隣の黄レンジャー
昨日、黄レンジャーを見かけた。
夜の十一時くらいか。残業を終えた俺は、半分抜け出した魂をなんとか押さえつけながら我が家に帰った。我が家といってもしなびたアパートでの一人暮らしである。ペット禁止だから、帰ると同時に飛びついてくる犬もいない。それ以前に犬アレルギーなので、飛びつかれるとひとたまりもないのだが。
寂しい一人暮らしかというとそうでもない。いや、むしろ忙しい。来る将来に備え、いつか出会うはずの運命の人との幸せな空間を実現する為の準備である。寝る間も忙しいほどだ。人はそれを妄想というけれど、シミュレーションと言い換えてしまえば、実に戦略的である。
戦略家である俺のシミュレーションでは、運命の人の誕生日は夏である。きっとその人はサプライズが好きだから、初夏の今から準備を始めた方がいいに違いない。昼間のデートは、まあなんとかするとして、今日はディナータイムのシミュレーションだ。その日の為に研究している美味しいサングリアも完成間近だし、それをいかに提供するか。それが今夜の課題だ。会社から帰る時も、そのことしか頭になかった。残業を切り抜けるにはこれが一番なのだ。
夜道を駆け抜ける黄色い人影を見たのは、そんな時だ。驚いて、すでに半分抜け出していた魂が全部スポンと逝ってしまうかと思ったけれど、なんとか踏みとどまり、黄色い人影を目で負った。
暗くとも、黄色は目立つ。黄色い全身タイツヘルメットの人影は、目立って仕方ない。そんな黄色が、いや、そんな黄色だからこそ、あたりを見渡しながら妙にコソコソ歩いている。
どこかで見たことがある。もちろん、卒業アルバムや会社の取引先の類ではない。あのエグいほど黄色いタイツに走る一本の銀色のライン。手袋についたひらひら。でかいバックルのついたベルト。小さい頃、テレビか何かで見た、気がする。
思い出した。マイクロレンジャーだ。ヒーロー戦隊ものでも異色中の異色作、マイクロレンジャー。おそらく名前を先につけ、ストーリーを後付けしてしまったのだろう、そのやたら規模の小さい物語は、当時の子供たちにとっては噴飯ものだった。ヒーロー戦隊史上唯一、ワンクール放送されずに打ち切られた伝説のヒーローである。覚えている人など、ほとんどいないだろう。
北関東制圧という、現実的には大きいが、悪の秘密組織としてはみみっちい目論見は、マイクロレンジャーと戦うミニマムな組織としては、精一杯な目論見だったのかもしれない。俺はそんな「SFの中に現れる、まったくもってどうでもいい現実感」が、今は好きだと言えるが、あの当時は受け入れることができなかった。
そんなマニアックでシュールなレンジャーのコスプレをして街を練り歩く人間がいるとは。やたらとあたりを見渡しているが、そのくせ俺には気づいていない。この迂闊さはどことなく愛らしい。
さっきまで半分抜け出ていた魂が、やつを追えと俺に告げた。ここからなら家も近いし、明日は休みだから、ちょっと遠回りしてみるのも面白い。
あたりを見渡しながら抜き足差し足で歩いている。目立ちたくないのであればそんな恰好をして出歩かなかければいいと人は言うだろうが、おそらくこの黄色は、日々家の中だけでコスプレを楽しんでいたのだけれど、どうしても一度その恰好で外を出歩いてみたくなった。今日が初めてかどうかは知らないが、ただちょっと外に出るだけでは物足りなくなり、練り歩いてみたくなった。そして俺に見つかった。そういうことだろう。
どうやら帰る途中だったらしく、黄色は自宅というのは秘密基地というのか、とにかくヒーローには似つかわしくないしなびたアパートに入っていった。ヒーローらしい素早い動きで、ヒーローらしくなくコソコソした歩みで入っていったその部屋は、俺の隣の部屋だった。黄色は、隣人だった。
隣の部屋に住むのは、たしか一人暮らしの大学生だ。あまり近所づきあいはないからよく知らないが、一度部屋でのんびりしていると、隣の部屋から「レポート~!提出明日~!間に合わない~!」という悲鳴が聞こえてきたことがあり、誠に勝手ながら大学生だと判断させていただいた。
そうか、彼は黄色か。
目が合っても挨拶をしない陰気な青年だと思っていたが、そうか、彼は黄色か。
赤ではなく黄色を選ぶそのセンスがたまらない。決して主役ではないが、いない場合もある緑ほど存在感が薄いわけではない黄色。そこに謙虚の心やささやかな自己主張を感じる。
