2、手紙
まるでわたしの混乱した気持ちを表しているように、夜明け前からどしゃぶりの雨が降っていた。ミネルバの町ではとても珍しい。
わたしはあれから一睡もできていない。
彼の言葉を聞いてすこししてから、頭が真っ白になり、顔は火が点いたように熱くなった。混乱して言葉が言えなくなり、何かの冗談かと思った瞬間、彼はもう一度同じことを言った。今度は真っ直ぐに目を見られた。冷静で、先程まであった躊躇いなどどこにもなかった。
断片的に覚えていることは、立ち上がって椅子を倒し、慌ててキッチンの階段を駆け上がり、部屋に入ってベッドの布団を頭から被ったことくらいだ。何かを言われた気もするが覚えていない。ランプも忘れてしまった。
ベッドに潜ってから時間が経つと、なんとか考えられるようになってきた。
彼は何故あんなことを口走ったのか。
いくら責任を取るといっても、これは度を越しているのではないだろうか。
彼は、わたしのことをどう思っているのだろう。大人だから、好きでなくとも一緒になれるのだろうが、できればそうであってほしくなかった。
わたしは、正直に言えば、すこし前から彼のことが気になっていた。たぶん、キッチンで初めてお茶をした時からだったと思う。自分が何をどう思っていたのかを話すのは、ともても難しかった。わたしの言葉は拙くて足りていなかったと思う。けれど彼は否定も非難もせず、ありがとう、と笑った。すべて受け止めてくれた。雰囲気は終始穏やかで、誠実さを感じた。
だから思った。
彼のお嫁さんにしてもらえるひとは、きっとすごく大事にされるのだろうと。
しかしだ。
事は、何故か自分に起こっている。
何かの間違いではないだろうか。
自分の都合によすぎる出来事だ。
これは夢だ。そうでなければこんなこと、有り得ない。
ぐるぐると考え過ぎて、わたしはいつの間にか眠っていた。
目が覚めた時、部屋の中は多少明るくなっていたが、雨はまだ降り続いていた。曇り空ではわかりにくいが、なんとなく昼前のような気がした。仕方がないと言えばそうだが、寝坊してしまったことにすこし後ろめたさを覚える。
何か忘れているような気がしながら着替えて、部屋の扉の取っ手に触ろうとした時、扉の下の隙間から白い紙が顔を出していた。
わたしはそれを見た途端、突然昨晩のことを思い出した。直感と言うのか、その白い紙が昨晩のことと結びついているとわかり、心臓がうるさく鳴った。一応部屋の中を見渡してから、扉の前で屈み込み、白い紙をつまんで引っ張る。
封筒だった。
震える指で中身を取り出して、二つ折りにされた便箋を開く。
コーラルへ
昨晩は驚かせてしまって本当に申し訳ないです。時機を見計らって話すつもりだったのだけど、色々と考え過ぎてしまって、時機を誤ったかもしれません。ですが、昨晩の申し出は真剣なものです。私は、嘘は言いません。まだ混乱していると思いますが、よく考えておいてください。
返事は、わからないというのでも、待ってほしいというのでも、嫌というのでも、どのようなものでも構いません。一ヶ月の内に聞かせてもらえると助かります。
ノア・ラグトム
一ヶ月。
一ヶ月でこんな重大なことを決められるわけがない。
無理だ。できない。
誰か、誰か相談できるひとを探さないと。
どうしよう。
手がどうしようもなく震えて、興奮なのか不安なのか、よくわからない。
どうしよう。
この部屋から出るのが、怖くなってきた。
わたしはそれから極力彼と鉢合わせをしないよう、耳をそばだてながら家の中を移動した。声が聞こえようものなら、すぐさま近くの部屋に逃げた。今日は雨が降っているので庭掃除ができないが、自分の部屋から出る理由が減って助かったと思った。
次の日になって、わたしは手紙で返事をしようと急に思い立った。椅子に座って便箋を用意し、なんとか書こうとペンを握るが、何を書いたらいいのかわからない。
挨拶とか書いたほうがいいのだろうか。
敬語で書いたほうがいいのだろうか。
どう書き出したらいいのか、まったく思いつかない。
そもそも求婚をされて、冷静に返事を書けるわけがない。
わたしはヤケになり、いま思っていることを書いた。
責任を取るにしても、大袈裟だし、変だと思う。
まったく返事にもなっていないし、遠回しなことしか書けない自分に落胆したが、いまのわたしにはこれ以上のことを書くことができなかった。昼間、ノアが外に出かけている時を見計らって、彼の部屋の扉の下に封筒を差し込んだ。急いで部屋に戻る途中、やはりやめようと思って引き返そうとした時、リートに見つかった。リートは不思議そうにこちらを見ていて、わたしは引き返すのをやめて自分の部屋に駆け戻った。
ああ、やってしまった。置いてきてしまった。あれではただの文句ではないか。あれを読んでしまったら、きっと嫌な気分になる。そうなればいずれ嫌われてしまう。ここにいたいのに、わたしはどうして反対のことをしてしまうのか。本当に後悔ばかりだ。あれをしなければよかった、これをしておけばよかったと思うことばかりで、どうして自分の気持ちをうまく伝えられないのだろう。どうして自分の気持ちに振り回されてしまうのだろう。考え過ぎて、自分が嫌いだということを改めて痛感した。
次の日の朝。
すっきりとしない気持ちのまま目が覚めるが、何気なく目を向けると、扉の下に白いものが挟まっていた。わたしはあまりの驚きで心臓が止まったかと思った。
あの、白い紙は、もしかしなくても、あの手紙とも言えないものの返事、だろうか。
