保護者の足場 1
ミネルバに帰ってきてから次の日の朝になってもノアが起きてこなかったので、さすがに心配になって部屋を訪れた。この部屋には二、三回くらいしか来たことがないので、扉の前に立つと妙に緊張した。ノックをしても反応がないので恐る恐る扉を開ける。
カーテンが引かれたままの室内は薄暗く、入って正面にごつごつした机と椅子があった。右手側を見ると艶のでた焦げ茶の大きな四柱式ベッドが、部屋の中で圧倒的な存在感を出していた。家の主人の部屋だけあってとても広く、わたしが使っている部屋の三倍くらいはあるだろうか。
そのベッドのいまの主である男の寝顔は穏やかそのもので、初めてまともに顔を見た気がした。声色や仕草からもっと年上かと思っていたが、こうして見るとアサギやリートと同年代のようにも見える。しかしリアからは三十代と聞いているので、童顔なだけなのだろうか。
一応胸のあたりが動いていることを布団の上から確認する。見れば見るほどベッドのデザインの厳かさと寝ている男の人柄との差を感じた。はっきり言うと合っていない。本人もそう思っているような、そんな気がした。音を立てないようにそっと部屋を出て、ふと息を吐く。心配をかけていたんだとようやくわかった。
ぐっすりと眠る彼と違い、わたしは帰ってきても眠れなかった。向こうで長く眠っていたせいかもしれない。眠気が来ても頑張って起きていれば、なんとか夜に眠れるだろう。キッチンにサンドウィッチが作れる材料があったので一応ふたつ作った。ひとつはキッチンのテーブルに置いておき、もし起きてこなくても自分の昼食に回せばいい。今日は市場に買い物をしに行こう。
昔は髪が長いのが当たり前だったが、こうも急に伸びてしまうと色々と面倒なことがあったと思い出す。寝る時は三つ編みにしないと体とマットの間に挟んで痛かったり、すこし前屈みになっただけで髪が前に垂れてくるのでいつも結んでおかないと邪魔だったりする。しかし髪を切ったばかりに似合わなくなったスカートを諦めないで済むのだと思うと嬉しかった。実際、変わりたいと思って髪を切ったわけで、その試みはうまくいった。しかしあそこまでスカートが似合わなくなるとは思いもしなかった。自然と男の子が着るようなものを選ぶようになり、周りから男の子と勘違いをされるようになった。わたしは違うと言うのも億劫で、なし崩し的に男の子のふりをするようになった。あの頃は本当に、自分が別人になったみたいだった。
いつも通りの時間にアサギとサジタリスが来た。妹のことで色々とあったリートは来なかった。わたしはミネルバに帰ってこられたが、誘拐されたほかの女の子たちがどうなっているのか、わたしと関わっているのかどうかもわからない。事情を知っているかもしれないノアはまだ眠ったままだ。
アサギとサジタリスは、わたしが本部に帰っていたことよりも髪が長くなったことに驚いていた。何があってどう帰って来たのか、知っていることを話すとふたりはそれを黙って聞いていた。話し終わるとサジタリスが口を開いた。
「何はともあれ、無事で何よりです」
心配はされていたのだろうが、淡々と話す彼女を見て彼女らしいなと思った。
「ノアさんは起きてないのですか」
アサギの問いにわたしは頷き、ノアが帰りの馬車の中で言っていたことを話した。彼は確か明日、正確には今日から五日間休みになった、と言っていた。彼はミネルバに帰る前、警備隊の最本部へ行き、地方司令官に報告をした。わたしは別の部屋で待っていたが、その時に言い渡されたようだった。
「そうですか。疲れているはずなので、今日は遅くに起きてくるかもしれません」
アサギが応接間の天井を仰ぎ見る。応接間の上が彼の部屋だからだ。わたしが隊のふたりも休みになってだいじょうぶなのかと訊くと、いざとなればほかの隊が応援で入ってくれるらしい。それに、とアサギが加える。
「もとからそれほど広い地域ではありません」
彼が言うならそうなのだろう。それから彼は顎に手を添えると、わたしをじっと見つめて一言。
「随分印象が変わりました」
*
買い物は午前中にしたほうがいいと思い、彼らが見回りに出たあと、しばらくしてから家を出た。いままでつけていた頭巾は似合わなくなったので、フードつきのコートを羽織り、髪を前に流す。
天気はいいがとにかく寒かった。日陰になっている場所を歩きたくない。しかし買い物に行かなければ今日の食べ物がないわけで、それは何よりも優先すべきことだった。探せば棚や食糧庫に何かあったかもしれないと思ったが、家に戻るのも面倒で、加えてひとの目もそれほど気にならなさそうだった。
歩きながらふと昨日のことを思い出す。つい昨日の夜までいたアレリアの邸の印象は薄く、帰る時に見た外観くらいしか思い出せない。きっと舞踏会などはああいう場所でやるのだろう。そのほかのことは薄ぼんやりとしていたが、ノアがあの時かけてくれた言葉は覚えていた。
