近くて遠い
そして、翌日。
自室のソファーで、ヒューは外出の準備を終えて、新聞を読んでいた。
(七月十日。日付まで決まってるんですね。そして……)
ふと書斎机に目を移した時、マリアが部屋へやってきた。
「おにいさま」
「マリアさん」
(また、あなたに会うことが出来て、とても嬉しいですよ)
彼は優しい顔を向けた。彼女は兄の足下に駆け寄る。
「もう、だいじょうぶですか?」
「えぇ」
マリアを心配させないように、ヒューは彼女の隣にかがんだ。マリアは少ししょんぼりする。
「ごめんなさい」
ヒューは首を横にゆっくり振る。
「いいえ、あなたが無事ならそれでいいんですよ」
(あなたを助けることが一番だったのですから)
「あ……はい」
マリアは戸惑い気味に答えた。ヒューは彼女の小さな手を優しく包む。
「あなたが困る必要はありませんよ」
「はい」
マリアは元気に返事をした。ヒューは少しだけ微笑む。
(あなたは、強い人ですね)
そして、彼は流れるような仕草で、髪飾りを手に取った。それを見て、マリアが目をキラキラ輝かせる。
「にんぎょさんに、あいにいくんですか?」
「なぜ、そう思うんですか?」
ついいつもの癖が出て、可愛い姫を前にしても、ヒューは情報を引き出すため、優しく聞き返した。マリアは素直に答える。
「それは、にんぎょさんのかみかざりだからです」
「そうですか」
(陸へ上がるとは、そういう意味なのかも知れません。リエラさんは、人魚という可能性があるみたいです)
彼はここまで、簡単にたどり着いてしまった。
「あいにいくんですか?」
マリアは興味津々で身を乗り出した。ヒューは優雅にうなずく。
「えぇ」
(命令ですからね)
「わたしもいきたいです」
マリアは右手をぱっと上げ、元気に答えた。ヒューはそれを聞いて、戸惑う。
(あなたが危険な目に遭う可能性がある場所には、つれていけない。
あなたが悲しむーーという可能性が高い。
しかし、あなたの望みを叶えてあげたい。
そうですね……こうしましょうか)
彼は瞬時に判断して、まずはゆっくりと首を横に振った。
「今日は残念ですが、連れて行くことは出来ません」
「……あ、はい」
兄の予測通り、マリアはしょんぼりした。ヒューは妹が元気を取り戻すため、次の言葉を告げた。
「今夜も私の部屋で、絵本を読んで差し上げますから、そちらで、許してもらえますか?」
「はいっ!」
マリアはさっきまでのことは忘れて、元気にうなずいた。ヒューは彼女の頭を優しくなで、
(素直で、正直な人ですね、あなたは。とても素敵です)
兄妹が仲良くやっていると、不意にドアがノックされた。
「はい?」
ヒューが返事を返すと、召使いが一人入ってきた。
「馬車の準備が整いました」
「そうですか」
彼は髪飾りを持って、マリアと一緒に部屋を出た。
そして、海の底では。
リエラが何をしようか考えようとした時、扉がノックされた。
「姫さま?」
「はい?」
彼女がドアを開けると、召使いが一人立っていた。手短に伝言を告げる。
「王様が、コランダムへ行くようにとおっしゃってます」
「えっっ!」
リエラはびっくりして飛び上がった。
(コランダムって、陸の国だよね? 髪飾りないから、行けないよ)
またおかしな行動をしている姫を前にして、召使いは不思議そうな顔をする。
「どうされました?」
「髪飾りがないんです」
リエラは正直に答えた。召使いは意味あり気に微笑んで、
「大丈夫でございます」
(そちらを取りにいくのですから)
「え……?」
(昨日はダメだったけど、今日はよくなったのかな?
髪飾りがなくても、陸に行けるってこと?)
リエラは未だに、髪飾りを砂浜に、落としたことに気づいていなかった。
「二時に、海岸へ到着するようにとのご命令ですから、すぐにご準備を」
召使いはテキパキと言って、姫の着替えを手伝うため、リエラの部屋へ入った。
「あぁ、はい。わかりました」
(よくわからないけど……大丈夫だね、きっと。とりあえず、準備しよう)
リエラは簡単に納得し、召使いのあとに続いた。
今日は天気もよく、波も穏やかで、コランダムの海岸へ、リエラたち一行は無事にたどり着いた。 波打際近くの岩肌に、リエラは腰掛け、従者が、
「こちらでお待ちを」
「あぁ、はい」
潮騒を聞きながら、リエラは頬杖をついて、ぼんやりする。
(んー……?
