壁の中 (第二夜)
染浦の部屋を後にした俺は、里子の住む女子寮に向かう途中であっくんとナルミちゃんに出会った。二人は意味深な言葉を残して去って行ったが、俺は居るか居ないか分からないけれど取り敢えずは行ってみようと里子のアパートを訪ねた。
その日、里子はいなかった。
前に一度だけ来た事があるが、相変わらず扉の横にあるネームを差し込む場所には何も無く、当然名前も書いてない。何号室とか書いてある札も傾いたままで何もしていないところが里子らしい。
里子がどんな娘かと言えばごく普通の娘だった。確か放送学科だったような気もするが、あまり興味もなかったので覚えていない。友人の彼女だったので何度か一緒に飯を食ったり遊んだ事もあるが、本当に芸大生か?と思うほどに平凡な娘だったように覚えている。
芸大女子とは、普通とは全く違う感覚の持ち主である事が普通だ。俺も高校生の頃は自分は一般人とは少し違う感性の持ち主だと思っていたが、芸大に来てみるとその考えが全く的外れであった事を痛感させられた。天才とバカは紙一重だと言うがまさにその通りで、凄い才能のある奴ほど劇的に変人だった。
その中では俺などただの普通の人だ。
才能があると自惚れていた絵にしても、うーんと唸らせるようなモノを描ける奴はネジが一本どころか三本は確実に飛んでいた。とてもじゃないが、あの境地に達する為には今までの人生全てを捨てる覚悟がないと足元にも近寄れないと本能で悟った。
上手く描ける事と、魅せる絵が描ける事は全くのベツモノだ。努力すれば上手く描けるようにはなるが、光りはそこから生まれて来ない。アレは神様がくれたギフトであり、何者にも侵されない聖域そのモノなのだ。
そんな中にあって里子は平凡過ぎる程に平凡だった。ある意味染浦と似ており、全くもってお似合いのカップルだったと言える。その二人に、あのような事が起こるなど想像もしていなかった。アレはただただ不幸であり、どちらかが悪いというわけでもない。たまたまと偶然が重なり、その結果起きた災害のようなものだった。
次の日俺は、ゼミに染浦が来ているかを確認した。助手の佐藤さんに聞いてみたが午前中まではまだ姿を見ていないと言う。
「染浦見たか?」
俺は瀬戸と鹿島の二人に聞いてみた。
同じ第一ゼミだし、席も近いから来たのなら姿を見ている筈だと思ったのだ。しかし二人とも見ていないと言い、あいつは留年だなと諦めたような口調で言った。
「あの馬鹿野郎!今日は来るって言ったのに!」
迎えに行く事まではしたくなかった。
来ると言ったのだから、来ると信じたかった。しかし、結局染浦は姿を見せずゼミの時間は終了した。その日の帰り、前を歩くあっくんを見かけたので俺は近寄り声を掛けた。あの意味深な言葉の意味を知りたかったのだ。
「昨日のアレ、何だったんだよ?」
ナルミちゃんは一緒じゃなかった。
学科が違うから当然と言えば当然だ。ゼミはそれぞれに終わる時間も違い当然校舎も違う。敷地は広く学生も多く、学年が違えば四年間一度も出会う事すらない。確かナルミちゃんは写真学科だったはずだ。
「染谷くんの部屋には入ったの?」
「入ったけど?」
「何か見んかった?」
「何かって何を?別にいいモン置いてはなかったけど普通の部屋だったぞ?引っ越したのは知らんかったけど、前よりは広くなってたな」
「見てないならいいよ。里チンに聞いてみィ。
話してくれるかは分からんけどな?」
「また意味分からん事を!いい加減マジで教えろって!」
「なら一つだけ。壁の中だよ・・・」
「は?・・・壁の中に何かあるの?」
「これ以上は言えない。後は自分の目で確かめて!」
壁の中だけでは何が何だか分からない。それと里子が寄付かぬ事に何の関係があるのか?飯をおごるから教えろと言っても教えてくれない。それは、食いしん坊のコイツからは考えられない事だった。いつもなら『びっくりドンキー』に連れて行ってやると言えば大概の事は喋ってくれるのに・・・
仕方ないと諦め、再び里子のアパートへと向う。
間もなく午後六時になるが、七月の太陽はまだ沈む様子もなく空にあった。
「里子おるか?オレ、オレ」
部屋の中で動く者の気配があったので、俺は流しの窓から顔を覗き込むようにして声を掛けた。
「ああ、まこちん?何?」
「話しいい?」
「いいよ」
里子の部屋は普段使ってないので生活臭がない。段ボール箱が無造作に置かれ、奥にベッドがあるだけの女の子っぽさのカケラもない部屋だ。フリルの付いた真新しいカーテンだけが目立ち、どことなく違和感を感じた。
「昨日、染浦んとこに行って来たんだけどさあ〜」
ビクッとする里子。
ソワソワし出し、様子が変だった。
「戻る気ない?」
「部屋に入ったんだよね?」
「ああ、何で?」
「見んかった?」
「同じような事を、あっくんにも言われたなぁ」
「・・・・・」
「確かに電気ついとんのに暗いし、なんかヒンヤリして涼しかったけど、それと里子が帰らん理由と関係あるわけ?」
「う、うん。あると言えば、ある・・・かな?」
「もしかして、幽霊見た・・・とか?」
あっくんの口から意味深な言葉が出なければ、或いはそんな発想などしなかったと思う。しかし、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、そう思いたくなような印象を里子からも受けた。
