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Legend of kiss3 〜水の王子編〜  作者: 明智 倫礼
28/41

青き石版

 それから三日後。


 秋晴れのすがすがしい朝。

 夏より少し色あせた青空。

 心地よく差す陽の光。

 潮風の香り。

 緑と土の匂い。

 綺麗に整備された石畳。


 そんなコランダム城の玄関に、なんとか乗馬を出来るようになったリエラはいた。その隣には、優雅な策略家が。一緒に行けないマリアが背中に隠し持っていた何かを、お姉ちゃんと兄に嬉しそうに差し出し、


「これ、あげる」


 リエラとヒューが見ると、水色の箱に、ピンクのリボンがかけられていた。マリアが結んだらしく、リボンはあちこちヨレ、上手にできなかった蝶々結びのような状態に。ヒューは妹の近くにしゃがみ込み、


「こちらは何ですか?」


 彼の服装は、白いブラウスに茶色の細身のパンツと薄手のロングコートを着ている。足下はロングブーツ。少し長めの髪は、細いリボンでひとつに縛っている。まとめきれなかった髪が艶やかに落ちていて、優雅さをさらにかもし出していた。


 リエラは少しだけかがみこみ、


「え、何?」


 彼女の服装は、乗馬用のタイトなパンツとロングブーツ。髪飾りが落ちないように、淡いオレンジ色のベレー帽をかぶっている。いつも前向きな彼女のイメージにぴったりな装い。


 マリアは得意げに、


「おかし。おなかすいたら、ふたりでたべて!」


 小さな姫の優しさに触れ、ヒューとリエラは笑顔になった。


「いただきますよ」

「ありがとう、おいしく食べるね」


 和やかな雰囲気の三人に、従者の声が、


「そろそろ、出発いたしましょうか?」


 セレニティスとコランダムの従者はそれぞれ五名ずつついて行くこととなっている。ヒューとリエラは立ち上がり、 


「えぇ」

「はい」


 ヒューはリエラの手を取って、乗馬させた。


「いってらっしゃい!」


 マリアが元気に手を振り、その後ろから、国王夫妻が意味あり気に、


「ゆっくりしてきなさい」


 完全に結婚を期待している国王夫妻の言葉を聞いて、ヒューは心の中で優雅に降参のポーズを取った。


(期待されても困りますよ)


 お子様リエラは何も気づかず、


「いってきます!」


 笑顔で応えて、馬のひづめをパカパカといわせながら、一行はコランダム城をあとにした。



 ヒューたちは南側の街へは行かず、目的地の北を目指し始めた。


 遠出ということで、もちろん日帰りではない。道中には、宿場町がいくつかあり、そこで寝泊まりすることになっていた。もちろん、部屋は別々。


 リエラがヒューの心の鍵を見つけるには、絶好のチャンス。だが、感覚人間の彼女は、思いっきり旅を満喫していた。


(泊まりがけって、何だか修学旅行みたいだね)


 学校での出来事と、姫さまは一緒にしていた。結婚することが前提になっているため、ヒューはリエラの隣に、馬を並べていた。


「リエラさん、気分はいかがですか?」


 リエラは目をキラキラ輝かせて、


「あぁ、はい。楽しいです!」

(乗馬も楽しいんだね。

 やっぱり、先生は優しいんだ。

 色々、素敵なことを教えてくれるから)


「そうですか」


 策略家は優雅に相づちを打った。ウッキウキのリエラは、


「ヒューさんはどうですか?」

「楽しいですよ」


 ヒューは珍しく、感情を口にした。どっからどう見ても、結婚に向かっているように見える会話。リエラはヒューの言葉を素直に受け取り、手綱を持つ手を見つめながら、微笑んだ。


(先生も、楽しいんだ。よかった)


 目的地に行くまでも、広大な畑などがあり、様々な美しい風景がたくさん広がっていた。遠くには巨大な山脈が東西に走っていて、あたりには秋風が吹いていた。遠出なので、急ぐ必要もそれほどなく、一行はのんびり進んでいた。


 途中の街で、食事や買い物をしたりして、ふたりは楽しんでいた。街の人たちも優しい人たちが多く、行く先々で、ふたりは歓迎され、色々な品物や食べ物をもらった。


 広大な畑に差しかかると、たくさんの人が一生懸命、農作業をしていた。リエラは興味を持って、馬を止めた。ぴょんと飛び降り、農民たちの近くに寄って、


「何を蒔いてるんですか?」

(みんな、一生懸命だね)


 それに気づいて、年老いた女は顔を上げた。外で働く人らしく、日に焼けた薄黒い手足。シワがあり、乾燥した顔。だが、自分の仕事に誇りを持っている雰囲気を持っていた。ふたりが誰だか気づくと、女は丁寧に頭を下げ、


「あぁ、これは、ヒュー様、リエラ様」


 挨拶が終わると、問われた質問に、


「こちらは小麦の種でございます」


「そうなんですか」

(パンとかに使うんだね)


 リエラはのんきにうなずいた。遅れて馬から降りてきたヒューの優雅な声が、


「先日、リエラさんに作っていただいたケーキはおいしかったですよ」


 その言葉で、リエラはあることを思い出した。


(あれ?

 小麦粉、半分しかそろわないって言ってたよね?

 じゃあ、大変だったんじゃないかな?

 お金が入ってこなくて)


 従者に囲まれた状態で、感覚姫リエラは、


「今年は少なかったんですか?」


 主語が抜けている。当然、これでは、


「何をで、ございましょうか?」


 農民は聞き返してきた。


「えっと……?」


 リエラはなぜ聞き返されたのかがわからなくて、考え込んでしまった。ヒューが手を差し伸べる。


「収穫量のことを聞いてるんですか?」

(そちらでは通じませんよ。言葉が足りなすぎます)


「あぁ、はい」


 リエラは素直にうなずいた。農民は屈託のない笑顔で、


「おかげさまで、今年は豊作でございました」


 それを聞いて、リエラは首を傾げた。


(ん? 何だか変だね。

 もともと数が少ないのかな?

 あぁ、そうかも知れないね。でも……?)


 リエラも違和感を抱いて、考え込み始めた。いつも通り動かないボケ姫を視界の端に映して、ヒューは農民達を見渡し、


(みなさん、作業を中断して、こちらに頭を下げています。

 また、待たせているみたいです。

 仕方がありませんね)


 考え始めると時間を忘れるボケ姫に、王子はさりげなく声をかけた。


「リエラさん? そろそろ行きましょうか?」

(私たちがここにいては、みなさん、作業が出来ませんよ)


「あぁ……はい」

(そ、そうですね。お仕事の邪魔はよくないですね)


 リエラは我に返って、返事をした。ふたりは農民に一言声をかけ、紅葉の美しいさらに北へと目指した。



 しばらくすると、綺麗な林道に入った。両脇には木々が整然と並んでいる。キラキラと降り注ぐ太陽の光を浴びながら、赤や黄色に葉っぱが染まり始めていた。リエラは目をキラキラ輝かせて、


「ヒューさん、すごく綺麗ですね」

(向こうで見る景色と違って、楽しいです)


「えぇ」


 ヒューは優雅にうなずき、頬の髪を耳にかけた。はしゃぎっぱなしの姫を見つめて、


「リエラさん、一度、休憩を取りませんか?」

(先ほどから、ずっと休んでいませんよ)


「え、あぁ、はい」


 リエラは右隣にいるヒューに振り向いた時、何かを急に感じ取った。


(あれ?

 何だか、変だね。何だろう?

 この押されるような感じ……?)


 ヒューの背後で視線を彷徨わせて、自分の乗っている馬の背に視線を落とした。


(こっちも……変?)


 目を離した隙に、たくさんの鳩が、突然、バサバサと飛び出してきた。それに驚いて、彼女の乗っていた馬が急に駆け出した!


(えぇっっ! な、何⁉)


 リエラは一瞬、体が置いていかれそうになったが、馬の首になんとかしがみついた。隣にいたヒューの声が斜め背後から、いつもとは違う感じで、緊迫感を持って、


「リエラさんっ!」


 ヒューは素早く、馬にむちをくれ、リエラのあとを追いかけ始めた。ワンテンポ遅れで、従者たちが、


「リエラ様っ!?」


 王子と姫に続いた。セレニティス側も大変だが、コランダム側は必死だ。他国の姫だ。落馬して、怪我をしたり、万が一のことがあったら、国交問題に発展しかねない。ヒューを含め、全員がリエラの馬を止めることに、全力を尽くす。


 整備されていない土の道。

 馬の駆ける音がドスドスと、いくつも鳴り響く。

 土煙を上げて、彼らが猛スピードで走り抜けてゆく。


 リエラは目を固くつぶっていた。真っ暗な視界の中、蹄と鞭のパチンという音。時折聞こえる、自分の名前を呼ぶ従者の声。風がビュービューと頬を切っていくのを感じる余裕など、姫にはなく、


(うわっ! は、速い乗り物は苦手なんだよね。

 ど、どうしよう?

 どうやって止めるんだっけ?

 えっと……えっと……?)


 半ばパニック状態になっているリエラは、もう自分の力では止めることが出来なくなっていた。しかも、微妙に手綱を引っ張っている状態。馬からしてみたら、走り続けろという意味。


(お、落ちちゃうから、ちゃんと捕まっておかないとね)


「リエラさんっ!」


 真っ暗な視界に、よく聞き慣れた声が舞った。いつもの優雅さを伴ってはいるが、かなり緊迫した様子。しかし、リエラはヒューの声に応えることが出来なかった。


「…………」

(あ、あの……先生、どうしたらいいですか?)


