夢と現実
翌日。
リエラが朝食を済ませて、部屋でくつろいでいると召使いがやって来た。
「コランダムからの言伝で、本日は城の方へ直接、いらして欲しいとのことです」
リエラはきょとんとして、
「え……?」
(道知らないけど、大丈夫かな? 迷子にならなければいいけど)
ボケ始めた姫は、自分の尾ひれを眺めて、
(それにヒールの靴じゃ長距離歩くの大変そうだね。
どうしようかな? 裸足で行った方がいいかな?)
他国の姫を、海岸から城まで歩かせるなど、そんなことがあろうはずがない。そこへ、召使いの言葉の続きが。
「港に馬車を用意してあるそうです」
(リエラ様、そちらのご様子からして、歩いていくおつもりだったようですが)
さすがに、仕えているだけあって、召使いは姫の言動は把握していた。
「あぁ、はい。わかりました」
(それなら大丈夫だね。たどり着けるね)
リエラはほっとして、陸へ上がる準備を始めた。
海面近くになって、リエラは今までと違うことに気づいた。
(あれ? 今日は暗いね。どうしてかな?)
海の上に顔を出すと、ぽつぽつと顔に水滴が当たった。
「雨?」
彼女の頭上には、どんよりとした曇り空が広がっていた。従者が海岸を指差して、
「リエラ様、こちらでございます」
「はい」
リエラは素直に従い、陸へ向かって泳ぎ出した。
(そうか、雨じゃ、マリアちゃん濡れちゃうもんね。
だから、直接お城に行くんだね)
雨で迎えに来ない。それは、ちょっとおかしい。傘をさせば解決できることなのだから。リエラはおそらく気づいていないのだろう。なぜ、ヒューとマリアが昨日、一緒に会いにきたのかを。
馬車に揺られながら、コランダムの街並みをリエラはのんきに眺めていた。
(本当に色んなお店があるんだね。
今日は雨だから、人が少ないね。
お店の人がほとんどだ)
その人達の服を見て、彼女は目をキラキラ輝かせた。
(貴族服の人もいれば、ターバンを巻いてる人もいるんだね。
色んな人がいるんだ。面白い夢だね)
しばらくすると、馬車は立派な門を抜けて、コランダム城の玄関前に止まった。扉が開けられ、リエラが降りると、青いドレスを着たマリアが走ってきた。
「おねえちゃん!」
「マリアちゃん、来たよ」
リエラは彼女と目線を合わせるためかがんだ。そこで、もう一人がいないことに気づいて、
「あれ、ヒューさんは?」
(今日は出てこないのかな?)
マリアはちょっとしょんぼりして、
「きょうは、おしごとがあるの」
「そうなんだ」
(先生、夢の中でも仕事してるんだね。忙しいんだ)
ここまで、ボケ倒されると、放置したくなる祐の気持ちがよくわかる。マリアが小さな手で、リエラの腕を引っ張った。
「おねえちゃん、こっち」
「あ、うん」
リエラはさっと立ち上がり、マリアに手を引かれるまま、コランダム城の廊下を歩き始めた。
マリアが案内したところは、彼女の自室だった。リエラはそれを眺めて、
(すごいね)
そこは、パステルブルーを基調にした、子供らしい、可愛らしい家具などが置かれているところだった。何十畳もある広い部屋に、小さなベッドがひとつきり。それを見て、リエラはマリアに、
「マリアちゃんは、一人で寝てるの?」
(子供用のベッドがひとつだけだけど)
「……うん」
マリアはちょっと淋しそうにうなずいた。リエラはかがんで、彼女の手を優しく握って、
「お兄ちゃんとは寝ないの?」
(一人じゃ淋しいよね)
リエラは知らなかった。子供でも、兄妹でも別々の部屋で眠るという王族が普通であることを。
「ときどき、いっしょにねるよ」
マリアはヒューを思い出して、すごく嬉しそうな顔をした。そして、彼女は何か思いついて、ベッドへぱっと走り出した。
(どうしたのかな?)
リエラが不思議そうに見ていると、本を手に持って戻ってきた。マリアは人魚姫の前に、それを差し出して、
「これ、よんで」
「ん?」
それを見て、リエラは固まった。
(う……。人魚姫じゃなくて、The Little Mermaid。
どうして、夢の中まで……)
珍しく大暴投せず、彼女はそこで、ふと思い出した。
(そうだ。まだ、読んでなかったよ。
先生にびっくりして、忘れてた)
リエラは絵本の表紙をぼんやり見つめながら、
(夢でも出てくるってことは……。
もしかして、ちゃんと読めってことなのかな?)
