大切な人
トムラムは再び戻ってきて、何冊かの本を置いて、小屋をまた出ていった。
隙間風が吹き込んでくる空間で、ヒューは持ってきてもらった本を一冊手に取り、表紙の文字を、瑠璃紺色の瞳に映して、
『フレナ教』
策略家の冷静な頭脳に、膨大なデータが流れ始めたが、
(こちらの世界で、初めて聞く名です。
こちらの本は、コランダム城の図書室にも、街にもありませんでした。
他の方々も、宗教が存在するようなことは話していませんでした。
おかしいですね。
トムラムは、どちらから、こちらを手に入れてきたんでしょう?)
今までのどのデータとも合致するものがなく、もちろん可能性もゼロ。いきなり出て来た事実。情報を手に入れようと、ヒューが本に手をかけようとした時、ベットの近くで遊んでいた、リエラとマリアが戻ってきた。
リエラは粗末な椅子に座りながら、ヒューの手元にあるものを見つけて、
「何の本ですか?」
「宗教の教典みたいですよ」
中身を読んでいないので、ヒューは不確定要素で返答した。呪いかけられし姫、リエラは、罠を仕掛けられていないので、何のためらいもなく、策略家のそばへ椅子を寄せて、
「一緒に見てもいいですか?」
(呪いの解き方が、見つかるかも知れないね。
宗教の教典は読んだことなかったもんね)
「えぇ、構いませんよ」
ヒューの優雅な声が小屋の中に舞うと、ふたりは経典を読み始めた。そこには、いくつかの情報が、
東の森
オリヴィーン
創造神
呪術
最後の項目で、ふたりは同じ言葉にたどり着いた。
(呪い)
その解き方を探していて、先走りの性格。当然、リエラは誰かの誘導作戦に乗りそうになり、ぽつりと、
「東の森に行けばわかるのかな?」
(行ってみた方がいいかも知れないね)
人魚姫がつぶやいた言葉に気づいて、マリアが真剣な顔で、
「おねえちゃん、ひがしのもりにいくの?」
「え……?」
リエラは聞こえていたとは思わなかったので、びっくりした。マリアの小さな瞳は真剣そのもので、
「いくの?」
「どうしたの?」
(マリアちゃんの様子がいつもと違うよ)
リエラは少しかがみこみ、小さな姫をじっとうかがった。ヒューはふたりの姫の会話を記憶しながら、今までのデータと合致するものがないか、冷静な頭脳で懸命に探してゆく。
絵本をぎゅっと握って、マリアはリエラを見上げ、
「にんぎょさんがいくと、かえってこれなくなるって、おかあさまがいってた」
「え……?」
(自分が行くと、帰れなくなる?
どういうことだろう?)
子供の突然の言葉に、リエラは唖然とした。だが、ヒューは冷静さを持って、いつもと様子の違う妹を、優しく抱き上げ、
「どうしてですか?」
(あなたの様子がおかしい原因は、何ですか?)
情報を手に入れ始めた。マリアは兄の腕の中で、
「まほうつかいさんが、いるからです」
ボケ姫ここで、宇宙の果てに一気に大暴投!
「えぇっ!」
(魔法が帰れなくなる⁉)
何かの情報が可能性に変換されてゆく頭脳を稼働させながら、ヒューは妹の頭をなで、さらに疑問形。
「どのような魔法を使うんですか?」
「おはなをきれいにさかせたり、きをまもったりするまほうです」
マリアは幸せそうに笑った。その言葉を聞いて、リエラはぽかんとして、
「え……?」
(それって、魔法使いというより……何だか違うもののような気がする)
ボケ姫、珍しくいいことに気づいた。マリアは大好きな人魚姫に、心配そうな面持ちで、
「いくの?」
先走りで、冷静さを持っていないリエラは、言葉につまった。
「あぁ……」
(行きたいんだよね。
マリアちゃんを心配させないために、行かないっていうのは嘘つくことになっちゃうし……。
困ったなぁ)
まだ、東の森に行きたがっている人魚姫に、マリアはもう一度、
「いくの?」
今までの事実から、ある可能性を弾き出した、ヒューが、ボケ姫の代わりに、妹に優しく、
「リエラさんは行きませんよ。ですから、安心してください」
(リエラさんは、行きたいみたいです)
正直で素直なリエラ。応えて来ないということは、行きたがっていると、冷静な策略家には簡単に判断できた。
「よかった」
マリアはそう言って、嬉しそうに反対側の席へ走っていった。そして、大好きなThe Little Mermaidの本を読み始めた。
リエラは小さな姫を、ブルーの瞳でぼんやり眺めながら、
(呪いについて調べないといけないよね。
四月って言ってたもんね、昨日。
そうすると、誕生日まで、あと三ヶ月しかないし……)
大雑把すぎる。正確には、ヒューが計算した通り、二ヶ月と十二日。三ヶ月もない。先走りリエラは、人の命を危険にさらす可能性があることも気づいておらず、呪いのことばかりに気を取られ、小屋の扉をじっと見つめた。
(どうにかして、ここを出て、東の森に行かないといけないとね。
呪いについて、探しに行くぞ。おぉっっ!?)
