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Legend of kiss3 〜水の王子編〜  作者: 明智 倫礼
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激情の渦

 紙の上を滑るシャーペンの音が、静かな教室に響いていた。

 黒板にはーー

 数例、指数関数などの文字が、チョークで書かれている。

 五時間目ーー数学。


 担任教師、八神は、2ーCの生徒全員に課題を出し、それを待つ間、余暇を楽しむ貴族のように窓際へ立ち、今朝からずっと気になっていた空模様をうかがっていた。


(天候は悪くないみたいです)


 見つめられただけで、後ろへ倒れるーーというほど、天敵の八神の授業だというのに、亮は今朝見た夢のことを、課題そっちのけで考えている。


(どうして、今日の夢だけ違うのかな? 『5千年後』……? 『呪い』……?)


 頬をくすぐる風が、八神を我に返らせた。


(いけませんね、教師が授業中に余所見よそみをするとは)


 教室へすっと振り返ると、上の空になっている生徒ーー亮がちょうど視界に入った。八神はあごに手を当て、目を細める。


(今日は、少しおかしいみたいです。

 あなたには、考えごとをするーーという傾向があります。

 ですが、朝のホームルームと私の授業中では、その傾向はあまりありません。

 何かあったのでしょうか?

 それに……)


 手をほどき、担任教師は少しため息をつく。


(今のあなたの行動を見逃すわけにはいきませんからね、教師としては。少し叱らなくてはいけませんね)


 余所見をしている生徒ーー亮を叱る方法を画策し始める。


(そうですね……こうしましょうか)


 八神は亮に気づかれないように、教室をそっと大回りし、一番後ろの列までたどり着いた。優雅な策略家の動きに気づかず、亮は頬杖をつき、天井を見つめている。


(『の者』……って、誰のこと? 言葉が途切れてて……よくわからないね。んー……?)


 首を傾げた彼女の後ろ姿を、しっかりターゲッティングした八神は、

 

 私があなたの背後から話しかけると、あなたが驚くーーという可能性が非常に高い。

 

 目と鼻の先という距離まで、亮の背中に近づき、


「神月さん、もう出来たんですか?」


 静まり返っていた教室に、優雅な声が突如響いた。それに続いて、落ち着きのない亮の大声が、


「えぇっ!? は、はい!」


 彼女は八神の予想通り、びっくりして勢いよく立ち上がった。その反動で、座っていた椅子がバターンと後ろへ倒れる。必要以上に驚いている亮に、クラスメイトはくすくす笑い出した。


 口をパカパカさせながら、自分へ振り返った亮を、八神は冷静という名の盾ーー優雅な笑みで受け止め、おどけた感じで、こんなことを言う。


「そんなに慌てなくても、私は何もしませんよ」

 

 あなたには、私がじっと見つめると戸惑うーーという傾向がある。

 

 彼独特の叱り方ーーあごに手を当て、亮の瞳の奥をじっと見つめ始めた。


「…………」

(授業中に考えごとはいけませんよ)


 策略家の分析通り、亮は目を大きく見開いたまま、さらに口をパカパカさせるスピードがアップ。


「あ、あっ……あの……」

(あ、あの……慌てるつもりはないんです。でも、先生に話しかけられると慌てるんです。どうしてだかわからないんですけど……)


 あまり考えず、すぐさま行動に移る、直感型の亮は、状況分析があまり得意ではなかった。というより、全然出来なかった。対する八神は冷静さを保ったまま、亮を優雅な瞳で見つめ、


「何をしていたんですか?」

 

 あなたが私に返事を返してくるーーという可能性は非常に低い。

 

 だが、策略家の予想を裏切って、心臓バックバクの亮は、


「かっ、考えてもわからない時は、どっ、どうしたらいいですか?」


 一生徒に投げかけられた質問に、八神の心は激しく揺り動かされた!


 足元がぐらつくほどの、切なさ、孤独感が止めどなく広がってゆく。だが、二十五年間という月日が、彼に冷静という仮面を与え、誰一人として、担任教師が激情の渦に飲み込まれていると、気づく生徒はいなかった。


 優雅な笑みを浮かべたまま、ポーカーフェイスのまま。


「そうですね……」


 間を置く時によく使う言葉を投げた八神の脳裏に、今朝見た夢がリプレイされる。


『この気持ちを表現出来るのは、どの言葉なのでしょう?』

『何を信じて、この先、生きていけばいいのでしょう?』

『なぜ、私一人が……』


 不意に胸に広がった切なさに、抑えが利かなくなってゆく。


(たどり着けない答え。

 見つからない言葉。

 ……私にもあります。

 考えても、答えの出せないこと……が)


 しかし、彼が感情に流されたのは、ほんの一瞬だった。冷静な頭脳がそれを瞬時に制御し、自分の答えを待っている亮を見つめ返して、


「…………」

(まさか、私と似ているところが、あなたにもあるとは思いませんでしたよ。

 しかし、残念ながら、その質問に私は答えることが出来ません。

 今の私では……)


 そう言う代わりに、彼はこう告げる。


「あなたの質問はとても興味深いですね。今後の参考にさせていただきましょう」


 流暢りゅうちょうに言い残し、八神は教壇へと歩き出した。背後でぐったりと椅子に腰掛けた亮に、神経を傾けながら、


(答えを出せずに、行動出来ない時もあるんですね)


 さっきとは違う感情が、心の片隅ににじんでゆく。


(今日、初めて知りましたよ。今まで気がつきませんでした。…………)


 遠い記憶の彼方に置き去りにされていた何かと、今の自分が重なり、八神はあきれたように微笑む。


(……嬉しい……というのでしょうね。

 この感情は……。

 なぜ、そう思うのでしょう?

 これもまた、考えてもわからないことなのかも知れませんね)


 心の中で優雅に降参のポーズを取ると同時に、彼は自分のテリトリー ーー教壇へとたどり着いた。

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