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Legend of kiss3 〜水の王子編〜  作者: 明智 倫礼
9/41

すれ違う想い

 眠りから覚めると、すぐ隣りから少し短い寝息が。ヒューは不思議に思い、首を左へ傾けると、安心した顔で眠るマリアがいた。


(目が覚めないんですね。これで……いいのかも知れない)


 ゆるしを得たかのように、 安堵のため息をついた。熟睡している妹を起こさないよう、そっとベッドから抜け出し、窓際へ近づいて、カーテンの隙間を見上げる。ヒューの頭上には、綺麗な青空が広がっていた。


(いい天気みたいです)


 まだまだ起きそうもないマリアへ、彼は振り返り、



 昨日は一日中、雨。

 今日は、天気がいいかも知れない。

 昨日のあなたの行動。

 それらから判断してーー今日は外へお供しなければいけないかも知れませんね。


 ゆっくりと妹のそばへ寄り、彼女の寝顔に手でそっと触れた。


(今日はあなたの方が、お寝坊さんですね)


 ふたりきりの静かな空間に、控えめに扉をノックする音が響いた。ヒューはマリアを起こさないように、そっとテーブルへ振り返る。


(六時五十七分四十五秒)


 扉を開け、訪ねてきた人を確認。


「おはようございます」


 ささやき声の召使いに、ヒューも同じように返し、


「おはようございます」


 部屋の中をうかがいながら、召使いは、


「朝食はいかがなさいますか?」


 あごに手を当て、ヒューは間を置く言葉を発する。


「そうですね……」


 マリアは私と一緒に食べたいと望むーーという可能性が非常に高い。


 妹の気持ちを考慮して、彼は召使いに、


「マリアの目が覚めるまで、こちらで待ちますよ」

「さようですか」


 軽く相づちを打ち、召使いは王子に提案。


「では、紅茶だけでもいかがでしょうか?」

(マリア様は、しばらくお目覚めにならないご様子でございますが……)


 瑠璃紺色の瞳を、ヒューは優しさで満たし、


「えぇ、お願いします」

(しばらく、マリアは起きないーーという可能性は非常に高いですからね)


「何になさいますか?」


 召使いに問われた王子は、小さな姫の寝息に耳を傾けつつ、


「フレーバーティーがいいですね」

(マリアも飲むーーという可能性がありますからね)


 召使いはメニューを提示。


「本日は、バニラと木苺きいちご、それからマンゴーなどを用意出来ますが、いかがなさいますか?」

「そうですね……」


 あごに手を当てたヒューの瞳が、かすかに揺れ、


(優しい……甘い香り)


 優雅に召使いを見つめ返し、王子は、


「バニラでお願いします」


 召使いは丁寧に頭を下げ、


「かしこまりました。すぐに用意いたします」

「お願いします」


 ヒューは妹を起こさないように、扉をそっと閉めた。



 用意された紅茶を飲みながら、ヒューは一人くつろぐ。テーブルの上の絵本がふと目に入り、妹の寝息に耳を傾けた。


(可愛い人ですね)


 しばらく、何も考えず紅茶を楽しんでいたヒューは、ふと視線を時計へ。


(八時三十一分三十一秒。おや、もうこんな時刻ですか。そろそろ、マリアを起こさないといけないみたいですね)


 ティーカップをソーサーの上に置き、すーすーと健やかな寝息を立てている、小さな人へ近づく。


「マリアさん?」


 ヒューが髪を優しくなでると、マリアは少し顔をしかめ、寝返りを打った。


「んー……んん」


 その仕草がいじらしくなり、ヒューは彼女の髪に指を絡ませ、


(困りましたね、マリア姫は)


 彼の細い指から、流れるようにマリアの髪が落ちて、


「お寝坊はいけませんよ」


 昨日の、妹の真似をヒューはした。


「……ん、ん」


 それでも起きない妹に、


「さぁ、目覚めてください。お姫さま」


 兄は悪戯っぽく言い、


(私の愛しの姫さま、起きていただけませんか?)