きっと――――。俺は想像する。きっとこの黄色は小さい頃にヒーローになり損ねたのだ。友達とのヒーローごっこも、戦闘員Cの役だったに違いない。幼い黄色は心に誓った。いつかヒーローになってやる。そしていつも僕を戦闘員Cに抜擢するタカシをやっつけるんだ。タカシはいつも赤レンジャーの役をするけれど、実際のところ悪の統領がイメージ的に近いし、よしんば戦隊メンバーだとしても、紫あたりがお似合いだ。そう堅く誓った。タカシという同級生がいるかどうかはしらないが、具体的な名前があった方がイメージを掴みやすい。
黄色は夢を叶えるべく、全身タイツを買った。そこらでは取り扱っていない黄色の全身タイツを見つけるのは骨の折れる作業だったに違いない。黄色のスプレーを吹き付けるというアイデアもあったが、乾いたらパリパリするから動きにくい。黄色はそこに気づける賢い子だった。レンジャーのマスクはフルフェイスのヘルメットを改造すればいいし、そこはスプレーでも構わない。黄色はそういう妥協もできる大人な子だった。
激安量販店のパーティーグッズ・コーナーにて、トラックスーツという名で売られているその黄色いスーツは全身タイツではないが、そもそもマスク、フルフェイスのヘルメットをかぶるのだから全身タイツで頭まで覆う必要はない。問題は腕と体に入っている黒いラインだが、四階で売っている夜道で光る銀色の交通安全テープを縫い付けた。俺が遠くからでも見つけられた要因でもあるこの交通安全テープだが、実はマイクロレンジャーのスーツのイメージが一番近い。
こうして出来上がったマクロレンジャースーツを、毎晩着ていたのだろう。なんといじらしい。俺はそんな黄色に、好意に近い興味を持った。
ワインのオシャレな淹れ方は、左斜め後方から肩を抱くようにそっと手を添え、もう片方も手でグラスに注ぐことだと確信した。性格にはサングリアだが、運命の人は甘いものが好きだからワインよりこちらがいい。食事はサングリアに合うものを用意するとして、一番の問題は食事の後だ。俺のシミュレーションでは先週買った三人掛けのソファにふたり並んで映画を見るのだが、これは何を観るべきか。三人用を買ったのはスペースに余裕を持って抱き付くためだが、ここはやはりラブストーリーにすべきだろうか。とりあえずいい映画を観るととして俺は抱き付くタイミングを計るために、実際にダイブしてみた。しかし、思いの外ソファは軽く、俺の体に押されてずれてしまい、俺は壁に思い切り頭をぶつけてしまった。ゴンという音が体の芯まで鳴り響く。頭をさすり、痛みに耐えながら、シミュレーションを続ける。
そうだ。セリフが大事なのだ。俺はシミュレーション用に購入したクマのぬいぐるみの方を抱きながら、そっと囁く練習をする。
「今夜の君は、最高だよ」
ダメだ。チープな映画のチープなラブシーンは、むしろコメディだ。
「君の瞳に、乾杯」
ダメだ。吹き出さずに言える自信がない。
また、どこまではっちゃけていいのかも問題である。せっかく運命の人が来て、ふたりで映画を鑑賞したのだ。運命の人は少し照れ屋に違いないから、いきなりいちゃつきだした俺に、本当はまんざらでもないのに一応拒むフリをする。その時俺は、なんて言えばいい。ふざけてガオーッと襲い掛かる時、どう吠えればいやらしくないのか。
「食べちゃおうかなー」
言ってみたそばから自己嫌悪に陥った。こんなチンケなセリフ、今時酔ったおっさんでも言うまい。
「俺から逃げられるかな?」
いかん。これではヒーロー戦隊に出てくる小悪党が、小さな子供に言うセリフである。
頭に浮かんだセリフを、ひとつひとつ声に出しながら検証する。時にはソファに座り、時には立ち、時にはまたがり、彼女のハートを掴んで離さない一言を研究する。あくまで自然に、ドラマチックになりすぎないよう、かといって淡泊になりすぎないよう、絶妙な具合を俺は研究するのだ。
実際これは意外と難しい。声に出して練習していると熱が入り、最終的には安い芝居みたいになってしまうのだ。このアパートの壁は決して厚くないから、隣の部屋に聞こえていないか心配だ。俺は声が大きくなっていることに気づき、「静かにしようぜ」と自分に言い聞かせて、シミュレーションを再開させる。長い夜になりそうだ。
最近、黄色が妙に目につくようになった。黄色の行動自体は変わらないが、今までは視界の端っこに入っても気にしなかったのだが、今は気になって仕方がない。
どうだ、今日も頑張ってるか?