「リエラさん、手の力を緩めてください!」

(そちらでは、逆効果です)


 ヒューは蹄と風の音にかき消されないように、珍しく叫んだ。リエラは目を何とか開けたが、


(えぇっ! 手、離したら落ちると思います)


 混乱している姫には、言葉が届かなかった。ヒューの口調が急に変わり、


「落ち着いてください。手の力を緩めて!」

(私の言葉を、きちんと聞いてください)


「で、出来ません!」


 リエラはやっとの思いで叫んだ。ヒューは何とかリエラの真横に馬を揃えて、作戦を変えることに決めた。馬を巧みに操りながら、冷静な思考を展開。


 このままでは、あなたが危険な目に遭うーーという可能性が非常に高い。

 リエラさんは冷静に判断出来ないーーという可能性が非常に高い。


 次いで、ヒューは後ろへ少しだけ振り返って、


(従者の位置)


 姫へ視線を戻し、


(リエラさんの乗馬している位置)


 猛スピードで走っているリエラと自分の馬の距離を測って、


(私の乗っている馬の速度と、リエラさんの乗っている馬の速度)


 再び、馬の上でうずくまっているリエラの姿を捉え、


(私がこれから言うことに対する、彼女の反応)


 あなたが驚くーーという可能性が出てくる。


(そちらの可能性を低くする方法。

 彼女と私の乗馬の技術)


 策略家は自分たちが進んでいく方向を確認。馬の走る振動で、視界は縦に激しく揺れる。はるかかなたで、道は左へ大きくカーブしている。


(林へ真っ直ぐ向かって走っている。

 他の障害物はない)


 今度は、視界に入っている全ての景色を眺め、


(方角が変わる可能性)


 ヒューたちが走っているのは、林の中の道。当然まわりは木が生い茂る。そこへ、馬が猛スピードで突っ込んだら、

 

 このまま走り続けると、リエラさんが危険になる可能性がさらに高くなる。

 それらから判断して、全ての危機を乗り越えるためには、こちらの方法が一番可能性が高い!


 ここまでの思考時間、約三秒。ヒューは勝つーー成功する可能性の高いものを選び取った。リエラの馬より先へ、策略家は自分の乗っている馬を進ませた。リエラを驚かせないように、まずは言葉をかける。声のトーンをいつもより低くして、


「しっかり、つかまっていて下さい」

「……はっ、はい」


 ヒューの読み通り、リエラは何とかまともに言葉を返してきた。姫はさらに手綱を強く握ったので、馬のスピードが急激に上がるが、


(えぇっ! 逆効果みたいです!)


 これは、すでに策略家の計算に入っている。少し前を走っていた、ヒューと同じ位置にリエラの馬が並んだ。王子はあぶみの上でバランスを絶妙に保ちながら、すうっと立ち上がった。立ち乗りしたまま、馬を操り続け、膝を曲げ、勢いをつけ、空中を右から左ーーリエラの馬へ向かって、斜め前へ鮮やかに飛んだ。頬にかかっていた瑠璃色の髪が風に揺れ、ヒューの頭上を、太陽が左から右へ移動してゆく。


 そして、ヒューはリエラの背後の馬上に、さっと降りた。彼の着ていたロングコートがふんわり舞った。


 従者たちは、ヒューの乗り捨てた馬を、何とか避け、彼らのあとに続く。完璧な読みだった。誰一人、傷ついていない。


 リエラは自分の手に、別の手が乗せられ、


(え……?)


 温かみを感じ、手元を見た。それは神経質で細いが、優しくて、自分より大きな手。リエラはそれを見つめて、


(ヒューさんの手……)


 ピアノレッスンの時のことを思い出したが、不思議なことに驚いたりしなかった。ヒューは何とか、リエラの馬の手綱に手をかけたが、まだ危険は回避できていない。最終目的は、馬を止めること。複数の蹄の音と、駆け抜けてゆく風の音にかき消されないように、しかも、リエラが驚かないように、


「手を離してください」


 王子は姫の耳元でゆっくりと告げた。リエラは離そうとするが、


「出来ませんっ! 手が動かないんです」


 恐怖で手が硬直してしまっている。ヒューはもう一度ゆっくり、


「出来ます、落ち着いてください」


 策略家の功が成して、リエラは落ち着きを取り戻した。


「……は、はい」

(手を離す……)


 姫が手綱を離す寸前に、ヒューは次の指示を出し、


「そうです、そのまま私に身を任せてください」

「はい……」


 ヒューの声が背中を伝わってきて、それが落ち着きを取り戻してくれ、リエラは手綱から手を離し、ヒューの腕をつかんだ。王子は姫が落ちないように、少し前かがみになり、


「そのまま、私の腕につかまっていてください」

「わかりました」


 リエラが素直に従うと、ふたりは沈黙した。しかし、ヒューに手綱を渡したあとも、馬はスピードを緩める気配がなかった。


(おかしい……)


 出発前から、策略家の頭の中には、必要な情報が、冷静な頭脳の浅い部分に引き上げられていた。この旅に出たのは、リエラと結婚するためではなかった。別の重大な何かを調べたかったのだ。リエラの馬が暴走するまでは、完璧な策だった。


 だが、違ってしまった。


(なぜ、こちらなのでしょう?)


 馬が暴走する可能性は、すでに、策略家の中では予測済み。だが、彼が導き出したのは、


 自分の馬が暴走するーーという可能性がある。


 だったのだ。しかし、事実は違った。走り続ける馬を止めることを試みながら、ヒューの頬を、風がビュービューと切ってゆく。それでも、冷静な頭脳で、素早く対処し、道から馬が外れないようにし続けている。神の言う、策略家の特殊な考え方の賜物たまものだ。


 リエラは心配になって、後ろへ振り向き、


「ヒューさん?」

(すみません、また迷惑かけてしまって)


 ヒューはリエラを見る余裕はなかった。目の前に、林が迫ってきている。馬を何とか操ろうとするが、


「大丈夫です、安心してください」


 問いかけられたのに、応えないわけにはいかない。しかも、リエラはさっきまでパニックだっだ。安心させなければいけない。ヒューは全ての動作をしながら、姫が混乱しない言葉を巧みに操っていた。冷静な策略家だからできること。


 今まで、罠の中で話しかけられてきていたリエラは、いつもと違うヒューの声色にドキッとする。


(えっ、どうしたんだろう?

 何だか、今までと違う。

 何か変わったのかな?)


 その時、後方から、従者の声が、


「ヒュー様!」

「リエラ様!」


 とうとう、林に突っ込むことになってしまった。距離にして、あと三メートル。優雅なヒューにしては、珍しく汗が頬を伝って、


「伏せてください」

「え……?」


 リエラが前を向くと、緑の葉っぱが充満している林が、眼前に迫っていた。


(うわ、大変だ!)


 ボケ姫、話を聞いていない。馬の鼻先が、林の中にズバッと入った。


「伏せて!」


 ヒューはリエラの背中を自分の胸で無理やり押さえつけた。リエラはさらにドキドキして、


(いつもと、先生の言葉が違う。

 どうして、先生も変わったんだろう?)


 原因を確かめようとして、ヒューの腕を掴む力が少し弱くなった。それを感じ取ったヒューが、少し乱れた呼吸で、


「離さないでっ!」


「は……はい」

(やっぱり、言葉が違う)


 リエラは王子の腕にまたしっかりと捕まった。そして、ふたりは再び黙り込んだ。


 また、戦況が変わってしまった。作戦を変えなければいけない。目の前に次々と迫ってくる木々を巧みにかわしながら、ヒューの冷静な頭脳は稼働し続ける。


(このままでは、私たちふたりとも危険であるーーという可能性が出て来た)


 彼は背後から、追いかけてきている従者たちを気にかける。それは、コランダムの従者ではなく、セレニティスの従者だけ。


(従者に頼ることは、出来ないかも知れない)


 ヒューは最初から、コランダム側の従者に頼る気はなかった。それはなぜか、彼の標準装備、記憶という武器から導き出された可能性に、頼れない理由があったからだ。


 従者たちの馬は疲れてきて、王子と姫から距離がどんどん離れ始め、さらに、作戦を変えなければいけない状況に。葉っぱや小さな枝がヒューの頬を額をかすめてゆく。瑠璃紺色の瞳にそれらを映し、巧みに左右へ避けるを繰り返し、腕の中にいる姫を感じながら、


(私一人で、こちら危機を乗り越える方法……)


 何も話さなくなったふたりを、緊迫した空気がじわりじわりと縛りつけてくる。

 ヒューの少し乱れた呼吸。

 馬の蹄の音。

 リエラとヒューの心臓の音。

 頬を切る風の音。

 草木を踏みつける音。

 猛スピードで通り過ぎる木々の音。


 それらが、ふたりの耳にしばらく、響いていた。


 リエラはふと、自分を守るように、覆いかぶさっているヒューのことを心配する。


(先生、大丈夫かな?

 呼吸も乱れてきてるみたいだし、木とかに当たって怪我したりしないかな?

 自分はどうすればいいんだろう?

 ヒューさんのために、今、何が出来るんだろう?)


 そこで、彼女は今までと違うものを感じて、


(何だろう? この気持ち)


 その時、視界がぱっと開けた。なんとか木にぶつからず、無事に林を抜け、広い道へと躍り出た。


 しかし、馬はスピードを緩めずそのまま駆け抜けてゆく。ふたりが前方に顔を向けると、木で出来た橋が大きな川にかかっていた。その上を、馬は猛スピードで走り抜け、カパッカパッと木を蹴る、乾いた蹄の音が響き。また、土を踏む湿ったものに変わると、背後でバシャンと水に何かが落ちる音がした。


 ヒューは少し振り向いて、後方を確認し、


「いけませんね」


 冷静な瑠璃紺色の瞳に映ったのは、川の向こう岸で従者たちが馬を慌てて、止めているところだった。


「リエラ様っ!

