞かせながら、心路は今を生きている。


   2


「おはよう!」

「おはようございまーす!」

 あぁ、まるで小学生のようだ。でも朝の挨拶習慣は大事だ。心路も本多も爽やかな笑顔で声を出す。

 発案したのは本多だった。受験生にとっては朝型の生活のほうが適している。朝を晴れやかに迎えることが良い一日、延いては良い人生を送れることに繋がるのだ。

「おはようございます。名コンビ」

「おう、おはよう」

 心路と本多は仲がいいと認知されている。実際お互いに気が合うと思っている。

 八時半頃だった。坂の向こうから心路の待ちわびていた顔が覗く。心路は大きく手を振った。周りも何かと思い振り返る。

「環ちゃーん」

「あっ、ホントだ。おーい」

 一之瀬環が恥ずかしそうに頭を下げる。

「一之瀬さん、元気だった?」

「心配したよー」

 あっという間に人が集まり出した。

「おはようございます。青井先生」

「うん、おはよ」

 環は嬉しそうに微笑む。みんなが目を細めてそれを見ていた。

「はいはい、そろそろ教室に行け。みんな遅刻するぞ」

 本多がパンパンと手を叩いた。朝のホームルームが始まる時間だ。

「あー、やべー。昨日三時間しか勉強してねー」

「ダメだよ。そんなことじゃ受かんないよ」

「俺なんて三時間しか寝てねーぞ」

「それもダメだよ。睡眠はしっかり取ろう」

 心路のモットーは「勉強は質より量」だ。机に向かう時間が長い方が勝つ。それでも人として最低限の生活リズムは維持しなければ却って勉強量は落ちてしまう。

「おはようございます」

 春夏秋冬、変わらない朝の日常を感じている心路の耳に朗らかな声が入ってくる。

「あっ、月人君。おはよう。……環さんと、一緒じゃなかったんだ」

 小川月人も環のように照れ笑いを浮かべている。

「付き合ってるみたいで恥ずかしいって、言われちゃって」

「えー、実際付き合ってんじゃないの?」

「馬鹿、ツッキーは真澄さんと付き合ってんだよ」

「えっ、別れたんじゃないの?」

 怒涛の勢いで小突かれるが、月人は余裕の笑みでかわす。

「全部デマだよ」

 月人は人当たりの良い好青年だが、特別イケメンでも不細工でもない。成績優秀で友達も多いが、スポーツは苦手でどちらかと言えば地味な方だ。彼女も出来たことがない。

「誠琴は?」

「さぁ」

 水沢誠琴の話になると急に顔を曇らす。だから心路も含めて事情を知っている者はなるべく触れないようにしているが。

「青井先生、小川と水沢は何かあったんですか?」

 生徒たちと離れ廊下で二人きりになると本多が尋ねた。

「そうですね。本多先生になら話してもいいかな。放課後、時間取れますか?」

「少しなら」

 それから二、三、言葉を交わして心路は自分の教室に向かった。九月になって初めて足を踏み入れる教室。少しだけ新しい自分になったような気分で。


「まだかよ。まこちゃん何やってんだよ」

 三年前、中学最後の夏。最後の文化祭。

「月人君、今電話繋がったよ。あいつ動物病院にいるって」

「どーぶつびょーいん?」

 十五の月人は素っ頓狂な声を上げる。

「ごめん、月人。ちょっとデッカイ犬が怪我してて。運んでたら……もう間に合わないよね?」

「……馬鹿野郎。たかが犬のために……」

 怒りに声が震える。それから誠琴が何か言うのも聞こえず、月人は電話を切った。

「まこちゃん、なんだって?」

「知るか」

 月人は唇を嚙み締めた。血が滲むほどに。


 夕日の差す職員室で心路は、今より少し子供だった月人と誠琴について語った。

「文化祭でのライブ。家に引きこもりがちだった一之瀬さんを励まそうと二人で計画を立てて二人で一生懸命練習していたそうです」

 幼稚園の頃からギターを弾いていた誠琴。どちらかと言えば言い出しっぺは彼のほうだったという。中学時代も合唱部だった月人にピアノを勧めて二人で演奏しようと。

 曲はオリジナル。歌詞とメロディーは月人が書いて、誠琴が編曲した。

「誠琴君の弾き語りに月人君のピアノ。でも当日に誠琴君は体育館に現れなかった。怪我をしている大きな犬を見つけて動物病院に運んでいたそうです」

 結局、月人は聴衆に事情を説明することもなくピアノを独奏した。他にも出演者はたくさんいる中の一人に。せっかく環を引っ張り出したのに、却って戸惑わせてしまった。

「それから険悪に? もう三年も経つのに?」

「というよりはお互いに潮時と思ったのかもしれませんね。幼馴染なんて所詮は漫画の世界でしか上手くいかないのかも」

 心路はそう言いながら自分に「違う」と言い聞かす。あの二人を和解させたい。

 卒業までに、みんなが笑顔でいられるように。


   3


 九月も半ばを過ぎた。環はたまに午後からの登校になるくらいで、なんとか通学出来ている。しかし、いつも一人でいるのは気になる。

 邦島の生徒は素直で優しい子が多いから、いじめなんてものは存在しない。誰も環を冷かしたり嘲笑ったりはしない。

 だが、みんな扱いに困ってるのだ。なんて声を掛けても曖昧な笑顔を返すだけで、次第にコミュニケーションを諦めてしまうようになる。全くもって心路にも覚えがある。嫌われてるわけではない。むしろ好感度は高い。でも友達と呼べる人はいない。

 学校はテスト期間に入った。完全に受験モードになっている中で学校のテストなどみんな軽視している。それでも環には受けてもらわねばならない。いい点を取る必要はないが、試験を受けることは通常の出席日数より大きな意味を持つ。

 留年は避けたい。あの子の将来のためにも―工は繰り返し訴える。どの生徒からも進路相談は常に受けているが、環のことは特別扱いしてしまっている自分がいる。良くないとは思う。

「模試の結果がそろそろ出る頃ですね」

「あまり模試は気にしないように念押しておきましょう」

「私も現役の頃は必要以上に気にしましたね。志望校変えようかとか思っちゃう」

 コンコン。

 職員室のドアをノックする音がした。心路と本多がほぼ同時に「どうぞ」と言う。

「なんだ、文系コンビか」

 月人は「失礼します」と入ってくるなり嘆息した。

「なんだとはなんだ」

「んー、誰に用があったの」

 軽く立腹する本多と微笑む心路だった。

「牧下先生。ちょっと数Bでわかんないところが」

「あー、ちょっとさっき帰っちゃったところだね」

「そうですか」

 月人は文系だが国立志望なのでセンターで数学も必要になってくる。ちなみに心路は高2の時に微分積分で挫折した経歴を持つ。

「じゃあ、もう今日は帰ろうかな」

「遅くまでお疲れさん」

 家が決して裕福でない月人は予備校には通っていない。通っている生徒は予備校の自習室が使えるが、そうでない者は放課後は図書室を使うことが多い。

「そう言えば青井先生、誠琴は進路についてなんて言ってます?」

 月人自ら誠琴の話を出すのは珍しい。いがみ合っているように見えても、人として互いに見捨てることは出来ない関係なんだろうか。

「音楽の専門学校も考えてるみたいだけどね。見失ってるように見えるね。僕から見て」

「相談乗ってやってください。それはもう俺の役目じゃないっすから」

 それだけ言って月人は帰って行った。本多も時計を見やる。

「我々も鍵かけて帰りますかね」

 今日は何食べよう。心路も今考えていることは割と呑気だ。でもすぐにシリアスなモードに変わる。

「一之瀬環は今年卒業出来なければ留年せずに退学されるそうですね」

「考えたくないですが」

 環の人となりは知ってる。人間って不思議だ。思いは言葉にしなくても、態度で示さなくても、なんとなく伝わる。環の心根の真っ直ぐなことは、みんなに伝わってる。だからみんな協力する。