 マリアの小さなおでこに軽くキスをした。


「……ん……?」


 うっすらと目を開けた彼女を、一気に目覚めさせる言葉を、ヒューは優しく告げる。


「今日は天気がいいみたいですよ」


 それを聞いたマリアは、ぱっと目を開け、


「えっ、ほんとう!?」


 がばっと起き上がり、天気を確かめるため、窓へぴゅーっと走っていった。ヒューはゆっくりとあとを追いかける。


(元気ですね、あなたは)


 マリアはカーテンを両手で握りしめ、大はしゃぎ。


「わぁ、やったぁ!」


 かがみ込んで、ヒューは妹の乱れた髪を直す。


「目は覚めましたか?」

(私のキスよりも、天気なんですね。あなたを目覚めさせたのは)


 マリアは振り返り、飛び切りの笑顔で。


「あ、はいっ!」


 妹の頭を優しくなで、ヒューは少しだけ微笑んだ。


(昨日、あなたに元気がなかったのは、天気のせいだったみたいです)


 少し戸惑い気味に、マリアは兄を見上げて、


「あ、あの……」

「わかっていますよ。今日は外へ一緒に出かけましょうか?」


 自分の気持ちを察してくれた兄に、妹は顔をぱっとほころばせ、


「うん、ありがとう!」

「それでは着替えて、朝食を取りに行きましょうか?」


 すっと立ち上がったヒューは、右手を差し出し、その手をマリアは、ぎゅっとつかんだ。


「はいっ!」


 昨日と同じように、兄妹は仲良く手をつないで食堂へと向かった。



 外出の準備を整えた、ヒューとマリアは玄関へと歩いている。


「いってらっしゃいませ」


 王子と姫が通りすぎようとすると、両脇に待機している召使いと従者たちが深々と頭を下げる。そんな状況に、ヒューは戸惑いなど微塵も見せず、マリアの手を引き、玄関の扉を目前にして、


(港にギルド。どのような景色が、この先には広がっているのでしょう?)


 期待を胸に抱きつつ、ヒューは開かれた扉から外へ出た。

 眩しい夏の陽射しに、一瞬目がくらむ。同じ想いをマリアもしたらしく、ヒューの手をちょっときつく握った。それに応えるように、彼が優しく握り返すとーー


 光に慣れた目に、広大な街並みが映し出された。


(なんて、美しい景色なのでしょう)


 感嘆を覚えた、ヒューの視界には、城の門の先にぼんやりと、小さな建物がいくつも並んでいて、豊かな緑がところどころに生い茂り、その間を整えられた道が何本も走っていた。その奥に、キラキラと光を反射する青いものが広がる。


(あちらは、海……みたいです)


 照りつける太陽に、目を細め、


(海は南側に面しているみたいです。

 港。

 たくさんの建物が並ぶ、街並み。

 それらから判断して、貿易が盛んで商業が発展しているという可能性がーー)


 ヒューの思考を巡らすという癖は、幼い声に遮られた。


「おにいさま?」


 ずっと景色を見つめたまま、微動だにしない兄を心配した妹に、ヒューは視線を落とした。


「いい天気ですね」

(難しいことを考えるのは、止めた方がいいかも知れません。あなたと素敵な時間を過ごすために、外出するのですから)


 夏の匂いを思いっきり吸い込み、マリアは元気にうなずく。


「はい!」

「どうぞ、こちらへ」


 従者が指し示した方には、白塗りで豪華な装飾品のついた、綺麗な馬車が用意されていた。おとぎ話に出てくるような馬車を前にして、ヒューは少し微笑む。


(王子と姫ですね)


 小さなマリアの手を引き、妹を先に乗せる。


「さぁ、どうぞ」

「ありがとうございます」


 丁寧にお辞儀をし、マリアは可愛らしく微笑んだ。あとに続いて、ヒューが乗り込もうとすると、従者が、


「王子、本日はどちらに?」


 先に乗り込んでいる小さな姫を視界の端に映して、


(私は、マリアのお供ですからね)


 ヒューは従者の代わりに、姫にうかがいを立てた。


「マリアさん、どちらに行きたいですか?」

「おみせをみたいです」


 足をパタパタさせながら応えた妹から、ヒューは従者へ振り返り、


「だそうです」


 すっかり姫の従者と化している王子に、従者はにこやかな笑みで、


「かしこまりました」


 こうして、馬車は城下町を目指して、ゆっくりと走り出した。



 カタカタと揺れる馬車の中で、ヒューは潮風に髪を揺らしながら、


「何を見たいんですか?」

「リボンがみたいです」


 お出かけ用のポシェットを大事そうに持ちながら、マリアは応えた。ヒューは優しい眼差しで、


「そうですか。素敵なものが見つかるかも知れませんね」

「はいっ!」


 妹はそう言って、兄の服の裾をぎゅっとつかんだ。その力を感じ、ヒューはそっと目を伏せる。


(私を信用している手。私を必要としている手)


