すれ違う想い
眠りから覚めると、すぐ隣りから少し短い寝息が。ヒューは不思議に思い、首を左へ傾けると、安心した顔で眠るマリアがいた。
(目が覚めないんですね。これで……いいのかも知れない)
赦しを得たかのように、 安堵のため息をついた。熟睡している妹を起こさないよう、そっとベッドから抜け出し、窓際へ近づいて、カーテンの隙間を見上げる。ヒューの頭上には、綺麗な青空が広がっていた。
(いい天気みたいです)
まだまだ起きそうもないマリアへ、彼は振り返り、
昨日は一日中、雨。
今日は、天気がいいかも知れない。
昨日のあなたの行動。
それらから判断してーー今日は外へお供しなければいけないかも知れませんね。
ゆっくりと妹のそばへ寄り、彼女の寝顔に手でそっと触れた。
(今日はあなたの方が、お寝坊さんですね)
ふたりきりの静かな空間に、控えめに扉をノックする音が響いた。ヒューはマリアを起こさないように、そっとテーブルへ振り返る。
(六時五十七分四十五秒)
扉を開け、訪ねてきた人を確認。
「おはようございます」
ささやき声の召使いに、ヒューも同じように返し、
「おはようございます」
部屋の中をうかがいながら、召使いは、
「朝食はいかがなさいますか?」
あごに手を当て、ヒューは間を置く言葉を発する。
「そうですね……」
マリアは私と一緒に食べたいと望むーーという可能性が非常に高い。
妹の気持ちを考慮して、彼は召使いに、
「マリアの目が覚めるまで、こちらで待ちますよ」
「さようですか」
軽く相づちを打ち、召使いは王子に提案。
「では、紅茶だけでもいかがでしょうか?」
(マリア様は、しばらくお目覚めにならないご様子でございますが……)
瑠璃紺色の瞳を、ヒューは優しさで満たし、
「えぇ、お願いします」
(しばらく、マリアは起きないーーという可能性は非常に高いですからね)
「何になさいますか?」
召使いに問われた王子は、小さな姫の寝息に耳を傾けつつ、
「フレーバーティーがいいですね」
(マリアも飲むーーという可能性がありますからね)
召使いはメニューを提示。
「本日は、バニラと木苺、それからマンゴーなどを用意出来ますが、いかがなさいますか?」
「そうですね……」
あごに手を当てたヒューの瞳が、かすかに揺れ、
(優しい……甘い香り)
優雅に召使いを見つめ返し、王子は、
「バニラでお願いします」
召使いは丁寧に頭を下げ、
「かしこまりました。すぐに用意いたします」
「お願いします」
ヒューは妹を起こさないように、扉をそっと閉めた。
用意された紅茶を飲みながら、ヒューは一人くつろぐ。テーブルの上の絵本がふと目に入り、妹の寝息に耳を傾けた。
(可愛い人ですね)
しばらく、何も考えず紅茶を楽しんでいたヒューは、ふと視線を時計へ。
(八時三十一分三十一秒。おや、もうこんな時刻ですか。そろそろ、マリアを起こさないといけないみたいですね)
ティーカップをソーサーの上に置き、すーすーと健やかな寝息を立てている、小さな人へ近づく。
「マリアさん?」
ヒューが髪を優しくなでると、マリアは少し顔をしかめ、寝返りを打った。
「んー……んん」
その仕草がいじらしくなり、ヒューは彼女の髪に指を絡ませ、
(困りましたね、マリア姫は)
彼の細い指から、流れるようにマリアの髪が落ちて、
「お寝坊はいけませんよ」
昨日の、妹の真似をヒューはした。
「……ん、ん」
それでも起きない妹に、
「さぁ、目覚めてください。お姫さま」
兄は悪戯っぽく言い、
(私の愛しの姫さま、起きていただけませんか?)