 精神障害者というと、なぜだかみな純粋で繊細ないい人と思われがちだが、そんなことはない。世の中にはいけ好かないメンヘラもいる。環がもしそういう人間だったら、心路もさほど親身にはなれなかっただろう。

「卒業、出来ればいいですね」

 二人はしみじみと頷く。環の人生はまだまだ始まったばかり。

 若人たちに曖昧な理想論を押し付けるだけでは教師として三流だ。心路には今、誰にも奪えない確固たる信念がある。

「俺についてこい」なんて決して言わない。「ついて行きたい」と思わせたい。そう思わせてくれる生徒たちが好きだった。

 二人が学校を出ると、もう夜風は秋を感じさせた。


    4


 その日、心路の胸は高鳴っていた。なぜなら憧れのシノちゃんと二人っきり。

「青井先生に相談したいことがあるんです」

 そう切り出されたのが三時間ほど前のこと。学園のアイドル・シノちゃんはよく生徒から相談を持ち掛けられる。

「私、クラスに馴染めないんです」

「野球やめて勉強に専念しようかなって」

「アキトくんが好きなのに告白する勇気がなくて」

 それら一つ一つの悩みに、まだ若く決して人生経験豊富とは言えない志野は相談の相談を心路にするようになった。比較的年も近く話しやすいからと言われると心路は嬉しい。

「相談するのに的確なアドバイスなんて求めてませんよ。話を聞いてあげるだけでいいんです」

 心路はそう言うものの真面目な志野はつい本気で考えてしまう。

「夢だった先生になれたのは嬉しいんですけど、まだまだだなって」

「うんうん、教師なんてそんなもんです」

 件の定食屋はムードが無さすぎるので、もう少しシックな店を選んだ。

「で、今日は誰の悩み事です?」

「いえ、今日は私自身の相談で」

「ほう」

 恵子、という名が体を表すように志野先生は容姿端麗、頭脳明晰、性格も良しと、すべてに「恵まれて」いるように見える。悩みのない人間などいないとは思うが。

「彼―今お付き合いしてる男性と、近頃会ってなかったんですけど三日、かな。うん、三日前に久しぶりに会って」

「うんうん」

 おのれ、ライバルめ。

 内心思うが顔には出さない。

「彼、昔からロングヘアーなんですけど、急にばっさり切ってて、どうしたのって聞いたんです。そしたらケジメをつけたくてとか言って、急に真面目な顔になって……け、結婚してくれないかって!」

「えっ!」

 衝撃の展開。思わず身を乗り出す。

「それで! なんて?」

「いや、まぁ、すぐには返事出来ないからって言ったんですけど。私、まだ結婚とか考えてなかったし、今のお仕事も続けたいし」

 彼、「かーくん」とは高校時代に出会ったそうだ。学年は一つ上だったが同じ室内楽部で活動するうちに互いの音楽に対する真摯な姿勢に惹かれ合い、付き合うようになったという。

「優しい人です。でもちょっと感情的になりやすい人で。プロポーズも一時的に感情が高ぶっちゃっただけなんじゃないかとか、考えちゃって」

「なるほど」

 かーくんは華やかな性格で、高校卒業後は芸能界で生きるために、そういう方面の養成学校に入った。モデルの仕事などもこなしながら、夢である俳優を目指して日々精進しているらしい。

「でも、二十五過ぎた辺りから自分の才能の限界を感じ始めたみたいで。仕事も少なくなって上手くいかないと私に当たるようになって」

「なるほど」

 夏の間、二人はしばらく距離を置くことにした。そしてかーくんは決意した。

「夢より大事なものがあるって。安定した仕事に就いてお前のことももっと大事にするって」

 だから結婚しよう、と言われた。

 不自然な点はない。志野先生は素晴らしい女性だし、退職することになれば残念だが、そう急なことではないだろう。

「よくわかりました。それで、何を悩んでるんです?」

 志野先生がコップの氷をストローでカチャカチャといじる。癖なのだろうか。さっきからこの動きを繰り返している。それからぽつりと呟いた。

「私、こんな幸せでいいんでしょうか」

「はっ?」

 小さな声だったがはっきり聞き取れた。だが、その内容が意味不明だったので心路は間抜けに聞き返してしまった。

「い、いいと思いますよ。えっ、どういう意味です?」

 志野は長い睫毛をしぱしぱさせる。そして清んだその目を伏せたまま語り出す。

「私、あんまり悲しいとか辛いとか感じた事ないんです。ちっちゃい頃から可愛い可愛いってちやほやされて、勉強も運動もそんなに苦労した記憶がないし。ピアノは好きだけど、上手いって言われてもあんまり嬉しくないんです。自分の何がそんなに優れてるのかわからないから」

 順風満帆な人生を送ってきた。それだけに羨望の眼差しで見られる言わば「勝ち組」に分類されてきた自分に、志野は違和感を感じ続けている。

「シノちゃんくらい美人だったら恋愛で傷ついたことなんてないでしょ?」

「悩みがなさそうでいいな」

「あたし、どんだけピアノ練習してもシノちゃんには敵わないわ。いいなぁ、才能あって」

 そんな風に言われることも少なくない。

「教師になっていろんな苦しみを抱えてる子供たちをたくさん見てきました。でも、どうしても理解しきれない。共感しきれない」

 恵まれた人生は時として何よりも不幸だ。我が身をつねられたことがなければ人の痛みを想像することも出来ないのだから。

「こんなんじゃいけないって思うんです。人に教える人間として」

 不幸自慢がしたいわけじゃない。でも苦労は苦労した者にしか得られないものを与えてくれる。それは人生の宝だと先人たちは繰り返し説いている。

 心路は目の前にいるこの美しい女性の葛藤を想像する。いつ口を挟めばいいか窺いながら。

「でもそれ以上に怖いんです。いつか決定的な挫折を味わうんじゃないかって。そういう時に、私はちゃんと立ち上がれるのかって」

「……立ち上がれますよ」

 真剣な顔で聞いていた心路に断言されて、志野は逆に驚いた。涙が滲んでいた瞳を真っ直ぐに心路に向ける。心路は教師として、挫折を知らない若者を今まで少なからず相手にしてきた。そういう人に伝えたいことは今も昔も変わらない。

「僕は逆に、ずっと悲しみの中で生きてきましたよ。欠点だらけ、弱いところだらけの人間だから、人の弱さが見つかるのがありがたかった。自分だけじゃないって思えて。そしたら今度は人が、僕の美点、強いところを見つけて、求めてくれることもあった。それで今の僕はこういう結論を出しましたよ」

「はい」

 興味津々に自分の話を聞いてくれることが心路には嬉しかった。だからはっきりと力強く断言した。

「人はみんな支え合うために弱さを持って生まれてくるんですよ。そう思えばどんな運命も愛せるから」

 場面緘黙というハンデを背負い続けた時代には、運命を憎むこともあった。なんで自分だけが、と。

 だが、そんな自分にも差し伸べられる手はあった。悲しい時も、苦しい日も。同じように「自分だけの弱さ」を抱えてると「思い込んだ」人たちからの手が。

 強さは何かを守るために育つ。だから弱さが必要なんだ。

「志野先生のその迷いも弱さの一つです。あなたも決して完璧な人間なんかじゃない。だからみんなが慕うんです」

「はい……」

 目から涙がこぼれそうでそれをこらえてる。痛みを感じない人間には決して出来ないこと。

 音楽の先生になるためにたくさんの歌を聴いてきた人の目だ。そしてその一つ一つにまるで自分のことのように共鳴してきた人の目だ。

 優しい歌。

 激しい歌。

 悲しい歌。

 楽しい歌。

「喜怒哀楽」という言葉は誰が作ったんだろう。人間の魂はそんな四種類に大別は出来ない。

「いつも明るくて楽しそうなシノちゃんには僕は特別なほど心惹かれない。でも、こんな風に迷い探し続ける志野恵子さんをずっと前から見ていました。みんな志野先生が大好きです」