今までの膨大なデータと可能性。そして、リエラの今の心理を、瞬時に弾き出したヒューは、立ち上がりそうになった先走り姫の手の上に、細く神経質な自分の手を乗せて、
「行ってはいけませんよ」
(あなたが死ぬーーという可能性を高くするわけにはいきません)
ヒューは絶対、負けるーー失敗するという可能性の高いことはしない。当然、先手を打って阻止した。だが、先走りで、やる気満々のリエラは、ヒューの瑠璃紺色の瞳をまっすぐ見つめ返して、
「え、でも、自分のことは自分で解決したいです」
今にも自分から離れていってしまいそうなリエラに、ヒューは珍しく真剣な顔で、策略家らしい言葉で言い聞かせた。
「呪術と載っているだけで、そちらに呪いの解き方があるという可能性が高いとは言えません。マリアの言っていることが本当だとしたら、あなたは帰って来れないという可能性が出てきます」
(こちらの十一月二日。
コランダム城の図書室で、読んでいた妖精王と人魚姫の童話。
最後は、人魚姫が死ぬという話でした。
マリアの先ほどの言葉。
『おはなをきれいにさかせたり、きをまもったりするまほうです』
そして、あちらの世界の北欧での話。
妖精に関する話はよくあります。
それはたいてい、子供を叱る時の口実であることが多いです。
しかし、マリアは素直で、叱られるという傾向はありません。
それらから判断すると、エマの言ったことは、別のことであるーーという可能性が出てきます。
すなわち、事実であるーーという可能性が高くなります。
人魚が東の森へ行くと行方不明になるという文献は、私もいくつか読みました。
それらは全て、伝説や伝承の域を出ませんでした。
しかし、あちらの世界で妖精に関する話のもうひとつは、行方不明事件などを妖精の仕業にするということが多いです)
ヒューの冷静な頭脳の中で、新しく出て来たデータと、今までのデータから必要なものが取り出され、美しいほどシンクロし始め、可能性が導き出された。
それでも、リエラは呪いの解き方に気を取られて、
「でも……」
(少しでも手がかりがないか見つけないと、いけないと思います。
行かないといけないと思います)
呪いかけられし姫と、優雅な策略家の間に、砂埃を伴って、シトシンの乾いた風が吹き抜けていった。
シリーズ1、2にも出て来たが、決して安全な場所ではない、東の森は。危険だという可能性が少しでもある以上、ヒューは絶対止める。
「昨日、トムラムも言っていました、不思議な術を使う方がいると。こちらの世界では、あなたが人魚であるように、あちらの世界の法則とは違うことが他にもあるかも知れません。呪いを解く方法は他で、探すことが出来るかも知れないのです。ですから、行かないでください」
(新しい情報を手に入れることが出来ました。
そちらから探す方が、呪いについては調べられるーーという可能性が非常に高いです)
勝つーー安全だという可能性を、ヒューは今までのデータと可能性から的確に弾き出した。
今まで見たこともない、経典がここにある。
他の人と違う情報を持っている人がいる。
そのふたつと新しい情報だけで、策略家には十分だった。ヒューの手の温もりを感じ、リエラは椅子に座り直した。
「わかりました」
(ヒューさんがそう言うなら、大丈夫な気がする)
自分の言葉に素直に従ってくれた、呪いかけられし姫。呪いを解くことができる可能性を持っている自分。その距離が近くなった感じがして、ヒューの心の中に安堵が広がった。
(信じていただけて、嬉しいですよ)
今まで一人で、可能性を導き出し、誰にも頼らずに、ここまで来たヒュー。策略の中で、ある可能性が一定値を満たして、リエラにしか聞こえない、囁き声で、
「マリアは、今日中にコランダム城へ帰します」
(あなたには、伝えておきます)
危険な場所へ、大切な妹を戻すと言い出したヒューを前に、リエラは思わず声を上げそうになったが、
「えぇっ……」
慌てて言葉を飲んだ。無邪気な子供ーーマリアに聞こえないように、ヒューに小さな声で質問。
「どうしてですか?」
(コランダム城は危ないんじゃないんですか?