マリアの小さなおでこに軽くキスをした。
「……ん……?」
うっすらと目を開けた彼女を、一気に目覚めさせる言葉を、ヒューは優しく告げる。
「今日は天気がいいみたいですよ」
それを聞いたマリアは、ぱっと目を開け、
「えっ、ほんとう!?」
がばっと起き上がり、天気を確かめるため、窓へぴゅーっと走っていった。ヒューはゆっくりとあとを追いかける。
(元気ですね、あなたは)
マリアはカーテンを両手で握りしめ、大はしゃぎ。
「わぁ、やったぁ!」
かがみ込んで、ヒューは妹の乱れた髪を直す。
「目は覚めましたか?」
(私のキスよりも、天気なんですね。あなたを目覚めさせたのは)
マリアは振り返り、飛び切りの笑顔で。
「あ、はいっ!」
妹の頭を優しくなで、ヒューは少しだけ微笑んだ。
(昨日、あなたに元気がなかったのは、天気のせいだったみたいです)
少し戸惑い気味に、マリアは兄を見上げて、
「あ、あの……」
「わかっていますよ。今日は外へ一緒に出かけましょうか?」
自分の気持ちを察してくれた兄に、妹は顔をぱっとほころばせ、
「うん、ありがとう!」
「それでは着替えて、朝食を取りに行きましょうか?」
すっと立ち上がったヒューは、右手を差し出し、その手をマリアは、ぎゅっとつかんだ。
「はいっ!」
昨日と同じように、兄妹は仲良く手をつないで食堂へと向かった。
外出の準備を整えた、ヒューとマリアは玄関へと歩いている。
「いってらっしゃいませ」
王子と姫が通りすぎようとすると、両脇に待機している召使いと従者たちが深々と頭を下げる。そんな状況に、ヒューは戸惑いなど微塵も見せず、マリアの手を引き、玄関の扉を目前にして、
(港にギルド。どのような景色が、この先には広がっているのでしょう?)
期待を胸に抱きつつ、ヒューは開かれた扉から外へ出た。
眩しい夏の陽射しに、一瞬目がくらむ。同じ想いをマリアもしたらしく、ヒューの手をちょっときつく握った。それに応えるように、彼が優しく握り返すとーー
光に慣れた目に、広大な街並みが映し出された。
(なんて、美しい景色なのでしょう)
感嘆を覚えた、ヒューの視界には、城の門の先にぼんやりと、小さな建物がいくつも並んでいて、豊かな緑がところどころに生い茂り、その間を整えられた道が何本も走っていた。その奥に、キラキラと光を反射する青いものが広がる。
(あちらは、海……みたいです)
照りつける太陽に、目を細め、
(海は南側に面しているみたいです。
港。
たくさんの建物が並ぶ、街並み。
それらから判断して、貿易が盛んで商業が発展しているという可能性がーー)
ヒューの思考を巡らすという癖は、幼い声に遮られた。
「おにいさま?」
ずっと景色を見つめたまま、微動だにしない兄を心配した妹に、ヒューは視線を落とした。
「いい天気ですね」
(難しいことを考えるのは、止めた方がいいかも知れません。あなたと素敵な時間を過ごすために、外出するのですから)
夏の匂いを思いっきり吸い込み、マリアは元気にうなずく。
「はい!」
「どうぞ、こちらへ」
従者が指し示した方には、白塗りで豪華な装飾品のついた、綺麗な馬車が用意されていた。おとぎ話に出てくるような馬車を前にして、ヒューは少し微笑む。
(王子と姫ですね)
小さなマリアの手を引き、妹を先に乗せる。
「さぁ、どうぞ」
「ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をし、マリアは可愛らしく微笑んだ。あとに続いて、ヒューが乗り込もうとすると、従者が、
「王子、本日はどちらに?」
先に乗り込んでいる小さな姫を視界の端に映して、
(私は、マリアのお供ですからね)
ヒューは従者の代わりに、姫にうかがいを立てた。
「マリアさん、どちらに行きたいですか?」
「おみせをみたいです」
足をパタパタさせながら応えた妹から、ヒューは従者へ振り返り、
「だそうです」
すっかり姫の従者と化している王子に、従者はにこやかな笑みで、
「かしこまりました」
こうして、馬車は城下町を目指して、ゆっくりと走り出した。
カタカタと揺れる馬車の中で、ヒューは潮風に髪を揺らしながら、
「何を見たいんですか?」
「リボンがみたいです」
お出かけ用のポシェットを大事そうに持ちながら、マリアは応えた。ヒューは優しい眼差しで、
「そうですか。素敵なものが見つかるかも知れませんね」
「はいっ!」
妹はそう言って、兄の服の裾をぎゅっとつかんだ。その力を感じ、ヒューはそっと目を伏せる。
(私を信用している手。私を必要としている手)
後ろへと流れてゆく景色を、王子は黙ったまま眺めていた。
しばらくすると、馬車は止まり、扉がノックされた。
「はい?」
我に返ったヒューが返事をすると、馬車の扉は従者によって開かれた。さっきとは逆に、今度はヒューが先に石畳に足を降ろし、扉の横に立って、
「さぁ、マリアさん」
兄は妹の小さな手を取った。
「はい!」
マリアはその手を軸にして、ぴょ〜んと馬車から飛び降りた。しっかり地面に着地した妹の後ろで、ヒューは少しだけかがみ込み、意味あり気、
「マリアさんは、元気ですね」
(よろしかったんですか? 姫さま。その様な降り方をされて……)
「あっ……!」
マリアは口をぱかっと開け、気まずそうな顔に変わった。クルクルと表情の変わる妹を見て、ヒューはくすくす笑う。
(本当は、ゆっくり降りなければいけなかったのではありませんか?