マリアは、また考え出したリエラを不思議そうに見つめた。
「おねえちゃん?」
「え? ……あ、あぁ、うん。読んであげるね」
リエラは考え事をやめ、ふたりは近くにあったソファーに並んで座った。リエラは本を開いて、珍しくため息をつく。
(そうだよね。いくら夢でも、中身は英語だよね)
その隣で、マリアは足をパタパタさせて、今か今かと待っていた。リエラはページを指でパラパラとめくり、
(先生だったら、読めるんだろうなぁ。
英語、ぺらぺらだって、お姉ちゃん言ってたもんね)
ページを元へ戻して、リエラはマリアを見て覚悟を決めた。
(マリアちゃん、待ってるからね。
よし、読むぞ! おぉっ!)
なぜか必要以上に張り切り出した、人魚姫は深呼吸をして、
「Far out at sea the water is as blue as the loveliest blueflower and as clear as glass. But it is very deep──deeper than many tall churches,………」
ヒューが読むよりも、かなり遅いスピードでリエラは読んでいた。
(あれ? でも、単語はそんなに難しくないんだね。
目が覚めたら、読んでみよう)
そんなことを思っていると、扉がノックされた。
「はいっ!」
マリアが元気に返事をして、そちらへぴゅーっと走っていった。そして、扉を開けると、ヒューが立っていた、いつも通りの優雅な出で立ちで。
「リエラさん、いらっしゃい」
(学校ではあり得ない光景ですね。私の家にあなたが来るとは……)
「あ、ヒューさん、お邪魔してます」
(なんだか、先生の家に遊びに来たみたいだね)
リエラはソファーから立ち上がって、挨拶をした。マリアがヒューのスボンを引っ張って、
「おにいさま、えほんをよんでもらってました」
「そうですか」
ヒューは妹の頭を優しくなでた。策略家がいつも使っている言葉なのだが、リエラは違和感を抱いて、
(あれ? 先生、ちょっと様子が変な気がする)
彼の瑠璃紺色の瞳には、リエラの手にある絵本が映っていた。
(夢……と現実。どのような意味があるのでしょう?)
彼の瞳と、リエラのブルーの瞳は絡まることはなく、
(先生、やっぱり変だ)
彼女は手元に視線を落とし、英語をぼんやり見つめながら、なぜか急に胸が苦しくなって、
(どうして、こんなに切なくなるんだろう?)
こうして、何も話さなくなってしまったふたりに、元気な声が聞こえてきた。
「おねえちゃん、こっちにきて」
「え? ……あぁ、うん」
リエラは我に返って、絵本をテーブルの上へ置いた。彼女はヒューの近くまで歩いていき、今度は、ふたりは視線が絡まり、同じ言葉が浮かんだ。
(その答えは見つかりますか?)
ふたりは手を不意に引っ張られ、リエラとヒューがそちらを見ると、マリアが微笑んでいた。ヒューが妹に意味あり気な顔で、
「マリアさん、あちらの部屋ですね?」
(今日は、外には行けませんからね)
妹はぴょんと飛び上がって、くりっとした瑠璃色の髪も一緒に弾んだ。
「はいっ!」
「部屋?」
(秘密の暗号ですか?)
