追憶
ーーーーー何か大切なものをなくしてしまった。
立ち上るたくさんの煙。
降りしきる雨。
遠くには、雷鳴が響き。
ずぶ濡れで、一人たたずんでいる。
何が起きたのかわからない……。
なぜ、なぜ……なぜ、こんなにも突然……。
それだけが、心の中で、針飛びするレコードのようにリピート。
なぜ、なぜ……。
絶望
後悔
悲しみ
孤独
切なさ
罪
運命
この気持ちを表現できるのは、どの言葉なのでしょう?
何を信じて、この先、生きていけばいいのでしょう?
なぜ、私一人が……ーーーーーー
息苦しさを覚え、
「っ!」
がばっとベッドから起き上がった。
薄暗い部屋。
一人きりの部屋。
そんな空間で、八神 光は目を覚ました。
「くっ……」
全身は汗でべとつき、呼吸が激しく乱れ、肩で息をつき続ける。
「また……あの夢を……見たんですね」
つぶやいて、乱れた髪を右手で掻き上げた。夢の余韻に引きずられながら、呼吸を整え、
(今……何時なのでしょう?)
サイドテーブルに置いた眼鏡に手を伸ばした。ふと、視界が鮮明になる。
(……四時三分四十一秒)
軽く嘆息し、
(いつもより、早く目が覚めてしまいましたね)
冷静に動き始めた、頭の中で、
(七月七日、火曜日。学校へ出勤する日ーー出かけるまでに、あと一時間五十六分十九秒……)
日付や時刻を確認するのは、物心ついた時からの、八神の癖のようなものだった。
「もう、眠れませんね」
あきれ気味に言って、ベッドから出た。出勤までの時間を持て余しそうだった彼は、
(シャワーを浴びてから、出かけた方がいいかも知れません)
スマートに判断し、シャワールームへ向かおうと、薄暗い部屋を出た。
扉を閉め、廊下に敷かれた赤い絨毯の上を歩き出そうとすると、背後から声をかけられた。
「光様、おはようございます」
振り返ると、タキシード姿の年老いた男が立っていた。人のよさそうな笑顔に、八神は優雅に微笑み返す。
「おはようございます」
男は八神の次の言葉を予測し、
「準備をさせて参ります」
「えぇ、お願いします」
八神が返すと、男は足早に去っていった。その後ろ姿を見送り、八神は廊下をゆっくりと歩き出す。
(あまり急がせては、いけませんからね)
ふと視界に薄明かりが入り、
(今日の天気は……)
窓の外を見上げると、オレンジがかった、薄紫の空ーー綺麗な朝焼けが。それを見た八神は、なぜかこう思った。
(……おかしいですね。……悪くないみたいです。なぜ……なのでしょう?)
肩を少しだけすくめーー優雅に降参のポーズを取り、シャワールームへ向かった。
レンガ造りの暖炉。
美しい細工の施された、アンティークチェア。
真っ白なテーブルクロスに、大きなテーブル。
その上には、綺麗に磨かれた銀の食器類。
給仕係が食べ終えたものと、次のものを交換し、飲み物などに、常に気を配っている。どこかの城かと思えるような食堂で、八神は一人、朝食を取っていた。
「本日は何になさいますか?」
食べ終わる頃合いを見測り、給仕係が伺いを立てた。八神はあごに手を当て、
「そうですね……?」
(今朝の夢……。気分を変えたい)
給仕係を優雅に見つめ、
「ルフナ・ルムデニー・ゴールデンティップスをお願いします」
「かしこまりました」
給仕係は丁寧に頭を下げると、テーブルから下がっていった。あることがさっきから気にかかっていた八神は、側に控えている使用人に、
「今日の天気はいかがですか?」
「はい、快晴とのことです」
使用人はしっかりと答え、礼儀正しく頭を下げた。八神はそれに優雅に相づちを打ち、
「そうですか」
窓の外へ顔を向けた。
(……おかしいですね。一体、どうしたというのでしょう?)
彼は違和感にもてあそばれ続けていた。その後、八神は出された紅茶を優雅に楽しみ、着替えるために一度自室へ戻った。
ーー「どうぞ」
深々と頭を下げ、運転手がリムジンのドアを開けた。
「ありがとうございます」
八神はお礼を言い、慣れた感じで乗り込む。リムジンはゆっくりと玄関前から走り出し、それに向かって見送りの使用人たちが深々と頭を下げていた。いつもの癖で、八神は懐中時計を見る。
(六時一分十二秒ーーいつも通りの時刻)
くぐもったゴーっという、車の走行音をBGMにしつつ、八神は車窓から空を仰ぎ見る。それは、夏の真っ青な空より、いくぶん色あせていたが、雲ひとつなかった。八神はそれを見て、ため息をつく。
(綺麗な……空ですね)
それは感嘆というより、あり得ない光景を目にした人がつく、吐息だった。静かな車中に、
「本日はいかがなさいますか?」
運転手の声が不意に響いた。
「いつも通りで構いませんよ」
八神は応えながら、また癖が出て、
(迎えの時刻ーー二十一時三十分)
「かしこまりました」
運転手はうなずき、八神が思った通りの時刻を告げる。
「それでは、九時半にお迎えにあがります」
そしてまた、車中は静かになった。座り心地のよいシートに身を預け、八神は通りすぎていく景色を眺める。
(右方向からーー)
そこで、彼はあごに手を当て、少しだけ目を細めた。
マリンブルーの乗用車であるーーという可能性。
自転車であるーーという可能性。
マリンブルーの乗用車であるーーという可能性の方が高い。
彼がそこまで考えると、マリンブルーの乗用車が、ちょうど右の道路から出てきた。八神は少しだけ微笑み、
(また、可能性が高くなりましたね)
今度は、左側へ視線を移す。夏の日差しを浴びながら、通りを歩いている人々を眺め、
(あの方は……)
彼が目を留めた人は、汗を拭き拭き、早足で歩く、猫背のサラリーマンだった。すっと自分の懐中時計へ、八神は視線を落とし、
(……六時二十四分三十一秒。いつもと変わりませんね)
微笑むと、八神の脳裏に今朝の夢がふと蘇った。
(いつもと違うこと……)
先ほどより青さが増した、綺麗に晴れ渡る空を見上げる。
(なぜ、今日なのでしょう? 考えても、見つけられない答え……)
少しため息をつき、車中の一角へ視線を落とした。
しばらくすると、黒塗りのリムジンは速度を落とし、左へ曲がった。
見慣れた光景が広がる。
ーー煌彩学園、高等部。
白亜の四角い建物。
規則正しく並んだ、いくつもの窓。
八神は、校舎から手元の懐中時計へ視線を落とし、
(六時五十一分三秒ーーいつも通りの時刻)
玄関に横付けする形で、リムジンは止まった。
「どうぞ」
運転手がドアを開け、
「ありがとうございます」
優雅に返し、八神は煌彩高校の敷地に足を下ろした。
「それでは、失礼いたします」
運転手は深々と頭を下げ、再びリムジンに乗り込んだ。滑るように離れていく、それを少しだけ見送って、八神は校舎へ振り返る。
(さぁ、仕事です。今日は火曜日。どのようなことが待っているのでしょう?)
気持ちを速やかに切り替え、建物の中へと入っていった。