逃れられない運命
亮は目が覚めると海の底にいた。
「えぇぇぇっっっ!!」
びっくりして飛び起き、自分のまわりの水がコポコポと泡を吹いた。
「また、夢見てるんだ!」
そこで、瑠璃色の髪の優雅な笑みを思い浮かべ、
「ど、どうしよう? これじゃ、いつまでたっても先生の顔、ちゃんと見れないよ。困ったなぁ。また、見ないようにって思ってたんだけど……」
リエラにしては、珍しくため息をついた。
「どうやっても、この夢って起きられないんだよね。仕方がないね。とりあえず、先生が出てこないようにがんばろう!」
超難題というか、不可能なことに、思いっきりやる気を出した。そこで、リエラのお腹がぐーっと鳴り、
「お腹空いた。とりあえず、ご飯食べに行こう」
彼女は元気にベッドからぴゅっと飛び降り、食堂へすいす〜いと泳いでいった。
「ふふ〜ん♪ 何かな?」
再び部屋に戻ってきたリエラは、珍しくじっとしたままで、ドレッサーの前で頬杖をついていた。
「そういえば、先生の心境の変化ってなんだろう? どうして、急に眼鏡かけてこなくなったのかな? んー……?」
策略家の心など、ボケ少女に探れるわけもなく。考え続けていると、扉をノックする音がふと聞こえた
「はい?」
リエラは扉にぴゅっと近づき、それを開けた。召使いが姫に用件を告げる。
「外出のお時間でございます」
「……あぁ、はい」
リエラは戸惑い気味に答え、天井を見上げた。
(外出? また、命令なのかな?)
姫には構わず、召使いは小さな箱を差し出し、
「マリア様へのプレゼントでございます」
「え……?」
リエラは再び顔を戻して、召使いからそれを受け取った。
「あぁ、ありがとう……?」
首を傾げ考え始めたが、不思議なことにすぐに答えにたどり着いた。
(この間、街で買ったものだね。
また、行くかも知れないと思って、用意しておいたんだね。
すごいね。
本当にちゃんとしてるんだ、この夢って)
リエラは両手でプレゼントを包みながら、瑠璃色のくるっとした髪の小さな姫ーーマリアの顔を思い浮かべ、
(そうか、また続きなんだね。
ということうは、マリアちゃんと会う約束をしてるんだね。
楽しみだね)
そこで、リエラは思いついてはいけないことに手をかけ、大声を上げた。
「えぇぇっっっ!!」
(マ、マリアちゃんに会うってことは……!!)
姫はそのまま右往左往し始めた。召使いは心配そうな顔で、
「どうされたんですか?」
(プレゼントで驚かないでください)
リエラはそれに応えず、ピタッと止まり、海を見上げた。揺れ動くマリンブルーの光。横へと流れてゆく魚の群れ。それらをぼんやり瞳に映しながら、
(それって、先生も出てくる……ううん、ヒューさんに会うってこと?
だ、大丈夫かな?
また、ドキドキして、よくわからなくなるんじゃないかな?)
彼女はそこで、ぱっと勝手な解釈ーー夢だと思っている人間がたどり着くところへ、簡単に流されてしまった。
(あ、でも、夢だから、また出てくるとは限らないよね?
大丈夫だね。
マリアちゃんと約束してるわけだから、ヒューさんと約束してるわけじゃないもんね)
いつまでも考えているボケ姫の横顔に、召使いは小首を傾げ、
「姫さま? 急がれた方がよろしのではないんですか?」
(恋煩いでございますか? ずいぶん、息が合っていらっしゃったと聞きましたが)
ふたりの事情を知らない人は、思いっきり勘違いしていた。無事、島ーー安易な考えへたどり着いた、リエラは我に返って、
「あぁ……はい」
(約束の時間に遅れちゃいけないよね)
準備をするため、部屋の中に戻った。
リエラが海から上がり、岩場に腰掛けると、黄緑色のドレスを着たマリアがぴゅーっと走り寄ってきた。
「リエラおねえちゃん!」
「マリアちゃん、来たよ」
(やっぱり、可愛いね)
リエラは走ってきた小さな姫を、両腕で抱きとめた。マリアは顔を見上げて、
「きょうは、おみせみにいこう!」
「楽しそうだね」
(ショッピングか。
どんなものが出てくるのかな?