飛び降りてしまいましたね。
私と一緒に外出できたことで、とても嬉しい気持ちなのかも知れません。
それに、昨日は雨も降っていましたからね)
兄は笑うのを止め、マリアの頭を優しくなでて、
「構いませんよ、今日は」
(感情を素直に表現できるのが、あなたの特権なのですから)
「あぁ……はいっ!」
右手を高く挙げ、マリアは元気にうなずいた。
従者を従え、ヒューは色々なアクセサリーの置かれた棚の間を奥へと進む。お目当てのリボンを見つけたマリアは、兄の手を引っ張り、
「おにいさま、あっちです!」
「えぇ」
妹の歩幅に合わせながら、ヒューはついて行った。リボンの置かれた台は、マリアの背よりも高い。そのため、ヒューは妹を背中から抱きかかえた。
「さぁ、マリアさん、どうぞ」
「はい」
兄の腕の中で、マリアは一生懸命リボンを吟味し始めた。小さな姫を間近で感じたヒューは、軽く目を閉じる。
(あなたはこんなに軽いんですね)
腕を大きく伸ばし、マリアは、
「みぎのおくがみたいです」
移動することを命じられた、王子は素直に従う。
「はい、姫さま。仰せのままに」
悪戯っぽく言い、右へ少しだけずれた。
「んー……?」
小首を傾げ、しばらくそちらを見ていたが、マリアは不意にヒューへ振り返った。
「ピンクのと、ブルーのをとってください」
「かしこまりました」
いったん妹を下へ降ろし、ヒューは言われた通りのものをつかんだ。少しかがみ、マリアの目の前へ差し出す。
「こちらでよろしいですか?」
「はい」
ふたつのリボンを、右と左にそれぞれひとつずつ乗せて、マリアは見比べる。
「んー……?」
ヒューは黙ったまま、優しく見守っていた。
「…………」
(どちらにするんですか? 姫さま)
しばらく彼女は迷っていたが、なかなか決められず、ヒューは心の中で、優雅に降参のポーズを取った。
(困りましたね)
マリアはすっと顔を上げ、
「おにいさま、どっちがいいですか?」
「そうですね……」
間を置くための言葉を言い、ヒューはあごに手を当てた。
マリアの髪は瑠璃色。
あなたの好きな色はーー
手を解き、優しくアドバイスする。
「ピンクの方が似合うかも知れませんよ」
「それでは、こっちにします」
素直に従った妹に、ヒューは優雅に微笑む。
「お似合いですよ、マリア姫」
子供らしい笑みで、マリアは、
「ありがとう」
ブルーのリボンを元へ戻し、ヒューは流れるような動作で、従者にマリアが選んだものを渡した。
「それでは、こちらをお願いします」
「かしこまりました」
王族ふたりの代わりに、従者が代金を払いに行った。
大好きな兄と一緒にショッピングを楽しんでいるマリアは、朝からずっとはしゃぎっぱなし。
少し前をスキップしている妹に、ヒューは問いかける。
「マリアさん、お腹は空きませんか?」
ぴたっと立ち止まり、小さな姫はお腹に手を当て、
「んー……?」
兄へ振り返って、元気に、
「はい、すきました!」
「何を食べたいですか?」
希望を聞かれたマリアは、小首を傾げ、
「えっと……?」
一生懸命考え出した妹に、ヒューは目を細めた。
(素直に意見が言えることは、とても素敵なことです)
答えを出したマリアは、元気に、
「おさかながたべたいです!」
「そうですか」
ヒューが相づちを打つと、従者の案内でレストランへと街を歩き出した。
仲良く並んで座っている、ヒューとマリアの前に、サーモンのムニエルが運ばれてきた。
おいしそうな香りをかぎ、マリアはさっそく習ったばかりのテーブルマナーで挑もうとする。が、大人用のナイフとフォークを小さな手でにぎり、ひじを高く上げて、何とも切りづらそうにしていた。それを見つけたヒューは、妹に近づき、
「マリアさん、私が切ってあげますよ」
「あぁ……はいっ!」
マリアの手からフォークとナイフを取り、ヒューは彼女の皿を自分の前へ移した。食べやすい大きさに切り始めた兄に、