今日も、世界は平和か?
俺はそっと彼を見守っている。
そのせいかやたらと目が合うので、最近は頭を下げる程度に会釈するようになった。俺も、いきなり元気に挨拶するのも変なのでまだ会釈だけだが、いつかは敬礼したいと思っている。
そんな折、アパートで事件が起きた。いや、起きようとしている、らしい。情報源は大家の屋鋪さんだ。屋鋪さんは井戸端会議名誉議長とも呼ぶべき噂好きのご婦人で、ワイドショーがももひきを履いて歩いているようなものだ。「事件の匂いがするわ」が口癖だ。
「あなたの隣にいる学生さん、実はねえ」
朝の挨拶も早々に切り上げ、顔を近づけてきた。
曰く、今まで家賃を払う時以外は姿を見せなかった黄色だが、最近は双眼鏡を持ってベランダに立つ姿が目撃されるという。趣味にプラスアルファした人たち御用達の高価な双眼鏡で、近所を見渡しているというのだ。
「でしょお?」
「でしょお?」と言われても何が「でしょお?」なのかはよく分からないが、とにかく大きな誤解だ。双眼鏡を持っている目的は間違いなく防犯だ。なぜなら黄色はレンジャーだからだ。
「ずっとキョロキョロしてるの。何か探してるのかしら」
まあ、赤レンジャーだろう。
「ひょっとしたら誰か見張っているのかも!怖いわあ」
それだけ言うと、さっさとどこかへ行ってしまった。
黄色はレンジャーだぞ。そんなストーカーみたいな真似をするはずがないだろう。
しかししの夕方、俺を不安にする出来事が起こった。俺が仕事から戻ってくると、黄色が双眼鏡を使って辺りを見渡しているのを見かけたのだ。黄色がレンジャーであることを知っている俺も、それは怪しいだろう、それはまずいだろうと思いながら、それでもこれはあくまで悪を監視する為なのだから気づかぬフリをした。
俺はアパートの前にある自販機の前に立ち、今夜テレビで漫才を観ながら一杯やる為のビールを購入した。たまにこうしてシミュレーションも休まないと、いい流れを作ることができない。
ビール代も馬鹿にならないから一日一本と決めている。明日の分もついでに買っておくか、自販機の前で悩んでいた時、ふと気が付いた。
黄色が双眼鏡でこちらを見ている。視線が俺に注がれている気がしてならない。俺は悩むフリをしながら、顔をアパートに向けないよう目線だけで黄色を見た。まだこちらを見ている。知っている人を見かけたから目を向けたというには長すぎる。
こちらを見ている。間違いなく。いや・・・・・・。
見張っている?
最近目が合うのはお近づきのしるしではなく、見張られていたのだ。
だとしたらこれはいかんことである。どういった経緯でそんなに誤解が生まれたのかは知らないが、とにかくいかんことである。レンジャーが監視するくらいなのだから、俺は悪だと思われているに違いない。それならば、なんとかして誤解を解かなければならないが、だがどうやって?