陸に上がって、待ってたら足が生えて、歩けるようになるのかな?
そういうことかも知れないね。
じゃあ、待ってるしかないね。
でも、どれくらい待つのかな?
代わりの髪飾りって、ないのかな?
そういえば、どこにいったんだろう?
それとも、最初からなかった?
ううん、あったよ。
この間……)
そこで、彼女は背中から声をかけられた。それは、とても冷静さを持ったもので、
「お探しの物はこちらですか?」
自分の背後から突然、探し物ーー髪飾りが出てきたので、リエラはびっくり。
「えぇっ!」
(どうして、ここで出てくるんだろう? 別に、お城の中で出て来てもいいんじゃないかな? んー……?)
ボケボケ少女は似合わずに、考え出した。何も返してこないので、背後にいた人は含み笑いをしながら、もう一度尋ねた。
「あなたのものですよね?」
「……あぁ、はい」
リエラは我に返って、返事をし、後ろに振り向くと、そこには瑠璃色の髪をした男がいた。ふたりとも、相手の顔をじっと見つめて、
(誰かに似ていますね)
(誰かに似てる気がする)
まわりいた従者たちが何かを期待して、目の色を変えた。
(これは、もしかすると、もしかするかも知れません!)
男はあごに手を当て、優雅に微笑む。
(神月さんですね。まさか、あなたが夢に出てくるとは思いませんでしたよ)
リエラはその人の仕草を見て、引っ掛かりを覚える。
(あれ? どっかで見たことあるなぁ。んー……?)
何の遠慮もなしに自分を凝視ーー明らかに不自然なことをしている、彼女を前にして、男はくすくす笑う。
(また、考えてもわからないことですか? 夢の中まで、あなたらしいんですね)
リエラは首を傾げて、さらにその人を見つめる。
(八神先生に似てるけど……どっか違うような気がするんだよね。何が違うんだろう?)
考え続けている人魚姫を前にして、男は優雅に微笑でいた。
(どうしたんですか?)
そこで、リエラはやっと、違和感に気づいた。
(あぁ、眼鏡かけてないんだ。あと、すごく幸せそうな目をしてる。初めて見たな、先生のこんな目)
彼女は自然と笑顔になった。キラキラとしたブルーの瞳に、男は微笑み続ける。
(何を考えているんですか? 気になりますね)
黙ったまま、王子と王女が見つめ合っているので、まわりの従者たちはさらに期待した。
(一目惚れでございますか⁉)
男の知りたいという気持ちが、口を開かせた。
「失礼いたしました。私は、ヒュー ウィンクラーと申します」
(夢には、夢のルールがありますから、そちらに従いましょう)
リエラはヒューの幸せそうな瞳を見つめたまま、
「リエラ カリアントです」
(そうだよね。自分にも違う名前があるんだから、先生だって名前違うよね)
【月と水 時は満ちた】
リエラとヒューの魂の奥底に、誰かの声が響いた。見つめ合ったまま、また沈黙する。
(懐しい名前だね)
(懐しい名ですね)
心地よい海風がふたりの髪を優しく揺らす。寄せては返す波の音が静かにリフレイン。リエラはヒューを見つめて、またぼんやりする。
(前にも、こんなことがあったような気がする)
彼は特に思うこともなく、彼女の姿を見て、
「人魚なんですね?」
(おとぎ話みたいです)
「……あぁ、はい」
(いつ、こんなことがあったんだろう?)
リエラは考え事の途中だったため、ぼんやりしたまま返事を返した。ヒューは人として当然のことをしようとして、彼女に髪飾りを差し出した。
「一昨日は、助けていただいてありがとうございました」
「え………?」
リエラはその言葉で、我に返った。そして、そのままヒューを凝視する、また遠慮もなしに。
(一昨日、助けた? ………。一昨日ってことは、昨日の前の日だよね? この夢って、つながってるんだ。何だか、面白いね)
彼女はとても楽しそうに微笑んだ。ヒューはあごに手を当てて、そんな素直な彼女を見つめ、
(夢の中でも同じなんですね、あなたは)
リエラはそれに気づかず、考え始めた。
(助けたって……今、先生言ったよね?