「ありがとうございます」
マリアは足をパタパタさせながら、お礼を言った。全て切り終え、ヒューは再び皿を戻し、
「さぁ、どうぞ」
(召し上がってください、姫さま)
「いただきますっ!」
マリアは言って、さっそくフォークだけを使って、食べ始めた。モグモグ食べている妹を見守りながら、ヒューも料理を口へと運ぶ。が、またいつもの癖が出て、冷静な瞳で店の様子を観察し始めた。
(十二時十八分三十五秒。
お昼時。
空いている席がないほどの混雑。
ここで、みなさんーー)
嬉しそうに足をパタパタさせているマリアを感じ、ヒューは考えるの止めた。
(久しぶりですね、こんなににぎやかなところは。とても、素敵な時間です)
彼の心は幸せな気持ちで満たされた。
昼食を終えて店を出たふたりは、再び街を散策しようとして、
「次はどうしますか?」
ヒューにご要望を聞かれたマリアは、何の迷いもなく、
「うみがみたいですっ!」
その言葉に、ヒューは一瞬戸惑った。
「そう……ですか……」
吹きつけてくる風に、気を配る。
昨日は、東の方で嵐があった。
一日中、雨が降り続き、強い風が吹いていた。
海はしけているーーという可能性が非常に高い。
妹を視界の端に映し、ヒューは冷静な思考をさらに展開する。
あちらの可能性がある以上……あなたの要求には応えられない。
黙り込んでいる兄を、マリアは心配そうな面持ちで見つめていた。
「あ、あの……」
妹の顔を見ると、ヒューの決断は揺らいでしまい、彼はマリアの要求を叶えるための方法を模索し始めた。
従者がついている。
私一人ではない。
今日は、マリアの願いを聞く。
彼はそこで、自分自身の思考回路にあきれ、心の中で優雅に降参のポーズを取った。
(いけませんね、考えないことにしていましたね。あなたの望みを叶えて差し上げましょう)
すっとかがんで、妹と同じ目線になり、ヒューは優しく微笑み返した。
「構いませんよ」
「はいっ!」
マリアはぱっと表情を明るくさせた。
街をさらに、馬車で南下。
ふたりが降り立った場所は、街中よりもさらににぎわっていた。たくさんの船から、荷物が次々に下ろされ、それと入れ替わりに新しい荷物が積み込まれる。ここにいるのは、この国の人だけではないようで、頭にターバンを巻いた人たちや近未来的な服装をした大人たちが大勢いた。
忙しそうに働く船乗りたちでごった返す、港を見渡し、ヒューは妹に一言。
「マリアさん、はぐれないように注意してください」
「は、はい」
たくさんの大人が行き交う中で、小さなマリアは埋もれそうになりながら、困惑気味にうなずいた。
ヒューたちは従者と一緒に海へと歩いていく。人込みをかき分け、かき分けーーそしてそこには、だいぶしけている海が現れた。昨日の嵐の影響で、海風は獣のうめき声のように、ビュービューと吹き荒れ、防波堤に叩きつける波は真白なうねりを上げ続けていた。
小さなマリアはそれを気にすることなく、嬉しそうに海を眺めている。
「きれいです」
「そうですね」
風で乱れた髪を、ヒューは左手で掻き上げた。大人たちの心配をよそに、マリアは防波堤の端に寄ろうとして、
「危ないですよ」
ヒューにしっかりと手を引かれ、マリアは残念そうな顔をする。
「……はい」
妹の心中を察して、ヒューは優しく問いかける。
「何か気になることがあるんですか?」
あなたが気にしていることはあちらであるーーという可能性が高い。
「はい」
マリアは目をキラキラ輝かせ、ヒューは意味あり気に、
「人魚ですか?」
(昨夜、あなたが私に持ってきた絵本のタイトルは、『The Littel Mermaid』だった)
「はいっ!」
マリアは元気に手を挙げた。
【…………】
ヒューはなぜかそこで、夕暮れの自室で、プレゼントを拾う亮をふと思い出した。
(あなたと彼女は、どことなく似ています……ね)
右手に違和感を抱いた王子に、誰かの叫び声が突如響く!