 言ってしまった。不思議なほど、恥じらいや照れはなかった。「僕は」ではなく「みんな」と包んだからだろう。そのほうが伝えたいことが伝わると思ったからだった。

 胸に閊える思いはあった。愛しい人が他の男のお嫁さんになってしまう。それでいいのかと。

 だが、今は人として自分を敬ってくれる志野の気持ちが嬉しい。そんなだから、男として惚れてくれる女性が今まで現れなかったという事実には目を伏せて、それからしばらくは、一時の二人の時間を楽しんだ。

 志野がかーくんとの婚約を決意するまでにはまだ時間がかかるのだが、この日、彼女は今までより一歩前へ進んだだろう。




   5


「はい、私も精神病についていろいろ勉強してみようと思いまして」

「そうですね。いいことだと思います」

 冬が近づいている。心路はこのくらいの時期が好きだった。年の瀬を控え、全てが収束に向かうこのくらいの時期が。

「それでですね。娘のこと、本に書いてみようかと思ってるんです」

「ほう」

 一之瀬工と電話で話している。環は相変わらず周囲から取り残されている。環自ら人を避けているようにも見えてきた。

「私も物書きの端くれです。文学を通して伝えたいことはたくさんあるんです。社会には娘と同じように苦しんでいる人がたくさんいますよね。そういう人たちの助けになりたくて」

「なるほど」

 十代で最初に診断されてから心路もメンタルな病に関する本を読み漁った。多くは学者やカウンセラーが書いたものだったが、工のような著名人が書けばセンセーショナルな作品となるのは間違いないだろう。

 作家一之瀬工の小説は何冊か読んだ。初期の作品は人情味溢れる優しい話が多かった。だが、次第にミステリーの風味が強くなり、現在ではトリックや推理に重きを置き過ぎて、あまりにもマニアックな作風に変化してしまった。往年のファンからは強いバッシングを受けているのが現状だ。

「環さんは今の調子なら無事に卒業できると僕は考えています。ただ、その後のことはわかりません」

「と、言いますと?」

「場面緘黙は本当に辛い疾患です。克服したとしても二次的な問題にぶち当たるんです」

 心路は自身の体験を基に語り始めた。

 孤独というものの最大の苦しみは「寂しさ」だろう。それは間違いないのだが、だがそれだけではない。

 普通の人が友達や周囲の人間との交流、もっと明確な言い方をすれば「会話」から得られる情報や知識を緘黙児はその一割も得られない。普通の人が友達と元気に遊んでいる時間を、一人無為に過ごす緘黙児は、頭脳的・肉体的な能力面でも大きなハンデを背負うことになる。

「残酷ですね」

「まだあります。周りから刺激を得られないと全てに於いて消極的になります。頑張りたくても何を頑張ればいいのかわからない。情熱を燃やせる場所がないんです」

 人はみな生きてる限り「何か」をしている。だが心は小中高と「何もしないで生きていた」。ここが心自身が一番異常だったと思っている点だ。

 学校が終わると家へ帰っても漫画も読まない。ゲームもしない。なんとなくテレビを見て過ごす。それも特に好きな番組があるわけでもない。趣味どころか暇つぶしの手段すら持たない。休みの日は一日中家にいて本当に「何もしないで」過ごした。

 主治医に説明しても上手く理解してもらえなかった。そんな人間が他にいるだろうか。

「確かに異常かもしれませんね。私には見当もつかない」

「大学で初めてサークルに入って、なんとか活動的になれました。その時から、やっと人生が始まったような、そんな気持ちでした」

「そうですか」

 工も自分の若かりし頃を振り返ってみた。大学時代に書いた小説で一躍時の人となった。プライベートでも純粋な恋をし結婚して女の子も一人授かった。

 愛妻である要を事故で失い、愛娘の環も自分が望むような幸福な人生を歩めてはいないだろう。満足の行く小説も書けなくなった。

「人生って思うままには行かないもんですね」

「なるべく楽しく生きたいですけどね」

 寂しい気持ちと共に二人は電話を切った。すると、ほとんど間を置かずまた電話が鳴った。

「はい、一之瀬です。はい、そうですが。えっ?」

 工は我が耳を疑った。電話を落とし、腰が砕けそうになるのをどうにか堪えた。

「環が事故に……」


   6


 病院からの知らせを聞いて、工は一目散に駆け付けた。環は自動車に轢かれ重傷、すぐに集中治療室へ運ばれた。

 病院の人は関係者各位に連絡してくれたらしい。担任の青井心路も駆け付けてくれた。友人である月人も息を切らしながら現れた。それから先は芋蔓式にクラスメイトや合唱部の仲間も集結してきた。

「おじさん、環はなんで……」

「あぁ……」

 月人は詰め寄ることが出来なかった。顔面蒼白。人間がこんな状態になったのを彼は見たことがなかった。

 代わりに近くにいた看護師が教えてくれた。

 環は日課である散歩に今日も出かけていたらしい。交通量の多い道の歩道をゆっくり歩いていた。その時、ボール遊びをしていた子供が一人、道路に飛び出した。前の車はスマホのながら運転で気付いていなかった。子供を助けようとした環が身代わりに、轢かれた。

「環……」

 月人は拳を握り締め、唇を噛み締めた。部長の真澄はガタガタと震えながら両手を握り、祈るように目を閉じていた。

「それで、その子供の方は?」

 一応は大人である心路が必死で気持ちを落ち着けて看護師に尋ねる。

「突き飛ばされた際に膝と手を少し擦りむいただけです。命に別状はありません」

 看護師はにっこりと笑った。まだ喜ぶには早いだろう。環の無事も確認してから笑ってくれ。そう思ったが口には出せなかった。

「その車の運転手、どうなったんすか?」

 いつの間にいたのか、誠琴が看護師に聞いた。

「はぁ、怪我はありません」

「いや、そういう意味じゃなくてー」

 喧嘩腰になっている誠琴を月人が制した。

「そいつを憎むのはまだ早い。今は環のことだけ考えろ」

「わかってるよ」

 病院の廊下の空気が張り詰める。月人を始め、集まった高校生たちの多くは、まだ近しい人間との死別を経験していない。受験生にとって大切な追い込みの時期に、これほど気持ちを掻き回されることはない。だが、級友の命の瀬戸際に無関心でいられるような人は自分の教え子にいなくてよかったと心路は思う。

 どれだけの時間が経っただろうか。夜も遅くなって未成年は帰ったほうがいい時刻に差し掛かった頃に、手術室から医師が現れて環が一命を取り止めたと告げた。

 工は泣き崩れた。月人はガッツポーズを取った。女の子たちは抱き合って喜んだ。

 よく自分の葬式を見たいという人がいる。心路はこの光景を環に見てほしいと思った。

 まだ意識は戻らないという。環はしばらく入院することになった。それでも一先ず安心した一行はそこで解散になった。


 病院を出て、一人になったところで心路は「青井先生」と自分を呼ぶ声を聞いた。

「月人君か。どうしたの」

「青井先生、俺は環が死んだら生きていけません。本気なんです」

 息が荒い。切迫した表情に心路は圧倒される。

「あいつがいつも笑顔でいられるようにするのが俺の夢なんです。でもダメなんだよ。俺じゃなくて先生じゃなきゃ、あいつは―」

 そこまで言って口ごもる。俯いてしまった。そんな月人に心路は掛ける言葉が浮かばなかった。

「環のために、今何が出来るんでしょうか?」

「それは、僕にはわからない」

 心路が環と共に生きた時間は約二年と半年。環の十七年間の半生のほんの一部でしかない。

 それでもわかることはある。環の生命は今、綱渡りのように危ういところで揺れ動いている。その魂もまた……。

 だったら、環が目覚めた時に目の前にある未来が少しでも明るくなるように、周りにいる自分たちは強く、そして誰よりも優しくならなければいけない。

「月人君、今はがむしゃらに渇望する時じゃない。心から祈る時だよ」

 月人は綺麗事が聞きたいわけじゃない。お説教が聞きたいわけでもないだろう。

 それでも今の心路にはこの迷い子の求めている答えなどわからない。無力な自分が歯がゆい。

 精神を病んでから、何度も死を想った。日常のように絶望を感じた。あの日から心路は、もう一度死んだと思って生きてきた。

 その拾い物のような命で今、救えるかもしれない魂がある。心臓が意思を持ったように高鳴る。呼応するように月人は顔を上げた。

「俺、上手く言えないけど、絶対諦めない。環は俺が幸せにする。俺の生きる意味なんてそれだけでいい」

 目に涙が浮かんでいる。まだ何か言いたそうに口を動かしたが、やがて振り返りその場から走り去った。

 あとには静寂とほのかな月明りが残った。心路も熱くなる目頭を押さえて家までの道を歩いた。急ぐわけでもなく、歩くことを楽しむわけでもなく……。


 第三章 卒業


   1


 環が意識を戻したのは年が明けてからだった。誰もが心配で胸が潰れそうな日々を過ごしていたから、面会を望む者はたくさんいたが、激しく動転しているらしくそれは叶わなかった。それから三日が過ぎた。