「ヒュー様っ!」


 ふたりを呼ぶ声がかなり離れたところから、田園風景に響き渡った。ヒューに覆いかぶされているリエラは、前を見たまま、


「どうしたんですか?」


 冷静な策略家だが、ヒューの声は焦りが混じっていた。


「私たちが通った振動で橋が崩れ落ちたんです」

(橋が落ちた。 

 従者は全員、向こう岸。

 自分たち以外、誰もこちら側へ来れないーーという可能性が非常に高い。

 彼らと、はぐれてしまうーーという可能性が高い)


 そうして、冷静な策略家の頭脳には、目苦しく膨大なデータがザーッと流れ出した。


(全ての可能性の数値が変わってしまったかも知れない!)


 ここまで、約一秒。戦況が激変してしまった。従者とはぐれてしまったことに、リエラは驚いて、振り向きそうになったが、


「えっ!」

(大変だ。みんな、困るかも知れないよ)


 落ちる危険性があるため、ヒューは彼女の背中に胸を押しつけて、


「振り向かないで」


 未だに流れ続けているデータの中から、必要なものを、策略家は選び出す。


(リエラさん。

 私。

 全てのこと。

 一番、守らなくてはいけないもの)


 リエラは自分を守るように、覆いかぶさっているヒューの下で、


「はい」


 大人しくしようとした時、馬のスピードが緩み始めた。


(あ、少し遅くなった。

 これで大丈夫かも知れない)


 姫は安心して、ほっと胸をなで下ろした。だが、リエラとは正反対に、ヒューは前方の空を見上げ、いきなり激情の渦にジャボンと飲み込まれてしまった。さっきまで膨大なデータの流れていた冷静な頭脳は、一瞬にして、止まってしまい、真っ白に。


(これ以上は危険かも知れない。

 可能性が……導き出せない。

 どうなるかわからない。

 決められない。

 判断が出来ない……)


 数々の完璧なまでに、素晴らしいゲームをしてきた策略家。だが、彼にも弱点が。ヒューの呼吸は激しく乱れ始めた。


 王子の異変を感じて、リエラが顔を上げると、自分たちを飲み込むように、真っ黒な雲が空で渦巻いていた。


(おかしい。

 でも、さっきと違う気がする……。

 何だか、優しい感じがするよ。

 どこかでーー!!)


 姫がそう思った時、ヒューの腕が急に震え始めた。リエラは顔を後ろへ少し向け、


「どうしたんですか?」

(ヒューさん、様子が変です)


「いいえ……何でもないですよ」


 ヒューの表情は非常に厳しいものだった。馬に揺られる彼の手の震えは止まらない。


(このままではいけない。

 手の震えが止まらない。

 止められない)


 そうして、雷鳴が遠くの空でドドーンと響いた。馬は導かれるように、雲の下へ向かってどんどん走ってゆく。近づくにつれて、ヒューの脳裏にあの夢が輪郭を少しずつ持ち始めた。


 ーーーーー何か大切なものをなくしてしまった。


 立ち上るたくさんの煙。

 降りしきる雨。

 遠くには、雷鳴が響き。

 ずぶ濡れで、一人たたずんでいる。


 何が起きたのかわからない……。

 なぜ、なぜ……なぜ、こんなにも突然……。


 ヒューの意思に反して、手綱を持つ手の震えが増してゆく。


(手を離してはいけない。

 離せない。

 自分の体が、勝手に反応して……。

 力が……入らない。

 手が……震えて。

 胸が……苦しい。

 意識が……)


 策略家の地位を完全に失っている王子とは反対に、ボケ姫は情報を手に入れた。


(雷のせいだ、きっと。

 ヒューさんの心の鍵は、雷が関係してる。

 だから、自分がしっかりしなくちゃいけない)


 彼女は急にしっかりした瞳に変わり、きっぱりと、


「私が変わります」

「大丈夫……です」


 ヒューの声は自分では抑えが効かないほど震えていた。さらに、あの夢が次々に再生されてゆく。


 絶望

 後悔

 悲しみ

 孤独

 切なさ

 罪 

 運命


「変わります」


 リエラが再び言った時、大粒の雨がザーッと降り注いだ。ふたりの服は一瞬にして、ずぶ濡れ。それに反応して、ヒューは手綱から手が外れそうになり、


「くっ……!」


 雷光のあと、しばらくの間を置き、雷鳴がピカーンと鳴り響いた。リエラは少し強い口調で、


「変わってください!」

(自分がしっかりしないといけない。

 自分がヒューさんを助けないといけない。

 自分にしか助けられない。

 助けたい。守りたい)


 ヒューは言葉を発することすら、もう出来なかった。ただ、手綱を離さないようにするだけで、手一杯。


「っ……!」

(体ではなく……心が……弱く……。

 意識が途切れる……。

 あなたには頼れない!

 誰にも頼れない!

 頼りたくない!!)


 大切だからこそ、受け入れたくない矛盾した感情。その中で、ヒューは必死で孤独に耐えていた。リエラは大声で叫び、


「変わりますっ!!」


 ヒューの手から手綱を無理やり奪った。


「…………」


 そして、王子の大きな左手を自分の前に持ってきて、


「大丈夫です。安心してください」


 リエラの心には、ヒューを守りたいという気持ちが、自然と広まった。立場が完全に逆転。彼は手の震えを必死で抑えながら、無言で彼女に従うしか手立てがなかった。ヒューはリエラに身を預けたまま、時が急速に巻き戻るように、記憶が過去へと向かい、


 この気持ちを表現出来るのは、どの言葉なのでしょう?

 何を信じて、この先、生きていけばいいのでしょう?

 なぜ、私一人が……。

 

 あの夢が全て、浮かび上がったその時、雷光と共に雷鳴がズドンと響き渡った。とうとう、ふたりは雷雲の中心に入った。


 ヒューの身には、自分がバラバラになってしまいそうな、引き裂かれる想いが広がってゆく。ブラックアウトが起こり始め、自分の居場所がわからなくなりそうになるが、必死に意識を呼び戻し、自分の胸の中にある、姫の小さな背中の温もりを強く感じて、


(私の生きている本当の意味は何なのでしょう?

 あなたとなら、そちらの答えを見つけることが出来るのでしょうか?)


 追憶が誘発剤となり、ふたつの言語が交差し始める。


(心の奥深く……Feel(感じて)、伝えて。

 感じられて、To be told(伝えられて)。

 But even so (それでも)……側にいて。

 Disappearing things(消えていくもの)。

 浮かび上がるもの。

 I can not return again(引き返せなくなる)。

 取り戻せなくなる。

 Everything(何もかも)が不確かで。

 ephemeral、brittle……(はかなく、もろい……))


 服は全身の肌にまとわりつき、雨が目に入り視界がゆがむ中、ふたりはひたすら走った。リエラは真っ白に煙る景気の中を必死で探す。


(建物はどこ?

 雨宿りしないと、休まないと。

 このままじゃ、ヒューさん、また倒れちゃうよ。

 どうして、どこにもないんだろう?)


 街外れに彼らは来てしまっていた。無言のまま、ふたりはさらに走り続ける。リエラの息が、少し上がって来て、


(ちょっと、疲れてきたね。

 さっきからずっと走ってるもんね。

 早くしないと……)


 そこで、スピードが緩んでいることに気づいた。ボケ姫は馬の背に視線を落とし、


(あれ? もしかして、馬も限界なのかな?

 さっきより、すごくゆっくりになってるけど。

 みんな、疲れてるんだね。

 もうちょっと、お願いするね。

 見つかるまで)


 人だから、動物だからという姿形で、態度を変える姫ではなかった。命あるものはみな平等。尊き心を持っていた。そうでなければ、転生の輪のメンバーにはなれない。ある一定以上の条件を満たした者だけが選ばれる。限られた一年間は、人の常識をはるかに超える重大なものが隠されている。彼らは巨大な運命の中にいた。


 しばらく行くと、小道が見えてきた。


(あ、もしかしたら、建物があるかも知れない)


 リエラは手綱を操り、馬の進行方向を左へ変えた。その道を抜けると、不思議な光景が広がっていた。姫は目をパチパチ。


(え、地面が青空?

 逆立ちしてる?)


 ここは、ボケ倒してはいない。頬に雨が当たり、灰色の空から落ちて来ているのを感じて、


(ううん。

 雨降ってるから、青空はおかしいよ)


 再び視線を落とした先には、まるで晴れ渡った夏空のようなキラキラとしたターコイズブルーの地面に広がっていた。


 そこで、ふたりの魂に誰かの声が届き、

 

【真実の愛 はぐくみて 巡り合う】


 その時、ふたりの体はびくっと反応した。逆らえない運命に無理やり引き裂かれ、複雑な世界観の中で、時は巻き戻り、再び動き出し、大きなふたつの力よって踊らされながら、使命という名の下に真実をつかもうとする、魂の奥底の叫びを覚えて、ヒューとリエラは、


(何でしょう?)

(な、何だろう?)


 ふたりが無言のままさらに近づくと、鮮やかな青は湖だった。鏡のように光り輝く湖面の中央に小島があり、そこには控えめな建物が建っていた。しかし、不思議なことに、そこへ行く道が見当たらない。湖の真ん中に、島がぽっかり浮かんだ状態。


(どうやって、あそこに行くんだろう?)


 リエラは不思議そうに首を傾げていた。雨が小ぶりになり、ヒューは平常を取り戻しーー冷静な頭脳が再び戻った。だが、彼の瑠璃紺色の瞳に映った光景に、策略家が驚くことはなかった。


 馬のスピードはもう歩くくらいになっていたが、そのまままっすぐ湖を目指して進んでいた。ひどい疲労感の中で、リエラが手綱を操っても、


(止まってくれないね。

 困ったね。

 このままだと、湖に落ちちゃうんだけど……)


 あと一歩踏み出せば、湖面に馬が足を突っ込むところまできた。その時、バーンという音と共に、リエラたちの眼前に、青い獅子の紋章が光を帯びた状態で浮び上がった。その瞬間、不思議なことに、ガラスのような透明な素材でできた橋が中央の島にまで架かった。リエラは使いすぎた腕の筋肉を震わせながら、目を大きく見開いた。


(え、魔法みたいだよ。

 どうやって、出来たんだろう?)