てことは、大丈夫だったんだね。
よかった。
ずっと、気になってたから。
溺れてた人って、先生だったんだ。
え………八神先生⁉)
その言葉ーー名前にたどり着いて、リエラはまじまじと、ヒューの顔を見つめた。
(あぁ、あの時、気づかなかったけど。本当だ、八神先生だ)
また、首を傾げて、気づいてはいけないことに手をかけた。
(えっと……どうやって助けたんだっけ?)
リエラはそこでびっくりして大声を上げる。
「えぇっっっ‼」
(た、大変だ‼)
いつも通り驚き始めた彼女に、ヒューはくすくす笑いながら、
「どうかされたんですか?」
(あなたの大騒ぎの原因は何ですか?)
「あ……あの……」
リエラは言いよどんで、顔を真っ赤にした。さすがのボケボケ少女も、キスは知っていたようだ。心臓がバクバクいい始める。
(うわっ! 先生とキスしたんだ。ど、ど、どうしよう。恥ずかしくて、顔見れないよ。え……でも、夢の中だから平気?)
唇の感触を思い出して、彼女はドキッとした。そして、砂浜中に響くような、大声をまた上げる。
「えぇぇっっっ!!!!」
さっきから、一人で大騒ぎしているリエラに、ヒューはくすくす笑いながら、優雅に何かを堪能し始めた。
(おかしな人ですね、あなたは。そうですね……こうしましょうか)
リエラはそれに気づかなかった。恥ずかしすぎて、うつむいたまま考えていたから。
(でも、夢とか関係ないんじゃないかな? え、関係ある? あれ?)
彼女は何だかわけがわからなくなった。ヒューの優雅な声が、彼女の名前を呼ぶ。
「リエラさん?」
私が話しかけないと、あなたから話してくるーーという可能性は非常に低い。
「あ、あの……気づいてませんよね?」
(気を失ってたわけだから、知らないですよね?)
彼女は戸惑い気味に聞いたーーいや、バレバレな態度をしている姫を、優雅な策略家はもてあそぶーー不思議そうな顔をする。
「何をですか?」
「えっと……この間のこと……です」
(言葉にすると、すごく恥ずかしいので……)
リエラはドッキドキで、声が上ずりそうになった。彼は珍しく真剣な顔ーー罠を張っていく。
「助けていただいた時のことですか?」
「あぁ、はい」
リエラは自分の足下を見つめたまま、小さな声でうなずいた。ヒューは彼女の顔を覗き込み、優しく声をかけるーー罠をさらに張る。
「何か問題でもありましたか?」
耳元で優雅な声が響いたので、リエラはびっくりして顔を上げた。
「も、問題ですか⁉ ……あっ、あるような……ないような……」
(気づいてないみたいだから、大丈夫だよね。そ、そうだよね。き、気にしないことにすれば……何とか大丈夫……?)
と思ったのもつかの間、罠が作動し始めた。
「キスですか?」
(驚きますか?)
十分姫をもてあそんだ、王子は今頃その言葉を口にした。リエラはしっかり罠にはまり、後ろに倒れ始めて、
「えぇっ! 知ってたんですか⁉」
ヒューはくすくす笑いながら、彼女の手を捕まえた。
「危ないですよ。溺れたいたところを助けていただいたのですよ。少し考えれば、わかることだと思いますが、違いますか?」
大人の余裕で、何の下心もなく、説明されたが、
「あ、あの……」
(すごいドキドキして、恥ずかしいです)
ファーストキスを捧げたリエラは、顔を真っ赤にして、モジモジした。ヒューはポーカフェイスで、
「気にしていませんよ、助けていただいたのですから」
(こちらは、本当のことですよ)
「えぇっ‼」
(き、気にします。
先生が気にしてなくても、気になります。
明日から、学校行けません。
明日から、どんな顔をして、先生に会えばいいんですか?)
リエラはまた倒れそうになった。彼女の手をひっぱりながら、ヒューはいつも通りなのがおかしくて、くすくす笑い出す。
(おかしな人ですね)
いつもと違って、よく笑う彼を目の前にして、リエラの恥ずかしさは吹っ飛んだ。
(先生って、こんなふうに笑うんだね。知らなかった。でも、どこかで見たことがある。どこでだろう?)