夢だから、不思議なものが出てくるかも知れないね)
リエラがウッキウキで考えていると、優雅な声と波音が混ざり合った。
「こんにちは、リエラさん」
「はい?」
彼女が振り向くと、そこには白いブラウスと、細身のパンツをはいたヒューが、海風に煽られ、乱れた髪を掻き上げつつ、優雅に近寄ってくるところだった。リエラは彼を見て、ドキッとする。学校の、渡り廊下や中庭を歩いてくる八神の姿と重なって。
「…………!!」
(せ、先生⁉ 学校にいる時と、あんまり服装が変わらないです。
ド、ドキドキします!)
自分をぼうっと見つめ返している姫。ヒューはいつまでも返事を返してこないので、もう一度彼女に声をかけた。
「リエラさん?」
(何を考えているんですか?)
リエラが我に返えると、いつの間にか、近くに瑠璃紺色の冷静な瞳があり、ちょっとびっくりしながら、
「あっ……えっと、こっ、こんにちは、ヒューさん……」
(やっぱり、先生は出て来るんですね)
ヒューは優雅に微笑んだ、今回は意味ありげにーー人魚姫にわざとわかるように。
「…………」
(そのままでよろしいんですか?)
ボケ姫は目をパチパチさせた。
「…………」
(どしたのかな? 先生、また微笑んでるみたいだけど……)
再び、砂浜で、ミステリアスに視線を絡ませ始めた王子と王女。彼らの下から、幼い声が、ヒューの微笑みの意味を指摘した。
「かいがらがきれい」
「え……?」
ふたりきりの世界に入っていた、リエラははっとし、小さな姫がいることを思い出した。抱きかかえているマリアを見ようと、視線を下ろした。そして、自分の姿が目に入り、
(うわっ! また、下着姿だ。は、恥ずかしいよ)
リエラは体中が火照っていくのを感じ、ドキマギしながら、
「あ、あの……マリアちゃん。ちょっと下に降ろすね」
(は、早くつけないと……)
「あっ、うん……?」
小さなマリアはうなづきながら、不思議そうな顔をした。リエラは彼女を砂浜に降ろし、慌てて髪飾りをつけた。すると、まぶしい光に包まれ、真っ白なワンピースと、二本の足には宝石をちりばめたハイヒールが現れた。
(こ、これで大丈夫。ちゃんと洋服は着たから。
も、もう、恥ずかしくないよ)
リエラは恥ずかしさを紛らわすために、慌てて立ち上がったーーまた、やってしまった。もちろん、バランスを崩して、
「わっ!」
ヒューはスマートに言葉を告げ、彼女を優雅に受け止めた。
「失礼」
(また、気づいていなかったんですか?)
神の言う、ヒューの特殊な考え方ではたどり着かない、言動をするリエラを前にして、優雅な策略家はくすくす笑い出した。リエラは彼の腕の中で、顔を真っ赤にしてうつむき、
「……す、すみません」
(また、ご迷惑をおかけして)
ヒューは彼女のすぐそばで、優雅に微笑んだ。
「いいえ、構いませんよ」
(不便なんですね、そちらの髪飾りは)
確かにそうだ。砂浜なのだから、せめてパンプスにしてくれればいいものを、髪飾りは絶対、ハイヒールにするのだ。不便どころの話じゃない。リエラはヒューに支えられながら、自分の足下を見つめた。
「あぁ……はい」
(あ、また、ヒールの靴なんだ。どうしてこうなるのかな?)