 後ろへと流れてゆく景色を、王子は黙ったまま眺めていた。



 しばらくすると、馬車は止まり、扉がノックされた。


「はい?」


 我に返ったヒューが返事をすると、馬車の扉は従者によって開かれた。さっきとは逆に、今度はヒューが先に石畳に足を降ろし、扉の横に立って、


「さぁ、マリアさん」


 兄は妹の小さな手を取った。


「はい!」


 マリアはその手を軸にして、ぴょ〜んと馬車から飛び降りた。しっかり地面に着地した妹の後ろで、ヒューは少しだけかがみ込み、意味あり気、


「マリアさんは、元気ですね」

(よろしかったんですか? 姫さま。その様な降り方をされて……)


「あっ……!」


 マリアは口をぱかっと開け、気まずそうな顔に変わった。クルクルと表情の変わる妹を見て、ヒューはくすくす笑う。


(本当は、ゆっくり降りなければいけなかったのではありませんか?

 飛び降りてしまいましたね。

 私と一緒に外出できたことで、とても嬉しい気持ちなのかも知れません。

 それに、昨日は雨も降っていましたからね)


 兄は笑うのを止め、マリアの頭を優しくなでて、


「構いませんよ、今日は」

(感情を素直に表現できるのが、あなたの特権なのですから)


「あぁ……はいっ!」


 右手を高く挙げ、マリアは元気にうなずいた。



 従者を従え、ヒューは色々なアクセサリーの置かれた棚の間を奥へと進む。お目当てのリボンを見つけたマリアは、兄の手を引っ張り、


「おにいさま、あっちです!」

「えぇ」


 妹の歩幅に合わせながら、ヒューはついて行った。リボンの置かれた台は、マリアの背よりも高い。そのため、ヒューは妹を背中から抱きかかえた。


「さぁ、マリアさん、どうぞ」

「はい」


 兄の腕の中で、マリアは一生懸命リボンを吟味し始めた。小さな姫を間近で感じたヒューは、軽く目を閉じる。


(あなたはこんなに軽いんですね)


 腕を大きく伸ばし、マリアは、


「みぎのおくがみたいです」


 移動することを命じられた、王子は素直に従う。


「はい、姫さま。仰せのままに」


 悪戯っぽく言い、右へ少しだけずれた。


「んー……?」


 小首を傾げ、しばらくそちらを見ていたが、マリアは不意にヒューへ振り返った。


「ピンクのと、ブルーのをとってください」

「かしこまりました」


 いったん妹を下へ降ろし、ヒューは言われた通りのものをつかんだ。少しかがみ、マリアの目の前へ差し出す。


「こちらでよろしいですか?」

「はい」


 ふたつのリボンを、右と左にそれぞれひとつずつ乗せて、マリアは見比べる。


「んー……?」


 ヒューは黙ったまま、優しく見守っていた。


「…………」

(どちらにするんですか? 姫さま)


 しばらく彼女は迷っていたが、なかなか決められず、ヒューは心の中で、優雅に降参のポーズを取った。


(困りましたね)


 マリアはすっと顔を上げ、


「おにいさま、どっちがいいですか?」

「そうですね……」


 間を置くための言葉を言い、ヒューはあごに手を当てた。


 マリアの髪は瑠璃色。

 あなたの好きな色はーー


 手を解き、優しくアドバイスする。


「ピンクの方が似合うかも知れませんよ」

「それでは、こっちにします」


 素直に従った妹に、ヒューは優雅に微笑む。


「お似合いですよ、マリア姫」


 子供らしい笑みで、マリアは、


「ありがとう」


 ブルーのリボンを元へ戻し、ヒューは流れるような動作で、従者にマリアが選んだものを渡した。


「それでは、こちらをお願いします」

「かしこまりました」


 王族ふたりの代わりに、従者が代金を払いに行った。



 大好きな兄と一緒にショッピングを楽しんでいるマリアは、朝からずっとはしゃぎっぱなし。

 少し前をスキップしている妹に、ヒューは問いかける。


「マリアさん、お腹は空きませんか?」


 ぴたっと立ち止まり、小さな姫はお腹に手を当て、


「んー……?」


 兄へ振り返って、元気に、


「はい、すきました!」

「何を食べたいですか?」


 希望を聞かれたマリアは、小首を傾げ、


「えっと……?」


 一生懸命考え出した妹に、ヒューは目を細めた。


(素直に意見が言えることは、とても素敵なことです)


