月と水
花火大会から、一ヶ月以上、ラピスラズリには行かなかった。
八月三十一日、月曜日。
眠りにつくと、全員また移動した。
リエラはマリアに会いに、今日もコランダム城に来ていた。地球と同じようにこちらも季節は確実に過ぎていて、髪を揺らす風には、秋の匂いが少し混ざっていた。
すがすがしい秋空の下、三人はテーブルに座って紅茶を楽しんでいた。時折、廊下や庭の隅を、召使いや従者が横切ってゆく。
そんな穏やかな雰囲気の中、ヒューは静かに読書をしていた。そこへ、ふたりの姫の声が、さっきから落ち着きなくくるくる舞っている。
「おねえちゃん、これ、おしえて」
マリアが小さな両手で、算数の問題集をリエラに差し出した。人魚姫はそれをのぞき込んで、
「え、どれ?」
そこには、リンゴがひとつあって、もうひとつリンゴを持ってきたら、何個になるかという問題が書いてあった。ヒューは紅茶を飲みながら、それをうかがっていた。
(今日は、先生と生徒ですね。
現実での、私とリエラさんに似ています)
マリアは真剣な顔で、
「リンゴがバナナだったら、どうなるのかな?」
それを聞いて、ヒューは少し微笑んだ。
(マリアは観点がズレているみたいです。
リエラさんは、どのようにするのでしょう?)
彼はそう思って、黙って見守ることにした。リエラはマリアに優しく、
「マリアちゃんは、バナナが好きなの?」
ヒューはページをめくる手をふと止めた。
(リエラさんまで、観点がズレているみたいです)
兄の心の内など知るはずもなく、マリアはとびっきりの笑顔で、
「うん、だいすき。おねえちゃんは?」
「私も好きだよ。特にチョコレートパフェにするとおいしいよね」
(甘くて、冷たくて。何だか、食べたくなってきたね)
白いバナナの上に、絡みつくように流れているチョコレートソースを思い浮かべて、リエラは幸せそうな顔をした。マリアは不思議そうに首を傾げ、
「ちょこれーとぱふぇ?」
意外な反応をした彼女に、水色のドレスを着たリエラは固まった。
(あれ?)
読書をしているヒューに顔を向けて、人魚姫は、
「ヒューさん?」
「どうしたんですか?」
(いつの間にかデザートの話になってしまいましたね)
彼は知らない振りをして、本からついと視線を上げた。リエラは落ち着いた様子で、
「パフェってないんですか?」
(夢の中だから、ないのかな?)
「あると思いますよ」
(話が脱線したまま、そちらを食べるんですか?)
ヒューは心の中でくすくす笑った。リエラはマリアに顔を近づけて、
「食べたいね」
「うん、たべたい!」
マリアの目はキラキラしていた。いつもと違って、しっかりしているリエラは、脱線していた話を一気に戻し、
「勉強終わったら、食べようか」
(やることは、先にやっとかないとね)
「うん」
マリアは素直に返事をした。ヒューはリエラを視界の端に映しながら、彼女の新しい一面を発見した。
(そのようなこともするんですね。知りませんでしたよ)
問題集に夢中なリエラは、ヒューの視線など気にせず、話を先に進める。
「じゃあ、このリンゴをバナナにして考えてみよう」
(ちょっと、難しくなるかも知れないね)
「うん」
瑠璃色の髪を縦に揺らし、マリアは問題集をじっと見つめた。ヒューは文字の羅列がザーッとなだれ込む視界のまま、
(マリアの望んだ通り、リンゴとバナナをただ置き換えるということなのかも知れませんね)
だが、ヒューが思いつかないようなことを、リエラはマリアに向かって聞いた。
「一本のバナナと、一房のバナナ、どっちがいい?」
「ふさ?」
マリアはきょとんとした。ヒューはページから目を上げて、冷静な瞳で、リエラを捉えた。
(いつもと様子が違うみたいです。あなたは、今、何を考えているんですか?