アパートの入り口に向かいながら、俺は横目で黄色を追った。黄色は双眼鏡を外し、肉眼で俺を一瞥すると、イソイソと自分の部屋に戻っていった。
部屋に戻ってもなんだか落ち着かない気分だ。なんだというのだ。黄色のヤツ、よりによって俺を見張っているのか。
いや待て。シミュレーションとはあらゆる状況を想定すべきだ。俺の勘違いという事もあり得る。例えばたまたまアパートの近くで赤レンジャーか何かを見つけた黄色が、彼を探しているだけなのかもしれないのだ。小さい頃、親父がよく言っていた。無暗に人を疑うな。俺のシミュレーションは、「人への信頼」という美しい信条の上にこそ成り立つのだ。
しかし、そうも言っていられない事態となる。次の日、俺は自販機の前で立ち止まった。ビールを買うフリをしながら横目でそっとアパートのベランダを見ると、やはり黄色が双眼鏡を持って立っている。そしてこちらを見ている。なんだかんだで不気味だ。
さすがに黄色も大学生、毎日監視する訳にもいかないらしいが、意識してみればここ数日、確かにこちらを見ている彼の姿が視界に入る。部屋にいても黄色のことが気になり、運命の人との時間にも集中しきれない。やはり、今俺の心を捉えている問題を解決せずには、何も前に進まないのかもしれない。
紋々としていると、いきなり隣の部屋からガタガタと物音が聞こえてきた。一体何の音だ。これはもう仕方ない。俺は、隣の部屋の様子を探ることを決意した。
俺はガラスコップを壁に当てて、黄色の部屋の物音を聞くことにした。ストーカーみたいだが、致し方あるまい。
十五分くらい経っただろうか。壁にガラスコップを当てる体勢は意外と辛く、いい加減疲れてきたと思っていたら、コツッという音がした。グラスから響いてきた音は予想よりはるかに大きい。壁にグラスを当てて、本当に向こう側が聞こえるのかは甚だ怪しかったが、意外といける。俺はさらに神経を集中させる。
それにしても、何の音だ。聞き覚えがある気がする。以前聞いた、とかではない。もっと近い過去、例えば今日。どこだ、どこで聞いた。俺は一度壁から耳を離し、肩を揉んだ。じっとして動かない、というのは案外疲れるものだ。俺はもう一度気を取り直して、壁にガラスコップを当てた。静かに当てたと思ったが、何の物音もしない部屋では、そのコツッという音すら耳に付く。
・・・。
コツッ・・・?
この音か!
なんてこった。ひょっとしたら黄色も俺の部屋の物音を聞こうとしているのか。いるはずなのに、何の物音もしないのは、黄色も身動きひとつとらずに壁に押し当てたガラスコップに耳をひっつけているからか。
これは勝負だ。俺は息を殺して神経を集中させる。おそらく壁の向こう側でも同じことが行われているに違いない。俺と黄色は壁を挟んで対峙する。ガラスコップ片手におっさんともやし学生が壁に張り付いている画は、とても見られるものではないかもしれないが、これでもふたりは真剣である。
「出てこい、この野郎」
今の俺は刑事だ。シミュレーションをしている時、俺は口数が少なくなる。ひとりでベラベラ話しているものだから気持ち悪いかもしれないが、シミュレーションに大切なのはリアリティだ。
気分もどんどん張り込み中の刑事になっていく。隣に住んでいるのは犯人ではなくレンジャーだが、俺は俺の中にいる相棒に声をかける。
「よう動きはあったか?」
相棒は言う。俺は応える。
「じっとしてやがる。そう焦るな。ちょっとでも動きを見せたら・・・」
「俺がこの手で、ってか」
あくまでシミュレーションだから、一人二役である。
その時、隣の部屋でコトッという微かな物音が聞こえた。さっきの音と似ているが微妙に違う。さらに、何かがガタガタという音が聞こえてきた。いくらガラスコップを使っているといっても、こんなに隣の物音が聞こえるのは大問題だと思う。いや、今はそれどころじゃない。俺は、いったん呼吸を整えてもう一度隣の部屋の男を聞こうとした瞬間、インターフォンが鳴り響いた。来客が誰か、俺は直感的に分かった。
ドアを開けると、そこにはやはり隣の黄色が、否、マイクロレンジャー・イエローが立っていた。まさかこの恰好で来るとは。全身エグいくらいの黄色で包み、左手を腰にあて、右手を人差し指を顔の付近に掲げる、決めポーズを取っている。しかしよく見ると、その人差し指がプルプルと震えている。物凄く緊張しているのだろう。いくら顔を隠しても、ヒーロー戦隊のお手製コスプレをして隣人の部屋に乗り込むのだ。ちょっとどころの勇気と勢いで出来ることではない。日常をぶっ壊す心意気と、もしもの場合は本当にぶっ壊れる覚悟がないと、とてもじゃないけどできない。
