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金曜日は、八神はなぜか休みだった。時々、優雅な策略家は早退した翌日に休むことがあった。そのため、亮は彼の罠から、逃れることができた。が、土、日を挟んでも、彼女のドキドキは止まらなかった。
今日は、七月十三日、月曜日。亮はガクガクする足で、学校への道を歩いている。夏の日差しを浴びながら、彼女の視界はアスファルトでいっぱい。
(だ、大丈夫かな? き、緊張しすぎてないかな?
ちゃ、ちゃんと挨拶出来るかな?)
担任教師と受け持ちの生徒。必ず何かで関わりを持つ関係。亮はどう接すればいいか考えようとするが、上手く気持ちがまとまらずにいた。そこへ、
「おう!」
誰かに背後から声をかけられて、亮はびっくりして飛び上がった。
「えぇぇぇっっっ!」
ゲラゲラ笑う声が自分の横にやって来て、
「朝から反応よ過ぎだって」
(八神に引っかかった時みてぇじゃねぇか)
亮は道路から顔を上げて、赤髪少年を見つけ、ほっと胸をなでおろした。
「……あ、あぁ。せ、誠矢」
(ど、どうしよう? 他の人に話しかけられても、驚いちゃうよ)
この先、どんな展開が待っているのか容易に想像できる、そんな従姉妹の隣で、誠矢はバイクから降り、
「何、そんなに驚いてんだよ?」
彼はにやにやしながら、バイクを押し始めた。
「べ、別に……びっ、びっくりは………してない……よ」
亮の態度は、透明なガラス玉の向こうを覗くような、どうしようもないほどバレバレなものだった。誠矢はニヤニヤしつつ、何気なく、ある人の名を口にする。
「そういや、八神、いつも雨降ると帰るよな?」
(驚けよ)
「え、や、八神先生⁉」
ヒューに抱きかかえられた時の感触を思い出して、亮はびっくりして飛び上がった。誠矢はゲラゲラ笑う。
「何だよ? 八神と何かあったのか?」
(朝から、あいつに引っかかんなよ。それに、今日、月曜だって。
まだ、一週間もあるじゃねぇか。抜けられなくなんぞ、あいつの罠から)
亮の声はとこどろこど裏返った。
「や、八神先生とは、なっ、何もないよ……」
(そ、そうだよ。先生じゃなくて……ヒュ、ヒューさんだからね。ま、間違ってないよ)
亮は自ら、立ち入り禁止区域内ーー夢へと足を踏み入れてしまい、さらにドキドキしてきた。正門をくぐり、誠矢はとりあえず、
「じゃあ、あとでな」
(お前、今日、一日、すげぇことになりそうだな)
彼はバイク置き場に向かったが、亮はそれに気づかないほど、ドキドキしていた。
(わわわわ……また、ドキドキしてきたよ……)
目の前に広がる昇降口。規則正しく並ぶ教室の窓。その前に広がる校庭。それらを見ると、八神へ近づいてゆくのが感じ取れて、亮の鼓動は超高速で鳴り始めた。そこへ、また声がかかる。
「亮、おはよう」
「え、えぇぇっっっ‼」
亮はびっくりして、五十センチほど飛び上がった。今の彼女には、全てが罠になっていた。そんな親友を前にして、美鈴はずばり核心を突く。
「どうした? 優雅な彼にでも会った?」
(あんたのその驚きようは、彼絡みしかないよね)
「え、え………!」
亮は驚きすぎて、口をパクパクさせただけだった。
(な、何で、みんな、八神先生のこと聞くのかな?)
美鈴はそれを見て、あきれ顔。
(あんた、本当わかりやすいね。これじゃ、今日の授業、無理なんじゃないの?)
そして、天才少女は突然、話題を変えた。
「ところでさ、あんた、木曜何してた?」
(日付、抜けてない?)
「も、木曜?」
亮は心臓をバクバクさせながら聞き返した。美鈴は真剣な眼差しをよこして、
「そう、木曜」
震えと緊張を止めるので手一杯、その上、先走りな亮はいとも簡単に、天才少女に情報を渡してしまった。
「ちょ、ちょっと、覚えてないなぁ」
(いつの間にか過ぎてたから、わからないんだよね)
美鈴は夏風に髪をなびかせながら、短くうなずく。
「そう」
(あんたで二人目。日付、飛んでるのは)
ブラウンのくりっとした、落ち着きのない瞳を覗き込んで、美鈴は質問を重ねる。
「夢見なかった?」
(あんた、夢だと思ってない?)