「ヒュー様っ!」
我に返ると、さっきまで隣りにいたマリアがどこにもいなかった。
(いない……!)
ヒューはすぐさま海へ視線を向け、荒れ狂う波間で必死にもがいているマリアを見つけた。
「マリアっ!」
彼にしては珍しく、大きな声で叫んだ。そして、背中にトンと何かを感じる。
(押された……?)
その勢いに乗って、ヒューはそのまま海の中へ落ちた。身にまとっている、深い青の貴族服が水をどんどん含んでいき、泳ぐことは当然ながら困難だった。その上、嵐のあとの荒れた海。溺れそうになりながら、ヒューの冷静な頭脳が稼働し、今、自分がすべきことを瞬時に弾き出す。
自分と同じ瑠璃色の髪をした、小さな人。
荒れ狂う波間に浮かんでは沈んでを繰り返す、妹。
自分よりもはるかに短い時間しか生きていない、マリア。
その人を視界の端に捉え、
(助けなければいけない。どうしても……助けなければ)
近づこうとするが、波の力が強くて、ヒューは近づくことが出来ない。
(いけない。あなたは生きていなければいけない)
昨日見た、ピアノを弾く、マリアの小さな手が。ティーカップを持つ、彼女の小さな手が。ヒューの脳裏に強く焼き付く。
(あなただけでも……助けなくては)
激しい流れに逆らいながら、策略家の心にひとつの祈りに似た、強い願いが浮かび上がった。
(私はどうなってもいい、その小さな手を守ることが出来るのならば)
いつも冷静なヒューにしては珍しく、半ば意地でマリアへと近づいた。彼女の服をつかみ、必死で引き寄せる。マリアは水を飲んだらしく、ぐったりとしていた。しっかりと抱きかかえ、ヒューは陸へ振り返った。
「誰か助けてくださいっ!」
叫んだ時、彼は突きつけられた事実に、自分の目を疑った。
(おかしい。従者が一人もいない。なぜ? 誰もいない。なぜ?)
焦りと疑惑の渦に飲み込まれそうになりながら、それでも、妹を助けようと、ヒューの必死の叫びは続く。
「助けてくださいっ! 誰か、助けて! 助けて!!」
何かに赦しを乞うように、何度も何度も繰り返す。その想いが通じたのか、少し離れたところで作業をしていた船乗りが一人、海へ飛び込んだ。
屈強な男に、ヒューはマリアを託し、彼女が陸へ引き揚げられたのを見届けると、彼の力は急に萎えた。
(これでよかったんです。すべてこれで……)
視界が急転し、真っ青な空が目の前に広がった。
(たとえ、夢でもこれでよかった……)
生きることを放棄したようなヒューに、容赦なく大波が襲いかかる。視界は一瞬にして、にじみ。全ての音はにごり、体中で水の流れを感じた。運命に逆らうことなく、光る海面を静かに見つめる。
(これが、私の本当に望んでいることなのかも知れない……)
死の淵に落ちてゆくように、ヒューはすうっと海の底へ沈み始めた。体の内側に流れてくる塩水に命をからめとられながら、憂い色の瞳を持つ、策略家はあの夢に浸る。
絶望
後悔
悲しみ
孤独
切なさ
罪
運命
この気持ちを表現できるのは、どの言葉なのでしょう?
何を信じて、この先、生きていけばいいのでしょう?
