迷子のぬくもり 4
扉を開けて、目が合うと、彼女はすこし驚いてから微笑んだ。
「久しぶり」
ベッドに上半身を起こして座り、肩に厚手のストールをかけ、下ろした髪はあの頃よりもすこしだけ長くなったように見える。頬に赤味はなく、まるで病人のそれで、弱々しく目に映った。
白い寝間着から覗く腕や首がすこし細くなったように見える。どう思われようと構わずに抱き締めると、体の細さに驚き、思わず彼女の肩を掴んでまじまじと見た。あの時よりもずっと痩せている。
「び、びっくりしたじゃない」
ツカサは瞬きを繰り返していた。彼女の反応が懐かしくて、体の奥がじんとしびれた。声を出すと泣けてきそうで、ベッドのそばに椅子を持ってきて、黙って彼女の右手を握った。彼女の手は冷えていたが、それでもちゃんと血が通っていた。
あの時の、星を見上げていた時のような沈黙が下りる。何を話せばいいのか、どう話したらいいのか、あの時と同じように躊躇う。
「手帳、あなたが持ってったって、聞いたんだけど」
すこし経った頃、ツカサが遠慮がちに口を開いた。
「あ、ああ、そうだ。俺が持ってる」
「返してくれるのよね?」
「もちろんだ。ただ、いまは持ってないんだ」
「今度返してくれればいいわ」
彼女はすぐに返してほしいわけではないようで、責めてはいなかった。
「今度は逆ね」
「逆?」
「ほら、前はあたしのほうが、あなたに借りてたから。バッジとか、時計とか」
彼女の声に、それらを貸した時の光景が目の前に広がった。魔物が町に現れて、彼女に近くの店へ行って隠れるように言ったのだ。その時に地方司令官のバッジを貸したが、返してもらうのを忘れたのだ。そのことについて総務課にまだ勤務していたサジタリスにちくちくと責められた。それはツカサからバッジを返してもらうまでの約一週間の間続いた。大事な身分証を貸すなどもってのほかだと。
「時計は持ってるのか?」
「持ってるけど、もしかして捜したの?」
俺はうっとたじろいで、使っていた部屋を物色されるのはいい気がしないよなと気がついた。
「別に責めてないから。返したほうがいいのかなって思っただけ」
「いや、それはキミにあげたものだ。返さなくていい」
間を置かずにこたえると、ツカサは不思議そうにしていたが素直に頷いた。
なんだろう。彼女の仕草のひとつひとつが、いやに胸に響く。
「いつ、ここに帰って来たんだ?」
ツカサはすこし考えてから言った。
「一週間……十日くらい前、だと思う。ノアさん、あたしが戻ってきたからびっくりしてた。でもあたしもびっくりしたわ。サイラスも、それからリアもいなくて」
「そうだな。サイラスは警備隊を辞めて公都に行ったよ」
「聞いた。それにサジタリスさんとリートがこっちに入ってたし、そう、可愛い女の子が増えてた。あたしが言うのもなんだけど、ノアさん、そのうち詐欺に引っかかったりしないかしら。ちょっと心配」
どうやらその可愛い女の子が、町に魔物を呼んでいたあのコーラルだと気づいていないようだ。
「それはだいじょうぶだ。彼女の面倒を見るよう頼んだのは俺だから」
「それはそれで心配だわ」
悪びれず返され、彼女のその自然な言葉の流れに喜びがふつふつと湧いてくる。
「ここに戻る前はどこにいたんだ? 俺はてっきり帰ったとばかり思ってた」
心配しながらツカサを見ると、彼女は視線を手元に落として首を横に振った。
「言えないのか? どうして?」
すると彼女はぽつりと言った。
「迷惑がかかるから」
誰に。いったい誰に迷惑がかかるというのか。ツカサは、ここでは天涯孤独で、ここで接点のある人物も数えるほどしかいないはずだ。彼女はつい十日前まで、誰かの世話になっていたのだろうか。いったい誰に? 考えてもわかるはずがない。だがいまの様子の彼女を問い詰めようとは思えなかった。彼女は明らかに病人か、それ相応の状態だった。
「わかった。このことはもう訊かない」
ツカサは礼でも言うように小さく頷いた。
何を話せばいいのかとまた悩み、先程ノアたちと話していたことを思い返す。彼女のこの様子だと、〈メイト〉に関することは訊けそうにない気がした。
「ここに泥棒が入った時、だいじょうぶだったか? 怖くなかったか?」
「あとから聞いた時は怖かったけど、あたし、その時は寝ていたから気がつかなかったの。でも女の子のほうがすごい怯えちゃったみたいで、一緒にいてあげればよかった」
俺はツカサのほうが心配だが、ツカサの部屋に侵入しなかったことに関してはその侵入者を褒めてやろうと思った。侵入していたら首をへし折ってやるところだった。
「ツカサ、気づいてないのか? あのコ、町に魔物を呼んでたコーラルだよ」