彼女の中で何かとイメージが重なりかけて、そのままぼんやりした。ヒューはさっきからずっと持たされていたものを、姫に差し出して、
「髪飾りをつけていただけませんか?」
(きっと、似合うでしょうね)
「え……?」
(今、何て言いました?)
リエラはいつも通り、ちゃんと聞き取れなかった。しかし、教師ではないので、王子のヒューは注意することもなく、もう一度告げる。
(また、聞き取れなかったみたいです)
「髪飾りをつけていただけませんか?」
「あ、はい」
リエラは彼の手から、王族の証である紋章の入った、髪飾りを受け取り、素直に髪へ挿した。すると、まぶしい光に包まれて、彼女の尾ひれは二本足になり、人と同じように歩ける状態に。それを見て、ヒューは本当に嬉しそうに微笑んだ。
(魔法みたいですね。素敵な夢です)
リエラは自分の姿が急に変わったので、目をぱちくりさせた。
「えぇぇっっっ!」
(ほ、本当に二本足になるんだ。すごいね。夢だから、こういうこともあるんだね)
彼女は妙に納得しながら、ブルーのドレスを手で触った。陸を自由に動くことができるようになった姫に、ヒューは優雅に誘う。
「リエラさん、お茶はいかがですか?」
助けてもらったのだ、礼をするのは当然。
「お茶ですか?」
リエラはきょとんとした。ヒューは優雅に相づちを打つーー相手の出方を待った。
「えぇ」
「……あ、はい、いただきます」
(学校みたいですね)
罠が次々に張られているとは知る由もなく、リエラは笑顔でうなずいた。
「それでは、お手を」
まるで、舞踏会でも行ったことがあるような、慣れた素振りで、ヒューは彼女へ手を差し出した。ボケ少女・リエラ、いや姫に慣れていない女子高生は、なぜか自分の手を見つめ、グーパーグーパーする。
「手ですか?」
(もう、お茶の用意が出来るてるのかな? 先生、いつの間にしたんだろう?)
ヒューは片膝を砂浜についた状態で、くすくす笑い出した。
「えぇ」
(伝わっていないみたいです、私の言葉が)
笑っている王子を放り出して、リエラは首を傾げる。
「手……?」
(先生の言っている意味がわからないなぁ。夢だから、どこからかぱっと出てくるのかな?)
また、ボケて勝手な解釈をし始めた彼女を、ヒューはあごに当てて、画策し始めた。
(そうですね……夢なのですから、少し楽しみましょうか)
この瞬間、策略家の罠が教師という立場失い、一気に解き放たれた! リエラにトラップの嵐が襲いかかる。
「こちらの方がよろしいですか?」
優雅な声が響いた時、リエラの視界が真っ青になった。王子のしたことを目の当たりにして、まわりにいた両国の従者がざわついた。
(ヒュ、ヒュー様⁉)
リエラは自分の身に起こったとんでもないことに気づかず、ぼんやりする。
(あれ? 何で、景色が急に変わったんだろう? 青くなったね)
ヒューは当てが外れて、心の内に面白味が増してゆく。
(おや? 驚きませんね。どうしたんですか? 急に黙り込んで。驚かない時もあるみたいです)
そして、彼は彼女が驚くための言葉をかけ始める。
「気分はいかがですか?」
(気づいていないのかも知れませんね)
「気分……ですか?」
リエラは戸惑い気味にただ繰り返した。そして、目の前の景色を眺める。そこには柔らかそうな白いものと、真っ青な絵の具が。ヒューは軽く促して、一つの可能性を導き出す。
「えぇ」
(気づいていないーーという可能性が高くなりましたね)
策が張られているとは知らず、リエラは思ったままを正直に伝えーー策略家にいとも簡単に情報を渡してしまった。
「空が綺麗です」
全然、聞かれたことと違うことを、リエラは返してきて、ヒューはその言葉に反応して、空を見上げた。
「そうですか」
そして、彼はくすくす笑い出した。
(なぜ、気分の質問から、空の話になったのでしょう? おかしな受け答えをする人ですね、あなたは)
リエラはそこで、違和感を持った。
(あれ? 急に自分が揺れてる気がするけど。どうしたのかな?)