なぜ、私一人がーー
そこで、ヒューの意識はプツリと途切れた。
ーーその頃、海の底では。
リエラがウッキウキで陸への旅路を楽しんでいた。
「コランダムは、どんなところですか?」
姫からの質問に、従者はにっこり微笑む。
「とても活気のある国ですよ」
「そうなんですか」
リエラは相づちを打ち、光る海を見上げた。
(ふふ〜ん♪ 夢なのに、ちゃんとしてるんだね)
落ち着きなく泳ぎながら、この世界へ来てからのことを思い浮かべる。
(昨日、自分の十七歳の誕生日だったんだよね。
でも、嵐があったから、陸に行っちゃいけないって言われて、
今日になったんだよね。
生誕祭のあとは、一日中、お城の中で過ごして、ちょっと退屈だったなぁ)
目をキラキラ輝かせながら、さらに考えを巡らす。
(今日は天気がいいから、王様とお妃様に陸に行ってきなさいって言われて。
すごく嬉しかったんだけど、一人で行こうとしたら止められたんだよね)
また姫さまらしからぬ行動をとろうとしていたようだ。リエラは首を傾げ、
(姫さまって大変なんだね、一人じゃ出かけられないんだ)
自分をがっちりガードしている従者たちを見渡した。
(大丈夫だと思うんだけどな、一人でも。
準備とか色々あって、結局、出かけられたのはお昼過ぎ。
夢なのにちゃんと時間がかかるんだね)
そこで、リエラの視界に降り注いでいた光がちらついた。
(あれ?)
違和感を感じ、彼女は見上げたが、相変わらず、太陽の光が差し込んでいて、キラキラと幻想的な雰囲気をかもし出していた。リエラは笑顔になり、
(すごいね。海の中から見ると、こんなに綺麗に見えるんだ)
また、視界が暗くなり、リエラは泳ぐことをぴたっと止めた。
(ん? おかしいよ。何だろう?)
急に止まった姫に、従者は不思議そうな顔を向ける。
「リエラ様、どうかされましたか?」
(姫さまがじっとされているのは、ずいぶん珍しいですね。槍でも降りますか?)
質問に答えず、リエラは海面を凝視し続けて、
(変だ……)
【水に属する者】
魂の奥底で、彼女は何かを感じ、しっかりとした瞳に変わった。
(誰かが呼んでる気がする)
姫の視界の先を、従者が見上げ、
「何かございましたか?」
「あーー」
リエラは答えようとすると、自分の内側から警報が鳴るように、強い衝動を覚えた。
(失ってはいけない、何かがある気がする。このまま、ここにいてはいけない。探しに行かなくてはいけない)
光を遮るものをよく見極めないうちに、リエラはそちらへ向かってビューっと泳ぎ出した。
姫の護衛を任されている従者は、慌ててあとを追う。
「リエラ様っ!」
海面へ近づけば近づくほど、リエラの体の自由は奪われていった。
「……っ!」
(体がうまく動かせない。
早く行かないといけないのに……。
もしかして、嵐があったせいなのかな?
でも、行かないといけない。
自分にしか出来ないことのような気がするから)
強い使命感に駆られ、リエラは必死で海面を目指す。ふと彼女の視界の光が、何かによって遮られた。
「ん……?」
目を凝らし、確認すると、人が上から落ちてくるところだった。
「誰かいるっ!?」
水中で、リエラはぴゅーっと飛び上がった。首を傾げ、必死に頭を回転させる。
(えっと……人魚? でも、尾ひれはないよ。……ってことは、人だ。上から落ちてきてるんだから……!!)
ことの重大さに気づき、リエラは再び飛び上がった!
「えぇっ!!」
(お、溺れてるんだっ! た、大変だ。は、早く助けないと)
全速力で、その人のところまで泳ぎ出した。その頃になると、従者もやっと、姫のおかしな言動の理由に気づいた。
「大変でございます!」
リエラは何とかその人に近づき、
(男の人だ。ヨーロッパの貴族みたいだね)
顔を寄せて、大きな声で呼びかける。
「大丈夫ですか?」
姫の言動に、従者はため息をつき、
「…………」
(姫さま、水の中で話しかけても、人は話すことが困難です)
心の中で、しっかりと突っ込んだ従者は、
「リエラ様、急いで陸へ」
「あ、はい」
(と、とにかく海から外に出ないと……)
従者とふたりで、リエラは溺れている人を運び出した。激しい流れに抵抗しながら、リエラは従者と一緒に必死に泳いでいく。気を失っている人をチラチラとうかがいつつ、
(もう少しですから。どうか生きていてください。大丈夫ですから)
手遅れないならないことを祈りながら、何とか海上へ出た。がしかし、ずいぶん流されてしまったのか、陸ははるか遠くだった。従者は的確に判断し、左方向を指さして、
「リエラ様、こちらの方が流れに逆らわず、陸へたどり着けます」
「わかりました」
リエラと従者は溺れた人に細心の注意を払いながら、陸へ向かって泳ぎ出した。
何とか、岩場にたどり着き、その人を海から引き上げた。
「大丈夫ですか?」
リエラが何度も呼びかけるが、
「…………」
その人は返事をするどころか、身動きひとつしなかった。男の人をじっと見つめ、リエラは、
(水飲んでるんだ。人工呼吸しないと)
リエラーー亮の母親は医学博士、その方法は知っていただが、彼女はあることに、かなり躊躇した。
(えっと……男の人だよね?)