急に大人になったみたいですね)
教えるのに夢中なリエラは、気にした様子もなく、
「房って言うのは、何本かまとまったのを数える時の言い方だよ。ちょっと難しい呼び方だったね」
「へぇ〜」
新しいことを学んだ子供がする、興味津々な瞳を、マリアはした。リエラは小さな姫の顔を覗き込んで、
「どっちにする?」
「んー、ふさがいい!」
マリアは足をパタパタさせた。リエラはマリアに頬を寄せて、嬉しそうに、
「多い方が嬉しいもんね」
「うん!」
マリアも同じ顔をしてうなずいた。ふたりの瞳を、ヒューは見比べ、
(また、マリアと同じ子供の瞳に、あなたの瞳は戻りましたね)
リエラは単純にリンゴとバナナを入れ替えるという解釈はしていなかった。マリアが本当に聞きたがっていたのは、一本をひとつと数えるのか、一房をひとつと数えるのか、それとも、それをバラバラにして数えるのかだった。初めからリエラは、それをわかっていた。だから、彼女はマリアの質問に笑ったりしなかったのだ。そして、リエラはそれをマリアの目線でちゃんと説明した。
「それじゃあ……」
リエラは言うと、問題をマリアと一緒に考え始めた。ここまでのやりとりを見て、ヒューの中に、今までと違う感情が芽生え、
(私よりもあなたの方が、教師として向いているのかも知れません。
今までマリアと似ていると思っていましたが、本当は違うのかも知れませんね。
私が思っているよりも、あなたは大人なのかも知れません。
私の知らないあなたを、たくさん持っているみたいです)
策略家の中に、今までに味わったことのない愛しさがにじんでいた。彼はページをめくりながら、冷静な頭脳で、自分の感情をどうするかあぐねいていた。
しばらくすると、マリアが大きな声を上げた。
「やったぁ! おわった!」
「よかったね。マリアちゃん、頑張ったもんね」
「うん、ありがとう」
一仕事終えた達成感に浸りながら、リエラとマリアは微笑み合った。そして、本を読んでいるヒューに顔を向けて、
「…………」
(ヒューさん)
「…………」
(おにいさま)
ふたりの視線に気づいた、策略家は本から顔を上げ、
「…………」
(先ほどの話は覚えてるみたいです、ふたりとも)
食べる気満々のふたりを、ヒューは優雅に見つめ返した。すると、リエラとマリアはくすくす笑い出した。
(ヒューさんは、わかっていてやってるんですね?)
(おにいさま、はやくたべたいです)
ヒューは読んでいた本をぱたんと閉じた。
「ふたりとも、きちんと言ってください」
(おねだりですか?
それならば、なおさら言わなくてはいけませんよ)
「チョコレートパフェが食べたいです!」
リエラとマリアはふたりそろって、元気に右手を上げた。ヒューは読んでいた本を小脇に抱えて、優雅に立ち上がった。
「それでは、用意するように言ってきますよ」
(ふたりとも、がんばっていましたからね。それぐらいはしますよ)
「あ、じゃあ、私も行きます」
(先生に迷惑はかけられません)
リエラは慌てて立ち上がろうとした。ヒューはすっと立ち止まって、
「いいんですよ」
「あぁ……でも……」
(読書の途中だったんじゃないんですか?)
彼の持っている赤い皮の表紙の本を見て、リエラは言いよどんだ。ヒューは人魚姫から視線を妹に移して、
「マリアさんは、リエラさんとお話したいですよね?」
(今日は勉強ばかりで、あまり話していませんでしたからね。
マリアはリエラさんと話したがっている可能性が非常に高いですよ)
兄の予測通り、マリアは元気に、
「はいっ! はなしたいです!」
瑠璃紺色の瞳を、ヒューはリエラへ戻して、
「そういうことです」
優雅に微笑んだ。彼女は素直にうなずく。
「あぁ、はい、わかりました。お願いします」
(先生はやっぱり優しいんですね)
ヒューは読んでいた本を持って、城へと芝生の上を優雅に歩き出した。さっそく話し始めたふたりの声を背中ごしに聞きながら、どんどん離れてゆく。
ヒューは一人になりたかった。だから、リエラの申し出をスマートに却下した。それはなぜか、さっき味わった感情を、冷静な頭脳で探るためだ。だが、出来なかった。新しい何かと古い記憶が重なって、ふと胸がしめつけられそうなり、彼は強く目をつぶった。
(恐いですね、少し。自分が弱くなっていくみたいです)
風と土の匂いを吸い込んで、再び冷静さを取り戻した、策略家は目をそっと開け、城の中へ入った。