「ゆ、夢?」
思わず落としそうになったカバンを慌てて掴んだ、亮は声がうわずった。
(み、見たよ。見た。
で、でも、それはちょっと……ドキドキして言えないよ)
ギクシャク動く、少し長い影が校庭に伸びていた。それに絡みつくように、歩いている影ーー美鈴が、
「そう、夢」
(あんた、そこでヒュー ウィンクラーに会ったんじゃない?
カーバンクルにあった、コランダム王族の写真、優雅な彼に似てるんだよね)
美鈴は親友の瞳をじっと見つめ、真意を図っていた。亮はしどろもどろになる。
「み、み、見たような……見てないような……」
(い、いくら夢の中でも先生とキスーー‼)
ヒューを助けた時のことを思い出して、亮の影がワンテンポ遅れて、飛び上がった。
「そう」
(それは見たってことだね。その上、向こうで彼に会った。でも、何で、そんなに驚いてんの?)
美鈴は親友の態度から、必要最低限の情報を入手した。そして、彼女は優雅な策略家の部屋を見上げ、
(彼はどう思ってるんだろうね?)
そして、下駄箱まで来ると、ものすごく不機嫌な声が聞こえてきた。
「……おはよう」
「え……?」
亮はドキドキも忘れて、その人を見た。美鈴は驚くことなく声をかける。
「白石、おはよう」
(あんたはこの間、確認済みだからいいね。これで三人目)
「おはよう、祐」
(元気がないね)
銀髪少年に、亮はいつも通り声をかけた。
「…………」
(もう、話すの面倒)
祐は彼女に応えず、下駄箱を開けた。床に色とりどりの四角いものがどばっと散らばった。それらを、ロック界の王子様は紙袋に入れ始めた。
いつも通りの朝。亮と美鈴は、プレゼントとファンレターを拾っている祐を残して、教室へ向かい始めた。
八神と会う時間が迫っているとわかると、亮はまたドキドキしてきて、思考回路がストップ。その隣を歩きながら、美鈴はIQ二百の頭をフル回転させていた。
(あとは、彼だね)
金髪の天使が、天才少女の脳裏に浮かんでいた。
(でも、この間、様子が変だったから、改めて確認する必要もない気がするんだよね。
それに、撒かれる気がするんだよね。
結構、彼は侮れないんだよ。たぶん、四人目)
向かい側の校舎で、レースのカーテンが揺れる窓を見上げて、
(あぁ、あと、さっきの優雅な彼も入れておかないとね。五人か。他にも誰かいる?)
美鈴は世界間を移動している人を探しまくっていた。
結局、亮がドキドキを解消出来ないまま、朝のホームルームが始まってしまった。扉がガラガラと開けられる音が耳に入ってくるが、亮の視界は自分の震える手しか映っていなかった。教壇に近づく優雅な足音が聞こえ、なぜか、他のクラスメイトがざわつき始めた。
「先生、急にどうしたのかな?」
「何かあったのかな?」
「先生、何で?」
何か、事件が起きているらしい。美鈴は亮に聞こえるように、
「心境の変化?」
(月曜の朝から、すごいことになりそうだね)
何だかんだ言って、美鈴も結構ノリノリな様子。そんなことには気づかず、亮の心臓はバクっと大きく波打った。
(えっ! 心境の変化⁉ 変化どころじゃないよ。
もう、先生の顔は見れないよ。
ドキドキしすぎて、座ってるの、やっとだから)
彼女は下を向いていたので、八神の心境の変化が何なのかを確かめることは出来なかった。美鈴はふたりを見比べて、
(何があったの、一体? あんたのそのドキドキぶりは何?
どうしちゃったの? ふたりして。
さらに、エスカレートしてるみたいだけど……)
エスカレート、それが何を意味しているかは容易に想像できる。それは、亮を驚かせる、八神の罠。美鈴は小声で、親友に忠告。
「あんた、ハンカチ、口にしっかり当てときなよ」
「えっ⁉」
亮は囁き声で、しっかり驚いた。
(ハ、ハンカチ? な、何で?)
前の席に座っている誠矢が、ちょっと心配する。
(お前、今日、マジで後ろに倒れんじゃねえか?)
右隣の祐は、ぼんやり廊下を眺め、
(俺は関係なし)
彼は他人の振りをすることに決めた。斜め右前の席に座ってるルーは、嬉しそうに微笑む。
(よかったさん、会えて)
ガタガタ震えていて、下を見続けている亮に、美鈴は二度目の忠告。
「ハンカチ、ちゃんと用意して」
(それだけでも、対策して)
「……う、うん。わかった」
(ハ、ハンカチだね。えっと……右のポケットに……)
亮はポケットから、それをモゾモゾと取り出して、親友に言われた通り、口にピタッとくっつけた。少しざわついている教室に、出席を取る八神の優雅な声が舞い始める。
しばらくして、亮の番になった。
「神月さん?」
「…………」
亮は別のことを考えていて、自分が呼ばれたことに気づかなかった。八神の罠にまっしぐらである。
(夢の中のことは忘れないとね。
だ、だから、呼ばれたら返事をいつも通り返さないとね)
誠矢は口の端でニヤリとした。
(お前、もう気絶すんな)
もう一度、八神の優雅な声が聞こえてくる。
「神月さん?」
(どうしたんですか?