きょとんとしたリエラに、ヒューは優しく微笑んだ。
「行ってみれば、わかりますよ」
「わかりました」
リエラが応えると、マリアはふたりの手を引っ張って、廊下をずんずん歩き出した。
立派な扉が開けられると、そこには、ピカピカに磨かれた、大きなグランドピアノが。部屋の片側には大きな暖炉があり、立派なソファーとテーブルが置いてあった。
マリアはふたりから手を離し、ピアノへぴゅっと走っていった。小さな姫は大はしゃぎで、ピアノの椅子に座った。モゾモゾとお尻を動かし、もう一人分のスペースを空けた。それを見て、リエラは倒れそうになる。
(うわ、ピアノだ。ど、どうしよう……)
リズム感のない彼女にとっては、大問題。どれほど、リズム感がないのかは、シリーズ1を読めば出てくる。マリアが嬉しそうに誘った。
「おねえちゃん、いっしょにひこう」
「あ……」
(一緒に弾きたい気持ちはすごくあるんだけど……)
リエラはものすごく戸惑った。ヒューは彼女の顔をのぞき込んで、
「どうかされたんですか?」
(言わないとわかりませんよ)
「あぁ、はい。私、弾けません」
びっくりするわけでもなく、大声を上げるわけでもなく、素直に答えたリエラを前にして、ヒューは優雅に微笑むーー間をおく言葉を使った。
「そうですか」
(私があなたに近づいても、あなたは戸惑わずに応えられる時もあるみたいです。
興味深いですね、あなたという人は)
自分の中に不意に舞い込んできた情報を策略家は、冷静な頭脳にしまいながら、瑠璃紺色の瞳をあちらこちらにさっと向けたーー情報収集した。だが、それはほんの一瞬。彼は流れるような仕草で、妹に優しく声をかけた。
「マリアさん、教えてあげてください」
(そちらの方がいいかも知れません)
また、何かの罠を張れるように、物事を進め始めた。小さなマリアが気づくはずもなく、
「はーい!」
彼女は元気よく返事をし、リエラとマリアは、ひとつの椅子に座った。ふたりの姫の位置が定まったのを見て、ヒューは彼女たちの後ろ姿ーー何の疑いももたれず、様子をうかがえる場所ーー斜め後ろの席に椅子を置いて、腰掛けた。
「じゃあ、みぎてから」
マリアはそう言って、リエラにピアノを教え始めた。
「うん、わかった」
(ド、ドキドキするね)
リエラはちょっと緊張しながら、右手を鍵盤の上に乗せた。ひんやりとした感触が指先に広がる。ふたりの姿を眺めながら、ヒューは微笑む。
(本当に友達なんですね。立場が対等です)
彼は側に控えていた従者と召使いに、小さな声で、
「全員、下がってくださって結構です」
(ふたりの時間を大切にしてあげてください)
「かしこまりました」
彼らは静かに部屋を出て行った。そして、三人だけの空間となった。マリアとリエラはそれに気づかず、一生懸命ピアノレッスンを続行中。
「さいしょはここに、おやゆびをおいて」
マリアは白い鍵盤の上に小さな親指を乗せた。
「……ここね」
リエラは彼女の小さなそれを見て、同じような場所に置いた。
「それで、一、二、三、一、二、三、四、五でひく」
マリアはゆっくりとドレミファソラシドと弾いた。
「わ……わかった」
リエラは同じことをしようとしたが、指が動かなかった。同時に別の鍵盤を押してしまい、ガジャーンと混じって、優雅な部屋に雑音を作り出してしまった。
(む、難しいんだね)
何度か練習して、何とか弾けるようになった。隣から、小さな拍手が聞こえてくる。
「おねえちゃん、じょうず」
「あ、ありがとう」
(マリアちゃんのおかげで、弾けるようになったよ)
リエラが目を輝かせていると、マリアも同じようにしていた。小さなマリアはどんどん先に進む。
「こんどは、ひだりて」
ふたりはしばらくそうやって、指使いの練習をしていた。ヒューは近くにあった本を読みながら、ふたりの様子をうかがっていた。
話し声が聞こえなくなって、優雅な策略は視線を本からついと上げた。彼の目線の先には、なぜかリエラ一人がピアノを弾いている状況に。
(あなたは、夢の中でも変わらないんですね。
そういう傾向があるみたいです)
そして、瑠璃紺色の瞳に光が宿った。悪戯という名の輝きが。
私が後ろから近づくと、あなたは驚くーーという可能性が高い。
あなたは今、動くことができないーーという可能性が高い。
(これから、私の望むままになっていただきましょうか、あなたには)
デッドエンドーー行き止まりに、もうすでに姫を追い詰めたような言い方。なぜか、リエラはヒューから逃れられなくなっていた。危険すぎる。
(そうですね……こうしましょうか)
策略家はまず、リエラを驚かせるため、本を傍へそっと置いて、すっと立ち上がった。椅子を持ち、優雅な歩みが、標的である姫の背後にじわりじわりと近づいてゆく。リエラはそれに気づかず、ピアノと格闘中。
(んー、違うね。どうすれば、スムーズに弾けるんだろう?
