激情の渦
紙の上を滑るシャーペンの音が、静かな教室に響いていた。
黒板にはーー
数例、指数関数などの文字が、チョークで書かれている。
五時間目ーー数学。
担任教師、八神は、2ーCの生徒全員に課題を出し、それを待つ間、余暇を楽しむ貴族のように窓際へ立ち、今朝からずっと気になっていた空模様をうかがっていた。
(天候は悪くないみたいです)
見つめられただけで、後ろへ倒れるーーというほど、天敵の八神の授業だというのに、亮は今朝見た夢のことを、課題そっちのけで考えている。
(どうして、今日の夢だけ違うのかな? 『5千年後』……? 『呪い』……?)
頬をくすぐる風が、八神を我に返らせた。
(いけませんね、教師が授業中に余所見をするとは)
教室へすっと振り返ると、上の空になっている生徒ーー亮がちょうど視界に入った。八神はあごに手を当て、目を細める。
(今日は、少しおかしいみたいです。
あなたには、考えごとをするーーという傾向があります。
ですが、朝のホームルームと私の授業中では、その傾向はあまりありません。
何かあったのでしょうか?
それに……)
手をほどき、担任教師は少しため息をつく。
(今のあなたの行動を見逃すわけにはいきませんからね、教師としては。少し叱らなくてはいけませんね)
余所見をしている生徒ーー亮を叱る方法を画策し始める。
(そうですね……こうしましょうか)
八神は亮に気づかれないように、教室をそっと大回りし、一番後ろの列までたどり着いた。優雅な策略家の動きに気づかず、亮は頬杖をつき、天井を見つめている。
(『彼の者』……って、誰のこと? 言葉が途切れてて……よくわからないね。んー……?)
首を傾げた彼女の後ろ姿を、しっかりターゲッティングした八神は、
私があなたの背後から話しかけると、あなたが驚くーーという可能性が非常に高い。
目と鼻の先という距離まで、亮の背中に近づき、
「神月さん、もう出来たんですか?」
静まり返っていた教室に、優雅な声が突如響いた。それに続いて、落ち着きのない亮の大声が、
「えぇっ!? は、はい!」
彼女は八神の予想通り、びっくりして勢いよく立ち上がった。その反動で、座っていた椅子がバターンと後ろへ倒れる。必要以上に驚いている亮に、クラスメイトはくすくす笑い出した。
口をパカパカさせながら、自分へ振り返った亮を、八神は冷静という名の盾ーー優雅な笑みで受け止め、おどけた感じで、こんなことを言う。
「そんなに慌てなくても、私は何もしませんよ」
あなたには、私がじっと見つめると戸惑うーーという傾向がある。
彼独特の叱り方ーーあごに手を当て、亮の瞳の奥をじっと見つめ始めた。
「…………」
(授業中に考えごとはいけませんよ)
策略家の分析通り、亮は目を大きく見開いたまま、さらに口をパカパカさせるスピードがアップ。
「あ、あっ……あの……」
(あ、あの……慌てるつもりはないんです。でも、先生に話しかけられると慌てるんです。どうしてだかわからないんですけど……)
あまり考えず、すぐさま行動に移る、直感型の亮は、状況分析があまり得意ではなかった。というより、全然出来なかった。対する八神は冷静さを保ったまま、亮を優雅な瞳で見つめ、
「何をしていたんですか?」
あなたが私に返事を返してくるーーという可能性は非常に低い。
だが、策略家の予想を裏切って、心臓バックバクの亮は、
「かっ、考えてもわからない時は、どっ、どうしたらいいですか?」
一生徒に投げかけられた質問に、八神の心は激しく揺り動かされた!
足元がぐらつくほどの、切なさ、孤独感が止めどなく広がってゆく。だが、二十五年間という月日が、彼に冷静という仮面を与え、誰一人として、担任教師が激情の渦に飲み込まれていると、気づく生徒はいなかった。
優雅な笑みを浮かべたまま、ポーカーフェイスのまま。
「そうですね……」
間を置く時によく使う言葉を投げた八神の脳裏に、今朝見た夢がリプレイされる。
『この気持ちを表現出来るのは、どの言葉なのでしょう?』
『何を信じて、この先、生きていけばいいのでしょう?』
『なぜ、私一人が……』
不意に胸に広がった切なさに、抑えが利かなくなってゆく。
(たどり着けない答え。
見つからない言葉。
……私にもあります。
考えても、答えの出せないこと……が)
しかし、彼が感情に流されたのは、ほんの一瞬だった。冷静な頭脳がそれを瞬時に制御し、自分の答えを待っている亮を見つめ返して、
「…………」
(まさか、私と似ているところが、あなたにもあるとは思いませんでしたよ。
しかし、残念ながら、その質問に私は答えることが出来ません。
今の私では……)
そう言う代わりに、彼はこう告げる。
「あなたの質問はとても興味深いですね。今後の参考にさせていただきましょう」
流暢に言い残し、八神は教壇へと歩き出した。背後でぐったりと椅子に腰掛けた亮に、神経を傾けながら、
(答えを出せずに、行動出来ない時もあるんですね)
さっきとは違う感情が、心の片隅ににじんでゆく。
(今日、初めて知りましたよ。今まで気がつきませんでした。…………)
遠い記憶の彼方に置き去りにされていた何かと、今の自分が重なり、八神はあきれたように微笑む。
(……嬉しい……というのでしょうね。
この感情は……。
なぜ、そう思うのでしょう?
これもまた、考えてもわからないことなのかも知れませんね)
心の中で優雅に降参のポーズを取ると同時に、彼は自分のテリトリー ーー教壇へとたどり着いた。