「もうすぐでセンター試験ですね」

「今年もあっという間でしたね」

 放課後の職員室、教員たちは既に肩の荷が下りたような気持ちになっている。

「ここまで来たらあとは万全の体調で本番を迎えること」

「それだけですね」

 みな受験生時代を思い出しているのだろう。懐かしい気持ちに浸っている。

「問題は一之瀬環ですね」

「そうですね」

 離れていたところで自分の仕事をしていた心路がピクッとなる。

「せっかくいい調子になってきたところだったのに」

「検査入院が長引くようだとまずいですね」

「なにより本人の頑張り次第だと思いますがね」

「頑張る気力もなくなってるかもしれませんね」

「こちらからはもうお手上げなのかもしれませんね」

「あの子はこの先どうなるんでしょう」

 心路はガタッと立ち上がった。

「一之瀬さんは本当は強い子です。だからこそ、今こそ、僕らが支えになれなくてどうするんですか」

 教員たちは心路に驚きの目を向けた。

「それはもちろんですが」

「青井先生は以前から一之瀬さんに妙にご執心ですね」

「あまり一人の生徒に感情移入し過ぎるのはよくないですよ」

 正論、正論、正論……。

「それは承知してます」

 心路は気を落ち着けてまた席についた。いつも味方してくれる本多先生も今日はたまたまいなかった。

 帰りに病院に寄ってみよう。

 心路は仕事が終わり学校を出たら近くの花屋でお見舞いの花を買い、環の入院している病院を目指した。


 外観はなかなか綺麗で大きな病院だった。受付で一之瀬環の部屋を聞き、とりあえず面会の許可は取れた。掛かりつけの心療内科には隔週で通院しているので、病院という空間の雰囲気には慣れている。

 教わった部屋の前に着くと、心路は一つ深呼吸した。なぜだかわからないが、少し怖かった。

 ノックしたが返事はない。どうしたもんかと思ったが、近くにいた看護師から「入っても大丈夫だと思いますよ」と言われたので、心路は意を決してドアを開けた。

 環が人形のような無表情で虚空を見つめていた。

「環さん、こんばんは」

 同室の女性は不在だったので部屋には二人だけだった。だが環は心路の声が聞こえなかったかのように、無反応だった。

「環さん」

 少し声のボリュームを上げると、環はようやく気付いた。

「先生」

 環が弱々しい眼差しを向ける。今にも透明になって、この場から消えてしまうかのような、儚い表情だった。

「先生、私……」

 唇が震えている。心路は金縛りにあったかのように、しばらくはドアの前から動くことが出来なかった。

 遠くからサイレンの音が聞こえた。救急車か?今日もどこかで怪我人や病人が運ばれているのだろうか。その不安を掻き立てるような音に、心路はハッと我に返る。

 一歩ずつゆっくりと環に近付いていく。その間、彼女は何度も俯いたりまた顔を上げたりを繰り返した。

「目が覚めてよかったよ。みんな安心してるよ」

 優しい言葉を掛けたかったが顔の筋肉が強張って、上手く気持ちが届いたかわからない。

「また学校で待ってるからね」

 環が両手で顔を覆った。ヒックヒックと嗚咽を漏らす。

「死んじゃってもよかった」

 心路の胸に環の言葉が突き刺さる。

 環が助けた子供、晴樹君とその両親は事故の後で工に対して何度も頭を下げた。病院にも足繫く通っている。

「私は晴樹君を助ける為に生まれてきたんです。それで天国に行けるなら悪くない人生だったって思えたのに」

「君も生きていられるんだよ。最高じゃないか」

「違う!」

 声を荒げる環に心路は驚く。少し感情的になってる。こういう時は落ち着いたほうがいい。

「私、鬱なんです。青井先生と一緒で。知ってると思いますけど」

 環の口から初めて具体的な病名が出た。もちろん心路も重々承知の事実だったが。

「そうだね。僕も君くらいの年齢で初めて発症したんだ。でも、今こんなに元気に生活してる」

「私は、先生と違う。似てるけど、でも違うんです」

 廊下から賑やかな声が聞こえてきた。子供がはしゃいでいて、看護師がそれを注意しているように聞こえる。

「夢を見てたんです。笑ってる私の夢。みんなが私に笑顔で話しかけてくるんです。私は歌を歌ってた。楽しくてたまらないって。そんな感じで。それに合わせてみんなが踊り出すんです。でも、途中で回りが暗くなって。また明るくなったと思ったら今度は砂漠みたいなところにいた。怖くなって、目を閉じたら笑い声が聞こえてきた。みんなが私の方を向いて嘲笑ってるみたいで。耳を塞いでも全然止まらない。どうしようって蹲ってからのことは覚えてない。気付いたらベッドの上でした」