王子は姫のブラウンの髪を視界に映し、
(今頃、気づいたんですね)
次いで、なぜか自分のまわりにいる従者との距離を測った、王子の冷静な頭脳が瞬時に稼働。
私が近くに寄ると、あなたは驚くーーという可能性が高い。
私があなたに声をかけると、あなたは驚くーーという可能性が高い。
あなたは、私の質問に答えらないーーという可能性が高い。
(それでは、こうしましょうか)
こうして、優雅な瞳の側で、姫への罠が張られ始めた。さっそく、リエラが応えられないことを知っていて、ヒューはわざと疑問形を投げかけ、
「今日はどうしますか?」
「えっっ!?」
リエラはびっくりして、飛び上がろうとしたが、ヒューに身を預けている状態なので、大声だけ上げた。しかも、しっかり罠にはまって、顔を上げてしまい、すぐそばにあった瑠璃紺色の瞳を見つけてしまった。彼女は彼の思惑通り、手が震え始める。
(す、すごく近くて、ドキドキします!)
ヒューは冷静な瞳で、ボケ姫を捉え、
あなたは自分で決めることが出来ないーーという可能性が高い。
「どうしたいですか?」
ヒューはまた、質問をスマートに変えた。それに、先走りのリエラが気づくはずもなく、彼女の思考回路が、ヒューという罠によって、制御され始めた。
「あ、あの……」
(ど、どうしたいんでしょう? それに、どうして、こんなにドキドキするんでしょうか?)
自分の腕の中で、口をバカみたいにパカパカし始めたリエラをじっと見つめ、ヒューはさらに言葉を重ねるーー罠を張ってゆく。
「先ほどの私の質問に答えていませんよ」
私の二つ前の言葉を、あなたは忘れているーーという可能性がある。
さて、この可能性、ヒューはどこから持ってきたのだろうか。前のページをよく読めば、答えが書いてある。
「え……? どんな質問ですか?」
リエラはドキドキするのも忘れ、ぽかんとした。彼は優雅に微笑みながら、彼女の瞳をじっと見つめ、
「もう一度、言いましょうか?」
(同じことを言うとは限りませんよ)
このままいくと、また大変なことになる予感が思いっきりする。だが、すでに、策略家の手中に落ちてしまっているリエラは、うっかりうなずいてしまったーー情報提供してしまった。
「……あぁ、はい。すみません。お願いします」
(ちゃんと先生の話は聞かないとね)
情報を簡単に引き出した、ヒューは至福の時というというように、優雅に微笑んだ。
あなたは、私の三つ前の質問を覚えていないーーという可能性が非常に高くなった。
(そうですね……。あなたがさらに驚くこと……。
それでは、こうしましょうか)
姫をもてあそぶという快楽に溺れてしまった、策略家の冷静な頭脳は的確に判断し、とんでもないことを口にした。
「キスをしてくれませんか? と聞きましたよ」
(きちんと覚えていないといけませんよ)
「えぇぇっっっ!!」
(な、何で、それなんですか⁉)
リエラはびっくりして、気絶しそうになった。ヒューはしっかり支えて、くすくす笑う。
(本当に、覚えていなかったんですね。
困った人ですね、あなたは。
夢の中でも、変わらないみたいです)
「それでは、失礼」
王子は姫が驚いている隙に、軽々とお姫様抱っこをした。そして、ヒューはもう一人の姫に、
「マリアさん、行きましょうか?」
「はいっ!」
マリアは右手を挙げた。そう、さっきから、子供がそばにいたのだ。ヒューがリエラにキスをするなどありえないのだ。それなのに、ボケ姫は、情報をすっかり忘れて、ヒューの罠に思いっきり引っかかっていた。また、密着している王子と姫の後ろを、マリアはスキップするような気持ちで、くっついて行った。
とりえず、馬車に乗り込んだリエラは、目の前に座っているヒューにドキドキしながら、マリアに包み紙を差し出した。
「マ、マリアちゃん、これ、プレゼント」
(ちゃ、ちゃんと渡さないとね。用意してたわけだから)
マリアはそれを見て、目をキラキラ輝かせ、