びしょ濡れで、髪が乱れている人を見つめたまま、リエラは首を傾げる。
(どこかで……見たことあるような気がするなぁ。んー、どこで?)
死ぬかも知れないという状況下で、のんきに考え出した姫に、従者が素早く注意。
「姫さま、早くしないと大変なことになります!」
(そちらの服装からして、おそらくコランダムの方でしょう。それに、一般市民ではありません。その方はおそらく……あの方でございます)
従者はそれが誰だか気づいた。リエラははっと我に返り、
「あっ!」
(そ、そうだった。人が溺れたんだった。いくら夢の中でも、誰かが死ぬのはよくないよね)
その人へ視線を戻し、セレニティス姫はまた迷い始める。
(で、でも……キ、キスするってことだよね?)
Legend of kiss始まって以来の急展開に、さすがの恋愛鈍感少女も顔がほてり始めた。
(ゆ、夢なのに、ドキドキしてきたよ。
な、何だか変な夢だね。
それに……このドキドキ感って、どっかで感じたことがあるような……?
ないような……? ん〜……?)
学校でのある風景が浮かびそうになったリエラに、従者が再び、
「姫さま、迷ってる場合ではございません!」
(これはもしかすると、もしかするかも知れません)
淡い期待を抱いている従者の言葉に、リエラは落ち着きを取り戻した。
「……あぁ、はい」
(そ、そうだよね。迷ってる場合じゃないよ、助けないと。よしっ!)
バンジージャンプをする人のように、覚悟を決めたリエラは、その人の唇に近づいた。その瞬間、胸の奥にどうしようもないほどの切なさが広がり、触れる寸前、ふと動きを止めた。意識のない瑠璃色の髪の人の香りを、すっと吸い込む。
(すごく切なくて、苦しい。どうして、こんな気持ちになるんだろう?)
従者が再三の警告。
「リエラ様!」
「は、はい」
(助かりますように)
祈りを込めて、リエラはその人の唇にそっと触れた。
【永遠に成就せぬ愛 解放し 月と水 巡り会う】
身に覚えのない、何かの記憶が走馬灯のように、リエラの脳裏を駆け巡り、続いて、夢で聞いた、優しく凛とした声が、自分の内側から響いてきた。
『なんてことでしょう。……とは、私は許せません。…………。自ら、この呪いを解く意志があるのなら、その機会と方法を与えましょう。今から五千年後に……うでしょう。彼の者ともう一度、真実の愛を育み、十八の誕生日までに……。この者を救えるのは、あなたしかいません。そして……』
付け加えられた内容を、しっかりと胸に刻み、リエラは人工呼吸をし続ける。
(この人を救えるのは、自分しかいない。大丈夫だ。きっと、この人は大丈夫。助かる)
しばらくすると、その人は飲み込んでいた水を吐き出した。
「っ……ごほっ、ごほっ!」
リエラはほっと胸をなで下ろし、優しい口調で、
「よかったです」
側に控えていた従者もほっとし、
「間に合ってよかったですね」
「はい」
ふたりの会話を聞いた、瑠璃色の髪の人は、うっすらと目を開けた。
「……ごほっ、ごほっ…!」
リエラはその瞳をのぞき込み、
「無事でよかったです」
彼女の声を聞いた、ぐったりと横たわるその人に、ある感情が広がってゆく。
「…………」
(懐かしい……声です。ずっと、聞きたかった声)
もうろうとする意識の中で、様々な記憶が浮かんでは消えてゆく。
声……。
大切な人。
なくしたくないもの。
大切なもの。
私の願い。
私の使命。
遠い約束。
ずっと続いていた何か……。
たくさんの人々の願い。
失って……戻らないもの。
たどり着けない……。
目を閉じたまま、ぜいぜいと息をしながら、遠い日に聞いた言葉が頭を駆け巡る。
あなたは……過ぎて……ものを……しまう人。