「え?」
ツカサの目が大きく開かれる。
「覚えてるか? 男の子の格好をしていたコだよ。いまは髪が伸びて格好も違うから、信じられないとは思うけど」
「本当に? もう、あれ、別人じゃない。全然気がつかなかった。でも、そっか。髪の色一緒だ」
化けるものね、とつぶやき、ツカサは感心していた。
「でもこんな短期間で、あそこまで髪って伸びるものなの?」
「まあ、ちょっと事情があって、髪が伸びる薬を飲まされたみたいなんだ」
「そんなものがあるの?」
「探せばね。金はかかるけど」
「そう……」
納得はしていないがそこまで気になってはいないようで、ツカサは眉をひそめたまま視線を宙に漂わせた。
「髪、キミもすこし伸びたな」
「本当は切ろうと思ったんだけど、やめたの。なんか億劫になっちゃって」
「いいじゃないか。似合ってる」
何気なく言ったのだが、ツカサは微妙な顔をした。
「なんか、言い慣れてるわね」
俺は苦笑した。これは紛れもなくツカサだ。彼女は褒めても素直に受け取らず、喜ばない。
「そりゃあ、これでも警備隊のトップとして色々なひとたちと交流してるから、似たようなお世辞も使うさ」
「やっぱりお世辞なんじゃない」
「本当にそう思う?」
握っていた手を意識させるようにすこし動かしながら彼女の目を見つめると、面食らった彼女はすぐに目を逸らした。照れた横顔が愛おしい。
他愛のない話を彼女とまたしている。ここ数日の間に起きた事件の衝撃と疲労がいつの間にか吹き飛び、二ヶ月前、この部屋に入った時の失望感が嘘のようになくなっていく。これが夢でないことを願うばかりだった。
部屋の扉が遠慮がちにノックされ、振り返る。扉が開き、ノアと、その後ろにククラがいた。そういえばすっかり忘れていたが体調は戻ったようだ。
「どうした?」
「邪魔して悪い。ククラさんが、ツカサさんに用があるんだって」
「ツカサに?」
大いなる疑問に、ククラはこたえることなく会釈をして、それから部屋の中に入ってきた。ククラはベッドを迂回して俺の反対側からツカサに挨拶をすると、おもむろに手紙を差し出した。ツカサはそれを受け取り、裏に書かれた送り主の名を確認するとすぐに顔色を変えた。どうしたのだろうと心配になり声をかけようとした時、彼女がこちらを見た。
「このひとと、ふたりっきりにさせて」
「ツカサ?」
「お願いだから」
彼女は泣くのを必死に堪えているように見えた。ククラに何か脅されているのだろうかと怒りが湧きそうになったが、こんな人前で脅すようなことをするはずがないことと、ククラの真面目な人柄を思い起こした。ククラの様子を見たが、彼女はいたってふつうでかしこまってすらいた。
「……わかった」
席を立つ間際、一度手を強く握り、それからククラを残して部屋を出た。廊下に出て階段を下り、ノアが後ろに続いた。
「なんでもっと早くに知らせてくれなかった」
怒りを押し込めようとして、声色が冷たくなった。
「知らせようとしたよ。でも彼女が、知らせてほしくなさそうだったんだ」
「ツカサは、どれくらい悪いんだ?」
「かなり悪い。日に日に衰弱している」
「原因は?」
「わからないんだ」
一階の赤の廊下にノアの声が響く。立ち止まった俺は振り返った。
「何人もの医者に見てもらったけど、誰も彼もわからないの一点張りだ」
「じゃあ、このまま死んでいくのを見過ごせって言うのか!」
俺は堪らずに叫んだ。ノアは静かに受けてこたえる。
「私だってそんなことはしたくない。だけど、方法が何も浮かばないんだ」
俺は悔しくて、情けなくて、思いっ切り壁を殴った。
ツカサは、きっともう長くはない。
話の受け答えはまだはっきりとしていたが、そのうちおぼつかなくなるかもしれない。それなのにどうして俺はアレリアに住んでいて、地方司令官などという役職についているのだろう。それが彼女にとってなんの役にも立たず、彼女のそばにいられなくなる理由になるとは思いもしなかった。ミネルバの警備隊に属していれば、彼女のそばにいられたというのに、復讐のために上り詰めた地位がこれほど邪魔になるとは、皮肉でなくてなんなのだろう。
ツカサとククラの話は随分と長くかかった。俺は帰る前に、もう一度彼女の部屋を訪れた。
「また来るよ」
そう言うと、ツカサは悲しそうな顔をした。
「もう、来ないでほしいの」
「それは……無理だ」
まさかそう返されるとは思わず、必死さが声に滲んだ。
「それに、手帳を返さないといけないだろ?」
辛うじて見つけた言い訳を差し出しても、ツカサは俯き、苦しそうに黙り込んでしまった。俺は堪らずに彼女を抱き締め、彼女から感じる熱で自分の中から悲しみを追い出そうとした。