なぜか、彼女は小刻みに揺れ始めたのだ、不思議なことが起こるもので。
「このままでよろしいですか?」
ヒューの声が不意に聞こえた時、リエラの視界に彼の顔が入ってきた。あり得ない光景に、彼女はびっくりする。
「このままですか⁉」
(ど、どうして、先生と空だけが見えるんだろう? それに、ずいぶん距離が近い気がするんだけど……)
彼は含み笑いをしながら、さらなる罠ーー言葉をかける。
「このまま運びますよ、よろしいですか?」
(まだ、気づかないんですか?)
「運ぶ……?」
なぜか、運ばれるという状況に置かれていたリエラは、目をぱちぱちした。そして、彼女は自分の身に起きていることを、やっと確認し始める。
(あれ? そういえば、足が地面についてないような……。浮いてるってことかな? でも、どうしてだろう?)
次に、ひざの後ろと背中に何かを感じた。
(何だろう?)
探ろうとして、自分の右側を見ると、
(あれ、誰かがすぐ近くに立ってる。誰?)
彼女の視界いっぱいに広がったのは青と白のふたつの滑らかな線。そのまま、彼女はヒューを見るため、真正面を向いた。
(あぁ、先生だ。何だか、おかしいね。自分と先生はまっすぐ立ってない気がする。んー……?)
「リエラさん、返事をしてください」
(まだ、先ほどの私の質問に答えていませんよ)
いつも通りに、八神ーーヒューは教師らしく注意をした。リエラは空のあちこちを見ながら、戸惑い気味に、
「はい。あの……私、今、どうなってますか?」
「あなたは今、私に抱きかかえられていますよ」
(理解しましたか?)
なんと、ヒューはとんでもないことーーリエラをお姫様抱っこしていた。彼女はその意味にまだ気づかず、のんきにうなずく。
「あぁ、そうなんですね……」
(だから、空が見えて……自分が浮いてるんーー‼)
学校では保たれていた距離が、一気に縮まったーー密着したので、
「え、え………えぇっっっっ‼ な、何でそんなことになってるんですか⁉」
リエラは大きく目を見開いて、足をバタバタさせた。ヒューはくすくす笑いながら、
「暴れないでください。落ちると危ないですよ」
「あ、あの……あの……で、でも……」
リエラは壊れた人形みたいに口をパカパカさせたまま、体を硬直ーー素直にヒューの言葉に従った。
(た、確かに落ちると危ないです。先生が正解です)
ヒューは姫をさらに罠に陥れようとして、わざと彼女の瞳をのぞき込み、
「どうしたんですか?」
(言わないと、わかりませんよ。
いつも言いたいことの半分も言えずに、去っていくのですから。
せめて夢の中では言ってください)
リエラは息を吸っては、吐くを何度か繰り返して伝えして、やっとの想いで、
「……お、降ります」
(ドキドキするので、降ろして欲しいです)
「そうですか?」
(大変なことになりますよ)
優雅な策略家はすでに、リエラをもうひとつの罠にはめていた。彼女はそれに気づかず、はっきり意見する。
「はい、降ります」
(先生に迷惑かけるわけにはいかないです)
「そうですか。さぁ、どうぞ」
リエラがどうなるのか知っていて、ヒューはとりあえず、彼女の体を軽々と操り、岩場の上に立たせた。
「あ、ありがとうございーー!!」
リエラがお礼を言おうとすると、なぜかバランスを崩した。
「わ、わわわっ!」
足元がおぼつかなく、その場でヨロヨロし始めた人魚姫、二本足なのに、なぜかそうなっていて。フラフラしているリエラを、ヒューがさっと抱きとめる。
「私が抱えた方がよろしのではないんですか?」
(気づいてないんですか?)