真夏の昼間にクーラーも無しでヒンヤリと感じるあの部屋の空気。仮にソレが霊による怪奇現象なら、相当にヤバい状況なのではないだろうか?そう思うと急に寒気がして鳥肌が立って来た・・・
「男の人には何もせえへんよ。あれ、男、好きだもん」
俺の表情に怯えの色を感じたのか、里子はそう言うと染浦の部屋が今の状態になったいきさつを語り出した。
◇◇◇
引っ越してすぐは何もなかった。
里子も部屋によく寝泊まりしていた。
先々月の事だ。部屋の模様替えをしようと引越す前から壁にあったポスターを剥がすと、その裏の壁には補修したような跡があって、そこだけ色が変色して細かいひび割れが走っていた。
染浦がつつくと壁は簡単に剥がれ落ち、中の柱に一枚のお札が貼ってあるのが見えた。
里子が触るなと言うのに、染浦は気持ち悪いから剥がそうと言って札を取ってしまった。絵を描く時に使うモデリングペーストという盛り上げ材に若干砂を混ぜて壁を補修し、表面には色を吹き付けて見た目は普通の壁にした。染浦も美術学科だからその程度の作業は朝飯前だ。良くできましたと満足気に笑みを浮かべ一件は落着したように思えた。
しかし数日すると、部屋に異変が起きた。
里子には、染浦の背中にぴったりと張り付いた女の霊が見えたのだそうだ。その事を話そうとすると、霊は凄い形相で里子を睨んだ。そして口元が動き『呪い殺す!』と言われているように感じたのだそうだ。
「霊の事を言えば呪われる!!」
身の危険を感じた里子はその日の内に荷物を纏め、霊能力者が身内にいるとの噂がある風太郎の部屋に身を寄せた。それが真相だと言うが、確かめる為にあの部屋に行くほどの勇気は俺にはなかった。
不思議ちゃんは男には無害だと言ったが、彼女に逃げられ、その後も女性と付き合う度に別れさせられたら実質大問題だ。全くもって、たまったモンじゃない。
それでは一生独身確定ではないか!
結局、風太郎ではなく、彼の彼女の実家に霊症に詳しい人がいて、その人に『悪霊退散』のお札を書いてもらって事なきを得たという話であるが、その後、里子と染浦は元鞘には収まらなかった。
染浦が留年してから学校で会う機会も極端に減り、気付いた頃には疎遠な関係になっていた。まだ留年が決まってなかった秋頃の話であるが、学食で顔を合わした時に「たまには遊びに来いよ」と言われた事もあったが行かなかった。留年後は、染浦の方から去年まで同学年だった俺達を避けていたような気がする。
そのまま卒業し、染浦とも10年来会ってない。
在学中には染浦に新しい彼女が出来たという話は聞かなかったし、里子は里子で染浦の事など忘れてしまったかのように無関心だった。
こんな話がある・・・
後輩から聞いた話なので染浦かは分からないが、留年組の男がゼミの時間に倒れ、校舎の入り口まで運ばれた事件があった。芸大生は人が突然倒れた程度で声を上げたりはしない。ほっぺをツツキ、どうしたん?腹へってんの?みたいに何でも笑いのネタにする。
そんなん漫画や漫才の世界だろ!と思うかも知れないが、とりあえず笑いを取るのが大阪芸大では基本なのだ。大阪に行って見れば分かるが、電車の中でも女子高校生がドツキ漫才をしてるし、普段の会話でもボケたら必ずツッコミを入れないといけない。タイミングが遅いと、ボケたんやから早よツッコみぃや!とお決まりのポーズでツッコまれる。
彼を運んだ三名が言うには、痩せているのにやたらと重い奴で、その体重はおよそ二人分に近かったと言う。
「あ〜重った〜、なんやコイツ、普通ちゃうで!」
そう言った三人の男子学生は「落といたろ!」と言って留年男を床に落とし、「ぐえ!」と効果音を出して笑いをとった後、再び担いで一階まで救急車に乗せやすいようにと運んだそうだ。
関西人は乱暴だが優しい人が多い。
その一件以来、留年男にも友達が出来たらしいのだ。
染浦が今、どこで何をしているのかは分からない。しかし、もしずっと彼女も出来ず今も独りでいるのだとしたら、それはあの時の霊症のせいかも知れない。或いはまだ彼の背中には女の霊が張り付いているのかも・・・・
女性運が極端に悪い人は、一度、霊能力者に診て貰う事をお勧めする。霊は普通の人には見えないし、取り憑かれても『狐ツキ』でもない限り必ずしも肉体や精神に変調をきたすとは限らないのだから・・・・
ちなみに『狐ツキ』は実際にある。
俺の高校時代の友人の兄貴が『狐ツキ』だった。
本物の霊媒師に落とてして貰うと性格がころりと変わり、現在は親の名を継いで有名な陶芸家として名古屋で活躍中だ。その兄貴が中学生くらいの頃、そういった事があったのだと聞いた事がある。
だが、ふと思うのだ。
霊の話に戻るが、なぜあの部屋の壁の柱には御札が貼ってあったのか?元々あの部屋には霊がいて、御札が必要だけど見えるところに貼っておくと学生さんが借りてくれないからと大家がやったのだろうか?それにしては雑な補修で、ポスターがないとバレてしまうような雑な工事をするだろうか?
確かあの時、あっくんは壁の中だよと言った。
御札が剥がされた後の状態なのに、壁の中に原因があるよと言ったのだ。壁の中に・・・・
(壁の中・終わり)
次回『碧い手』