 答えを出したマリアは、元気に、


「おさかながたべたいです!」

「そうですか」


 ヒューが相づちを打つと、従者の案内でレストランへと街を歩き出した。



 仲良く並んで座っている、ヒューとマリアの前に、サーモンのムニエルが運ばれてきた。

 おいしそうな香りをかぎ、マリアはさっそく習ったばかりのテーブルマナーで挑もうとする。が、大人用のナイフとフォークを小さな手でにぎり、ひじを高く上げて、何とも切りづらそうにしていた。それを見つけたヒューは、妹に近づき、


「マリアさん、私が切ってあげますよ」

「あぁ……はいっ!」


 マリアの手からフォークとナイフを取り、ヒューは彼女の皿を自分の前へ移した。食べやすい大きさに切り始めた兄に、


「ありがとうございます」


 マリアは足をパタパタさせながら、お礼を言った。全て切り終え、ヒューは再び皿を戻し、


「さぁ、どうぞ」

(召し上がってください、姫さま)


「いただきますっ!」


 マリアは言って、さっそくフォークだけを使って、食べ始めた。モグモグ食べている妹を見守りながら、ヒューも料理を口へと運ぶ。が、またいつもの癖が出て、冷静な瞳で店の様子を観察し始めた。


(十二時十八分三十五秒。

 お昼時。

 空いている席がないほどの混雑。

 ここで、みなさんーー)


 嬉しそうに足をパタパタさせているマリアを感じ、ヒューは考えるの止めた。


(久しぶりですね、こんなににぎやかなところは。とても、素敵な時間です)


 彼の心は幸せな気持ちで満たされた。



 昼食を終えて店を出たふたりは、再び街を散策しようとして、


「次はどうしますか?」


 ヒューにご要望を聞かれたマリアは、何の迷いもなく、


「うみがみたいですっ!」


 その言葉に、ヒューは一瞬戸惑った。


「そう……ですか……」


 吹きつけてくる風に、気を配る。

 

 昨日は、東の方で嵐があった。

 一日中、雨が降り続き、強い風が吹いていた。

 海はしけているーーという可能性が非常に高い。


 妹を視界の端に映し、ヒューは冷静な思考をさらに展開する。


 あちらの可能性がある以上……あなたの要求には応えられない。


 黙り込んでいる兄を、マリアは心配そうな面持ちで見つめていた。


「あ、あの……」


 妹の顔を見ると、ヒューの決断は揺らいでしまい、彼はマリアの要求を叶えるための方法を模索し始めた。


 従者がついている。

 私一人ではない。

 今日は、マリアの願いを聞く。


 彼はそこで、自分自身の思考回路にあきれ、心の中で優雅に降参のポーズを取った。


(いけませんね、考えないことにしていましたね。あなたの望みを叶えて差し上げましょう)


 すっとかがんで、妹と同じ目線になり、ヒューは優しく微笑み返した。


「構いませんよ」

「はいっ!」


 マリアはぱっと表情を明るくさせた。



 街をさらに、馬車で南下。

 ふたりが降り立った場所は、街中よりもさらににぎわっていた。たくさんの船から、荷物が次々に下ろされ、それと入れ替わりに新しい荷物が積み込まれる。ここにいるのは、この国の人だけではないようで、頭にターバンを巻いた人たちや近未来的な服装をした大人たちが大勢いた。


 忙しそうに働く船乗りたちでごった返す、港を見渡し、ヒューは妹に一言。


「マリアさん、はぐれないように注意してください」

「は、はい」


 たくさんの大人が行き交う中で、小さなマリアは埋もれそうになりながら、困惑気味にうなずいた。

 ヒューたちは従者と一緒に海へと歩いていく。人込みをかき分け、かき分けーーそしてそこには、だいぶしけている海が現れた。昨日の嵐の影響で、海風は獣のうめき声のように、ビュービューと吹き荒れ、防波堤に叩きつける波は真白なうねりを上げ続けていた。