 ヒューはあり得ない光景を前にして、瞳をすっと細めた。表情は変えないまま。

 そして、馬が足を橋へ一歩踏み入れると、ふたりは同じ想いに胸が引き裂かれそうになった。


(苦しくて、切ない……)


  

 ふたりが島へ着く頃には、雨も止み、雷雲もすっかり消えていた。綺麗な花々が両脇に咲き乱れる小道の奥で馬を止め、リエラはヒューへ振り返って、


「ヒューさん、大丈夫ですか?」

「……えぇ」


 冷静な頭脳は戻ったが、体は言うことが利かない。ヒューはまだ少し震えていた。リエラが素直に頭を下げ、


「すみません、私のせいで」

(自分がしっかりしてなかったから、ヒューさんに迷惑かけたんだ)


 まだ震えが残る腕を感じながら、彼は珍しく真剣な面持ちで、ゆっくりかぶりを振る。


「いいえ、私がいけなかったんですよ」

(予測を見誤ったのは、私のせいです。

 あなたのせいではありません。

 私があなたに許しを乞うことはあっても、あなたが私に許しを乞うことはありません)


 残念ながら、優雅な策略家は情報をひとつ見落としている。しかも、それはかなり大きなもの。遠い昔にはきちんと覚えていたこと。だが、転生してしまい、前世の記憶がないため、予測は非常に困難。逃している情報が急に動いて来た結果なのだ。


 リエラはヒューに優しく微笑んで、


「降りられますか?」


 その笑顔を見たと同時に、彼の中から恐怖も不安も一瞬にして消え去った。体と声の震えは止まり、


「えぇ」

(胸が安らいで……苦しい)


 ヒューの中に新たな感情が芽生えたが、冷静という名の盾でそっと隠した。長い間、馬に乗っていたので、地面に降りたリエラは、少しふらつきそうになって、


(うわっ! 足ががくがくしてるよ。

 しっかりしないとね。

 ヒューさんの方が今は大変だから。

 まっすぐ、気づかれないようにしっかり歩こう)


 守りたいという気持ちから、リエラは何とか地面に真っ直ぐ立った。ふと背後が気になって、


(そういえば、さっきの橋どうやって、出て来たのかな? 手品?)


 振り返り、ボケ姫は大声を上げる。


「えぇっ!」

(た、大変だ!)


 慣れた感じで、リエラのすぐそばに、ヒューは地面へすとんと降りた。


「どうしたんですか?」


 リエラはすぐそばに立つヒューに振り返って、自分たちが来た方向を指さし、


「橋がなくなってます」

(帰れないです)


 ヒューは特に気にした様子もなく、振り返った。彼の冷静な瞳には、真っ青な湖面があるだけで、さっき渡った美しい橋は消えてしまっていた。あごに手を当て、湖をうかがう。


「そうみたいですね」


 日が傾いて来て、まわりの山々や木々が色を変え始めた。移ろいゆく時の中で、リエラは考え始めて、


(どうやって帰るんだろう?

 泳いで渡る?

 それとも、目が覚めたら、地球に戻ってて。

 また、こっちに来たら、お城にいるのかな?)


 かなりご都合主義な考えを展開しているボケ姫。ヒューのことなど忘れて、彼女は建物へ顔を向け、


(何だか、前にもここに来たことがある気がする。

 夢で見たのかな? んー……?)


 いつまでも考えているリエラに、ヒューの優雅な声が。


「リエラさん。このままこちらにいては、風邪を引いてしまいますよ」


 リエラは我に返って、ヒューに視線を落とした。


「あぁ、はい」

(そうだね。

 雨の中、走ってきたから、びしょ濡れだもんね)


 雫がしたたり落ちる服で、ふたりは建物へと歩き出した。ふたりの土を踏むザザっとした音が響いてゆく。建物自体は小さいが、白煉瓦とコバルトブルーの屋根で出来ていて、リエラの中で何かと重なり、


(コランダム城に似てるね。どうしてかな?)


 時折、空を飛んでゆく鳥の羽音だけが、静かな景色に舞い踊る。自分たちの足音を聞きながら、立派な扉を前までやってきた。先走りのリエラは扉に手をかけたが、ガチャっと鳴り、開かなかった。


(あれ? 閉まってる)


 人気のない場所にある建物。閉まっているのは当然。リエラは自分とヒューの濡れた服を眺めて、


(どうしようかな? このままじゃ、風邪ひいちゃう……)


 その時、ヒューはリエラの背後から、扉に手を伸ばした。すると、グーンという低い音と共に、さっきと同じ、青い獅子の紋章が浮かび上がった。それが手前へすっと開いた。


「まっ、魔法ですか?」

(ヒューさん、すごいです)


 リエラの質問に、策略家は珍しく不思議そうな顔で、


「そうかも知れませんね」


 ここまで、ボケ姫はスルーしまくり。ヒューの言動を全く理解していない。かなり戦況は不利だが、ふたりきりになるチャンスがめぐってきた。心の鍵を見つけられるかもしれない。


 リエラを前にして、ヒューがあとに続き中へ入った。

 暖炉のあるリビングと、小さなベッドルーム、シャワールームしかなかった。ふたりはリビングに残り、ヒューは木のテーブルの上に、自分の腰に巻きつけていた、小さな荷物を置いて、


「どうしますか?」


「え、何がですか?」

(意味がわかりません)


 ボケ姫、初っ端から手を打ち間違えそうになっている。きょとんとしたリエラを前にして、ヒューはびしょ濡れのままの服で、くすくす笑い出した。


「このままで、いるわけにはいきませんよ」

(変わらないところもあるんですね)


 さっきまで、あんなにしっかりしてたのに、リエラはまた元に戻っていた。姫は淡いオレンジのベレー帽を落とさないようにしながら、雨で透けるようになっている服を見下ろして、


「あ……あぁ、そうですよね」

(風邪引いちゃうね。

 困ったなぁ。

 従者さんたちとはぐれちゃったから、着替えとかないんだよね)


 考え始めたリエラには、ヒューが先手を打った。


「着替えがないか探しましょうか?」


「あ、はい」

(あるかも知れないね)


 リエラはのんきにうなずいた。策略家の言葉は疑問形。ということは、ヒューの次の言葉はすでに計算済みのもの。こう打ってきた。


「私はベッドルームを探してきますから、あなたはリビングをお願いします」

「わかりました」


 内容がおかしい。それに、リエラは気づかず、ふたりはそれぞれの部屋を探し始めた。ヒューはベッドルームに入って、クローゼットの中を軽く見渡し、


 バスローブが一枚。

 バスタオルが二枚。

 毛布が二枚。


 一瞬にして、情報を冷静な頭脳に叩き込んだ。次に、自分の持ってきた数少ない手荷物を思い浮かべ、あごに手を当て、


(そうですね……)


 膨大なデータがなだれ込み、策略家は一瞬にして全ての可能性を導き出した。


(それでは、こうしましょうか)


 ヒューはクローゼットから、バスローブとバスタオルを取り出して、リビングへ戻った。彼の冷静な視線の先には、キッチンの棚の中を懸命に探しているリエラが。ヒューは優雅な足取りで、ロングブーツのかかとを鳴らしながら、相手へ近づいていき、


「見つかりましたよ」

「よかったです」


 リエラは棚からヒューへ、ほっとした顔を向けた。ヒューは珍しく困った顔で、


「タオルは二枚見つかったんですが、バスローブは一枚しかありませんでした」


 これは事実。だが、態度がおかしい。再びスルーして、リエラも困った顔で、


「そうなんですか」

(ふたりとも濡れちゃってるから、一枚はちょっと困るね)


「リエラさん、使ってください」


 王子としては、当然、レディファーストだ。姫に譲るのが当たり前だが。冷静な頭脳の中では、


 あなたにはバスローブは不要ーーという可能性が非常に高い。


 あることから導き出したものだ。さらに、策略家の特殊な考え方を駆使し、美しいほど、推し量ったものをシンクロさせながら、


 あなたは私にバスローブを譲るーーという可能性が高い。

 三つ先のあなたの行動は倒れるーーという可能性が高い。

 あなたは私に驚いて、冷静な判断が出来なくなるーーという可能性が高い。


 新しい可能性と、今までの可能性の数値が違っている。作戦を変えてきたのは、このせい。

 ヒューはバスローブをリエラへわざと差し出していた。ボケ姫は策略家の思惑通り、遠慮して、


「いえ、ヒューさんが使ってください」

(風邪、引いちゃいますよ。

 さっき、倒れそうになってたじゃないですか)


 ヒューは優雅に微笑みーー姫を罠へをさらにいざなう。


「よく考えてから、答えないといけませんよ」

(私は困りませんけど、あなたは困るのではないんですか?)


 一旦、コマを後退をさせた。そのため、リエラははっとし、


「え……?」

(よく考えてから、答える?)


 戻された手の内を探ることもせず、ボケ姫は言われた通り、


(はい、考えます。

 服はびしょ濡れだね。

 乾かさなきゃいけないよね?