何かの情報を、リエラは逃しているようだ。彼女はドッキドキで拒否をする。
「……い、いえ、だ、大丈夫です」
(また、先生と近づいちゃったよ。まっすぐ立たないとね)
リエラが彼の体から離れようとする、その手をヒューは取りながら、くすくす笑っていた。
(大丈夫ではないみたいですよ。きちんと考えて行動しないと、いけませんよ)
彼女は彼の手を軸にして、バランスを取ろうとし、
(ドキドキしてるから、出来ないのかな? やっぱり夢の中でも、先生の前は、落ち着かないね)
罠という迷路を歩かされているリエラは、ヒューから手を離そうとして、また倒れそうになった。
「わっ!」
ヒューが両手で姫をしっかり受け止めて、どうして立てないのか指摘ーー罠を披露する。
「ハイヒールでは立てませんよ」
リエラは彼の胸に、寄りかかったまま自分の足下を見つめた。そこには、淡いピンクの綺麗なものに包まれた自分の足が。しかも、ガタガタな岩場の上。
「え……? わっ、本当だ⁉」
さっきからずっと密着している王子と王女に、従者たちは見ていていいものか、見てはいけないのか迷っていた。
彼らのことは気にせず、策略を楽しむヒューは、彼女を両手で支えながら、リエラの耳元に口を寄せて、
「どうしますか?」
(あなたをこんなに近くに感じたのは初めてです)
「え?」
そばにいることはわかっているのに、リエラは思わず顔を上げてしまった。
「あ、あの……!!」
(ものすごく近くて、ドキドキします!)
息がかかるくらいの至近距離で、リエラの心臓は最高潮に早鐘を打ち始めた。そんなことは到底お見通しなヒューは、瑠璃紺色の瞳で、わざとらしく彼女の顔をのぞき込み、そして、スマートに質問をすり替え、
「どうしたいですか?」
(ドキドキしていますね、今。伝わってきますよ、私にも)
「えっと……」
(ど、どうしたいのかな? あれ、なんか違ってる気がするけど……気のせい?)
いつの間にか、『どうしますか?』が『どうしたいですか?』に変わっていた。ヒューに思考回路を制御されているリエラは、それに気づかず、一生懸命考えて、
「まっすぐ立ちたいです」
(自分で立ちたいです)
空を見上げ、考えをまとめて、再び自分を見たリエラに、ヒューは優雅に微笑み返しながら、
あなたは自分で考えることができないーーという可能性が高い。
「それでは、どうしたらいいですか?」
王子は姫が答えられないことを知っていて、わざと聞いた。じわりじわりと逃げられない行き止まりへと、リエラは追いつめられてゆく。そんな彼女は王子の思惑通り戸惑い、
「ど、どうしたらいいんでしょう?」
(ほ、方法はわからないです。だけど、このままは、もっと困るんです!)
(それでは……こうしましょうか)
ヒューはこんな言い方をし、どんどん罠にはめていく。
「私が決めてしまっていいんですか?」
(何を要求するかわかりませんよ)
「は、はい、お願いします」
(もう、ドキドキしすぎて、よくわかりません)
リエラは心臓バックバクで、思考が完全にストップーー罠にはまって、うっかりうなずいてしまった。ヒューはさらに顔を近づけて、優雅な笑みーーという策略で姫をがんじがらめにする。
「そうですか。取り消しは出来ませんよ、よろしいですか?」
リエラは気絶しそうになりながら、何の考えもなしに、
「は、はい……」
(取り消しはしません。先生、お願いします)
こうして、リエラはいとも簡単に、ヒューの手中に落ちてしまった。
「それでは、失礼」
策略家は至福の時というように、また彼女を軽々と抱きかかえた。リエラは訴えかけるような目を王子に送る。
「あ、あのっ! ……やっ、やっぱり、それなんですか?」
ヒューはさっそく張った罠で、優雅にその訴えを却下。
「おや? 取り消しは出来ませんよと言いましたよ」
(こちらが、一番合理的な方法であるーーという可能性が高いです。砂浜にハイヒール。他にどのような方法があるのでしょう?)
「あ……はい」
反論できなくされたリエラは、ただうなずくしか選択肢がなかった。初めて会った姫を抱きかかえるという、まわりまで驚かせた王子。彼らが砂浜を動き出すと、側に控えていたふたつの国の従者たちははっと我に返り、それぞれの仕事ーー護衛を始めた。
「ーーさぁ、どうぞ」
ヒューはリエラを地面へそっと下ろし、従者が開けたまま待機している馬車のドアを手で示した。
「あぁ、ありがとうございます」
履き慣れないヒールで、リエラはふらついたが、また倒れると、お姫様抱っこ攻撃に遭ってしまうので、そろりそろりと慎重に乗った。そのあとに、ヒューが慣れた感じで続く。
生徒と教師、その距離感が、ふたりをそれぞれの席ーー居場所へと導いた。向かい合わせだが、少しズレた位置にふたりは座る。ヒューが外で控えている従者に視線をやると、ゆっくりと馬車は石畳を走り出した。しばらく、ふたりは黙ったまま、それに揺られていた。
リエラは手元を見つめて、バクバクしている心臓をなんとか鎮めようと必死にもがいていた。
(せ、先生に抱きかかえられて、運ばれちゃったよ。そ、それに、馬車の中って狭いんだね)
高校生の彼女は、今頃それに気づいた。
(ど、どしよう?