一昨日、暴動が起きたって言ってましたよね?)
冷静な瑠璃紺色の瞳で、ブルーの純粋な瞳を見つめ返して、ヒューは、ボケ姫にもわかるように、
「私たちは、いつあちらの世界へ戻るのかわかりません。マリアをこのままここへ置いておくのは……」
喪失という記憶で、胸が引き裂かれそうになるが、ヒューは軽く目を閉じて、呼吸を整えた。
(感情に流されてはいけません)
言葉を不自然に途中で止めた冷静な頭脳の持ち主を、リエラはじっと見つめ返して、
(ヒューさん、大切なことを言おうとしてるんだね、今)
再び目を開けた、ヒューの脳裏には、二十年前の出来事が輪郭をはっきり持っていたが、冷静という名の盾で、今回はなんとは防ぐことができ、静かに言葉を口にした。
「彼女はおろか、私たち全員が死ぬという可能性があるんです」
(誰かが私のそばからいなくなるというのは、もう耐えられないんです)
「え……?」
(みんな死ぬ? どういうこと?)
突然出て来た、コランダム王族全員、死亡の言葉。リエラはあまりのことに何も言えなくなった。
ヒューは冷静さを持って、呪いかけられし姫に、
「そうならないために、マリアは今日中にコランダム城へ帰します」
(十一月四日。
コランダム城で見た、王家の家系図。
今現在、ダイン、エマ、私、マリア以外、コランダムの王族はいません。
他の方々は、私たちがこちらの世界へ来る四、五年前から、全員、病死、もしくは事故死している。
殺されたーーという可能性が非常に高いんです)
だから、敵はヒューが犯人だと指名できたのだ。誰も、もう生きていないのだ、ウィンクラー家の人間は。
神がわざと見逃した、二十年前の出来事。その後、敵によって、八神に悲痛という嵐が次々と襲いかかったことが、再び現実になりそうで、ヒューは固く目をつぶった。
(あちらの時と、逆になってしまうかも知れない)
激情の渦に必死で飲み込まれないよう、堪えているヒューの、非常に辛そうな表情を見て。それでも、兄が大切な妹を手放すという可能性を選び取ったことを、リエラは素直に受け入れた。
(自分が知らないことを、きっと、ヒューさんは知ってるんだ。
それを、ずっと、考えてきたのかも知れないね。
だから、あの夜も泣いてたのかも知れない。
マリアちゃんや、自分の家族がいなくなったら、淋しいよね。
それに、コランダムの人たちも、困ってると思うし。
ヒューさんは、それもきっと考えてるんだね。
そのためには、マリアちゃんは帰った方がいいんだよね。
たぶん、そういうことなんだね)
少し震えている神経質な手を、リエラは両手で包み込み、ヒューはその温もりを感じて、目をそっと開けた。そこには、リエラが大人びた笑みを浮かべていた。
「わかりました」
「ありがとうございます」
震えそうになる声で、ヒューは静かにお礼を言った。
(久しぶりですよ。
他のどなたかに本当の気持ちを、素直に伝えたのは)
孤独と戦い続けた八神、ヒューの苦しい日々は、もう少しで終わる。リエラに真実の心を話した方がいいという可能性が、ヒューの中で高くなって来た。だが、同時に、敵に狙わる可能性も上がってゆく。
嵐の前のような静けさが、リエラとヒューのまわりには広がっていた。