 ということは、脱がないといけないね。

 服を脱ぐと……裸……‼)


 リエラはびっくりして、飛び上がり、


「えぇっ! そ、それは、ヒューさんも一緒じゃないですか⁉」


 後ろへ倒れ始めた。ヒューは優雅に、彼女をさっと受け止めて、


「きちんと考えてください。他に方法があるのではないんですか?」


 また、一コマ後退させた。冷静な思考回路は未だ稼働中。


 あなたの二つ先の行動は、以下の可能性がある。

 そのままでいるーーという可能性。

 気づくーーという可能性。

 そのままでいるーーという可能性の方が、気づくーーという可能性よりも高い。

 そうなると、あなたは冷静に判断が出来ないーーという可能性がさらに高くなる。


 策略家はリエラの二つ先の手を完全に読んでいた。正直で素直なリエラは、当然、意表をつく手など打てるはずもなく、自ら罠に突っ込んでしまった。ヒューの腕から一旦離れ、床の上にロングブーツを履いた二本足でしっかり立ち、


「あっ! そうですよ。私、これ取れば大丈夫です」

(服いりません、人魚ですから)


 大慌てで、ベレー帽を脱ぎ、髪飾りを髪から取った。ヒューは心の中でくすくす笑い出した。


(恐いくらい、私の罠にきちんとはまりますね、あなたは)


「わっ!」


 リエラは急に人魚になってしまったので、また倒れそうになった。ヒューはすぐに抱きかかえて、


「困った人ですね、あなたという人は」

(あなたは冷静に判断出来ないーーという可能性がさらに高くなった)


 知らないうちに、次の一手がどんどん打たれていく。が、下着姿と同じような状態で、抱きかかえられているので、リエラはドキドキして、顔を真っ赤にした。


「すっ、すみません」

(また、抱きかかえられてるよ⁉

 は、恥ずかしいよ)


 ふたりきり。

 透き通るほど濡れた服。

 お互いの温もり。

 ふたつの鼓動。

 男と女。


 何が起きてもおかしくない状況。ヒューは意味あり気に、リエラの瞳を覗き込んで、


「ベッドがいいですか? それとも、ソファーがいいですか?」

(あなたが聞き返すーーという可能性が高い。

 そのために、次の私の質問には、冷静に答えられるーーという可能性が高くなる)


 このまま、大人の情事を教えられても不思議ではない。男の手がかかりそうなのに、恋愛鈍感少女はぽかんとし、


「え、何でですか?」 


 教えるのだ。相手をパニックにしては意味がない。リエラを抱きかかえたまま、ヒューはわざと自分の腕を動かして、


「このままでは私が困ってしまいますよ」

(あなたが驚かないーー可能性の高い言葉を私は返す。

 さらに、あなたが冷静に答えらえるーーという可能性が高くなる)


 ボケ姫は罠にはまっているのに、全く気づかず、


「あぁ、ソファーでお願いします」


 透き通ったセクシーな服を着たヒューはすかさず、次の一手。


「なぜですか?」

(あなたは私の『ベッドがいいですか? それとも、ソファーがいいですか?』の質問に、驚いていないように見える)


 ベッドとソファーは意味が違ってくる。だが、お子様リエラは屈託のない笑顔で、


「眠くないからです」

(まだ、夜になってないもんね)


「そうですか」


 ヒューは間を置く時の言葉を使い、心の中で優雅に降参のポーズを取った。


(あなたの恋愛の無頓着さは、事実であるーーという可能性が非常に高い)


 ここで、ワンゲーム終了。


 とりあえず、ヒューはリエラの要求通り、ソファーに彼女をそっと降ろした。そして、隣のベッドルームで王子はバスローブに着替えて、ソファーでうずくまっているリエラのところへ戻ってきた。


 胸元が見えないように、尾ひれで隠している姫の背中から、王子はエチケットをきちんと守り、人魚姫の素肌を見ないようにして、


「寒くないですか?」

(気づかないみたいですね)


 罠はあちらこちらに張りめぐらされている。別のゲームは続いている。リエラは戸惑い気味で、


「……ちょっ、ちょっと寒いです」

(ほとんど、裸だもんね。

 は、恥ずかしいね。

 夢じゃないからね。

 あっちに戻ったら、落ち着いて学校に行けるかな?)


「こちらをどうぞ」

(あなたが風邪を引いてしまいますよ)


 ヒューはリエラの肩から毛布をそっと掛けた。ヒューの乾かしきれなかった、瑠璃色の髪が、人魚姫の視界にさっと落ちてきた。彼は今まさに、水も滴るいい男。リエラはさらに反対側へ向き、毛布で体を包みながら、


「……あ、ありがとうございます」

(ヒューさんは、優しいんですね)


「どういたしまして」

(お礼を言われるようなことは、私はしていませんよ)


 ヒューはバスローブのまま、リエラの隣に座った。持ってきた毛布は一枚。実際は二枚あるのに、わざと一枚だけにした。さらに、別の罠が稼働している。


 傾き始めたオレンジ色の光。

 同じソファーに座るふたり。

 このまま押し倒されてもおかしくない状況。


 だったが、リエラのお腹がグーっと鳴り、ムードが台無しに。ヒューは少し微笑んで、


「お腹が空いたんですか?」

(マリアに似ていますね、あなたは)


 毛布で自分の体を隠せたリエラは落ち着きを取り戻し、王子へ顔を向け、


「はい。ヒューさんは空きませんか?」

(さっき、たくさんエネルギー使ったんだね。

 すごい距離、走ってきたもんね)


「私も空きましたよ」

(先ほど、私の手から手綱を取って、引いていた人だとはとても思えませんよ。

 あなたは、大人なのか子供なのかわかりませんね)


 ヒューはくすくす笑い出した。リエラは王子をまじまじと見て、きょとんとした。


「えっ?」

(あれ、何かまたおかしいこと言ったかな?)


 ヒューは歩くことの出来ないリエラの代わりに、キッチンの棚や少ない荷物から食材を探してきた。ふたりはテーブルに置かれたそれらを眺めて、


 ワイン。

 チーズ。

 干し肉。

 マリアがくれたお菓子。

 ジュース。


 ヒューはあごに手を当て、冷静な瞳にそれらを映していた。


(そうですね……こうしましょうか)


 水面下で動き始める策。王子はいつも通り優雅に、


「主食から、いただきましょうか?」


「はい」

(デザートはあとだね)


 リエラは素直にうなずいた、これから、とんでもない方向に向かっていくとも知らずに。ふたりは分けあって食べ始め、


「ここってどこなんでしょう?」


 リエラはジュースを一口飲んだ。十九歳のヒューも同じものを手にしながら、


「わかりませんね」


 『わかった』とは決して言わない策略家。その否定形を使うのは怪しい。だが、何事もなかったように、ふたりきりの、濃密な時間はただただ過ぎてゆく。


 ふたりが窓の外へ目を向けると、日がだいぶ沈みかけていた。綺麗な夕焼けの空を、鳥たちが群れをなして飛んでゆく。それを見つめながら、リエラは食べる手を止めて、


「もう、夕方なんですね」

(ずいぶん、時間が過ぎたんだね)


「そうですね」


 ヒューは優雅に間を置くための言葉を使い、


(馬が暴走した時点で、午後を回っていた)


 夜になると、従者は私たちを探せないーーという可能性が高くなる。

 はぐれてしまったために、私たちの居場所を把握出来ないーーという可能性が非常に高い。


 彼はあごに手を当てて、視界の端で、のんきに食べ物を口に運んでいるリエラを捉えて、


 リエラさんは今、落ち着いているように見える。

 冷静な答えを返すことが出来るーーという可能性が高い


(そうですね……こうしましょうか)


 誰もふたりのことを探せない。本当にふたりきり。時はどんどん流れ、日が暮れ、やがて、色欲の漂う夜がやって来る。ヒューはリエラの瞳をじっと見つめ、


「夜は危険ですから、今夜はこちらに泊まりましょうか?」

(私とふたりきりで、一晩、過ごしましょうか?

 何があるかわかりませんよ)


 大発言を平然と言ってのけた。このままいくとも、一線超えてしまうかもしれない。だが、恋愛鈍感少女は自分の身の危険も顧みず、素直にうなずく。


「はい、わかりました」

(確かに夜は危ないね。

 ヒューさんの言う通りだね)


 全然、大人の恋のゲームが始められない発言に、ヒューは心の中で優雅に降参のポーズを取った。


(こちらの話題に関しては、考えずにではなく、本当にわからずに応えているみたいです。 

 困りましたね。

 時間がずいぶんかかるかも知れません。

 確かにこれでは、みなさんがお手上げなのもわかりますよ)


 

 しばらくすると、陽が落ちて外は真っ暗になった。燭台が壁にふたつだけ、十分な灯りとは言えない。部屋中がぼんやりとした、オレンジ色に染まっている。


 昼間よりも気温が下がり、湖を吹き抜けてくる風は、かなり冷たかった。その上、薪もなく暖炉をつけることが出来ない。窓がカタカタ揺れるたびに、ロウソクの炎が絡みつくように揺れ、ふたりの顔を妖しげに映し出していた。


 リエラは冷たくなった手を、毛布の下でこすり、


(寒くなってきたね)


 彼女は隣に座るヒューのバスローブ姿をちらっとうかがって、


(そうだ。

 ヒューさんの方が、もっと寒いよね?)


 毛布が落ちないように気をつけながら、姫は王子の横顔に、


「ヒューさん、毛布一枚しかないんですか?」


 優雅な策略家は平然と嘘をついた。


「えぇ、一枚しかありませんでしたよ」

(二枚ありますよ、本当は)


 『私はベッドルームを探してきますから、あなたはリビングをお願いします』と私は伝えた。

 そちらにあなたは、『わかりました』と応えた。

 着替えが置いてあるーーという可能性は、ベッドルームの方が高い。

 従って、あなたが毛布を探し出すーーという可能性は非常に低い。

 あなたは私を心配するーーという可能性がある。

 これらから判断して、あなたのそばに、私が近寄れるーーという可能性が高い。

 私があなたに近づくと、あなたは冷静な判断が下せないーーという可能性が高い。


 ヒューの中では、今までの可能性の数値が変わっていた。このことと、策略家の嘘に気づかず、リエラは素直に相づちを打って、


「そうですか」


 王子の心の鍵を探しているボケ姫は、策略家の身を案じて、


(下着姿なんだよね、自分は。

 ちょっと恥ずかしいけど、ヒューさんが風邪を引くのは困るなぁ。

 だから……よし!)