黄色は震える指先を俺に向けた。
「悪に代わって、あ、違うっ!」
一番大事な決め台詞を噛んだ。間違っていたこともアピールしてしまった。悪と戦うことを意識しすぎたんだろう。ちょっとした勇み足なのだろうが、そこを間違ってはレンジャーとしてあり方、存在価値そのものが変わってきてしまう。
気を取り直してほしかったが、本日ヒーローデビューを迎えた黄色にそれほどの余裕はないらしくひるんでしまい、視覚的にもなんだか縮んでしまった気がした。
「あ、あのですね・・・」
しどろもどろである。ここで変に絡んではいけない。俺は悪ではないが、それでも正義の向上は最後まで聞くのが礼儀である。目をそらせては男がすたる。
しかし、黄色は何を勘違いしたのか、一歩下がって更にそどろもどろし始める。もちろん、俺は決して威嚇した訳ではない。むしろ、彼にもっと勇気を持ってほしいと願っているのだ。
「あ、あの、よくないと、思うんですね・・・・」
向上は諦めたようで、訳の分からないことを言いだした。いや、何がしか誤解されているのは自覚しているが、その何がしかが一体何か分からない限り、その意味が理解できない。だが、黄色はとことん説明を省いている。とりあえず、何かに対してよくないと感じているらしい、ということだけしか分からない。
「いや、何を言ってるのか、分からないんだけど」
悪いが口を挟ませていただいた。待っていてはキリがない。
黄色、否、マイクロレンジャーは大きく深呼吸すると、腹を決めたらしい。口を開いた。
「僕は、いや、私は正義のヒーローです、ヒーローだ。この度は悪を滅ぼし、正義を体現せんが為、参上仕った。君の部屋で行われている悪行を、私の心が見逃す訳にはいかない!」
言っている途中で気分が乗ったか、後半部分は実に堂々とした工場だった。多少早口だったが、それでも言い切った彼を、俺は抱きしめたくなった。が、何のことだ。
俺の部屋。行われている。悪行。
・・・行われている?
ひょっとして・・・。
俺の頭がシミュレーションスタイルでフル回転し始める。
そういえばソファにダイブして頭を打ったことがあった。俺的にはちょっとしたハプニングだったが、黄色にとっては事件だった。びっくりして耳を澄ますと、隣の部屋からひそひそ声が聞こえてくる。しかし、俺も大声を出している訳ではないから、声がするということ以外は何も分からない。そこで黄色は漫画でよくある手段を思い出した。それも使った手だ。キッチンにあったガラスコップを壁に当てた瞬間、「俺から逃げられるかな?」という恐ろしいセリフが聞こえてきた。
普段は陰気な学生でも、その心はレンジャーである。隣の部屋から聞こえてきた大きな音と、誰かを襲おうとする恐ろしい声。黄色は正義に燃えた。とんだ勘違いではあるが、義憤に駆られた。
証拠をつかむ為か、それとも部屋を飛び出す勇気がなかったか。とにかく黄色は事実確認から始めたのだろう。壁にコップを押し当て、様子を探った。
ここまでシミュレートして少し腹も立ったが、俺も全く同じことをしたので文句を言う権利などない。
その後も俺の部屋の音をガラスコップで聞き続けてきた。しかし、聞こえてくるのは愛を囁く言葉だけ。広がる空間はラブ・アンド・ピース。黄色は安心したが、今日、いつもと違うセリフが聞こえてきた。
「ちょっとでも動きを見せたら・・・」
「この手で・・・」
それを聞いた黄色はついに決心した。隣の部屋では小さな子供が監禁され、怖い事が行われているに違いない。ここで動かねば正義ではない。腹をくくって変身し、悪の巣窟へと乗り込んだ。そんなとこだろう。
立派な口上を述べた黄色だったが、その後が続かない。俺と黄色はそのまま見つめ合う形になった。俺はシミュレーションによって事情を把握しているから問題ないが、黄色は戸惑ってしまったのだろう。彼の予想ではここで俺が正体を現すはずなのだろうが、残念なことに俺は悪ではない。ちょいワルですらない。正体を現したとしても、三十路のしなびたサラリーマンしか出てこない。