朝の出席取りで、あなたが返事を返してこないのはおかしいですよ)
「…………」
亮は二度目にもかかわらず、まだ考え続けていた、体をビクつかせながら。
(わ、忘れるのって難しいね。
思い出さないようにって、考えると……また思い出しちゃって。
ど、どうすればいいのかな?)
そして、八神から何度も注意されている言葉がやってくる。
「神月さん、返事をしてください」
いつもの言葉を聞いて、亮は我に返った。
「は、はい……」
しかし、ハンカチでしっかり口を押さえていたので、八神まで声が届かなかった。彼は優雅に降参のポーズを取り、
(仕方がありませんね)
亮のところまで、優雅な足音が近づいてきた。しかも、しっかり、亮の後ろーー彼女が驚く可能性が高い場所を狙って、八神の歩みは止まった。そして、神経質だが、柔らかさも含む策略家の声が背後から響いた。しかし、生徒と教師という立場を、きちんとわきまえた距離で。
「神月さん、どうしたんですか?」
(おかしな人ですね)
「いえ、大丈夫です」
(ドキドキはすごくするんですけど、何とか倒れないようにしてます)
ずっと下を向いている生徒を、瑠璃紺色の瞳に映して、
(受け答えがおかしいみたいですよ)
心の中で密かに注意し、八神の罠は発動し始めた。
「神月さん、顔を上げてください」
それを聞いて、祐と誠矢は同時に思う。
(最終段階だ)
亮は言われた通り顔を上げーー罠にはまり始めた。
「え、えぇっっっ!!」
(ど、どうして、そうなんですか!?)
ぱっと立ち上がり、椅子を後ろへバターンと倒した。いつも通り、おかしな反応をしている亮に、教室中から笑い声が向かってくる。美鈴は嘆息し、椅子をしっかり元に戻して、
(やっぱり、やられたね。ハンカチだけじゃ対応しきれないよ、今日は)
そう、今日は特別な罠なのだ。そのため、亮はそのまま後ろへ倒れ始めた。
倒れると危ないーーという可能性が非常に高い。
八神は瞬時に判断し、人として、教師として、ボケ少女を背中からさっと受け止めた。
「神月さん? 何を、そんなに驚いているんですか?」
天敵、八神に急に近づかれたので、彼の腕の中で、亮は目を大きく見開き、
「えぇぇぇっっっ!!!!」
学校中にとどろくような大声を上げた。ヒューに抱きかかえられたことを思い出して、彼女の足の力が抜けてゆく。
(うわっ! こ、これじゃ、夢の中と変わらないよ。
し、しっかり立っておかないと、また抱きかかえられちゃうよ)
前に座っていた誠矢が、振り返ってにやにやし、
(ここまで来っと、芸術だな)
祐は隣で展開されている騒動に、不機嫌顔。
(驚きすぎだろう、それくらいの変化で)
ルーは春風のようにふんわり微笑む。
(今の光は、彼にそっくりだよね)
亮の口から、八神の罠の全貌が明らかになる。
「せっ、先生、どう……して、今日は……眼鏡じゃないんですか?」
(ヒューさんにそっくりです!)
「心境の変化ということにしておきましょうか」
(久しぶりですね、眼鏡をかけないのは)
八神は至福の時というように、優雅に微笑んだ。
「そ、そうなんですか」
(先生も、心境が変化したんですか?
自分もしましたけど、あまりいいことじゃない気がします)
いつまでも、自分に寄りかかっている生徒に、教師という立場で、八神は、
「どうしますか? 保健室に行きますか?」
(いつまでも、こうして支えておくわけにはいきません。ここは、学校です。
私は教師で、あなたは生徒なんですから)
密着している生徒を教師。彼らにクラスメートの視線が集中する中、亮は何とか体勢を立て直そうとするが、出来ずに、
「いえ、だ、大丈夫です」
(どうして、 眼鏡かけてこないんですか? もうギブアップです!)
瑠璃紺色の瞳の八神がくすくす笑い出した。
(大丈夫ではないみたいですよ。仕方がありませんね)
罠にしっかりはまって、立つ力さえ奪われた生徒ーー亮を、教師ーー八神はきちんと席に座らせて、しっかり注意する。
「神月さん、返事はしてください」
「は、はい……」
心臓バックバクの亮を背にして、八神は教壇へ戻り始めた。