 決心して、顔は王子と反対の方へ向けたまま、毛布の片方をヒューへ差し出した。


「ヒューさん、一緒にかぶりませんか?」

(一枚しかないですから) 


「よろしいんですか?」


 ヒューは質問に質問で返した。策略家とボケ姫、せめぎ合っている。だが、瑠璃色の髪を持つ冷静な頭脳の中では、


 人魚姿であるために、あなたはソファーから動けないーーという可能性が非常に高い。

 あることに気づかない限り、あなたは私から逃げられないーーという可能性が非常に高い。


(これらから判断して、あなたの行動の自由が今よりももっと、制限されてしまいますよ)


 本当に相手が困る罠を、ヒューは仕掛けてこない。ただ、子供のように、悪戯好きなだけ。それなのに、ボケ姫は自分から罠という鎖を体に巻きつけ始めて、


「はい……大丈夫です」

(恥ずかしいことよりも、ヒューさんのことが心配です)


 顔を赤くしたリエラの手から、彼は毛布を受け取り、優雅に、


「そうですか、ありがとうございます」


 私の望んだ通りに、あなたが行動するーーという可能性が非常に高くなった。


 ここから、強制的にゲームスタート。


(あなたと私のふたりきり。

 この先、私は、あなたのことをどのようにしましょうか?

 今夜は、もう逃げられませんよ、私の腕の中から)


 チェスのグラウンドマスターの前に、ゲームのルールを知らない初心者が、目隠しをされて、盤上に立たされることとなってしまった。リエラは彼と反対の方向を向きながら、引っ張られた毛布を感じて、


「届いてますか?」

(見えると、恥ずかしいからね)


「少し足りないみたいですよ」


 ヒューの優雅な声が左後方から響いてきた。リエラはそのままの状態でさらに近づいて、


「わ、わかりました」

(もう少し、ヒューさんの方に寄らないと)


「まだ、足りないみたいですよ」

(おかしな人ですね、あなたは)


 リエラの後ろ姿を冷静に捉え、ヒューは優雅に微笑んだ。勝つためなら、平気で嘘をついて来る策略家。それにまだ気づかず、リエラは毛布をさらに左へずらし、


「そうですか」

(もうちょっと、渡さないといけないんだね)


「私の方を見てください」


 ヒューの声が急に耳元で舞った。王子の香水が雨の匂いと混じり、いつもと違った香りになっていた。それを感じ取ったリエラは固まった。


「えっ……?」

(何だか、すごく近くにいるような気がします)


 リエラの言動がおかしくて、ヒューはくすくす笑いながら、


「自分で確認してください」


「な、何をですか?」

(今までと、距離が同じような気がします)


 数々の至近距離での罠が蘇って、リエラの心臓はバクリと波打った。ヒューは前かがみになり、リエラの背後にさらに近づいて、


「私が毛布をかぶっているかどうかですよ」

(いつまで、そちらを向いているつもりですか?)


「……あぁ、はい」

(そうだね、顔だけちょっと向けるなら、胸は見えないから、恥ずかしくないね)


 リエラはこうして、簡単に駒を弾かれてしまった。バカ正直に、ボケ姫は振り返り、


「えぇっ!」

(キ、キス出来そうな距離です!)


 優雅な笑みを浮かべている王子が、十センチ以内の距離に。リエラはびっくりして倒れそうになったが、すかさず、ヒューは次の一手ーー彼女の左腕でしっかり右手でつかんで、自分の方へいとも簡単に引き寄せた。


「わかりましたか?」

(あなたのことを知りたいんですよ)


「あ、あの……」

(ヒューさん、私のこと抱きしめてます!)


 リエラはものすごく戸惑った。もう完全に策の中。冷静に判断ができていない。腕を掴まれているだけで、抱きしめてはいない。ヒューは彼女の瞳をじっと見つめ、着実にチェックメイトを狙ってゆく。


「よろしいんですか? 今の自分の姿をよく思い出してください」

(私が近づいただけで驚くあなたは、その肌に私が触れたら、どのような反応をするのでしょう?)


 リエラは毛布の下の自分と、ヒューがどうなってるのを想像して、


「あ………」

(下着姿で、ヒューさんが近くにいて……。

 ヒューさんの服が、自分の肌に当たって……。

 ドキドキして、くらくらして……どうかしそうです!)


 倒れそうになる姫を、ヒューは自分の胸に引き寄せ、両腕でリエラの肩を捕まえた。


「あなたが嫌なら、私は出ますよ」


 今のあなたは、私の言葉を断れないーーという可能性が非常に高い。


 あることに気づいている策略家は、この可能性を導き出していた。自分自身の言動に気づいていないリエラは、罠にすっかりはまって、またひとつ駒を取られてしまった。


「だっ、大丈夫です」

(よくわからないけど、そう思います)


 

 しばらく、ふたりは何も話さずに黙って座っていた。ヒューは自分の腕の中にいるリエラの温もりを感じながら、圧倒的に優勢な勝負の中でも、冷静な頭脳を駆使する。いつ戦況が変わるかはわからない。


(それでは、どうしましょうか?

 そうですね……?)


 策略家の耳に、落ち着いてきた、リエラの声がふと聞こえてきた。


「そういえば、ヒューさん、怪我したりしませんでしたか?」

(さっき、森の中を走ってたから、枝にぶかりませんでしたか?)


 不意打ち。ヒューは心の中で、優雅に微笑んで、


(そちらの質問をリエラさんはしてきた。

 それでは、こうしましょうか)


 あっという間に作戦変更。策略家は何気ない顔で、


「すり傷は出来ましたけど、大したことはありませんよ」

(こちらは本当ですよ)


 リエラは恥ずかしさも忘れて、毛布から慌てて手を出し、


「ほ、本当ですか⁉ どこですか⁉」

(手当てしないと、いけないです!)


 自分に向かって伸びてきた姫の手首を、ヒューは両手で素早くつかんで、瞬時に真剣な顔つきになった。優雅さを含むが、非常に冷たい声で、


「なぜ、あなたは私のことを急に気にするようになったんですか?」

(おかしいですよ、最近のあなたは)


 冷静という名の仮面から、激情という獣が垣間見えた気がした。リエラはびっくりして、


「えっ?」

(すごく真剣な顔してる。初めて見た)


 手を引こうとしたが、王子は姫の手首をさらに強くつかんで、逃さなかった。


「なぜですか?」

(また、自分自身のことに気がついていないんですか?)


「なぜ……だろう?」

(本当だ。

 どうして、ヒューさんのこと気にするようになったんだろう?)


 淡い炎が揺れる中で、リエラの視線が彷徨い始める。ヒューは構うことなく、リエラの顔をじっと見つめ、


「そちらはいつからですか?」

(何が原因なんですか?)


 王子に両手の自由を奪われたまま、リエラはさらに戸惑う。


「いつから……なんだろう?」

(いつから、変わったんだろう?)


 質問を重ねたが情報は得られなかった。ヒューはリエラの手首から手を離し、


「そちらを考えてください」

(あなたのそちらの感情が何から来るものなのか、私にはわかりません。

 何かあったんですか?)


 いくら策略家でも人の心の中までは、正確にはわからない。少し痛みの残る手首を感じながら、リエラは


「わかりました」


 素直に返事を返し、正直に考え始めた。


(何か変わったのかな?

 いつからだったのかな?)


 なぜ、この質問をヒューがしてきたのか、リエラは気づかなかった。彼女は、自分の気持ちがいつ、何が原因で変わったのかを見つけるので手一杯。姫の横顔を視界の端に映しながら、王子は雷雨に見舞われた時のことを思い返していた。


(知りませんでしたよ。

 あなたの中に、私を守れるほどの強さがあるとは)


 いつまでも考え込んでいるボケ姫に、策略家は手を打った。


「わかりましたか?」


「わかりません」

(自分のことなのに、覚えてません)


 リエラが横に首を振ると、ゲームが止まってしまった。ヒューは王子としではなく、教師の立場で、


「それでは宿題にします。きちんと答えを出してください。よろしいですか?」

(大切なことかも知れないんです。あなたにとっても、私にとっても)


「はい、わかりました」


 姫ではなく、リエラは生徒として、素直にうなずいた。

 ここで、ツーゲーム終了。



 またふたりは、しばらく沈黙した。相変わらず、湖を吹き抜けて来る風で、窓はカタカタと鳴っていた。さっきよりも短くなったろうそくの炎が儚げに揺れる、薄暗い部屋で、ヒューはリエラと触れている右腕の温もりを感じて、


(静かな時間ですね)


 リエラは反対に左腕のヒューの温かみが伝わって、


(すごく静かだね)


 二人の呼吸が静寂に響いてゆく。


(あなたをこんなに強く感じたことは初めてです)

(ヒューさんがすごく近く感じるね)

(心が乱されます)

(少しドキドキするね)


 瑠璃紺色の瞳の端に、姫を映して、


(ですから、あなたを私の虜にしたいんです)


 ブルーのくりっとした瞳に、王子を映して、


(明日の朝まで、ヒューさんと一緒なんだ)


(せめて今夜だけでも)

(何だか、嬉しいね)


 このまま、無事に呪いが解けそうな勢いーーいいムードだったが、リエラのお腹のぐーっという音で一瞬にして崩れ去った。ヒューはくすくす笑い、


「また、お腹が空いたんですか?」

「はい」


 リエラは彼の顔を見上げた。ヒューはまだ残ってる食べ物を提案。


「マリアがくれたお菓子なら、ありますよ。そちらでよろしいですか?」

「はい、食べます」


 ボケ姫、食べ物には目がない。ヒューは傍に置いてあった、小さな箱を開け、


 チョコレート。

 マシュマロ。

 クッキー。


 中身を一瞬にして、確認し、


(そうですね……こうしましょうか)


 マシュマロをひとつ取り出し、リエラがわからないように、彼女と反対側のポケットにそれをそっと忍ばせた。こうして、新しいゲームがスタート。何もなかったように、自然なそぶりで、策略家はボケ姫の前へ、蓋を取った水色の箱を差し出し、


「どうぞ」


 薄闇だ、当然、リエラはヒューの行動に気づかず、幸せそうな顔で、


「マリアちゃんらしいですね」

(お菓子がいっぱいだ)


「えぇ」

(素敵な贈り物ですね)


 ヒューは優雅に肯定した。ふたりは毛布の隙間を少なくして、食べ始める。


「いただきます」


 リエラは嬉しそうに、クッキーから食べ始めた。


 ヒューは隙のない冷静な瞳のまま。

 リエラは食べ物につられて、何の考えもないまま。

 ポンポンポンと、駒が置かれてゆく。


 そうして、気がつくと、残りのお菓子がチョコひとつになっていた。


 ヒューは人魚姫に優雅に、


「リエラさん、どうぞ」


 私が譲ると、あなたは私に譲るーーという可能性が高い。 

 私の望む通りに、話を進められるーーという可能性が非常に高くなる。


「ヒューさん、どうぞ」


 リエラは彼の思惑通り、譲った。ボケ姫、同じ手に二度引っかかっている。さっきのバスローブの件をすっかり忘れていた。ヒューは自分の傍らに置いてあるものをさっと取り出し、


「それでは、こちらで決めましょうか?」

(あなたを知るための方法)


 策略家らしいアイテムに、ボケ姫はびっくりした。


「トランプですか⁉」

(どこから、持ってきたんですか?)