右手と左手を一緒にすると、難しくなるね。
右利きだから、左手は動かしづらい……。
特に薬指が……)
そこで、自分の両手に別の手がすっと乗せられた。優雅な声が背中から聞こえてきて、
「騒がないでください」
「っ………!」
(わっ、わかりました)
リエラはこうして、自由を奪われ、王子の思うままになり始めた。のんきなボケ少女は、自分に乗せられた手を見つめ、
(綺麗な手だね。マリアちゃんの手?
ううん、違うよ。自分の手より大きいから……。
え、じゃあ……!)
リエラは誰の手だか気づいて、振り向こうとし、それを阻止するように、神経質だが柔らかさを持つ、優雅な声がささやきかけた。
「振り向かないでください」
「…………‼」
声を出すことを禁じられた姫は、びっくりして、後ろに振り返ろうとしたが、それさえも封じられた。そうして、なぜ、リエラが今動けないのかが明らかになる、優雅な声が姫の耳元をくすぐりながら。
「あなたのひざの上を見てください」
(状況を常に考えて行動しなければいけませんよ)
もちろん、策略家が途中で、手の内を見せるはずもなく。これは、動けないことを、リエラにわざとわからせるための言葉。さらに、姫を罠に誘い込むためのものであった。正直なリエラは、自分のひざの上を見て、
「??」
(あれ? マリアちゃん、いつの間か寝ちゃってる。
もしかして、また集中しすぎたのかな?)
マリアはお昼寝の時間になって、リエラの膝の上でスヤスヤ眠っていた。リエラは小声で、戸惑い気味に、首を後ろへ少しだけ向け、
「あの……ヒューさん、どうして後ろにいるんですか?」
「そちらの椅子に、私は座れませんよ」
(そちらの質問の仕方では、あなたが聞きたがっている答えとは、違うことが返ってくる可能性がありますよ)
言葉ひとつひとつに無駄のないヒュー。リエラの超感覚的な言い方は、彼の冷静な思考回路からすれば、『おかしな人ですね』になるのだ。
リエラは背後から、ヒューに自分の手を掴まれたまま、自分とマリアの座っている椅子を見渡し、
(あっ、本当だ。自分とマリアちゃんで、いっぱいだ。
え……? あれ?
何だか、自分が聞きたかった答えと違ってるような……?)
ヒューが心の中で指摘した通り、彼女は珍しくそれに気づいた。戸惑い気味に、瑠璃色の髪の策略家に声をかけた。リエラは罠の中で必死にもがきながら、
「あの……そういうことではなくて……」
(ど、どうして……。ヒュ、ヒューさんは後ろから……。
だっ、抱き……しめて……るんですか?)
リエラは今の自分の状況を考えると、手が震え始めた。こんなことになっている。優雅な策略家は、ピアノの椅子の後ろに、自分の座っていた椅子を持ってきて、そこに座り、リエラに両腕を回している。そのためヒューの腕がリエラの両腕の外側から挟んでいる状態なのだ。ヒューは自分の手の下にある、姫の手の震えを感じながら、冷静な思考を展開。
私が後ろから近づくと、あなたは話すことが出来ないーーという可能性が非常に高い。
と知っていて、リエラの背中に向かって、王子はこんな言葉を平然と言った。
「それでは、どういうことですか? 説明してください」
リエラは大声を出し、飛び上がりそうになって、
「えっ……!」
(ド、ドキドキして、説明出来ません!)
ヒューがスマートに阻止した。
「マリアさんが起きてしまいますよ」
(マリアはぐっすり眠っていますからね。
起してしまっては、可愛そうです)
アリアを起こさないために、あなたは動くことが出来ないーーという可能性が非常に高い。
先ほどと同じ理由で、あなたは騒ぐことが出来ないーーという可能性が非常に高い。
私がそばにいることで、あなたは冷静に判断することが出来ないーーという可能性が高い。
これらから判断して、私があなたを解放しない限り、あなたは私の腕の中から逃れられないーーという可能性が非常に高い。
(ですから、あなたは私の望むままなんです)
とうとう、リエラはやられてしまった。罠という鎖にがんじがらめにされた。何が起きても、たとえ襲われても逃げることができない。そんな危うい状況だとは気づくはずもなく、リエラはヒューの意見に素直に従った。
「あ……はい」
(そ、そうだ。マリアちゃんが眠ってるから静かにしないとね。
気持ちよさそうに眠ってるから)
それを聞いて、ヒューはくすくす笑った。
(おかしな人ですね、あなたという人は。
私から逃れられる方法があるのではないんですか?