もっと……した方がいい。
苦しそうに息をする人を前にして、リエラは珍しく難しい顔をしていた。
(何とか、意識は戻ったけど……。
このまま、ここに置いていくのは出来ないから、運ばないと。
えっと……どっちに行ったらーー)
顔を上げて、リエラが辺りを確認しようとすると、従者が急に警戒し始めた。
「リエラ様、人が来ます!」
かなり緊迫した様子。それはなぜか、ここはカーバンクルの海岸なのだ。
「え……?」
(じゃあ、その人に聞こう。そうしたら、すぐに運べるよ)
リエラは立ち上がろうとして、バランスを崩した。いつもと違う、自分の足元を見つめ、
(あ、そうだった。人魚だから、歩けないんだね。えっと……髪飾りは……)
のんきに探し始めた姫に、従者は少し強い口調で、
「海へ戻ってください!」
カーバンクルの元老院とセレニティスは今、微妙な情勢。もし、元老院の誰かだとしたら、大問題に発展する。だが、そんなことを知らない、リエラはびっくりして、手に持っていた髪飾りを落とした。
「えぇっっ!?」
(海には連れていけないよ。この人、また溺れちゃうよ)
微妙に話がずれている姫の腕を、従者は引っ張り、
「残念ですが、この方はここへ」
しっかりした瞳に瞬時に変わったリエラは、王族という威厳を持って、猛抗議。
「それは出来ません! 怪我人を残していくのは、おかしいです。ちゃんと回復するまで、側にいないといけません!」
従者はゆっくりと首を横に振り、姫を諭すように、
「残念ながら、リエラ様は普通の方ではなく、セレニティスの姫なのです。人命救助を最優先に考えるのは、普通なら間違いではありません。しかし、今ここでこの方を助けることで、国交問題に発展すれば、一人ではなく、たくさんの人が悲しみ、傷つき、国ひとつが滅ぶこともあるのです」
急に大きな話になったので、リエラは呆然とした。
「え……」
(国交問題……。たくさんの人が悲しんで、傷つく。国が滅ぶ?)
セレニティス姫は、苦しそうに息をし続ける、瑠璃色の髪の人をじっと見つめ、
(助けたいのに……助けられない。姫だから……。どうして……?)
リエラの腕を引っ張り、従者はもう一度言う。
「姫さま、行きましょう」
リエラの胸に切なさが広がり、涙がこぼれそうになった。
「でも……」
(何だか、あの夢に似てる。この人の声が聞きたい)
そんなことをしていると、他の従者たちが海から上がってきた。
「リエラ様、人が来ます。急いで、海へお戻りください!」
「出来ません!」
つかまれていた腕を、リエラは振りほどき、従者は再び、それをつかんだ。
「いけません!」
それでも、リエラは残ろうとして、
「で、でも……」
(何か伝えなくちゃいけない気がする)
「失礼いたします」
ふたりの従者が姫の両腕を左右からつかみ、無理やり海へ引きずり出した。従者の一人が、砂浜に落ちている光るものを見つめて、
(必ず、もう一度、お会いすることは出来ます。今は離れても、いつかは)
切なさと懐かしさを胸に抱いたまま、リエラは倒れている人を視界の端に映し、
『この者を救えるのは、あなたしかいません』
(自分はあの人を救えたのかな?
あの人は誰なんだろう?
……誰かに似てる。
どこかで会ったことがある)
心の奥底から、熱い気持ちがあふれ出してくる。
(……会いたい。
……また、会いたい。
また、会えますか?)
その言葉で、リエラの胸は埋め尽くされた。後ろ髪を引かれたまま、海の中へ入り、
(もう一度、会いたい……)
切ない気持ちを抱いたまま、セレニティス城へ戻ったリエラは、そのままぼんやり城で過ごし、瑠璃色の髪の人に想いを馳せながら、ひとり眠りについた。