「わっ、ありがとう!」
ヒューはふたりのやり取りを見て、優しい顔になった。
(素敵ですね、友達というのは)
マリアはリエラを見上げ、
「あけていい?」
「うん、いいよ」
リエラがうなずくと、マリアは小さな手で、箱を開け出した。そして、中身を取り出して、はしゃいだ。
「うわ、きれい!」
ヒューは妹の小さな手に握られた、それを見て、微笑む。
(貝殻のネックレスですか。似合うでしょうね、マリアに)
先走りの人魚姫は、マリアにさっそく、
「つけてみる?」
(きっと、似合うと思うよ。今のドレスに)
「うんっ、つける!」
マリアは、嬉しそうに足をパタパタさせた。リエラは彼女からネックレスを受け取り、
「じゃあ、後ろ向いてくれるかな?」
「わかった」
マリアはリエラに背を向けて、じっと待ち始めた。リエラは留め金に手をかけて、自分自身の認識の甘さに悪戦苦闘することになる。
(えっと、まず外さないとね。馬車の中だから、難しいね。
揺れてるから。右手の爪で引っかけて……)
ガタゴトと振動している馬車の中、その上、先走りの彼女が留め金を外せるわけもなく。なかなか、マリアに付けてあげることが出来ずにいた。心配になって、マリアはリエラに顔を向け、
「おねえちゃん、だいじょうぶ?」
リエラは、マリアに心配させないように微笑んだ。
「だ、大丈夫だよ」
(ちゃんと、つけてあげないとね。
マリアちゃんはすごく喜んでるから。
えっと……)
彼女はまた、一生懸命、ネックレスと格闘し始めた。それを見ていないはずもなく、ヒューは少しため息をつき、
「リエラさん、代わりましょうか?」
(あなたという人は、困っている時には素直に言ってください)
リエラはネックレスから、彼へ顔を上げた。
「あ、いえ、大丈夫です」
(先生に迷惑をかけちゃいけないから、自分でやらないとね)
宇宙一の天然ボケ少女は、自分が困っているとは、全然気づいていなかった。ヒューはあごに手を当て、今の彼女から新たな情報をそっと手に入れた。
(あなたは集中すると、まわりが見えなくなるのかも知れません。
一人の時はそちらで構わないのですが……)
彼はそこまで考えて、さっきからずっと待っている、小さな姫ーーマリアをうかがった。
(きちんと考えて行動しなければいけませんよ。
待っている人がいるのですから。
リエラさんを少し叱らなくてはいけませんね。
そうですね……こうしましょうか)
こうして、彼の独特な叱り方、教師と生徒という立場ではない状態で、スタート。リエラはそれに気づかず、相変わらず金具と悪戦苦闘中。
(んー、早く外そうとすると、慌てちゃって、なかなか外しづらいね。
落ち着かないとね。深呼吸をして……)
「貸して下さい」
彼女の近くで、男の声が急に響いた。リエラはびっくりして、ぴたっと動きと止めた。
「え……?」
(な、何をですか?)
固まっている彼女の背中から、大きな手がすっと伸びてきた。そして、リエラの手からネックレスを流れるように、さっと取って、金具を簡単に外し、マリアの首に付けた。それに反応して、マリアがリエラに振り返り、
「ありがとう」
「どういたしまして」
リエラの頭の後ろで優雅な声が響いた。金具に没頭していた彼女は、きょとんとする。
「え?」
(誰がつけたんだろう?)
彼女の頭上で、含みのある声が響く、しっかり吐息を伴って。
「リエラさん、どうしたんですか?」
「あ、あの……誰がつけてくれたんですか?」
自分の髪を揺らすほどそばにいる誰かに、リエラが質問すると、くすくす笑う声が聞こえてきた。
(まだ、気づいてないんですか? 困った人ですね)
優雅な声の持ち主は、心の中で降参のポーズを取り、
「誰だと思いますか?」
「え……?」
リエラはきょろきょろし、向かいの席に瑠璃色の髪を持つ人がいないことに気づいた。
(あれ、ヒューさんがいない。どこに行ったのかな?