 環は暗い声でそこまで語りきった。普段に比べて、饒舌過ぎる彼女に心路は逆に戸惑いを覚えた。

「そうなんだ」

「はい」

 なんて言えばいい。心路にはわからない。教師という仕事について、初めて若年性鬱病を抱える子を受け持つことになると分かった時、心路は正直嬉しかった。

 自分の病気を身近で、幾分か客観的に考えることが出来ると。でも今、この傷だらけの少女に対して、何もしてあげられない自分がいるだけだ。

「みんな私に構ってくれない。物珍しそうな顔で近付いてきてもすぐ離れてく。どうして私はこうなの。誰も私をわかってくれない。誰も私の心に触れてくれない」

 その時、なにか糸が切れたような音が聞こえてきたのは気のせいだろう。気付いたら心路の腕の中には環がいて、その胸に寄りかかる環の頬には涙が伝っていた。

「先生、私、今でも覚えてます。ペンダントのこと。先生が頭を撫でてくれたこと。みんなの前で心から笑えたこと」

 春の終わり、どこか儚くて、でも優しい風が吹く季節に、内気な少女の胸には、誰もが通り過ぎる、一つの暖かい想いが芽生えていた。

「やっと私の気持ちをわかってくれる人に巡り会えた。先生は私の初恋でした」

 心路の中に眠る愛しさがほのかに脈打った。自然と腕に力がこもる。

「私にたくさん優しくしてくれてありがとう。青井先生が好きです」

 もう言葉はいらなかった。環は心路の胸の中で、喉が枯れるまで泣いた。


   2


 いよいよ受験が始まる。だが邦島の生徒には大学へは進学しない者も多い。水沢誠琴もそうだ。

 海を見渡す丘。彼もここが好きだった。

 椅子に腰掛け、自分の左手を見つめる。怪我はもう治ってる。でも軽音には結局戻れなかった。

 一人カラオケを覚えた。バイトで貯めたお金で少し高いギターも買った。四月からは音楽の専門学校へ進む。

 迷いはあった。本気でプロを目指す覚悟が固まっていなかった。でも、毎日毎日ギターを弾いて、歌詞を書き、歌を紡ぐ。その繰り返しの日々が嫌いじゃなかった。

「誠琴君」

 自分を呼ぶ声に振り返る。そこには青井心路が立っていた。

「先生、こんなとこいていいんですか? 忙しいんじゃないんすか?」

「ううん、もうこの時期になれば僕らに教えられることは少ないから。自分を出し切れれば、みんなきっと受かる」

「そうっすか」

 正直、鬱陶しかった。一人でいる時間が好きだったから。ガキの頃はみんなで遊ぶのが楽しくてしょうがなかったのに。いつからこうなった。いつから……。

「校門出たとこで見掛けたからさ。ちょっと元気なさそうだなって思ったからついて来ちゃった」

「いつもは元気あるように見えるんすか?」

「うん」

 この人はちょっと苦手だ。嫌いじゃないんだけど、大人のくせにいつも少年のように目を輝かせているのが、逆にどう接していいのかを迷わせる。

「もうすぐ卒業だね」

「別になんとも思わないっすけど」

「三年間なんてあっという間でしょ?」

「そうっすね」

何しに来たんだ。この人は。

「誠琴君、何か悩んでることがあるなら春が来るまでに解決しよう」

「はっ」

 季節は冬、吹きさらしで寒くないと言えば嘘になる。でも、青井先生の暖かい笑顔には少し癒される。また、おかしなことを言い出したぞ。この人は。

「別に悩んでないっす」

「悩みのない人間なんていないよ」

「だったら特別、俺に構う必要はないでしょう」

「月人君はきっと気にしてるよ」

小川月人−センター試験は概ね上手く乗り越えたと人づてに聞いた。これから自分とは違う道を歩いていく人間だ。

「月人がどうかしましたか? もう俺には関係ないです」

「環さんも?」

「ーっなんで環。あいつも関係ないです。もうずっと話したこともないっすよ」

誠琴は思わず顔を背けた。でも心路は真剣な表情のまま決して視線を外さない。

「昨日、環さんのお見舞いに行ってね。想像してみたんだ。仲が良かった頃の君たちを。でも、想像出来なかった」

「ガキの頃の話でしょ。もともとそんなに気が合うわけでもなかったんですよ」

 音楽の学校に進むことが決まって、誠琴は髪をもとより更に明るい色に染めた。確かに月人と一緒にいては違和感があるくらい二人は違うタイプだ。でも―

「君たちに何があったのかは知ってる。でもあの時、二人はお互いに見損なうだけで、激しく意見をぶつけたりって事はしなかったそうだね」

「あの時のことだけじゃないっすよ。もとから嫌いな部分はあった。俺は優しい、俺は真面目だ、俺は偉い、俺は正しい。そう思ってるって顔に書いてあるんすよ」

「それで次第に君はヒールを演じるようになった」

音楽が大好きで無邪気に夢を描いた子供時代。親に貸してもらったアコースティックギターからお年玉を使って買ったエレキギターに代わった時から誠琴は少しずつアウトローになった。

「考えが古いっすよ、青井先生。ロックは不良の音楽? 悪なのがカッコいい? そこまで中二病じゃないですよ」

「君は本当はいい人だからね」

カチンときた。誠琴は立ち上がる。

「いい人ってなんですか? あんたも月人もそういうところがムカつくんですよ。誰にでも優しくして教科書通りにみんなのためになるいいことをする人がいい人ですか? 俺は俺が正しいと思うように行動してる。誰がなんと言おうと信念は曲げない。そうやって俺なりの人生を生きてるんです。誰にも文句言う権利なんてない!」

すごい剣幕に心路は圧倒されてしまう。声を荒げたことを恥じるように誠琴は「すいません」と言って再び椅子に座った。

「あの時のこと、話しましょうか? あの日、ワクワクドキドキしながら学校に向かってました。でも途中でデッケェ犬が血ぃ流して倒れてるんですよ。気付かなければよかったんだって思ったりもします。でもどっかの飼い犬だったら、もしものことがあれば飼い主はどれほど悲しみますか? でも、あいつはこう言ったんですよ。たかが犬って! たかがって! たった一つしかない命の重さに犬も人間も違いがありますか!」

誠琴は行き場のない怒りを心路にぶつけてきた。強い反骨精神から生まれたロックという音楽。でも、全ての憎しみは、深い悲しみから生まれるということを思えば、悪役の言う言葉のほうが正しいのではと考えることも出来る。

「いい人なんて突き詰めれば結局自分のことしか考えてないんですよ。感謝されてる、愛されてる自分に酔ってるだけです」

心路はうんうんと頷く。誠琴の主張を全肯定するわけではない。誠琴自身も今、自分しか見えなくなってる。だって、完璧な人間など一人もいないのだから。

「でも、その時、君はこう思ったんじゃないかな? たかが、文化祭、って」

誠琴が目を見開く。何かが突き刺さって痛みを感じているように。

「月人君にとって何より大切なのは環さんだった。大切な人の笑顔を見たいという純粋な気持ちで一生懸命曲を書いて二人で頑張って練習したんでしょ。それが台無しになった。どれほど悔しかったか、想像したことがあるかい? 大切な犬ならそれは、たかがじゃない。でも犬なんて今この瞬間もバタバタ死んでるんだよ。命の重さなんてその時々の気紛れでコロコロ変わるもんなんだ。僕らは毎日何気なくたくさんの命を犠牲にして生きているんだから」

心路の言葉に誠琴は何も言えなくなってしまう。どちらの意見も間違っていない。お互いを否定するわけじゃない。教師と生徒ではない。一人の人間として、認めているから。

「たかが犬、と、たかが文化祭。二つのたかががたまたま噛み合わなかったんだよ。誰が悪いわけでもない」

誠琴は拳を握り締めた。痛い。

「何が本当に正しいかなんて誰にもわからない。でも、僕には夢がある。笑わないで聞いてね」

 自分は今この子たちのために何が出来るか。教師を続ける限りいつも考えることはそれだけだ。環の泣き顔が脳裏に浮かぶ。あれから必死で考えた。答えは出なくとも、本当に必死で考えた。

 誠琴もそんな心路の気持ちを慮ってか、静かに答える。

「はい」

 心路を目を細め遠く、空を見つめる。あの空の向こうできっとあの人は今も幸せそうに笑ってる。

「この世界を変えたい。みんなで力を合わせればきっとそれは出来る。問題はそこじゃないんだ。大事なのはどう変えたいか。誰もが幸せに生きる世界なんて僕は望まない。悲しみや憎しみはこの世界にとって必要なものなんだ」

話を聞く誠琴の目は本気だった。心路の本気が、きっと伝わってるから。

「どんなに頑張って生きてみたって報われない人生もある。どんなに満たされた毎日だって理不尽に絶たれてしまうこともある。それでも人は一筋の光に向かって今日っていう一日を生きてる。絶望に塗れても、孤独に潰されても、決してこの世界を憎んだりしない。誰もが生きるってことを純粋に愛せる世界。それが僕の望む理想郷なんだ。それが出来ればこの世界にたくさんの、幸せの花が咲く」

