保護者の足場 3
成り行きでお茶をすることになったが、座って待っている時も、スコーンを食べている時も、すこしも嫌ではなかった。居心地が悪くなかった。
実を言えば、すこし緊張していた。あんなことがあったあとで、どんなふうに話をしたらいいのかと思っていた。それ以前にノアは二日も寝ていたので、本当に目が覚めるのだろうかと心配していた。
やったほうがいいだろうなと思ったことは、心臓が飛び出しそうなほど緊張したが勇気を振り絞ってやってみた。廊下で声をかけたのは思わずしたことだったが、朝食にロールキャベツを温めて出した時はあまりのことに手が震えた。それでもやったあとは自分でも驚くほど嬉しく、誇らしく思えた。だからなのか、お茶をしようと言われた時、本当に歓迎されているのだと胸がいっぱいになった。
リートのスコーンについて話をしながら、紅茶も二杯目になった。空いた小腹も落ち着き、手で包んだカップから熱が伝わってくる。
「昨日も一昨日も、ひとりでだいじょうぶだった?」
ノアが何気なく訊いてくる。わたしが頷くと彼は嬉しそうに目を細めた。
「まさか二日以上寝ているとは思わなかったよ。起きたのは朝だったし、次の日だとばかり思ってた」
「みんな驚いてた」
「だと思うよ。私自身が一番驚いてるから」
「一昨日、猫の隊長さんが来てたよ」
「ニジェットも来てたのか。彼女、怪我してるはずなんだけど、様子はどうだった?」
「ふつうだった。自分でも平気だって言ってた」
「彼女らしい」
ふふ、とノアは声を出して笑った。わたしが見てきたどの顔よりも明るい気がした。いや、違う。わたしは、彼の明るく笑った顔を初めて見たのだ。
「何か、すごく嬉しそう」
わたしが思わず口にすると、ノアは横目でわたしを見、それから行儀が悪いことも気にせずにゆったりと肘枕をした。
「それは、まあ、色々ありましたからねぇ」
まるでからかうような、初めて見るノアの仕草に不思議な感じがした。
「正直言うとね、ちょっと安心したんだ。君があの時、あの邸で言ったことに。それまでは、君のことがよくわからなかったんだ」
ひとの前で泣いたことを思い出し、いまさらだが恥ずかしくなった。
「君はずっと何かを言いたそうにしていたけど、何も言わなかった。だから私も、どう接したらいいのかわからなかった。でもあの時、君の言葉を聞いた時、ああそっか、そうだよなぁって納得した。もっと君と話をするべきだったんだって」
しみじみと話すノアは、どこか寂しそうに見えた。
「君の意思を確認しないままにここにいてもらうのは、こちらのわがままだなって思って。だからね、ここにいることをどう思っているのか聞かせてほしいんだ。思ったことをそのまま言ってくれればいい。言いにくいなら手紙でもいいよ」
優しい問いかけに、わたしはこの家に来た日のことを思い出していた。あの日はリアが隣にいて、わたしは応接間のソファーでずっと俯いていた。向かいにはノアがいて、ずっとここにいても構わない、というようなことを言っていた。いま思えば、それを口にできること自体すごいことだとわかる。彼は最初からわたしに対する態度を変えていなかった。
わたしは躊躇いながら、思っていることをなんとか言葉にしようとした。
「わたし、行くとこがないから、ここにいさせてもらえるのは、すごく、えっと、助かるというか、有り難いことなのはわかってて……。でも、町の中には住めないんだなって思うと、それは嫌っていうか」
「やっぱり町のほうがいい?」
わたしは首を横に振った。
「そんなに友だちもいないし、おかあさんにも嫌われてるし、町にいても変な目で見られるから、住みたいわけじゃなくて……仲間外れ……にされるのが嫌っていうか」
「そうだね」
ノアはまるで自身にも思い当たることがあるみたいに、ぽつりと言った。
「嫌なことも聞くから、町にはいたくない。けど、いつまでもここにいるわけにもいかないなって思ってて。でも、どうやってひとりで生きていけばいいのかわからないし、ほかの領地に行く勇気もないから、なんか、どうしたらいいのかわからない。あと、わたしも、前から訊きたことがあって……」
なんだろうか、とノアは優しい表情のまま首をすこし傾げる。
「なんで、わたしを居候させてくれるのかなって」
「……そうだなぁ」
ノアは肘枕をやめて椅子の背にもたれた。すこし躊躇っているのか、間が空いた。
「簡単に言うと、罪滅ぼし、ってことになるのかな」
それからノアは寂しそうにしながら、ぽつりぽつりと自分のことを話し出した。自身が魔族であること、生まれてから百六十一年経っていることを最初に断った。年齢がそれほど上であることにはさすがに驚いたが、図書館でヘイルと調べたことは本当だったのだと改めて驚いた。