「どうですか?」

(カード遊びは嫌いではないですから、いつも持ち歩いているんです)


 かなり強引な手。ボケ姫ーーリエラはさすがに戸惑い、


「そうですね……?」

(ゲームで決めるんだ。

 何だか、ヒューさん、強そうな気がするな)


 気づいたか、ボケ姫。ヒューが何の情報を欲しがっているのかを。リエラが迷っている間に、策略家の冷静な頭脳には、


(先日、あなたは私に、『あの……あと、具体的に何をすればいいんですか?』と、結婚についての質問をしてきた。

 私はそちらに、『それでは、いずれお教えしますよ』と応えた)


 あなたは私に、そちらの答えを聞きたがっているーーという可能性がある。


 その質問を再びさせるーーリエラに大人の情事を教えるために、ヒューは的確な手を打った。


「それでは、こうしましょうか?」

「えっと、どうするんですか?」


 ヒューの言葉に、大抵そのまま聞き返すリエラ。当然、次のターンは策略家の思うまま。ヒューは自分が進めやすい、ルールを瞬時に作った。


「三回、勝負にしましょう。一回勝つ毎に、こちらのチョコレートを食べることが出来る。もしくは、相手に好きな質問をひとつすることが出来る。どちらか好きな方を選ぶというのは、どうですか?」

 

 三回の方が、あなたが私に質問してくるーーという可能性が高くなる。


 一回ではなく、三回勝負なのだ、ここでは。リエラは大暴投もせず、珍しく話をきちんと理解していた。


「それって、三回勝ったら、チョコレートも食べられて、質問も二つ、出来るってことですか?」


 ボケ姫、勝ちにいこうとしている。かなり不利な戦況なのに。ヒューは優雅に微笑み、先を促した。


「えぇ」

 

 あなたは、正直で素直な人という傾向がある。

 ですから、私に勝とうとするーーという可能性が非常に高い。

 

 冷静な策略家は、信じられないほど、何手も先を読んでいた。ボケ姫なりに、一生懸命考え、


(質問か。そうだ、聞きたいことがあったんだ。

 やっとこれで聞けるかも知れない!)


 心の鍵を見つけたがっているボケ姫は、策略家の誘導作戦に、あっさり乗ってしまった。


「わかりました、やります」


「ポーカーでよろしいですか?」

(あなたに質問をさせるためには、私は負ければいいということになる)


 あなたに気づかれずに、私が負けることは簡単に出来るーーという可能性が非常に高い。


(私は結婚について具体的に何をするか、あなたに教えることが出来るかも知れませんね)


 不確定要素を含んだまま、エロティックムード全開で、策略家対ボケ姫のゲームスタート!  勝敗がコントロールされているとも知らず、リエラは張り切って勝負に挑んだ。


「はいっ!」

(よし、絶対、聞きたいから、勝たないとね)


 慣れた手つきで、切られたカードが、滑るように五枚ずつ、テーブルの上で二つに分かれた。


 リエラは心の鍵を探したいので、真剣にカードを吟味していた。余分なカードを捨て、ストックから新しいカードをドローのリピート。


 リエラがカードを伏せるまで、ヒューはワンペアを揃えたまま。次々にドローするカードを適当に手元に混ぜて、捨てていった。ボケ姫がそろえるまで、策略家はワンペアのままじっと待った。


 リエラはなんとかストレートをそろえ、


(これで、たぶん大丈夫だね。よし!)


 ボケ姫はカードを伏せた。その仕草を見て、王子は恋愛鈍感少女に、


「もう、よろしいんですか?」


 出来レースだと気づくこともなく、ヒューの心を知りたいという感情に流され、リエラは笑顔で


「はい、大丈夫です」

(勝てると思います)


「そうですか」


 彼は優雅な笑みで、最後のカードをドロー。手元のワンペアを崩さないように捨て、リエラは勝つ気満々で、策略家に挑んだ。


「かけますか?」


 冷静な頭脳の持ち主、ヒューは短く肯定。


「えぇ」


 そして、カードめくる。

 リエラがストレート。

 ヒューはワンペア。


 リエラは策略家にわからないように、心の中でものすごく喜んだ。


(やった、自分が勝ったよ! これで聞けるね)


 ヒューはさらに次のゲームに移るため、散らばったカードを自分の手元に引き寄せ、


「一回目は、あなたの勝ちですね」


「はい!」

(よし、もう一回、勝とう。おう!)


 リエラは勝つ必要がもうないのに、当初の目的を忘れ、妙にやる気を出した。ヒューがカードを綺麗に切って、二回目の勝負。


 それも、リエラが勝った。

 策略家は一度、ボケ姫に質問させればいいのに、二回わざと負けた。この勝負、二重に罠が仕掛けられている。


 三回目。

 ヒューは瑠璃紺色の冷静な瞳にカードを映しながら、


(三回目は、私が勝った方がいいかも知れませんね。

 後々のことを考えて)


 頭の中には膨大なデータがザーッと流れていた。手元のカードを見て、必要なデータを取り出し、可能性を図ってゆく。


(そうですね……こちらの方が可能性が高い)


 さっきまでの勝負が不自然にならないように、ヒューはポーカフェイスで、カードを吟味していた。冷静な頭脳、神の言う特殊な考え方で、たった二ターンで、彼はストレートをそろえた。リエラは何もそろえることが出来ずに、ヒューが勝った。


 カードを片づけて、王子は標的である姫に、優雅な声で、


「それでは、リエラさん。質問にしますか? それともチョコレートにしますか? どちらがいいですか?」


 当然聞きたいことがあるリエラは、素直に即答。


「質問にします」

(聞きたいことがあるんです)


 自分の策に乗ってきても、策略家は冷静に、優雅に微笑んだ。


「そうですか。では、ひとつ質問をしてください。答えられる範囲で、お答えします。どうぞ」


 この言葉で策は強固なものに。『答えられる範囲』ということは、答えられない範囲ーー言いたくないことは答えないということになる。超感覚少女は言葉の意味を、完全にスルー。だが、ボケ姫なりに、ヒューを救いたい一心で、質問の仕方を考え始め、


(何て聞けばいいかな?

 雷は嫌いですか?

 それとも、何かあったんですか?

 んー……でも、あとの方だと、夢だと思ってても、答えづらいよね、きっと。

 それじゃ、雷の方だね)


 先走り姫、スパッと判断し、優雅な策略家に一手を打った。


「ヒューさんは、雷が苦手なんですか?」


「なぜ、そのように思うんですか?」

(私が導き出した可能性が一番高いものと違うものを、あなたは選んできた)


 ヒューは平然と聞き返した。ここで、ヒューが一気に優勢に。質問されるーー情報を引き出される側に、ボケ姫はなってしまった。そのことに気づかず、リエラは懸命に、


「さっき、様子が変だったので」

(あれ? それが心の鍵のヒントじゃないのかな?)


「そうですか?」


 ヒューは優雅に微笑みながら、さらに疑問形。


「倒れそうになってましたよね?」


 リエラは簡単に渡してしまった、策略家が本当に望んでいた情報を。ヒューは顔色ひとつ変えずに、スマートに交わすーー首を横に振る。


「いいえ、倒れていませんよ」

(そちらの可能性があると思っていましたよ)


 この瞬間に、ふたりの関係性は激変してしまった。リエラの質問の仕方は、隠しものをした子供が、『◯◯にはないよ』と言って、場所を自ら教えているようなもの。ボケ姫の読みはあまりにも甘すぎた。

 自分のミスに気づかず、リエラは今日の雷雨のことを思い浮かべ、のんきに、


「そうでした」

(確かに倒れてなかったね。

 それじゃ、やっぱり雷が原因じゃないのかな?)


 王子は何事もなかったかのように、優雅に微笑みながら、


「ひとつ目は、そちらでよろしいですか?」


 リエラは我に返って、


「あぁ……はい」

(他に何か理由があるのかも知れないね。

 また、別のこと探そう)


「それでは、次はどちらにしますか?」


 優雅な声の持ち主が、ゲームをリード。リエラはそれを聞いて、テーブルの上の琥珀色した四角いものを見つめ、


(チョコレートにしようかな?

 マリアちゃんがくれた……! あ、そうだ。

 あの時、ヒューさんに聞いた質問の答え、まだ聞いてなかったよ。

 そっちにしよう。

 どういうことか、ずっと気になってたから)


 こうして、大人の事情ーー色欲の罠に、姫は自らはまった。恋愛鈍感少女は、男を前にして、


「あの、結婚って、具体的に何をすればいいんですか?」

(今日は、マリアちゃんはいないので、聞いてもいいですか?)