断るという術がありますよ。
自分で気づくまで、教えませんよ)
罠はリエラの体を縛っているだけで、彼女の口は封じられていない。きちんと逃げ道があるのに、思考停止寸前のリエラは、自ら茨の道を歩み始めた。くすくす笑うヒューの振動を感じて、リエラは首を傾げた。
(ど、どうして、ヒューさん、笑ってるんだろう?)
こうして、ドッキドキのピアノレッスンが開始。ヒューはリエラの左側から声をかけ、
「左手の薬指ですね?」
(先ほどから、そちらの指使いで止まっていましたからね)
「……は、はい」
(そ、そうです。上手く動かないんです)
ふたりで重なり合った左手を見つめた。学校では絶対にないシチュエーション。この先、どんな展開が待っているのだろうか。ヒューはリエラのすぐそばで、
「指先だけではなく、背中、肩のラインから、腕、手へと意識をつないでいかないと、滑らかには動かせませんよ」
(ピアノは手だけで弾くものではありませんよ)
人間の体とは、そういう風にできている。手を動かすには、肩甲骨まわりの筋肉と腕の意識が必要なのだ。それができないと、肩が凝る。
「背中と肩ですか⁉」
(ど、どういうふうに弾くんだろう? 背中と肩で、鍵盤を弾く……?)
リエラは大暴投し、あり得ない方向へ行きそうになった。ヒューが優雅に相づちを打ちながら、
「えぇ」
(そうですね、次はこうしましょうか)
姫をさらにもてあそぶために策を投じたーーリエラの左肩に、ヒューはあごを乗せた。策略家の罠で、リエラは再び現実へ引き戻され、さらに近づいた王子を感じて、言葉につまった。
「あっ、あの……」
(な、何をしてるんですか⁉)
ヒューの息が、リエラの髪にかかる。
「どうしたんですか?」
(ドキドキしているみたいですね。ずいぶん感覚の鋭い夢です)
もちろん、今のリエラに応えることができるはずもなく、顔を真っ赤にして、
「…………」
(あ、あの……ヒューさんが話すと、肩にその振動が伝わってきます。
こ、こんなに近くなったこと、初めてです)
手と肩を攻められているリエラは黙ってしまった。ヒューはさらに姫を困らせように、的確な言葉を口にした。
「リエラさん、返事をしてください」
(初めてですね、こんなに、あなたに近づいたのは。
学校では、出来ませんからね。あなたと私は生徒と教師ですから)
「なっ、何を……して……るんですか?」
(れっ、練習出来ません。きっ、気絶しそうです!)
リエラはドキドキして、後ろに倒れそうになった。もちろん、これも優雅な策略家には予測できていて、ヒューは彼女が倒れないように、前かがみになったーーさらに近づいた。
「肩と背中の意識を持ってもらうためですよ」
(教えているんです。嘘ではありませんよ)
後ろから、抱きしめているような状態で、ピアノを教える。エロティックすぎである。恋愛鈍感少女はここはボケて、ヒューの腕の中で、妙に納得した。
「あぁ」
(そ、そうなんですね。
ヒューさんは、ちゃんと考えて行動してるんですね。
わ、わかりました。が、がんばって意識を持つようにします)
「手の力を抜いてください」
あなたは出来ないーーという可能性が非常に高い。
ヒューの優雅な声と共に、リエラの肩が振動でビリビリした。彼女は言われた通り、実行しようとするが、
「……は、はい」
(てっ、手の力を抜く……ですね。
えっと……どうすればいいのかな?
力を抜くって、どういうこと?
ちから……ぬく……。んー……手が……ぬけて……。
ちからが……手……)
ドッキドキにされているリエラは、パニックになっていて、言葉の順番が前後していた。ヒューは出来ないことを知っていて、わざと指摘するーーさらにもてあそぶ。
「抜けていませんよ」
(ずいぶん困っているみたいです)
「……はい」
(ぬく……。んー……?)
リエラはただ返事を返しただけだった。ヒューはそれを聞いて、
(ギブアップですか?)
ふたりで行くところまで、とうとう行ってしまった。今はこれ以上、策を張ってもリエラの反応を楽しめないと判断した策略家は、彼女の手のから、自分の手を離し、鍵盤の上にそれを乗せた。
「それでは、私の手の上に、あなたの手を置いてください」
「え……?」
(て……のうえ……おく……?)