 小さなマリアはそれを気にすることなく、嬉しそうに海を眺めている。


「きれいです」

「そうですね」


 風で乱れた髪を、ヒューは左手で掻き上げた。大人たちの心配をよそに、マリアは防波堤の端に寄ろうとして、


「危ないですよ」


 ヒューにしっかりと手を引かれ、マリアは残念そうな顔をする。


「……はい」


 妹の心中を察して、ヒューは優しく問いかける。


「何か気になることがあるんですか?」


 あなたが気にしていることはあちらであるーーという可能性が高い。


「はい」


 マリアは目をキラキラ輝かせ、ヒューは意味あり気に、


「人魚ですか?」

(昨夜、あなたが私に持ってきた絵本のタイトルは、『The Littel Mermaid』だった)


「はいっ!」


 マリアは元気に手を挙げた。


【…………】


 ヒューはなぜかそこで、夕暮れの自室で、プレゼントを拾う亮をふと思い出した。


(あなたと彼女は、どことなく似ています……ね)


 右手に違和感を抱いた王子に、誰かの叫び声が突如響く!


「ヒュー様っ!」


 我に返ると、さっきまで隣りにいたマリアがどこにもいなかった。


(いない……!)


 ヒューはすぐさま海へ視線を向け、荒れ狂う波間で必死にもがいているマリアを見つけた。


「マリアっ!」


 彼にしては珍しく、大きな声で叫んだ。そして、背中にトンと何かを感じる。


(押された……?)


 その勢いに乗って、ヒューはそのまま海の中へ落ちた。身にまとっている、深い青の貴族服が水をどんどん含んでいき、泳ぐことは当然ながら困難だった。その上、嵐のあとの荒れた海。溺れそうになりながら、ヒューの冷静な頭脳が稼働し、今、自分がすべきことを瞬時に弾き出す。 


 自分と同じ瑠璃色の髪をした、小さな人。

 荒れ狂う波間に浮かんでは沈んでを繰り返す、妹。

 自分よりもはるかに短い時間ときしか生きていない、マリア。


 その人を視界の端に捉え、


(助けなければいけない。どうしても……助けなければ)


 近づこうとするが、波の力が強くて、ヒューは近づくことが出来ない。


(いけない。あなたは生きていなければいけない)


 昨日見た、ピアノを弾く、マリアの小さな手が。ティーカップを持つ、彼女の小さな手が。ヒューの脳裏に強く焼き付く。


(あなただけでも……助けなくては)


 激しい流れに逆らいながら、策略家の心にひとつの祈りに似た、強い願いが浮かび上がった。


(私はどうなってもいい、その小さな手を守ることが出来るのならば)


 いつも冷静なヒューにしては珍しく、半ば意地でマリアへと近づいた。彼女の服をつかみ、必死で引き寄せる。マリアは水を飲んだらしく、ぐったりとしていた。しっかりと抱きかかえ、ヒューはおかへ振り返った。


「誰か助けてくださいっ!」


 叫んだ時、彼は突きつけられた事実に、自分の目を疑った。


(おかしい。従者が一人もいない。なぜ? 誰もいない。なぜ?)


 焦りと疑惑の渦に飲み込まれそうになりながら、それでも、妹を助けようと、ヒューの必死の叫びは続く。


「助けてくださいっ! 誰か、助けて! 助けて!!」


 何かにゆるしを乞うように、何度も何度も繰り返す。その想いが通じたのか、少し離れたところで作業をしていた船乗りが一人、海へ飛び込んだ。


 屈強な男に、ヒューはマリアを託し、彼女が陸へ引き揚げられたのを見届けると、彼の力は急にえた。


(これでよかったんです。すべてこれで……)


 視界が急転し、真っ青な空が目の前に広がった。


(たとえ、夢でもこれでよかった……)


 生きることを放棄したようなヒューに、容赦なく大波が襲いかかる。視界は一瞬にして、にじみ。全ての音はにごり、体中で水の流れを感じた。運命に逆らうことなく、光る海面を静かに見つめる。


(これが、私の本当に望んでいることなのかも知れない……)


 死のふちに落ちてゆくように、ヒューはすうっと海の底へ沈み始めた。体の内側に流れてくる塩水に命をからめとられながら、憂い色の瞳を持つ、策略家はあの夢に浸る。


 絶望

 後悔

 悲しみ

 孤独

 切なさ

 罪

 運命

 この気持ちを表現できるのは、どの言葉なのでしょう?

 何を信じて、この先、生きていけばいいのでしょう?