馬車から下りたのかな?)
優雅な策略家の冷静な頭脳が稼働開始。
あなたは自分の置かれている状況を理解していないように見える。
あなたは今、驚くーーという可能性が非常に高い。
(それでは、あなたが驚くというーー可能性を低くしましょう。
今の状況で、あなたが驚くと危険であるというーー可能性が高いですからね)
その人は危険を回避するための、言葉をきちんと選び、
「騒がないと約束してくれたら、教えますよ」
『驚く』ではなく、ここは『騒がない』なのだ。後々のことも考慮して。ヒューの言葉には無駄はひとつもない。
「わかりました」
(騒がないですね)
素直にうなずいた、リエラの頭の上で、その人は彼女に次の行動を指示する。
「振り返って、確かめてください」
(自分で確かめる術を、あなたは持っているのではないんですか?
おかしな人ですね、あなたは)
優雅なその人の言う通り、自分で確かめればいいのに。ボケ姫は何もしないまま、ぼんやりしてて、見事なまでにボケ倒し続けていた。
「あぁ、そうですね」
(自分で確かめればいいんだ)
また、しっかり罠にはまって、後ろを振り返り、目を大きく見開いた。
「……‼」
(ヒュ、ヒューさん⁉)
瑠璃色の髪を馬車の窓から入ってくる風に揺らしている策略家を、もろドアップで見たリエラ。彼女の口に、ヒューの細く神経質な手がすっと伸びてきて、リエラの口をしっかり塞いだ。そして、王子はわざと姫の髪に頬を寄せて、
「先ほど、約束しましたよ。騒がないと」
さらに、あなたが騒ぐーーという可能性が非常に高い。
近くどころの騒ぎではなく、自分の口をヒューに触られている、リエラは体中の力が抜けて、崩れ落ちそうになった。
「ん……!」
(あ、あの……約束は覚えてます。
だけど、騒がないわけにはいかないんです!)
ヒューは彼女が落ちないように、背中からしっかり抱きしめて、耳元で優雅に囁いた。
「馬車の中です。危ないですよ」
(みなさんと同じことを、私も一度してみたかったんですよ。
こうして、騒ぎそうになるあなたの口を塞いでみたかったんです)
そう、罠は何重にも張れていたのだ、最初から。ヒューはリエラをわざと驚かせるようにして、しかも、馬車の中だということもきちんと考慮し、抜群のタイミングで、リエラを再び驚かせ、彼女の口を塞いだ。
どうしたら、ここまで巧妙に罠を仕掛けられるのだろうか。などという考えに、罠の嵐に見舞われている、リエラはたどり着くはずもなく。未だ、ヒューの手に触れられたまま、ボケ姫はどうにか呼吸を整え、大きく首を縦に振った。
「ん、んんんんんんん。んんんん、んんんんんん!」
(そ、そうですよね。確かに、危ないです!)
ヒューはリエラからそっと手を離して、次なる手を打ち始めた。リエラは声を震わせながら、
「どう……して……後ろにいるんですか?」
策略家の瞳は、小さい人の襟元へ一瞬向き、さっと情報をつかんだ。王子は人魚姫を背中から抱き締めるようにして、また近づき、
「あなたとマリアの願いを叶えるあげるためにですよ」
(こちらは、嘘ではありません。
私は今は何もしていませんよ)
確かに何もしていないのだが、王子に十分もてあそばれた姫は、顔を真っ赤にして、
「あ、あの……」
(そ、それはわかってるんですけど……。どうして、後ろからなんですか?)
言い淀んだ彼女の様子を見て、ヒューは瑠璃紺色の瞳をすうっと細くした。
あなたは私に何かを聞きたがっているように見える。
あなたは今、落ち着いていないように見える。
策略家はあごに手を当て、
私があなたに近づいたことに、あなたは戸惑っているーーという可能性が非常に高い。
これらから判断して、私があなたに近づいた理由を、あなたは私に聞きたがっているーーという可能性がある。
(そうですね……?)