リエラは混濁している意識のまま、ピアノをぼうっと見つめた。ヒューはもう一度、優しく、
「私の手の上に、あなたの手を置いてください」
(少し驚かせすぎたかも知れませんね)
「私の手の上……あぁ、はい。わかりました」
リエラはやっと意識が戻ってきた。そして、彼女はヒューの手の上に、自分の両手を乗せた。お互いの温もりを手で感じながら、ヒューは真剣な面持ちで、
「私の手を離さないでください」
(そう……離さないでください)
彼は魂の奥底で、なぜか急に、ひどい喪失感を覚えた。
「あ……はい」
(別の方法なのかな?)
懲りずに、まだヒューからピアノを習おうとしている、リエラは首を少し傾げた。ヒューは罠を張ることもせず、彼女の耳元でささやく。
「離してはいけませんよ、絶対に」
(離さないで)
「はい」
(手を離さないですね、わかりました)
リエラはしっかりうなずいた。ヒューは一度大きく息を吸って、吐き出すと同時に、鍵盤を深く押し込んだ。神経質なピアノの音が舞い始める。彼の手の動きに合わせて、リエラの手も一緒に動き出した。
美しいメロディーライン。
強弱を繰り返す激しい曲調。
マリアの小さな寝息。
ヒューとリエラの呼吸。
それらが部屋の中で絶妙に交差し始める。まるで、冷静な仮面の下に隠された、激情を表すかのような、メロディーのうねりの中で、ヒューは目を静かに閉じていた。
(恐いくらい幸せですね)
リエラはピアノを引く、ヒューの手を見つめる。
(素敵なんだ。こうやってちゃんと弾けると)
しばらくして、あちらこちらに散らばっていた音が、部屋の中からすうっと消えた。ヒューはピアノとリエラから手をさっと離した。彼女は彼へ振り向こうとして、
「あ……」
ヒューはリエラに顔を近づけて、冷静に、
「振り向いてはいけないと、先ほど言いましたよ」
(忘れたんですか? マリアはまだ、あなたのひざの上で眠っています)
「あぁ、そうでした」
(マリアちゃん、気持ちよさそうに眠ってるね)
リエラは正面を向いたまま、ささやき声でうなずいた。ヒューはすっと立ち上がって、
「どうしたんですか?」
(私が側にいても、驚かないことがあるみたいです)
ピアノに映ったリエラの顔は、すごく嬉しそうだった。
「ありがとうございます」
(そういうことだったんですね。
ピアノを聞かせてもらって、わかりました)
「何をですか?」
(なぜ、そちらの言葉がなったんでしょう?)
ヒューは純粋に不思議がった。リエラは前を見たまま、
「ピアノを弾くことが素敵なことだって、教えていただいて」
(自分は弾けないけど、弾いてる人の感覚がよくわかった。すごいね)
ヒューは珍しく戸惑った、姫の素直な気持ちに出会って。
「……そうですか」
(そう……なのかも知れませんね。
あなたは私が気づかないことに、気づくことがあるみたいです。
一生懸命、ピアノを弾いているあなたを見て、私は教えてあげたくなったのかも知れません。
そのために、あなたに近づいたのかも知れませんね)
冷静という名の下に隠された、策略家の心にさざ波が起こり、ヒューは少しだけ微笑んだ。
「ヒューさんは、優しいんですね」
(やっぱり、先生は優しい人なんだ。
マリアちゃんを起さないようにしながら、ピアノの素敵さに気づかせてくれたから)
リエラは何のためらいもなく、素直に言葉を口にした。また微妙に話がずれている状態。策略家は、いつもはくすくす笑うのだが、彼の脳裏に、ある記憶がザーッとなだれ込んできて、心がかき乱されそうになった。だが、冷静な頭脳がそれを即座に抑え込んで、この言葉を選び取った。
「おかしな人ですね、あなたは」
(そのようなことを、私は今まで他の方から言われたことはありませんでした。
私自身も、優しい人間だとは思っていませんよ)
リエラはびっくりして、大声を上げそうになるが、
「えーー!!」
(ど、どうして、おかしいなんですか⁉)
ヒューの神経質な細い指が、姫の口を素早く塞いだ。
「騒がないでくださいと、先ほど言いましたよ」
(また、忘れたんですか?)
「ん、んんんんん。ん、んんんんん」
(あぁ、そうでした。す、すみません)
リエラは彼の手の中で、うんうんうなずいた。