迷子のぬくもり 2
昨日のあの、アレリアを出てミネルバに行けるという嬉しさは、たったいま、か細い溜め息と共に俺の中から出て行った。俺は自分の用件を後回しにし、神妙にノアの言葉を促した。ノアは遠慮をしなかった。
「じゃあ言うけど、あの手紙の内容、あれはなんだ」
「手紙? おまえがミネルバに帰ったあとのやつか?」
先月の誘拐事件の折、ノアは一度アレリアに来ていた。事件が一旦解決したあと、彼はその日の夜中にコーラルを連れてミネルバに帰ったのだ。アレリアにいたくないという感じもしたが、どうしてもこの家に帰りたかったらしい。
「〈角を持つ者〉と魔族の関係についてだよ。君、いつからあんなことを知っていたんだ」
庭で会ったコーラルは〈角を持つ者〉という頭に角の生えた特殊な人間で、体から漂う匂いで魔物を呼び寄せる力を持っていた。その匂いは二種類あり、魔族はそのどちらの匂いも感じることができた。俺の目の前にいる男は、その魔族だった。
「そりゃあ、おまえに彼女の世話を頼んだあとだよ」
「それはおかしい」
「何がおかしいんだ? 俺だって忙しいんだぞ。調べる時間をこじ開けるのも大変なんだ」
特にいまは事件が立て込み、部下を疑う羽目になり、心身ともにへとへとだった。いっそのこと事件を山の向こうまで放り投げたい。
「こんな、君が面白がりそうなことになるなんて、都合がよすぎるじゃないか」
ノアの言いように、俺は眉をひそめた。
「つまり、俺が面白がるようなことが起こったと?」
「……結果的にはね。君が狙った理由ではないだろうけど」
「俺は別に、コーラルに関して何かを狙ったつもりはないぞ」
「どうだか」
完全に何かを疑っている。俺は自分が手紙になんと書いたのかを思い出し、なるほどと納得した。目を据えて口の端を上げる。
「ああ、わかった。魔族の依存に関してだろ。なんだ、もう依存するようになったのか?」
「しないし、してない」
ノアは冷たい視線のまま間髪入れずに返した。〈角を持つ者〉の匂いは魔族にとってはいい匂いらしく、時が経つにつれ依存するようになるという。簡単に言えば手放せなくなるのだ。
「してないならいいじゃないか。おまえのことだから、そうなったとしても理性で欲望を捻じ伏せるだろうとは思ってたし」
「他人事だと思って、できなかったらどうするつもりだったんだ」
「その時はその時だ。依存してないなら問題ないじゃないか」
ノアはぐっと黙り、次の言葉を躊躇っているようだった。俺はスコーンに手を出し、フォークでざっくりと切り分けてから口に運んだ。美味い。ノアが作ったのだろうか。ふと一度でいいから、ホイップクリームと木苺のジャムをたっぷりかけたパンケーキを腹いっぱい食べたいと思った。きっと食べ終わった時、胸やけか胃もたれを起こしてしまうだろうが。リートが勧めてきた時、マドレーヌも食べておけばよかったといまになって後悔した。
「実は、アレリアのあの邸で、彼女を起こすために血を飲ませた」
俺は手を止めた。ノアの言ったことがにわかには信じられなかった。
「本当か?」
ノアは目をつぶって、厳しそうにしながら頷いた。
「彼女、だいじょうぶなのか? いや、それ以前になんでそんなことをした?」
コーラルがバジリスクの卵を食べさせられたことは聞いていたが、それをどう対処したのかをノアから聞いていなかった。バジリスクの卵は食べた者を半永久的に昏睡状態にする。その状態から起こしたのだから、何かとんでもないことをしたに違いなかったのだが、俺は誘拐事件が解決したことに安堵してそのことを見落としていた。
「今日まで三週間近く見てきたけど、異常は見られない。彼女からも何も聞かない。一応はだいじょうぶみたいだけど……」
「いや、だからなんでそんなことしたんだ? ほかに方法はなかったのか?」
「なかったんだよ。あの状況じゃ……いや、それ以前に卵を食べた者を起こす方法は本来ない。だけど同族のひとと話した時に言われたんだ。魔族の血はただの毒じゃない、って」
「それで飲ませたのか? その言葉を信じて? 確証もないのに無謀すぎる」
「皆まで言わないでくれ。あの時はそうするしかないと思い込んでいたし、どれだけ考えてもほかの方法を思いつかない。彼女が無事に起きたからよかったけど、どうしてあんな行動をしたのか日に日に後悔が増してる。あの時は相当頭に血が上っていたのかもしれない……」
ノアは苦しさを過ぎて痛そうに顔を歪ませた。
魔族の血は、彼らの力の源であり、他種族には猛毒だった。卵の効果を打ち消すためにと血を飲ませたのなら、打ち消すどころかとっくの昔に死んでいてもおかしくなかった。