綺麗事と笑われてもいい。薄甘い戯れ言でも、理想を描けない者は何一つ叶えられやしないのだから。

「幸せの、花?」

「そう。幸せの花」

風が吹いた。でも波は穏やかだった。

「俺に何が出来るかな」

「なんだって出来る。一ついい提案がある。卒業式の日に……」

心路の言葉に誠琴は微笑む。そして照れたように立ち上がった。もう行かなくちゃ、と言って。

「でも、それいいかもしれないね。俺、頑張ってみるよ。みんなのために、みんなで頑張ってみるよ。それくらいしか、出来ねぇから」

心路は走り去ろうとする誠琴が振り返るのを見て親指を立てた。

サムズアップ。俺たちはまだ大丈夫だっていう証。


   3


 受験シーズンも半ばを過ぎた。多くの者が、後は安心して第一志望校を受けられる、という状況を手にしていた。

 だが今、邦島高校職員室ではちょっとした騒ぎが起きている。

「大丈夫でしたか? 志野先生」

「はい、なんとか」

 志野が吐き気を催してトイレにかけ込んだところから帰ってきた。

「病院に、行ってきます」

「病院?」

 まさか−という思いがそこにいた全員の胸に宿った。生徒たちの吉報を聞くより一足早く、シノちゃんからおめでたい報せが聞けるかもしれないという思いが。


 その日、心路は風邪で欠勤していた。生徒に移すわけには行かないので念のため、という程度の風邪だったが気分も優れないので、日中はずっと布団に閉じこもっていた。

 誠琴には随分とかっこいいことを言ってしまった。家に帰る度に一人脳内反省会を開くのはいつものことだ。

 日も落ちた頃、ピンポンピンポンと繰り返しインターホンが鳴った。

 誰だ。一回鳴らせばわかるって。

「よっこらしょ」と体を持ち上げ立ち上がった。狭い部屋だから五歩で玄関まで辿り着く。

「青井心路さんですよね。ちょっと出られますか?」

 長身で、細身だが鍛えぬかれてる体だとわかる。短髪だがお洒落にセットされていかにも好色な印象を受ける風貌だった。

「どなたでしょう?」

 チェーンを掛けたままで尋ねる。端正な顔立ちだが眼光は鋭く安心感のある雰囲気ではない。

「神山一真と言います。恵子の婚約者です」

 心路はハッと息を呑んだ。不思議と合点がいく。志野先生の話から想像した姿と驚くほど符合していた。

「わかりました。着替えてきます。一旦閉めますね」

「はい」

 ドアを閉め、部屋に戻る。息を整えるのに時間が掛かった。

 志野先生の彼氏がなんの用だ。もう婚約したのか。いつの間に?

 そんなに正装する必要はない。セーターを着てジーパンを履きコートに袖を通すと再び玄関のドアを開けた。

「お待たせしました」

「ちょっとお話出来ますか? あすこの公園とかどうですか?」

「いいですよ」

 歩いて五分もかからないところにある公園。もう遅いので昼間は子供たちで賑わうその場所も今は静かだった。二人でベンチに腰掛けると「かーくん」は一言断りもせずに煙草に火をつけた。

「あいつから聞きましたか?」

「なんのことでしょう」

「そっか、その程度の仲なんですね」

「だからなんのことですか?」

「あいつ、妊娠しました」

 かーくんは表情一つ変えずに言った。心路はさほど驚かなかった。意外にも、素直に嬉しいと思ったから。

「そうですか。おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 心路にはかーくんの来訪の真意が掴めなかった。妊娠報告くらい、学校へ行けば志野本人の口から聞ける。

「恵子のやつ、いつも親身になって相談に乗ってくれるいい先生がいるって楽しそうに言ってたけど、女性だと思ってた。男だったんすね」

「はぁ」

 志野は自分をそんな風に見てたのかと、心路は嬉しく思ったが、同時にかーくんの懐疑的な口調も気になった。

「あ、あなたが思ってるような関係じゃないですよ」

「は? 誰がそんなこと聞きました?」

 言いたいのはそんなことじゃなくて、と言ってかーくんは目線を真っ直ぐに心路のほうへ移した。

「俺は恵子のことを信じてます。本気で愛してます。だからあいつの笑顔を曇らすやつはほっとけない。あなたのこともですよ。心路さん」

「はい」

 はっきり名指しされ心路は戸惑う。下の名前で呼ばれることなど、久しくなかったから。

「悩みが他の悩みに伝染するってこと、ありますよね? あいつが青井先生って人の力になりたいって真剣に言うから、俺も気になってここに来た。一応、安心さしておきます。俺はあんたの味方ですよ」

 本当に、ようやく安心出来た。心路はふっと笑ってしまう。

 環に泣きつかれてから、心路自身、少し気を落としていた。回りに心配されるほどだったかと心路は反省する。

「先生ってのも気苦労多そうな商売ですよね。なんかメンドーな子がいるそうじゃないっすか」

「特別面倒とは思ってませんが。どの子にもそれぞれの人生があります」

「無難なこと言わないでくれます? 俺、腹割った話がしたくて来たんですよ。一之瀬って子、今なんとか手を打たないとこれからもずっと変われませんよ」

 この男、意外と食えない。心路も彼の言葉と夜の冷えた空気に感化されて頭が冴えてきた。

「あなたの言う通り、僕も悩んでます。いつか誰かがなんとかしてくれるって。大人たちはそうやってあの子の孤独をほったらかしてきたんです。あの子はいつになっても誰も助けてくれないって、ずっと嘆いてるのに」

「そう、恵子はお人好しのバーローだから、元気ねぇ子には単純に心配する。でも、あんたはそれだけじゃないでしょ」

 ナイフで突き立てるように核心をついてくるかーくんの言葉に、心路は胸を痛める。そして考える。人ひとりの心も救えないくせに、世界を変える?−自分は無力だ、と。

「あんた、恵子のこと好きなんでしょ? あいつもそれくらい気づいてる。でも、あいつの何知ってる? 一之瀬って子のことも、どれくらい知ってる? 恵子の話聞いてて思いました。あんたは自分の頭の中だけで勝手に悟ったような顔して、苦労してきたぶんだけ自分は偉くなったって強引に言い聞かせて、自分の気持ちの平穏保ってるだけなんじゃないっすか」

 心路の頭に血が上る。なんで初めて会った人にそこまで言われなきゃならない。それでいて、なぜそこまで自分を見抜いてる。

「そんなこと……あなたには、健常者にはわかりませんよ。自分の思考が自分でわからないなんて。志野先生だって、あなたにいろいろ不安があるから僕に相談してきたんだ。あなただって自分のことしか考えてない!」

「人のこと言えねぇじゃん、ってのは実は反論になってないんですよ。自分自身の非も認めてる証拠です」

「だから健常者には−」

「そう言って逃げるんですか? あの子が求めてんのはそう言う頭で考えることじゃなくて、青井先生の心のことです!」

 いつの間にか二人とも立ち上がっていた。襟首でも掴みかからんばかりの剣幕で、二人ともにらみ合う。だが先に折れたのは心路のほうだった。

 文字通り膝から折れて、胸が震えるのと同じくらい、震える声で囁いた。

「ごめんなさい……ただ、精神病ってのは心の病気じゃなくて脳の病気で。そうやって合理的に割り切らないと気が狂ってしまいそうで。僕は弱い人間だから」

 踞って、顔を手で覆い、泣き出してしまう。恥ずかしいなんて気持ちはなんの痛痒も伴わないから、いつしか心路の感情から欠落していた。

 かーくんもしゃがみこみ、優しく微笑んで心路の涙を拭ってくれた。

「言ったでしょ。俺もあなたの味方です。力になれると思いますよ」

 心路は鼻をすすってこれ以上の涙をこらえた。

 シノちゃん、おめでとう。彼はいい男です。どうか、どうか幸せになってください。

「神山さん、志野先生のこと、よろしくお願いします」

「言われるまでもないです。でもね、一之瀬さんのことをよろしく頼むのはあなたのほうにですよ。恵子もそう思ってる」

「はい」

 駅まで送りましょうか、と申し出たが断られた。

 一人でも生きていける人はいるかもしれない。でも、そういう人ほど、みんなで生きれば人生はもっと楽しいということを知っている。

 心路は気付いた。そういう人の魂はとても強く美しいということ。


   4


−ねぇ、恋と夢ってよく似てるね。いっつも迷ったり悩んだり。たまに躓いたりするけど、自分で選んだ道なら絶対後悔なんてしない。だから上手くいかないことばっかでも楽しくてしょうがないの。ねぇ、青井君。私たちもうすぐ、卒業だね−