恐る恐る扉に近づいて紙を拾う。前と同じ封筒だ。中のものを出して、薄目で見ながらそれを開いた。
一歩間違えれば命に及ぶ危険なことをしてしまったのだから、こういった責任の取り方は変でもなければ大袈裟でもない、と私は思います。
驚いたことに、内容はわたしに対する嫌悪でもなければ嫌味でもなかった。ただわたしの言葉に対する、真正面からの返答だった。力が抜けて、わたしはその場に座り込んだ。どうしてこんなにほっとしているのだろう。
昼を過ぎて、わたしはまた唐突に手紙を書いた。
いまでも充分に重荷なのに、もっと重荷になるから、いや。
書いてから例の如く後悔して、うざったいと思われるのを覚悟した。それでもどうしてか、わたしはその手紙を、またしても扉の下に置いてきた。
こんなことをして、自分は何がしたいのだろう。自分で自分の首を絞めて、本当に馬鹿だ。そう思っているのに自分を止められない。こんなふうにくよくよ悩む自分が嫌でたまらないのに、どうしても後悔するほうの行動をしてしまう。
また次の日。
わたしは起きてすぐに扉の下に目を向けた。
手紙があった。慌ててベッドから出て、中を見る。
君を重荷と思うかどうか、それは私が感じることです。君の力のことを正確に知った時、大変な子を預かってしまったとは思いましたが、いままで君を重荷と感じたことはありません。自分を卑下しないこと。
読んでいて、目頭が熱くなった。
可愛くない文章を投げつける相手に、こんなに真面目な返事をしてくれる。
単純に嬉しかった。
その日は手紙を書かず、次の日になってから机に向かった。
散々迷った挙句に、こう書いた。
わたしをお嫁さんにしても、いいことはないと思う。
正直、書いていて何度二重線を引こうとしたかわからない。紙を破ろうともした。しかしどうしても訊いてみたくなった。好奇心と期待が恥ずかしさに勝って、その日の午後、その手紙を置いた。
また次の日。
扉の下の手紙をすぐに拾って中を見る。
それは君がそうなってから私が思うことなので、いまはわかりません。ですが、庭掃除や洗濯、ほかにも色々と真面目にしてくれていることは、いつも有り難く思っています。
冷静な文面なのに、何か違うものを感じた。
わたしはすこし落ち着いてから、手紙を書いた。
ただ気を遣っているだけ。わたしは真面目でもないし、素直でもない。わたしが掃除とかをしているのは、そうしていないとここにいてはいけない気がするからしているだけ。気が抜けたら、わたしもそのうち掃除とかをしなくなると思う。
前よりも長くなってしまった。話が明らかに逸れているし、本当は短くしたかったが、どこをどうしたらいいのかわからない。そのまま封筒に入れて、扉の下に置いた。
次の日。
こうして返事を書いている時点で、真面目で素直だと思います。ひとは程度の差こそあれ、どこかで気を遣うものです。家族であってもです。気を遣う、ではなく、思いやりという言葉に置き換えてみませんか。
気を抜くのは大事なことです。ですが君は、何を言われなくてもまた庭掃除などをしはじめると思います。もっと気楽にしてください。
ノアの文面はさらに増えていた。わたしがどういう行動をするのかまでわかっている。
なんというか、これはもう、相談事に対する返事になっている。おかしい。文句にも似た文章からはじまったのに、わたしはいったいなんの悩み相談をしているのだろうか。当初の予想では、わたしは愛想を尽かされるか嫌われて、この家を出て行くはずではなかっただろうか。
けれど、わかってはいたが、別の期待も持っていた。
その期待は、裏切られていないものだから、ますます大きくなってしまった。
わたしは、どうにでもなれと覚悟をして、手紙にこう書いた。
わたしのことはどう思ってますか。
何故敬語になってしまったのかはわからないが、勢いのままにそれを置きに行った。
その日は一日中、心臓がおかしかった。
とにかく会わないように家の中を移動し、眠りにつく直前まで自分の書いた文章が目の前にちらついた。何度となく後悔をして、何度となく手紙を取り戻しに行こうとしたが、そんな時に限って誰かと鉢合わせをしそうになった。無理だと諦めるためには、結局眠るしかなかった。
次の日。
わたしは極力、扉のほうを見ないようにして着替え、何回か深呼吸をした。目を開き、ゆっくりと体を向ける。
白い紙は、なかった。
心臓が潰れたように痛い。
気持ちがどんどん落ちていき、視界が滲んできた。
そんなに、こたえにくいことだったのだろうか。
たったこれだけのことなのに、こんなに悲しくなるなんて、自分はおかしくなってしまったようだ。やはり期待など、するべきではなかった。
下の階のキッチンに行こうと、何も考えずに扉を開けた。
「あ」
階段を上がってきていたノアと目が合った。
わたしは反射的に扉を勢いよく閉め、扉から離れた。なんて間の悪い。もうすこしあとに起きていれば鉢合わせせずに済んだのに、今日に限ってどうしてこの時間に起きてしまったのか。
「私はこのあと応接間に行くから、キッチンに下りてもだいじょうぶだよ。でももし気が向いたら、顔を出してほしいな」
扉の下の隙間から、白い手紙が出てきた。それから階段を下りる音がして、それは遠ざかっていった。
わたしはすぐには手紙に触ることができなかった。
数分間の葛藤があり、ようやく手を伸ばして封筒の中身を見た。
それはうまく言えないので、今度会った時に直接伝えます。