部屋の中まで乗り込む勇気はまだないようで、マイクロレンジャーのポーズを保ったまま精子している。
「し、尻尾を現したな!」
黄色は色々端折って無理やり起動修正し、自分の予想通りに進めようとしやがったが、そうはさせるか。俺のシミュレーションでは、俺は尻尾を出さない。出す尻尾もない。
燃え上っていた心は長い沈黙で少し冷めてきたらしく、黄色はまたしてもちょっとたじろいだ。俺は何も言っていないが、彼は何かに気おされ一歩下がった。ここで勇気を見せられたなら、黄色は何かを卒業できるのだが。
「き、君が罪のない子供を浚い、部屋に閉じこもっているのは、分かっている!」
卒業おめでとう。
「い、今すぐ、開放するんだ!」
でも成績はCマイナスだ。
こうしていても何も始まらないので、俺は仕方なく黄色を部屋に入れることにした。人の部屋に入り慣れていないのか、丁寧なのかは分からないが、悪の基地に乗り込むヒーローのクセに「おじゃまします」と言った。
部屋を見渡した黄色の頭上に、「?」が三つほど浮かんだ。いるはずの子供も、怖い事が行われた形跡もない。
「あの、どういうことでしょうか」
黄色が戸惑いながら聞いてきた。でも本来なら、それはたぶん俺のセリフだ。
どうもこうもない。単に隣は悪の組織ではなく、愛情溢れるサラリーマンだったというだけの話だ。多少独り言が派手ではあるが、お茶目の範囲内だろう。
「ご覧の通り、囚われた子供なんかいやしない」
黄色は不思議そうに俺の顔を見た。頭の上に浮かんだ「?」がひとつ増えている。
「子供?」
「ああ、君はここに子供が捕えられていると思って乗り込んできたんだろう?」
「いえ、あの、違うんですけど、すみませんでした」
自分があらぬ疑いがかけられていたことよりも、一番大事なところでシミュレーションが崩れたことがショックだった。小さい頃見たレンジャーが助けていたのはいつも純粋無垢な子供たちだ。違うとは何か。
言いよどむ黄色を、俺は問いつめた。最初から半落ちだった黄色は、すぐに完落ちとなった。俺がそれほど怒っていないことを悟った黄色は、恐る恐る告白した。
「あの、以前あなたの部屋から大きな音がしまして、何事かと思いまして・・・」
その後の展開も俺のシミュレーション通りではないか。では何を否定するのか。
「あなたが部屋に、その、女性を監禁しているのではないかと勘違いしてしまい・・・」
なんと黄色はレンジャーのくせに、想像していた事件だけはやたらとリアルで卑猥なものだった。どうやら俺が子供を浚って改造するのではなく、女性を浚って悪さをしていると思っているのだ。なんたる屈辱。シミュレーション上の運命の女性にも撃退される俺が、どうして現実の女性に悪さなどできようか。
背中を丸めてすごすごと去っていく黄レンジャーは、かつてないほど格好悪かった。正体がバレないようにか、マスクを外すことはなかったが、彼が出て行って数秒後、隣からドアを開閉する音が聞こえてきた。もう少し時間を空ける工夫をしないとバレるぞ、レンジャー。
思えば隣人に興味の無かった俺は、隣にレンジャーがいるなどとは想像したこともなかったし、まさかそのレンジャーに自分が悪者と疑われているなどとは思ってもみなかった。だが、この数日間、不思議な隣人とな馬鹿な駆け引きはなかなか楽しいものだった。些細なこととはいえ、繰り返しの日常に刺激を与えることが出来た。
黄色とは隣人として挨拶するようになった。最初はぎこちなかったが挨拶も、最近は一言二言言葉を交わすようになった。
言葉を交わすようになって二週間ほど。それなりに会話もするようになったそんな折、黄色が俺の部屋を訪ねてきた。
「相談があるんですけど」
黄色の顔が近づく。いつものおどおどした表情ではなく、目は凛とした光を湛えている。だが、頼もしさよりも危うさを孕んでいる。
「屋敷さんなんですけど」
大家の名前を口にした。
「ここ数日見張っていたんですが、ひょっとしたら何か企んでいるじゃないかと思うんですよ」
えらく突飛なことを言う。屋鋪さんはただの噂好きのおばさんだ。俺は呆れたが、あるものが俺の視界に入った。手に掲げた紙袋から、なにやら光沢のある葵布が見えるのだ。まさか、俺に青レンジャーにでもなれと言うのか。黄色の目を見ると、黙ってコクリと頷いた。俺にできることは、ため息をつくことだけだった。