 三月、それぞれにお別れの時が近づいている。ほとんどの生徒が進路を確定し、残り少ない高校生活を名残惜しんでいる。

「おめでとう、月人君」

「真澄だって大健闘じゃん」

 小川月人は志望校に現役合格。立井真澄も第一志望ではないものの一流と呼べる大学に見事合格した。今は電話で久しぶりの駄弁りを楽しんでいる。

「卒業してからも友達でいようね」

「あくまでも友達、な」

「なにそれ、嫌味?」

「ハハッ」

 月人は卒業を前に環へ想いの丈を告白した。ずっと好きだったと。幼馴染みとしてではなく一人の女性として。

 いまだ緘黙に苦しむ環に、急に恋人同士として付き合ってくれとは言えない。それでも環は、月人の真剣な想いが嬉しかったようだ。

「環ちゃん、いつか普通の女の子として、月人君とデートとか出来るようになるといいね」

「そうだね」

 いつまでも会話は途切れない。月人は思う。自分は一切のしがらみを絶ちきって青春を駆け抜けた、と。


 やりたいことをやる権利は誰にも保証されている。しかしその権利は、やるべきことをきっちりやった人だけが主張出来るんだ。

 部活やバイトにのめり込み過ぎる生徒に対して、心路はよくそんなことを話す。

 今の自分のやるべきことは何か。若者たちはみな自分の未来のために精一杯青春時代を全うした。今度は自分が立ち向かう番だ。

 卒業式前日、心路は大きな決意と共に慣れ親しんだ教室のドアを開いた。

「青井先生」

 夕焼けは綺麗で、静まる教室に一人、心路を待ちわびていたのは環だった。

「あの、先にお礼言わせてください。卒業出来るの先生のおかげだから」

 環は無事に卒業を決めた。朝、一日の始まりをこの世の終わりのような気持ちで迎えても、命を削るような思いで学校へ通い続けた。どれほど苦しいことだったか心路にはわかる。

 三年前、ビクビクしたまま邦島高校へやってきた「人形ちゃん」はまだ怖がりのまま、でも少しだけ大人になって、今ここにいる。

一之瀬環の存在はいつの間にか、学園の愛と友情のシンボルとなっていた。

「おはよう、一之瀬さん」

「環ちゃん、ありがとう」

「一之瀬さん、手伝おうか?」

「バイバイ、環ちゃん」

 自分達より少しだけ気持ちの弱い少女から、学園の生徒たちは「支え合う」という人間にとって一番大切なことを学んでいる。

 この世界から病気や障害がなくなることはないだろう。それでも、力弱くともただ真っ直ぐに生きようとする者の回りには、いつも心清き者たちが集まり、綺麗な一つの 「()」を作る。

「お礼を言いたいのは、僕のほうだ」

「えっ」

青井心路。生まれた時から自分自身の精神とずっと向き合ってきた。人はみな自分の心からだけは逃げられないのだから。

「僕も君と同じ種類の傷を持ってる。三年前、君を初めて見て、思った。年齢も性別も違うけど、この子となら何かを変えていけるって」

心が弱い、言ってみれば心に強い盾を持っていないというだけの女性に「健気」なんて言葉を使うのはナルシストだ。自分より下に見ている証拠だ。

「自分も通ってきた道を君も通ってきて、これからも通って行くんだって決めつけた。だから君を苦しみや迷いから救えると思った。神仏気取りで上から目線で、全ては僕のエゴ。本当は君の力にはなれてなかった。ごめん」

「そんなことな−」

「でも、信じてほしい。君はきっと変われる。変わっちゃいけない大切なものを守るために変われる。僕らはきっと今よりずっと幸せになれる。そう思ってることは嘘じゃない」

「わかってます」

心路は人間を、綺麗な部分も醜い部分も全て含めて愛している。教師という仕事を目指したのも、そういう人間とリアルで常に向き合っていられるからだ。

でも現実は違った。人間は思っていたより普通で綺麗でも醜いでもなかった。ドラマのように泣いたり笑ったりは出来なかった。だからこそ、環の存在は特別だった。彼女は自分にいろんな気持ちを教えてくれた。

「君が泣きながら僕を好きだと言ってくれたこと。生まれて初めてなくらい、胸が震えて心臓が熱くなった。一生忘れない」

 涙がこぼれそうになる。自分は教師で、少女の一途な恋慕の情に答えることは出来ない。それでも何か、恩返しがしたい。

「君は僕らにたくさんの困難と試練をくれた。でも、それを乗り越える強さもくれた。そして最後に僕に感動をくれた。だからー」

だから、伝えたい。心からこの世界で一番綺麗な言葉を−

「ありがとう、君がいてくれてよかった」

窓の向こうでは夕陽が海に沈んでいこうとしている。広い海は暖かなお日様を優しく迎え入れている。心路はその時、人生で一番満たされた笑みを浮かべた。環も微笑んで小さく頷いた。少し話すことが苦手なだけ。でもきっと、想いは伝わるのだろうと、信じて。


   5


「うーす、何泣いてんだよー」

「うるせー、目にゴミが入ったんだよ」

「あたしも泣きそうー」

「もう卒業なんだねー」

卒業式を終えて教室はかつてないほど騒がしい。この後、みんなでお別れパーティーもある。長い一日は続く。

「お前、軽音の卒業ライブ行く?」

「行く行く。もう一騒ぎしようぜ」

体育祭、文化祭、イベントごとに邦島高校軽音部は後夜祭ライブを行う。荘厳な卒業式の後でもやるのかと大人たちは渋ったが、もう若さには勝てない。

それぞれの教室で最後のホームルーム。心路は優しさと真心の大切さを最後に説いた。毎年やっても慣れない。結局心路も泣いてしまった。

それも終わればみな卒業アルバムに寄せ書きしたり、写真を撮り合ったりして思い思いに過ごす。

「環ちゃんも一緒に撮ろうよ」

「えっ、あの、いいの?」

有無を言わさず女生徒たちは袖を引っ張る。まだ環は上手に笑えない。それでも嬉しかった。

「ツッキー、ほら環ちゃんとツーショット撮ってあげるよ」

「え、いや、いいよ」

「照れんなって。ほら、環ちゃんも」

「うん、月人君、撮ろ」

「環まで、何言ってんだよ」

二人はもじもじしながら被写体となる。それを見て心路も目を細めた。

「青井センセーも撮ろうよー」

「あー、あたしが先ー」

「俺もー」

「じゃあ、僕もー」

それは教師をやっていてよかったと思う一時だった。


時間はあっという間に過ぎて、五時に始まるライブに向けて体育館にはたくさんの卒業生が集まった。もちろん在校生も先輩たちの有終の美を見届けるために大勢集まっていた。

出演バンドは二組。一組目はお調子者ばかり寄ってたかったバンドで、おちゃらけたパフォーマンスで爆笑を誘う。彼らは卒業後、進学せずに就職する。こんだけ明るくて人を楽しませるのが大好きなら、世の中上手く渡っていけるだろう。

二組目、こちらがメイン。当然、部長がボーカルを務めると誰もが思っていた。

だが、部長はベースを持って登場した。続いてドラマーも登場。最後にギターを持って現れたのは、誠琴だった。

「あれ、水沢じゃん」

「えっ、怪我して退部したんじゃなかったの」

「部長と仲悪かったはずじゃ」

一組目の時点で大盛り上がりだった先頭集団から、少し離れたところで観ていた月人と環も驚いた。

「ようこそ。今日のライブは俺の大切なダチに捧げます」

 もう理屈はいらない。若者に人気のハードロックバンドの代表曲を立て続けにカバーするとそれだけで盛り上がり、細かいことを気にする者はいなかった。

 観客は生徒たちだけではない。もちろん心路も観ている。心路から提案したのだから。

 軽音部の人たちと仲直りして最後のライブをする。誠琴はつまらないプライドも独りよがりの信念も捨てて、部長に頭を下げた。不協和音を抱いたまま全てを出し切れなかった合唱部のために、出来ることは歌うことだった。

「みんな、卒業おめでとう。俺から最後の歌のプレゼントです。この曲は昔、俺とマブダチで二人で作った曲です。大切な人のために書いた詞が今の俺たちにもぴったりなんです。俺たちはずっと一緒だぜって歌。聞いてください」

