保たれたもの 5
執務室に戻ってから、エマにツカサの手帳を返していなかったことを思い出した。うっかりしていた。机の引き出しを開け、今度こそ忘れないよう机の上に出す。一緒に入っていた銀の懐中時計も手に取った。
ツカサが最期の時まで持っていたこの懐中時計は、俺があげたものであり、十五年前、焼け落ちた家から拾った父の遺品だった。見つけた時からガラスにはひびが入っていて、針は止まっていた。蓋が開いている時に割れたようだが、なんとか閉まる。再び遺品になってしまった時計が不憫に思えた。
扉がノックされ、無意識に返事をする。
「あー、はい。失礼するよ」
入ってきたのは、常にぬぼーっとした雰囲気のガーディナーだった。
「こちらに来るとは珍しいですね。どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもないよ。君、スミス君を刺激したでしょ。おかげで総務課の廊下を行ったり来たりしてうるさいんだから。彼はプライドが高いくせに攻められると弱くて扱いが面倒なんだから、やめてよね、こういうことは」
数十分前のことではあるが、影響は大きかったようだ。課長は本当によく部下を見ている。これでよく働いてくれたら文句はないのだが。
「すみません。つい口が滑りまして」
「いい笑顔で言ってもだめだよ。若い女の子なら違っただろうけど、僕がほしいのは平穏なの。職場の平穏。わかる?」
「わかってますよ。これからは気をつけます」
「よろしく頼むよ、ほんとに。エマちゃんもなんだかものすごく悩んでて、仕事に手がついてないんだから。ああ、もう、どうやって鎮めようかな、彼。おちおち地図も見てられない」
「課長のお気に入りのワイン、今度持ってきます」
「ああ、それは嬉しいね。できればチーズもよろしく。ヘンブラト産ね。あ、それ、どうしたの?」
ガーディナーは興味をそそられたのか、俺の持っていた懐中時計を覗き込んだ。
「おやおやおや、壊れてるじゃない。よさそうな時計なのにもったいない。直してあげようか? こう見えても得意だよ、そういうの」
「いえ、これは……」
俺が言葉に詰まっていると、ガーディナーは言った。
「だめだよ。こういうのはね、止めておいちゃいけないんだ。使えるんならなおさら直して使ってあげないと、どんどんだめになる。直すかどうかなんてあとから考えればいいんだ。時計のために直してあげなさい。どうせ使っている時は、壊れてたほうがよかったなんて思わないんだから」
単調な声だが、ガーディナーに本気で叱られたと思った。
「それじゃ、僕はそろそろスミス君を指定席に座らせに行くよ。どうしようかね。なんて言えばいいかな。ああ、面倒くさい。面倒な部下を持つのは、本当に面倒だ」
ガーディナーは億劫そうに歩いて、ゆっくりと部屋から出て行った。
しばらくひび割れたガラス越しに文字盤を見ていたが、決意というほどのものでもないことをつぶやいてみた。
「……直すか」
そう言ってみて、その響きが思いの外、心地よかった。いままでどうしてできなかったのかよくわからないが、そう決めるとすぐにでも直したくなった。さっさと修理に出して使いたくなった。いまから馬車に乗って行ってしまおう。そうしよう。
壊れて十五年経っているというのに、店に持っていったら修理にたった一週間しかかからないと言われた。
なんだか楽しみになってきた。
*
「司令官、起きてください」
肩を叩かれて、気がついた。日が暮れたところまでは覚えていたが、椅子に座りながら寝ていたようだ。その場で背中を伸ばしてあくびをする。
「ああ、エマか。どうした」
「あ、はい。あの、えっと」
横に立つ彼女の次の言葉を待っていたが、自分の用件のほうを思い出した。すでに机の上に出しておいた手帳を彼女に渡した。
「返すって約束したんだけど、できなかった」
軽くも重くもなく、どう聞いても悲壮感など微塵も感じさせないように淡々と言った。エマは手帳を受け取り、すこしだけそれを見つめたが中は開かなかった。
「あの、朝の話なんですけど」
「えーと、異動の話だったな」
「はい」
「もう決めたのか? もっと時間をかけてもいいんだぞ」
「いえ、……だいじょうぶです」
エマは一呼吸してから、静かに言った。
「異動の話は、お断りします」
「……そうか。理由は?」
「え、理由、ですか」
さすがにこれは訊かれると予想できそうなものだが、エマはそう思っていなかったらしい。純粋というか単純というか。戸惑った表情から察するに、すこし言いにくいらしい。彼女はしばし考えてから口を開いた。
「そう、ですね。司令官が、色々と考えてくれたのはわかります。これまでしていただいたことも含めて、感謝しきれません。ただミネルバは、なんていうか、わたしじゃなくて、ツカサの居場所なのかなって思うんです」
事後報告ではあったが、ミネルバのあの本部の庭にツカサの遺灰を撒いて墓標を作ったと、昼間に届いたノアの手紙に書いてあった。エマのことはノアに一任していたので、エマの意思を尊重したのだろう。
「そう思ったら、こう言うのは変かもしれませんが、ツカサの邪魔をしては悪い気がしたんです。それにわたしにはここがあります。嬉しいことはそんなにないし、周りを怒らせてしまうこともありますけど、気遣ってくれるひともいる。それも含めて、ここがわたしの居場所なのかなって」
すっきりとまではいかないが、彼女の態度は落ち着いていた。
「そうか」
「あ、あの、朝言ってましたけど、ここには絶対引っ越しては来ませんので」
エマは小刻みに首を振って、真面目に言った。
「絶対? なんだ、そんなにここが不満か? さっきここが居場所だって言ったじゃないか」
「いえ、決してそういうわけじゃ……」
「じゃあなんだ。俺がいるからか」
「え、あの、むしろ逆……」
「逆?」
「と、とにかく、引っ越し先は自分で見つけます!」
まるでこれ以上は訊いてくれるなと叫んだようだった。俺は素直に諦めた。自分で見つけると言っているのだから、これ以上は何も言うまい。と思ったが、まだ用件があったのを思い出した。
「近いうち、ミネルバに墓参りに行こうと思うんだ。一緒に行ってくれないか」
「いいですよ。もちろん」
この頼みに対しては、エマは嬉しそうにふたつ返事で引き受けた。
俺もそれまでに気持ちを整理しよう。
直した時計も持っていこう。針の音を聞くのは、きっと新鮮だ。
彼女の前に立てた時。
例えば、泣いて、叫んで、無言であっても。
いまよりもすこしだけ気が楽になった自分がいるような、そんな予感があった。
おわり。
本編はこれにて終わりです。ありがとうございました。
(続きからは後日談の番外編になります)