 なぜ、私一人がーー


 そこで、ヒューの意識はプツリと途切れた。



 ーーその頃、海の底では。

 リエラがウッキウキで陸への旅路を楽しんでいた。


「コランダムは、どんなところですか?」


 姫からの質問に、従者はにっこり微笑む。 


「とても活気のある国ですよ」

「そうなんですか」


 リエラは相づちを打ち、光る海を見上げた。


(ふふ〜ん♪ 夢なのに、ちゃんとしてるんだね)


 落ち着きなく泳ぎながら、この世界へ来てからのことを思い浮かべる。


(昨日、自分の十七歳の誕生日だったんだよね。

 でも、嵐があったから、陸に行っちゃいけないって言われて、

 今日になったんだよね。

 生誕祭のあとは、一日中、お城の中で過ごして、ちょっと退屈だったなぁ)


 目をキラキラ輝かせながら、さらに考えを巡らす。


(今日は天気がいいから、王様とお妃様に陸に行ってきなさいって言われて。

 すごく嬉しかったんだけど、一人で行こうとしたら止められたんだよね)

 また姫さまらしからぬ行動をとろうとしていたようだ。リエラは首を傾げ、

(姫さまって大変なんだね、一人じゃ出かけられないんだ)


 自分をがっちりガードしている従者たちを見渡した。


(大丈夫だと思うんだけどな、一人でも。

 準備とか色々あって、結局、出かけられたのはお昼過ぎ。

 夢なのにちゃんと時間がかかるんだね)


 そこで、リエラの視界に降り注いでいた光がちらついた。


(あれ?)


 違和感を感じ、彼女は見上げたが、相変わらず、太陽の光が差し込んでいて、キラキラと幻想的な雰囲気をかもし出していた。リエラは笑顔になり、


(すごいね。海の中から見ると、こんなに綺麗に見えるんだ)


 また、視界が暗くなり、リエラは泳ぐことをぴたっと止めた。


(ん? おかしいよ。何だろう?)


 急に止まった姫に、従者は不思議そうな顔を向ける。


「リエラ様、どうかされましたか?」

(姫さまがじっとされているのは、ずいぶん珍しいですね。槍でも降りますか?)


 質問に答えず、リエラは海面を凝視し続けて、


(変だ……)


【水に属する者】


 魂の奥底で、彼女は何かを感じ、しっかりとした瞳に変わった。


(誰かが呼んでる気がする)


 姫の視界の先を、従者が見上げ、


「何かございましたか?」

「あーー」


 リエラは答えようとすると、自分の内側から警報が鳴るように、強い衝動を覚えた。


(失ってはいけない、何かがある気がする。このまま、ここにいてはいけない。探しに行かなくてはいけない)


 光を遮るものをよく見極めないうちに、リエラはそちらへ向かってビューっと泳ぎ出した。

 姫の護衛を任されている従者は、慌ててあとを追う。


「リエラ様っ!」



 海面へ近づけば近づくほど、リエラの体の自由は奪われていった。


「……っ!」

(体がうまく動かせない。

 早く行かないといけないのに……。

 もしかして、嵐があったせいなのかな?

 でも、行かないといけない。

 自分にしか出来ないことのような気がするから)


 強い使命感に駆られ、リエラは必死で海面を目指す。ふと彼女の視界の光が、何かによって遮られた。


「ん……?」


 目を凝らし、確認すると、人が上から落ちてくるところだった。


「誰かいるっ!?」


 水中で、リエラはぴゅーっと飛び上がった。首を傾げ、必死に頭を回転させる。


(えっと……人魚? でも、尾ひれはないよ。……ってことは、人だ。上から落ちてきてるんだから……!!)


 ことの重大さに気づき、リエラは再び飛び上がった!


「えぇっ!!」

(お、溺れてるんだっ! た、大変だ。は、早く助けないと)


 全速力で、その人のところまで泳ぎ出した。その頃になると、従者もやっと、姫のおかしな言動の理由に気づいた。


「大変でございます!」


 リエラは何とかその人に近づき、


(男の人だ。ヨーロッパの貴族みたいだね)


 顔を寄せて、大きな声で呼びかける。


「大丈夫ですか?」


 姫の言動に、従者はため息をつき、


「…………」

(姫さま、水の中で話しかけても、人は話すことが困難です)


 心の中で、しっかりと突っ込んだ従者は、


「リエラ様、急いで陸へ」


「あ、はい」

(と、とにかく海から外に出ないと……)


 従者とふたりで、リエラは溺れている人を運び出した。激しい流れに抵抗しながら、リエラは従者と一緒に必死に泳いでいく。気を失っている人をチラチラとうかがいつつ、


(もう少しですから。どうか生きていてください。大丈夫ですから)