「だけど、どうして彼女は平気なんだ? さっき話したけど、確かに変わったところはなかった」
彼女は生きている。そしてその理由に、ノアは思うところがあるのだ。
「これはあとから気づいたことなんだけど、ミネルバに帰って来てから、彼女から匂いがまったくしなくなった。魔物を呼ぶ力が出なくなったみたいなんだ。これは仮説だけど、血を飲ませて運よく卵の効果を消した時、彼女の力も相殺したんじゃないかと思う」
「じゃあ何か。彼女の悩みが解決したってことじゃないか」
力がなくなれば、コーラルは周りを気にすることなく暮らせるようになる。彼女もそれを望んでいた。しかしノアの顔色は浮かない。
「これはあくまで仮説だ。もしかしたらこの先、血の副作用が出るかもしれないし、いつ力が出てくるかもわからない。卵の効果を消すためだったとはいえ、私は、この上なく無責任なことをしたんだよ」
そうだろうか。俺はノアのいう無責任が何を指しているのか、なんとなくわかった。
「俺はそうは思わないな。おまえは結果的に、彼女が望んだことを実現したんだ。例えそれが一時的だったとしても、彼女に伝えるべきだ」
「無理だ。できない」
「ぬか喜びをさせると思ってるんだろ。力が戻った時、彼女が落胆するのは目に見えてるし、血の副作用で苦しむ可能性だってある」
「そうなればもう……」
まるで彼女が〈角を持つ者〉になったのは自分のせいだと言わんばかりの悲痛さだ。俺は同情などせず、むしろ呆れていた。
「確かにおまえは大それたことをした。のちのち罪になることかもしれない。だけど彼女はいま元気に生きてるじゃないか。彼女のことは俺だって責任を感じてる。言い訳になるが、彼女をいつまでもおまえに預けておく気はなかった。町の治安に影響が出るくらいなんだ。いくらなんでも荷が重い。だから彼女には、ここを離れてひとの少ない土地に移ってもらおうかと考えてた。もちろん恒久的な援助を含めての話だ。力になってくれるひとたちも見つけた」
「だめだ。そんなことをしたらまた彼女が傷つく」
ノアは苦しそうに否定する。
「だからおまえの意見も聞きたかったんだよ。まさか力が抑えられてるなんて考えもしなかったが、おまえを無視して話を進めるわけないだろ、まったく」
ハッと短く息を吐いてから、改めて目の前の男を見遣る。
「おまえのことだ。どうせ考えるところまで考えたんだろ。義務とか責任とか、そんなものをいっぱいぶら下げて。そんなに悩むんならそばにいてやればいいじゃないか。血があれば今後も力を抑えられるかもしれないんだろ? それで気が済まないなら、いっそのこと一緒になればいい。責任を取るために一緒になるのは悪いことじゃないし、ある意味ふつうだ。ただまあそれだと、共同生活を円滑に進めにくいかもしれないが……まあ、おまえにその気があるならそうすればいい。もちろん相手の同意を得てからの話だけどな」
言いたいことを粗方吐き出し、俺はゆっくりと紅茶を飲んだ。言ったことに関してまったく気のないふりをしてノアを盗み見ると、ものすごい悩んでいるのがありありとわかった。ああ、図星だったのだ。本当にそこまで考えていたとは恐れ入ったが、らしいなと思った。
「まさか君にそこまで言われるとは思わなかった」
すこし経ってからぽつりと言って、ノアは短く息を吐いた。
「なんだ。癪だったか?」
「すこしね。だって君、独り身じゃないか」
「独りでも思うことはあるさ。というか養子はどうなんだ? そっちのほうが現実的な気がするが」
「考えのひとつとしてはあったけど……だぶん無理だ」
「どうして?」
そう返すと、ノアは恨みがましくこたえた。
「君が言ったんじゃないか。どんなに努力しても、彼女の親にはなれないって」
「……それだけ?」
「結果的にいまはもうそういうふうには見られなくなったんだから、きっかけには違いない。単純だと笑えばいいよ」
彼は長く息を吐いて、徐々に首を俯かせていった。相当参ってるな、これは。
「そう言うなよ。早速言いに行くか?」
おちょくると、またしても睨まれた。
「行かないよ。このことは自分の中でちゃんとこたえを出してから動く。君にはまだ話すことがたくさんあるんだ」
やはりじっくりと考えるようだ。殊勝なことだ。
「なんだよ。まだあるのか」
「〈メイト〉のことだ。本当はこれは、アサギがいる時に話したかったんだけど……」
ノアは言いかけて、何かに気づいてキッチンの扉のほうに振り向いた。俺もひとつ遅れてからそこを見ると、開いた扉から長身の女がこちらを窺っていた。サジタリスだった。