夢の中なのに、ずいぶんドキドキするんだね。
や、やっぱり、慣れないといけないのかな?
慣れるために、夢を見てるのかな?)
ヒューの罠に慣れるという意味不明な思考回路に、リエラはたどり着きそうになっていた。向かいの席にいる彼は、珍しく幸福感に何のためらいもなく浸りながら、窓から入り込む潮風を感じている。
(マリアは喜ぶかも知れません。素敵な夢ですね)
そんな彼は流れてゆく街の風景を堪能していた。カフェテラスや洋服屋、その他、ありとあらゆる店が立ち並ぶ、メインストリート。綺麗に整備された石畳の上を歩いている人々。面白いことに、中世ヨーロッパ風の服装の人ばかりではなく、近未来的な服装をした人もいれば、ターバンを巻いている人もいた。
ふと、花屋の軒先で、カーネーションがヒューの目を引きつけた。
(綺麗……です……ね)
彼が過ぎゆく花を目で追うと、ふと視界の端にリエラが映った。ヒューは冷静な頭脳で、様子をうかがう。顔を真っ赤にし、手を震わせている彼女。さっきの一件が相当効いていることが、容易に想像できて、彼は心の中でくすくす笑った。
(私は今は何もしていませんよ。
おかしな人ですね、あなたは。
教師失格かも知れませんが、あなたを困らせることが嫌いではないんですよ。
なぜ、でしょうね?)
リエラがふと視線を上げると、自分を見つめて優雅に微笑んでいるヒューと視線がぶつかった。
「えっ?」
(せ、先生、今、何考えてるんだろう?)
彼は不思議なほど、姫には罠を仕掛けずに、ただじっと見つめ返して、
「どうしたんですか?」
「あ、あの……」
リエラはそこまで言って、ヒューの服装に初めて気づいた。深い青を基調にした貴族服に身を包み、細身の黒いブーツと、白いズボン。襟元と袖口にフリフリのついた白のブラウスが、彼の物腰とマッチしていて、さらに優雅さをかもし出していた。
ようやく落ち着いて来た、リエラは素直に気持ちを伝える。
「その服、よく似合いますね。素敵です」
(先生のイメージにぴったりです)
「ありがとうございます」
ヒューは戸惑うことなく、優雅にお礼を言って、
(素直に自分の気持ちを伝えられることは、素敵なことです)
普段、自分がしなことをしてくる彼女に、愛おしさに似た感情を持った。リエラはふとそこで、あることを思い出して、
(本当の王子様みたいだね。
そういえば……祐も誠矢も王子様に夢の中でなってたって言ってたよね?
もしかして……)
「あの、ヒューさんも王子様ですか?」
彼は優雅に微笑んで、まっすぐ肯定。
「えぇ」
(あなたが王女で、私が王子ですか。おかしな夢ですね)
「わかる気がします」
(王子様、似合ってます)
リエラはなぜがそう応えた。何だかチグハグになっている会話。それを聞いたヒューは、本当におかしくて、くすくす笑い出した。
(どのような判断をして、そちらの言葉になったのでしょう? おかしな人ですね)
左へ右へと軽く蛇行している石畳を、しばらく行くと、立派な門を馬車が通りすぎた。リエラは目の前に広がった、美しい景色ーー緑の絨毯に、真っ青な空、ところどころに顔を見せる色とりどりの花々。それらに目をキラキラ輝かせ、彼女は窓へ思わず身を乗り出した。
(わぁ、お城だ!)
その先に見える建物にリエラは目を向ける。そこには、真っ白な壁と、コバルトブルーの三角帽をかぶった建物が待ち構えていた。
(本当に先生にぴったりだね)
子供のようにはしゃいでいる彼女を見て、ヒューはいつもとは違い、優しく微笑んでいた。
(あなたとマリアはよく似ていますね)