誠琴がステージの上で汗を拭い、見つめる月人は涙を拭った。環へ贈る曲のタイトルは二人で最初っから決めていた。たった一文字のそのタイトルを誠琴はかすれ気味の声でささやいた。

「絆」

 拙い作曲技術にアコギとピアノだけで作ったあの頃より洗練されたアレンジ。綺麗なメロディーと歌詞。環の胸にもすうっと響いているだろう。

 話そう。もう一度、誠琴と正面から向き合い直そう。そうすればきっと俺たちはまた晴れ渡る空の下で笑い合える。

 月人は、そう思った。


「ご苦労様です。志野先生」

 本多は「奢りです」と言って志野に缶コーヒーを差し出した。

「ありがとうございます」

「大人だけの打ち上げには行かなくてよかったんですか?まぁ、お酒飲めなきゃつまんないでしょうけど」

「そんなことはないですけど。もうヘトヘトだし」

 人気者の志野は卒業記念の写真撮影に引っ張りだこ。結局百枚以上の写真に入った。

「でも意外だったな。青井先生が教師辞めるなんて」

「私もびっくりしました。あの人は先生が天職だと思ってたから」

 だが、本人はだいぶ前から考えていたそうだ。世界中を旅してみたいと。この世界を変えるためにまず自分自身がどれだけ変われるか、試してみたいと。

 子供の頃から人を避け続けていたから、逆に場面緘黙を克服してからは人と話すことが大好きになったらしい。もっとたくさんの人に会って、話して、笑い合って、一緒にご飯を食べて、同じ空を見上げてみたい。

「めったに不幸自慢はしない人でしたけどね。一度だけ辛い過去を話してくれました。あの人は青春時代に大切な人を一人亡くしています」

「そうなんですか」

 志野も予想はしてた。この人は過去に相当辛い経験をしていると。だからこんなに優しいんだと。

「その人の名前は幸花。幸せの花と書いてさちかと読むそうです。彼女は中学時代の青井少年の大きな精神的支えだったんですよ。卒業後も連絡は取り合っていい関係が続いていたようです。でもある時から一切の連絡が途切れて、全てを知ったのは彼女が自殺した後でした」

「自殺……どうして?」

 志野が眉をひそめた。

 仲元幸花は高校に入ってから酷いいじめを受けていた。彼女は気立ても器量もよくみんなから好かれる存在だったが、やはり羨望と悋気はいつも紙一重だ。不良グループに目をつけられ、気が強い彼女も多勢に無勢。ついに幸せの茎は折れ、幸せの花は散った。

「中学時代、ずっと自分を支え続けてくれた人の支えに、高校生になった自分はなれなかった。自責の念から青井青年は精神のバランスを崩します」

「……辛いですね」

 二秒ほどの間があって、本多はふるふると首を横にふった。

「そうじゃないんです。私が志野先生に伝えたいのは辛いことだけじゃない。もっと希望に満ちたことです」

「希望……」

「青井先生は幸花さんを失った悲しみに負けなかった。立ち上がったんですよ。何が彼を強くしたか。そこに生きるヒントがあります」

教師という人種はすぐに答えを提供することを嫌う。自分で考える大切さを知っているからだ。

「他に大切なものを見つけたから?」

「それもあるかもしれない。でもね、それ以上に彼を強くしたのは自信です」

「自信?」

「幸花さんはただの同情で青井少年に手を差し伸べたわけじゃない。青井心路という人間の魅力を、上手く表現出来ないだけの優しさと誠実さを、ちゃんと見抜いてた。青井先生が彼女に抱いていた感謝と敬愛の気持ち以上に、きっと幸花さんは青井先生を愛しく想っていたんですよ」

 志野の蒲公英の微笑みが咲いた。大切なことに気づいたように。

「なるほど。青井先生はそのことに気付いて、ううん、それだけじゃない。自分が回りから優しく接してもらえるのは、自分がちゃんと愛されるべき存在だからだってことにも、気付いたんですね」

「その通り。だから人は強くなれる。愛される喜びが自信に繋がった時、人は誰よりも強くなれるんですよ」

 人気者の志野に本多が伝えたかったこと。それはあなたは素晴らしい女性だということ。自信さえ持てれば更にあなたは輝く。人はもっとあなたを好きになる。そうやって全てはいい方向へ向かっていくのだということ。

 本多は自分の分にも買ってきた缶コーヒーをグイッと飲み干した。

「お腹の赤ちゃん、きっと志野先生に似て可愛い子ですよ。もう名前とか考えてるんですか?」

「まだちょっと。でも可愛い名前がいいなって思ってるんです。男の子でも女の子でも。可愛くて優しい名前が」

 志野はお母さんになる喜びを噛み締めて、愛でるようにお腹をさする。本多もにっこり笑った。この人も過去に辛い経験をしてるのかなと、そこから立ち直ったから今の本多守先生がいるのかなと、想像させる笑顔だった。

「それならぴったりの名前があるじゃないですか」

 本多がニタニタするので志野はんーと首を傾げる。それですぐに閃くと人差し指を立てた。

「こころちゃん!」

 春の訪れを告げる風が窓から心地よく流れた。

 志野は思った。四月になればまた、まだ見ぬ若者たちがたくさんの不安と期待を持って入学してくる。心からの笑顔で迎えよう。そしてまた心からの笑顔で巣立っていけるように、かけがえのない青春時代の、大きな大きな支えになろうと、そう思った。


 終章


 桜が咲いている。月人と環がその下を、互いにはにかみながら歩いている。

「卒業してもこうやって会えるのが嬉しいよ」

「うん」

 月人は大学に入学し、環は施設に入所して、新生活をまあまあ楽しく過ごしている。

一之瀬工は娘の環をモデルに、精神病を題材にした一作の青春小説を書き上げた。その小説は後に「心の音」というタイトルで刊行され、近年の一之瀬作品にはなかった優しい筆致とストーリーで、静かな人気を博すことになる。

「あのさ、夏になったら花火大会に行こう。環さえよかったら水族館とか動物園とかにも行こう。映画も見に行こう。クリスマスとか誕生日とか一緒に祝おう」

「うん」

 人生はまだまだこれから。楽しいことはたくさん待っていると、月人は環に言いたかった。

「あのさ、俺の名前、月人っていうじゃん。月の人ってどういう意味だろうって不思議じゃなかった?」

「うーん、言われてみれば……」

 月人は「つまんない話かもしれないけど」と前置きして講義を始める。

「月ってさ。自分では光ってないじゃん。太陽っていうデッカイ存在に照らされて初めて輝ける。人間も同じ、一人の力じゃあ輝けなくて。その代わり月が光ってるおかげで俺たちは夜の暗い道も安心して歩ける。昼間には目に見えなくても広い空の向こうでいつだって輝いてる。そういうことをいつも忘れないでいてほしかったんじゃないかって、青井先生が言ってた」

 環はクスッと笑った。そして青井先生を思い出しているのか、ぽーっとした顔で遠くを見つめる。

「お、俺さ。月みたいな人になるよ。環が夜の道で怖くても俺が明るく照らす。そしたらいつか環は俺にとっての太陽になってほしい」

 くさい。でも月人なりに一生懸命考えた口説き文句だった。

「ありがとう。私も月人君のこと好きだよ。青井先生のことは、勝手に憧れっていうか、水に映ってる月みたいな存在かな。青井先生と手繋いだり、その、キスしたりとか考えられないから」

「……俺とは?」

 月人がそっと手を差し出した。環は驚いて目を真ん丸にする。そして躊躇いながらもその手をそっと握った。みんながくれたたくさんの優しさと、ほんの小さな勇気と共に。

「うん」

 繋ぐ手のひらはやわらかくて暖かかった。そのぬくもりは時に言葉よりも強く、見えない何かを繋ぎ止めてくれる。大切なものをずっと、繋ぎ止めてくれる。


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