またもや、罠を仕掛けるのだろうか。王子は少し後ろへ顔を向け、
(馬車の速度。
従者。
店の並び)
あなたは今、冷静に判断を下せないーーという可能性が非常に高い。
(こちらで、終わりにしましょうか)
策略家は一瞬にして、すべての情報から画策し、的確な言動を始めた。妹の襟元に手を伸ばし、
「マリアのネックレスが少し曲がっているみたいですから、直しているんですよ」
リエラが前を向くと、本当に彼がマリアのネックレスを直しているのが見えた。彼女はヒューの腕の中で、戸惑い気味に頭を下げる。突然、話題が変えられたことに気づかずに、
「あ……ありがとうございます」
(変わっていただいて、助かりました)
「どういたしまして」
(十分、楽しませていただきましたよ)
姫をさりげなく解放し、ヒューが元の席にすっと戻ると、馬車の速度が落ち始めた。
ある店の前で馬車が止まり、三人は店内へ案内された。優しいぬくもりの広がる空間を見渡し、リエラは目を輝かせ、
(うわっ、ぬいぐるみがたくさんだ)
マリアが嬉しそうに店の奥へ走り出した。従者たちがそばにいるのも気にせず、リエラも同じようについていく。ふたりの後ろ姿を見つめて、ヒューは優しく微笑んだ。
(似ていますね、あなたたちは)
「おねえちゃん、これかわいいよ」
マリアが見せたぬいぐるみを見て、リエラは固まる。
「え……」
(青いテディベア。
自分の誕生日にもらったのと一緒だ。どうして一緒なんだろう?)
「おねえちゃん?」
マリアは不思議そうな顔をした。リエラはぼんやり返事をして、
「あぁ……うん」
(夢だから、同じものも出てくるのかな?)
子供を置き去りにして、考え始めたりエラに、ヒューの声がかかる。
「どうかされたんですか?」
「えっ? あぁ、ちょっと考えごとです」
(そうだね。夢でも同じもの出て来たりするよね。
別におかしなことじゃないよね)
リエラの言動から証明されたように、策略家は今は罠を仕掛けてはいなかった。だが、明らかに言葉遣いがおかしい。さっきとは違う。いつもなら、『どうしたんですか?』と聞くのに、『どうかされたんですか?』と聞いてきた。策略家はその言葉をわざと選んで使っていた。そんな様子を微塵も見せず、ヒューは少し微笑んで、
「そうですか」
リエラはかがみこんで、マリアに
「可愛いね」
「うん」
マリアは目をキラキラさせた。リエラは他の色を選びながら、
「マリアちゃんはどれにする?」
「これにする」
マリアは青いテディベアをぎゅっと抱きしめた。そのまま、まだ決められないリエラに、
「お姉ちゃんは?」
リエラはピンクとブルーを左右それぞれ手にひとつずつ持って、考え始める。
「そうだね……?」
(んー、どっちも可愛いね。迷うね)
ヒューは瑠璃紺色の瞳にリエラを映しながら、記憶を辿った。
(以前、見た夢のことを思い出しますね。
マリアがふたつのリボンを持って、迷っていた時のことを)
冷静という名の仮面から、感情という名の獣が顔を出しそうになるが、彼は優雅な笑みで食い止め、
(リエラさんに出会わなければ、この夢の続きは見ることが出来なかったのかも知れません。
考えても見つけられない答えを、あなたとなら見つけられるのでしょうか?)
「ヒューさん?」
(相談があるんです)
ヒューが気がつくと、両手にぬいぐるみを持ったリエラが立っていた。彼は考えていたことを悟られないよう、自然を装い、
「どうかされたんですか?」
(あなたもですか? どちらにするか決められないんですか?