 ヒューは心の中で密かに、くすくす笑った。


(十一月二日、月曜日、コランダム城の図書室での質問ですね)


 策略家の冷静な頭脳には、日付、場所まできちんと整理されていた。あまりにも簡単な勝負に、


(わかりやすい人ですね、あなたは。

 私が予想した通りの質問をしますね)


 と思いながら、相手ーーリエラのレベルに合わせて、聞き返した。 


「この間の質問ですね?」


 いつのことか鮮明に覚えているのに、わざとこの言い方をした。それはなぜか、相手に合わせた方が、油断させる可能性が高くなるからだ。そうなると、自分の思う通りに相手から情報を引き出せたり、動かすことができる可能性が格段に高くなる。


 ヒューは、八神は、自分の中では、『時刻』と言うが、他の人の前では、『時間』と言う。他の言葉でも同じ。恐ろしいほど、言葉を巧みに操っている。


 一枚の毛布に、くるまる王子と姫。男と女。

 腕が触れ合い、互いの呼吸が聞こえるほどの距離。


 この先、どうなるかは目に見えている。だが、幼気いたいけなリエラは気づくことなく、


「はい」


 結婚の意味が知りたくて、うなずいてしまった。ヒューは優雅に微笑みながら、


「それでは、お教えしますよ」

(あなたが私の望む通りに行動するーーという可能性が高い方法。

 そうですね……こうしましょうか)


「お願いします」


 お子様リエラは自分の身に危険が迫っているのに、王子に頭を下げた。ヒューは姫へ先手をじわりと打って、


「その前に約束してくれますか?」

(私はあなたの自由を全て奪いますよ)


「あぁ、はい」

(教わるのに必要なことなんだね、きっと)


 生徒と教師ではない。王子と姫だ。お互いの距離を保つものが何ひとつない。相づちを打てばまだ逃れられたが、お子様リエラ、あっさり承諾してしまった。ヒューは優雅に微笑みながら、姫を策という名の鎖で縛ってゆく。


「私の言うことは聞いてください。私がいいと言うまで、質問はしないでください。それから、私が聞いたことにはきちんと答えてください。よろしいですか?」

(あなたは私に意見をすることが出来ない。

 あなたは私の言うことを聞かなくてはいけない。

 したがって、私が解放しない限り、あなたは私の望むままということです。

 この先、どのような状況になっても。

 あなたが私のこちらの言葉にうなずけば、そちらの可能性が非常に高くなる)


 お子様リエラ、なんとか踏ん張り、戸惑う。


「えっ? でも、わからないところがあると困るんですが……」

(教えてもらうんだから、わからないところが出てくると思うんだけどなぁ)


 当然、こんな言葉、ヒューは簡単に交わせる。


「あとで質問する時間をあげますよ」

(与えるとは限りませんよ)


 平然と嘘をつかれたことに気づかず、リエラは納得してしまった。


「わかりました」


 いともあっさり、恋愛鈍感少女は、男に自由を奪われた。ヒューは優雅に微笑みながら、さっそく、


「それでは、まず、私の方へ正面を向けてください」

「はい」


 リエラは素直に、左に四十五度回って、策略家へ全体を向けた。見つめ合う形で、ヒューはさらに、


「次は、目を閉じてください」

「わかりました」


 人魚姫は視界まで奪われてしまった。相手の動きが見えない状態。無防備すぎる姫を前にして、策略家は優雅に微笑み、


(困った人ですね、あなたは)


 ヒューの香水がリエラにさっと近づき、王子の右腕が姫の背中へ回され、リエラはぐっと引き寄せられた。目を閉じていても、ヒューに近づいたのはわかる。リエラはびっくりして、思わず目を開け、


「えぇっ! あの……」

(どうして、抱き寄せてるんですか⁉)


 ヒューは瑠璃紺色の冷静な瞳で、純粋なブルーの瞳を見つめ返して、スマートに却下。


「質問はあとでと、さっき言いましたよ」

(あなたに拒否権は、もうありませんよ)


「あぁ……そうでした」

(忘れてました)


 リエラは簡単に納得した。盤上から、もう降りることができない状態。ヒューはもう一度、


「目を閉じてください」

「はい」


 リエラは再び目を閉じた。ヒューは今度、恋愛鈍感少女の首の後ろへ腕を回して、自分へ強く引き寄せ、


 あなたは驚くと、後ろに倒れるーーという可能性が非常に高い。


 ヒューはそのままリエラの顔に近づいていき、真っ暗な視界で、リエラはドキドキし始めた。


(あ、あの……さっきよりも近づいてる気がします。

 ヒューさんの息が、顔にかかってます。

 ヒューさんの髪が、頬に触れてます!)


 ヒューはリエラのあごに左手を当て、唇に近づいた。その距離になってふたりとも、今までとははるかに違う懐しさを覚え、


(どうしてだろう?)

(なぜでしょう?)


 すぐに、キスができるような距離で一瞬止まったが、リエラの唇に柔らかく弾力のあるものが触れて、


(えっっっ‼ キ、キスですか⁉)


 びっくりして倒れそうになったお子様リエラを、ヒューが右腕でしっかり捕まえ、


(逃がしませんよ)


 ヒューの息遣いが口裂こうれつ(*口と鼻の間)に触れる距離。だが、もうリエラは抵抗できない。次に姫は、ヒューの親指で、あごを下へ下げられた。半開きになった口から、柔らかく弾力のあるものが中に入ってきて、


(ん?)


 これは深いキス。

 ヒューはリエラをそのまま後ろへ押し倒し、


(えっ!?)


 リエラの口の中で、何かが舌に絡みつく。姫の右の手のひらは王子に掴まれ、そのまま頭の位置より上へ引き上げられた。リエラの左側のソファーが、ヒューの右手でぐっと押された。


 口の中の感触はさっきから変わらない、ヒューの少し苦しそうな息遣いも相変わらず続いている。王子は姫の右手から手を離し、胸に手をかけるかと思いきや、ヒューの優雅な声が、はっきりと薄闇に舞った。


「お味はいかがですか?」


 リエラは目を閉じたまま、口をもぐもぐさせ、


「甘くて、おいひぃです」

(何か食べてます)


 リエラは右手を引かれて、ソファーから起こされた。少し離れた位置から、ヒューの優雅な声がもう一度、


「それでは目を開けてください」


「はい。これなんですか?」

(気になります)


 やってしまった。ルール違反。即座に王子が注意。


「質問していいと、私は言っていませんよ」

(困った人ですね)


 慌てているリエラの前には、 


「あぁ……そ、そうでした。すみません」

(びっくりして、忘れてました)


 冷静という名の盾をきちんと持つ優雅な王子。今の彼は、誰がどう見ても色欲に溺れていたのではないことが見て取れた。


「何だと思いますか?」

(覚えていますか?

 こちらへ来て、私たちの手元にあったもの全てを)


 記憶力が崩壊しているリエラは、一生懸命考え始める。


「えっと……?」

(食べ物だよね?

 食べてるし、甘くて、おいしいから。んー……?)


 やっぱり記憶していなかった。ここが、ヒューとリエラの決定的な違い。優雅な策略家はあごに手を当て、


「マシュマロですよ」

(マリアからの贈り物にありましたよ) 


 ヒューは最初、それをポケットに隠していた。ここで使うためだ。柔らかく弾力のあるものはマシュマロ。リエラの唇にヒューの唇は一切触れていなかった。


「あぁ」

(確かに、マシュマロあったね)


 リエラは納得しかけたが、すぐに違和感を抱いて、


「え、あの……それが結婚に必要なんですか?」

(マシュマロがないと結婚出来ない?)


 こんなあからさまに策が張られているのに、気づかないボケ少女を前にして、優雅な策略家はくすくす笑い出した。


「違いますよ」

(私の罠だと気づいていないんですか?)


「え……?」

(あれ、また笑ってる。

 何か、おかしなこと言ったかな?)


 一歩間違えば、純潔を失うほど危険な状況だったことに、未だ気づいていないリエラ。恋愛鈍感少女を前にして、ヒューは急に真剣な顔で、


「そちらよりも先に、知らなくてはいけないことがあるのではないんですか?」

(あなたはあまりにも知らな過ぎます)


「え……?」

(どうしたんだろう?

 ヒューさんの様子が急に変わった)


「先ほどの宿題の答えを聞いていませんよ」

(真実の愛がなくては、いけませんよ)


 冷静な頭脳の持ち主、優雅な策略家が、恋愛の『れ』の字も知らない少女に、状況や色欲に飲まれて、手を出すはずがなかった。マシュマロを用意したのは、かなり前。教える気などなかった。全ては、別の重大なことのためだった。


 いつもと違う、瑠璃紺色の瞳をリエラは見つめ返し、


「宿題の答え……?」


『なぜ、あなたは私のことを急に気にするようになったんですか?』


 重要な部分は不思議とボケ倒さないリエラ。彼女は妙に納得して、


「あぁ、はい」

(確かにまだ、答え出てません)


「そちらをきちんと答えられるようになったら、教えるかも知れませんよ」


 ヒューは珍しく寂しそうに微笑んだ。


(私が教えることは……決してない。

 そちらの可能性が非常に高い……)


 リエラのある言葉で、策略家は彼女との距離を、ゼロへと戻した。ボケ姫は心の鍵が遠くなってしまったことに気づかず、素直に、


「わかりました」

(ちゃんと答え、見つけないとね)


「それでは、私はこちらをいただきますよ」


 ヒューは残っていたチョコレートに手を伸ばし、リエラはボケ倒したまま、


「はい、どうぞ」

(ヒューさんは、チョコ食べたかったんだ)


 策略家の罠がいつから続いていたのか、ボケ姫が気づくことは絶対ない。こうして、ゲームは終了し、夜が更けていった。

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