彼はある魔族の集落で生まれ育った。意外なことに末っ子で、兄と姉がいた。彼の部族は魔術をちゃんと扱えるようになるまで公で使うことを禁止していたのだが、彼はよく魔術を使って怒られていたようだ。
ある時いつものように魔術を使うと暴走し、集落の家を次々と燃やしたあと仕舞いには利き手の左手も燃え出した。左手は燃え続け、腕や体まで燃えてしまうからと手首から斧で切り落とされたのだという。それを聞くと急にお腹が痛くなった。いまの左手は火が消えてから改めて縫いつけたもので、物を強くは握れないという。動くだけでも驚きだった。白い手袋を取って見せてくれたが、皮膚は焼け爛れ、突っ張り、変色していた。
ようやく騒ぎが収まり家に帰った彼は、自分の家が焼け、その家にいた母と兄が焼けて死んだことを知った。生き残った姉が彼を非難し、彼は集落を追い出された。その後は各地を放浪しながら生きてきたが、色々あってこのミネルバに来たという。
「自分がやってしまったことが、いつも心に引っかかってるんだ。だからすこしでもいいことをして、自分に言い訳がしたいのかもしれない。〈メイト〉や君みたいに困っているひとの面倒を見て、自分はまっとうな生き方をしている、誰も傷つけていない、だいじょうぶだって安心したいんだと、私は自分をそう思ってる」
ノアは目の前のカップを見つめながら、落ち込んでいるようにも見えた。
「周りが思うよりも私は善人じゃない。でも困っているひとを助けたいとは思うし、一概に自分のわがままってわけでもない、と思う。こんなこと、聞かされたほうは複雑だよね」
彼の考え方はわたしも理解できた。わたし自身もいるだけで周りを傷つけてしまうので、何もなくても誰かに迷惑をかけているのではないかと思ってしまう。だからこそちゃんと、ふつうに暮らさなくてはと思い、心のどこかでいつも焦っていた。
「理由、あってよかった。なんにもないほうが変に思ったかも」
町で流れている嫌な噂の通りでないことにほっとした。前にギダからわたしを預かってくれと頼まれたらしいことも盗み聞いて知っていたが、少なくとも彼は彼の理由でわたしを預かったのだ。
「そんなもの? 自分勝手すぎる理由だから、てっきり引かれるかと思ってたよ」
ノアが目を見開いてこちらを見た。わたしはそんなものだというように頷いた。
「引いてはないけど、らしいなとは思った」
そう返すと、彼は苦笑いを浮かべた。ふと思ったが、彼のいまの雰囲気が、いままで彼とほかのひとが話していた時の、あの違和感を覚えていた雰囲気だということに気がついた。その違和感の中に入って初めてわかったが、これが気兼ねない雰囲気というものなのかもしれない。彼と話すことにまだ緊張が残っているが、ふつふつと湧く温かい何かで胸がくすぐったかった。
「君がこれからどうしたらいいのか、どうしていきたいのかは、難しい問題だからゆっくり考えていこう。私も一緒に考えるよ。町の中に住むには色々と問題もあるし、嫌な噂も流されるし」
「お金をもらって、わたしを預かってるとか?」
「そう。根も葉もないでたらめだよ。それに私と君が……あー、これは」
ノアはしくじったというように口を閉じ、視線をわたしとは反対のほうに向けた。そういう反応をされるとかえって気になってしまう。わたしがじっと見ていると、彼は言いにくそうにしていたが観念して口を開いた。
「町のひとたちからすれば、君と私はそういう関係だってことになってる」
「そういう……?」
「ありていに言うなら、恋人関係」
冷やかされて不機嫌になったような、それでいて戸惑っているノアの横顔にどきっとした。確かにそう噂されてもおかしくはないのだろうが、わたしは周りからそう思われていることを考えもしなかった。
「あんまり言いたくなかったんだ。町で聞かされたと思って流しておいてほしい。だけどひとの噂っていうのは、無いことばかりくっついていって本当に怖いんだ。男と噂が立てば、そういったことを勘繰られて、君の今後の身の振り方にも影響が出てきてしまうし……」
ノアは決まりが悪そうにしたままで腕を組んでいる。わたしの心臓は早鐘のように鳴り、顔は燃えるように熱かった。
「君がここに来たのはやっぱりまずかったかもしれないな……。あのままリアさんのところにいたほうが……」
ノアは首を振ると俯いて額に手を添え、どんどんと様子が沈んでいる。心臓がばくばくと鳴っているせいもあって体が震えたが、わたしは必死に彼の服を引っ張った。
「さっき、一緒に考えるって言ってくれた」
ノアはハッとして顔を上げた。
「ここに来たこと、前は後悔してたけど、いまはそれほど感じてない、と思う」
考えが、言いたいことがまとまらない。考えていたことなのか、言いたいことなのかすらもわからない。喉が震えるが、それでも何かを言わなくてはと言葉を絞る。