 手遅れないならないことを祈りながら、何とか海上へ出た。がしかし、ずいぶん流されてしまったのか、陸ははるか遠くだった。従者は的確に判断し、左方向を指さして、


「リエラ様、こちらの方が流れに逆らわず、陸へたどり着けます」

「わかりました」


 リエラと従者は溺れた人に細心の注意を払いながら、陸へ向かって泳ぎ出した。



 何とか、岩場にたどり着き、その人を海から引き上げた。


「大丈夫ですか?」


 リエラが何度も呼びかけるが、


「…………」

 その人は返事をするどころか、身動きひとつしなかった。男の人をじっと見つめ、リエラは、


(水飲んでるんだ。人工呼吸しないと)


 リエラーー亮の母親は医学博士、その方法は知っていただが、彼女はあることに、かなり躊躇ちゅうちょした。


(えっと……男の人だよね?)


 びしょ濡れで、髪が乱れている人を見つめたまま、リエラは首を傾げる。


(どこかで……見たことあるような気がするなぁ。んー、どこで?)


 死ぬかも知れないという状況下で、のんきに考え出した姫に、従者が素早く注意。


「姫さま、早くしないと大変なことになります!」

(そちらの服装からして、おそらくコランダムの方でしょう。それに、一般市民ではありません。その方はおそらく……あの方でございます)


 従者はそれが誰だか気づいた。リエラははっと我に返り、


「あっ!」

(そ、そうだった。人が溺れたんだった。いくら夢の中でも、誰かが死ぬのはよくないよね)


 その人へ視線を戻し、セレニティス姫はまた迷い始める。


(で、でも……キ、キスするってことだよね?)


 Legend of kiss始まって以来の急展開に、さすがの恋愛鈍感少女も顔がほてり始めた。


(ゆ、夢なのに、ドキドキしてきたよ。

 な、何だか変な夢だね。

 それに……このドキドキ感って、どっかで感じたことがあるような……?

 ないような……? ん〜……?)


 学校でのある風景が浮かびそうになったリエラに、従者が再び、


「姫さま、迷ってる場合ではございません!」

(これはもしかすると、もしかするかも知れません)


 淡い期待を抱いている従者の言葉に、リエラは落ち着きを取り戻した。


「……あぁ、はい」

(そ、そうだよね。迷ってる場合じゃないよ、助けないと。よしっ!)


 バンジージャンプをする人のように、覚悟を決めたリエラは、その人の唇に近づいた。その瞬間、胸の奥にどうしようもないほどの切なさが広がり、触れる寸前、ふと動きを止めた。意識のない瑠璃色の髪の人の香りを、すっと吸い込む。


(すごく切なくて、苦しい。どうして、こんな気持ちになるんだろう?)


 従者が再三の警告。


「リエラ様!」


「は、はい」

(助かりますように)


 祈りを込めて、リエラはその人の唇にそっと触れた。


【永遠に成就せぬ愛 解放し 月と水 巡り会う】


 身に覚えのない、何かの記憶が走馬灯のように、リエラの脳裏を駆け巡り、続いて、夢で聞いた、優しくりんとした声が、自分の内側から響いてきた。


『なんてことでしょう。……とは、私は許せません。…………。自ら、この呪いを解く意志があるのなら、その機会と方法を与えましょう。今から五千年後に……うでしょう。彼の者ともう一度、真実の愛を育み、十八の誕生日までに……。この者を救えるのは、あなたしかいません。そして……』


 付け加えられた内容を、しっかりと胸に刻み、リエラは人工呼吸をし続ける。


(この人を救えるのは、自分しかいない。大丈夫だ。きっと、この人は大丈夫。助かる)


 しばらくすると、その人は飲み込んでいた水を吐き出した。


「っ……ごほっ、ごほっ!」


 リエラはほっと胸をなで下ろし、優しい口調で、


「よかったです」


 側に控えていた従者もほっとし、


「間に合ってよかったですね」

「はい」


 ふたりの会話を聞いた、瑠璃色の髪の人は、うっすらと目を開けた。


「……ごほっ、ごほっ…!」


 リエラはその瞳をのぞき込み、


「無事でよかったです」


 彼女の声を聞いた、ぐったりと横たわるその人に、ある感情が広がってゆく。


「…………」

(懐かしい……声です。ずっと、聞きたかった声)