困った人ですね)
ヒューは心の中で優雅に降参のポーズを取った。リエラは彼が予測した通りのことを聞く。
「どっちがいいと思いますか?」
(難しいんです。どっちも可愛いんです)
ヒューはその質問を聞いて、くすくす笑い出した。
(あなたは本当にわかりやすい人ですね)
まったくもって、その通り。これなら、リエラがヒューの罠に簡単に捕まるのも納得である。リエラは不思議そうな顔で、
「え……?」
(あれ? 先生、また笑ってる。
おかしなこと言ったのかな?)
ヒューはあごに手を当て、考え始めた。
「そうですね……?」
(仕方がありませんね。あなたに似合う色を私に選べということですね)
彼はふとリエラの瞳をのぞき込み、
「ブルーの方がよろしいのではないんですか?」
(夢の中では、あなたの瞳はブルーなんですね。
現実では、何色なんでしょう? 気になりますね。
今度、確かめてみましょうか)
リエラは素直にうなずした。
「あぁ、はい」
(先生の髪と瞳の色と同じですね)
マリアの声が下から響いてきて、
「おなじだね」
「そうだね」
リエラはピンクのぬいぐるみを戻して、ブルーのを小さな姫のそばに近づけた。そこで、リエラは姫さまらしからぬ心配をする。
(あ、そうだ。お金って払うよね?
いくら、夢の中でも、払わないのはいけないよね?
お金持ってないから、買えないね)
ヒューが他の棚を見ている隣で、リエラはぼんやりし始めた。彼は視界の端に、ボケ姫を映し、
(今度は何を考えているんですか?)
マリアがヒューの服の裾を引っ張った。それに気づき、ヒューは妹に視線を合わせ、顔を再び上げた。
(マリアがまた、待っていますよ。仕方がありませんね)
彼はそう判断して、スマートにことを進ませた。
「そちらは、私がプレゼントいたしますよ」
(これでは、マリアが待ちくたびれてしまいますよ。困った人ですね)
「えっ、でも……」
(いくら夢でも、先生に迷惑をかけるのは……)
きっちり生徒の位置に定まっているリエラは、戸惑った。
「いいえ、構いませんよ」
(今度はどうしたんですか? 飽きませんね、あなたといると)
ヒューは彼女の手から、ぬいぐるみを流れるような動作で、抜き取って、従者に渡した。
それから三人は色々な店を回り、コランダム城でティータイムを楽しんだ。そして、夕暮れ時、リエラは波打ち際まで、ヒューにまた運ばれてきた。海へ帰ろうとする彼女に、マリアが笑顔で、
「おねえちゃん、またあしたもあそぼうね」
「うん、そうしようね」
リエラは笑顔で手を振ろうとして、あることに気がついた。
(あれ? そういえば、今日の夢はこの間の続きじゃないね。
今日の約束って、いつしたんだろう?
明日の約束だったね、今。んー……?)
ヒューはまわりに控えている従者たちを見渡して、ぼんやりしているボケ姫に、
「どうかされたんですか?」
「あぁ……はい」
リエラはとりあえず返事をして、また考え始めた。
(夢だから、知らないうちに約束してたのかな? でも……何だか……)
ヒューは自分たちのまわりにいる従者をさっとうかがい、
「リエラさん、もう日が暮れますよ」
(みなさんがお待ちですよ)
リエラは我に返って、
「あぁ、はい」
(暗くなる前に帰らないとね。先生の言う通りだね)
人魚姫は小さな姫ーーマリアに手を振った。
「じゃあ、またね」
「バイバイ」
マリアは小さな手を元気一杯振った。リエラはヒューに学校でいつも言っているように、
「ヒューさん、さよなら」
「お気をつけて」
彼はなぜか、ここでも、いつもと違う言葉を使った。オレンジ色に染まる海へ帰っていくリエラを、ヒューは見つめ、
(おかしな夢ですね。明日の約束をしているなんて)
そして、心の中で優雅に降参のポーズを取った。