「あの邸に来てくれたのも、すごくほっとしたし、だけど守られてばっかりで、重荷になってるんだろうなって思って……。でも、さっきお茶しようって言われた時すごく嬉しかった。なんでもないことを話せて、いいなぁって」
思っていることを言ったはずなのに、言ってみて初めて気がついたような、そんな感じがした。彼はすこしの間戸惑っているような様子だったが、ほっとしたように目を細めた。
「君がこの家に対して、少なからず安心を覚えてくれているのはわかった。ありがとう。君の率直な言葉が聞けて、すごく嬉しいよ」
それからまたすこし間が空いた。
「りんご、好きなの?」
何か別の話をしなければと思い話題を探していると、紅茶の香りのことが気になったので訊いてみた。普段通りの穏やかなノアは頷いた。
「好きだよ。言ったことあったっけ?」
「ない……と思う」
「コーラルは何が好き?」
「……桃?」
「じゃあ今度、桃の紅茶買ってくるよ」
「この紅茶を買ったとこで?」
「うん。お店の中に入ると、茶葉の匂いがすごいんだ。色々飲んだけど、果物の香りがついてるのはやっぱりりんごで固定しちゃってて、ちょうどいい機会だし」
桃の香りのする紅茶はきっといい香りに違いない。
「あ、そうだった」
そう言ってノアは立ち上がると、食器棚の引き出しをいくつか見て、そこから何かを取り出した。どうぞ、と手渡される。
「それね、知り合いのお店のひとが、君にって」
髪留めだった。細長く、桃色の不透明な石がついている。ふたつで一組のようだ。
「いいの?」
「もちろん。ただ、私がたまたま手に取ったものだったから、センスはよくないと思うけど……」
もしかしてこれは、あの店で盗み聞きした時の髪留めなのだろうか。そういえばあの時ゼギオンは、ノアが女のひとと会っていたと言っていたような気がするが、さすがにそのことは訊けなかった。
髪留めを有り難くもらい、ポケットに仕舞った。ノアはまだキッチンで過ごすようだが、わたしは自分の分の食器を片づけたあと、キッチンの扉を開けて白の回廊へと出た。はずだった。
足が踏むはずの床がなかった。仮の板が穴の上に置かれていなかったのだ。血の気が一気に引いて、胸や腹が床に叩きつけられる。痛さを感じる前に体重に引っ張られ、まるで足を掴まれているように穴の中に引きずられていった。腕が床の上を滑り、頭が床下へ入るかどうかという時、腕を引っ張られてあっという間に体が上がった。気がついた時には床の上でへたり込み、大きな体に抱き締められていた。体がかたかたと震え、うまく息が吸えない。
「ごめん。私が板を戻さなかったから……っ」
思っていたよりも耳のすぐそばで声が聞こえた。恐怖で体の力が抜けず、彼の服の二の腕の部分を握った手がほどけない。大きな手がわたしの背中をさすっている。ぎゅっと目をつぶってみたが、頭の中が混乱していて何も考えられない。それでも時間が経つと体の震えが治まっていき、ゆっくりと目を開けると顔を覗き込んできたノアと目が合った。
「だいじょうぶ? どこか痛くない?」
言葉はわかった。必死な様子もわかった。しかしわたしは頭が真っ白になっていた。わたしの様子がおかしいと思ったのか、ノアは心配顔の眉間のしわをさらに深くして、なんの躊躇いもなくわたしの頬を触り、腕を見たりしながら、怪我がないか確認していた。
「本当にだいじょうぶ?」
頷く。
「どこも痛くない?」
頷く。
それからすこしの間、彼はわたしの体に目に見えて異常がないか確認していたが、やがて立ち上がると手を差し出してきた。わたしはほとんど無意識にその手をとり、立ち上がった。何か言われた気もするが、耳に入ってこない。
わたしは呆然としながら白の回廊を抜け、赤い廊下を過ぎ、ゆっくりと玄関の扉を開けた。冷たい空気と暖かい日差しが降り注ぐ。無意識にいつもの動きをしようとしているのか、わたしの足は家の横にも広がる庭を歩いた。落ち葉を集めるための箒を納屋から出しに行こうとしているらしい。納屋は家の後ろ側にあり、家をぐるりと回らなければならなかった。
先程自分がいたはずの白の回廊が目に入る。外側から見る回廊の、いくつも並んでいる窓からは誰の姿も見えなかった。ようやく納屋に着き、扉を開けて箒と大きなちりとりを出す。それを持って表の庭に向かおうとしたが、木製のベンチが目に入り、なんとなく座ってしまった。わたしはいつしか、ポケットから髪留めを出して手に持っていた。
穴に落ちそうになるのを助けてくれた時の、大事なものを心の底から心配しているような様子が目に焼きついて離れない。しかし一昨日に話したニジェットの言葉を思い出すと、熱い胸が刺されたように痛んだ。
彼のお嫁さんにしてもらうひとはきっと、あんなふうに心配され、大事にされるのだろう。そう思うと、その姿のないお嫁さんが輝いて見え、羨ましかった。