 もうろうとする意識の中で、様々な記憶が浮かんでは消えてゆく。


 声……。

 大切な人。

 なくしたくないもの。

 大切なもの。

 私の願い。

 私の使命。

 遠い約束。

 ずっと続いていた何か……。

 たくさんの人々の願い。

 失って……戻らないもの。

 たどり着けない……。


 目を閉じたまま、ぜいぜいと息をしながら、遠い日に聞いた言葉が頭を駆け巡る。

 

 あなたは……過ぎて……ものを……しまう人。

 もっと……した方がいい。


 苦しそうに息をする人を前にして、リエラは珍しく難しい顔をしていた。


(何とか、意識は戻ったけど……。

 このまま、ここに置いていくのは出来ないから、運ばないと。

 えっと……どっちに行ったらーー)


 顔を上げて、リエラが辺りを確認しようとすると、従者が急に警戒し始めた。


「リエラ様、人が来ます!」


 かなり緊迫した様子。それはなぜか、ここはカーバンクルの海岸なのだ。


「え……?」

(じゃあ、その人に聞こう。そうしたら、すぐに運べるよ)


 リエラは立ち上がろうとして、バランスを崩した。いつもと違う、自分の足元を見つめ、


(あ、そうだった。人魚だから、歩けないんだね。えっと……髪飾りは……)


 のんきに探し始めた姫に、従者は少し強い口調で、


「海へ戻ってください!」


 カーバンクルの元老院とセレニティスは今、微妙な情勢。もし、元老院の誰かだとしたら、大問題に発展する。だが、そんなことを知らない、リエラはびっくりして、手に持っていた髪飾りを落とした。


「えぇっっ!?」

(海には連れていけないよ。この人、また溺れちゃうよ)


 微妙に話がずれている姫の腕を、従者は引っ張り、


「残念ですが、この方はここへ」


 しっかりした瞳に瞬時に変わったリエラは、王族という威厳を持って、猛抗議。


「それは出来ません! 怪我人を残していくのは、おかしいです。ちゃんと回復するまで、側にいないといけません!」


 従者はゆっくりと首を横に振り、姫を諭すように、


「残念ながら、リエラ様は普通の方ではなく、セレニティスの姫なのです。人命救助を最優先に考えるのは、普通なら間違いではありません。しかし、今ここでこの方を助けることで、国交問題に発展すれば、一人ではなく、たくさんの人が悲しみ、傷つき、国ひとつが滅ぶこともあるのです」


 急に大きな話になったので、リエラは呆然とした。


「え……」

(国交問題……。たくさんの人が悲しんで、傷つく。国が滅ぶ?)


 セレニティス姫は、苦しそうに息をし続ける、瑠璃色の髪の人をじっと見つめ、


(助けたいのに……助けられない。姫だから……。どうして……?)


 リエラの腕を引っ張り、従者はもう一度言う。


「姫さま、行きましょう」


 リエラの胸に切なさが広がり、涙がこぼれそうになった。


「でも……」

(何だか、あの夢に似てる。この人の声が聞きたい)


 そんなことをしていると、他の従者たちが海から上がってきた。


「リエラ様、人が来ます。急いで、海へお戻りください!」

「出来ません!」


 つかまれていた腕を、リエラは振りほどき、従者は再び、それをつかんだ。


「いけません!」


 それでも、リエラは残ろうとして、


「で、でも……」

(何か伝えなくちゃいけない気がする)


「失礼いたします」


 ふたりの従者が姫の両腕を左右からつかみ、無理やり海へ引きずり出した。従者の一人が、砂浜に落ちている光るものを見つめて、


(必ず、もう一度、お会いすることは出来ます。今は離れても、いつかは)


 切なさと懐かしさを胸に抱いたまま、リエラは倒れている人を視界の端に映し、


『この者を救えるのは、あなたしかいません』


(自分はあの人を救えたのかな?

 あの人は誰なんだろう?

 ……誰かに似てる。

 どこかで会ったことがある)


 心の奥底から、熱い気持ちがあふれ出してくる。


(……会いたい。

 ……また、会いたい。

 また、会えますか?)


 その言葉で、リエラの胸は埋め尽くされた。後ろ髪を引かれたまま、海の中へ入り、


(もう一度、会いたい……)


 切ない気持ちを抱いたまま、セレニティス城へ戻ったリエラは、そのままぼんやり城で過ごし、瑠璃色の髪の人に想いを馳せながら、ひとり眠りについた。

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