わたしは自分のことを決められず、考えを言葉にするのも苦手だった。色々なことを考えては周りがどう思うだろうかと不安になり、結局は何も言えなかった。けれどいまは、不安がすこしだけ小さくなったような気がした。そんなことを考えていたら、いつの間にか市場のパラソルが見えてきた。何を買おうとしていたのか思い出すのにしばらくかかった。
食材を買って家に帰り、ノアが起きていないことを確認してから、作り置きをしたサンドウィッチを食べた。食べたあと応接間のソファーに座っていたら、うとうととすこし眠ってしまった。慌てて起きて、日課になりつつある庭掃除に出ようと玄関の扉を開けた。本当は白の回廊にある扉からのほうが箒のある納屋に近かったのだが、すこし寝ぼけていたらしい。庭に目を向けると、警備隊の黒のロングジャケットを着た獣人の女がこちらに歩いてきていた。
「ほお、角っ子じゃねぇか。もう帰ってたのか。それにしてもなんか印象が違うような……?」
彼女は目の前まで来ると、つり目を細めてこちらの顔を覗き込んだ。
「ノアは帰ってんのか?」
その問いに頷くかどうか迷っていたら、彼女がにやりと口の端を上げた。
「あたしが誰かわかんねーって顔してんな。あたしはニジェット。ノアと同じ警備隊の隊長さ。第六地区の」
そういえばそうだ。ヘイルだったら絶対覚えていただろう。
「で、あいつはいるのか?」
「あ、えっと、まだ寝てる」
「寝てる? あいつが? こんな昼間まで?」
ニジェットは余程信じられないのか声が上ずっていた。わたしは昨日の出来事を簡単に説明した。ニジェットは表情をあまり変えずに聞いたあと急に身震いをして、寒いから中に入れてくれと言った。
応接間の本棚側のソファーに座り、ニジェットはすぐそばにある暖炉に毛むくじゃらの手をかざした。本当に寒そうだった。猫の獣人だから寒いのは苦手なのだろうか。というか、わたしはこのあとどうするべきなのだろう。もしノアだったら紅茶のひとつでも出すのだろうが、わたしが出すのは何か違うような気もする。
「しっかし起きてないのかー。残念だな。折角土産話を持って来たってのに」
わたしがどうしようかとソファーの近くに立っていると、いいから座れと言われ、仕方なく向かいのソファーに座った。
彼女の言う土産話というのは警備隊に関することだった。橋の無断使用が公になったことで、第二地区の隊長がなんらかの責任を取ることになるのだという。地方司令官に報告書を送ったようだ。彼女の口調からして、第二地区の隊長をとても毛嫌いしているのがわかる。隊長同士、こんなに仲が悪くてだいじょうぶなのだろうか。それから彼女は、自分が部下に背中を斬られたことを話した。わたしは素っ頓狂な声を出した。
「別に大したことじゃない」
背中を斬られたのは二日前だというのに、ニジェットは痛がる素振りも見せない。背中に傷があるのなら仰向けで寝られないのではないだろうか。当たり前だが部下は捕まり、後日アレリアに連れていかれるそうだ。
「いやーもう、今回のことでほんと参ったわ。こうも簡単に警備隊の中に異分子を紛れ込ませられるなんてな。うちの隊もなんか言われるだろうが、司令官も大変だな、こりゃ。周りが黙ってない」
本当に悪いのは悪いことを企む側なのだが、これはこれで警備隊側の失態として周りから非難される。なんだか複雑で、悪いことを未然に防ぐことの難しさを感じた。
すると玄関のほうで音がした。誰かが帰って来たようだ。
「こんにちは」
応接間に入ってきたアサギがぽつりと言った。
「おう、邪魔しているよ。アサ坊」
ニジェットが嬉しそうに笑いながら足を組み、彼に手を振った。
「何か用ですか」
相変わらず率直な質問の仕方だ。ニジェットは半眼で彼を見た。
「もちっと愛想作れよ。意外といい面してんだからさぁ」
「はぁ」
アサギは愛想に関する話を取り合うつもりはないらしい。ニジェットは諦めたように首を振った。
「ノアさんなら寝てます」
「それなら角っ子に聞いた」
「今日から五日間休みになったんです」
「それも聞いた。妥当なんじゃねえの?」
「そうですね。ほぼ休みなしで働いてましたし、僕としては一週間以上でもいいんじゃないかと思います」
「そうするとおまえらが大変だろ」
「その時はその時です。案外なんとかなります」
「妙なとこ、肝据わってんな」
「あの、ランダ隊長は、そこの荒地、何か感じますか」
「荒地?」
ニジェットが片眉を寄せた。アサギは頷き、窓の向こうに目を向ける。
「この家の向こう、丘の下に、荒れた土地があります。そこです」
「ああ、そこか。言われてみれば、なんか妙に悪寒がしたような……いやでも、こちとら病み上がりみたいなもんだしな。ただの寒気かもしれないし、よくわからん」
彼女の言葉に、アサギは顎に手を当てて視線を落とした。
「なんだ。あんななんもないとこが気になるのか?」
「はい。もしかしたら、自分のことと何か関係があるんじゃないかと思いまして」
「自分って、〈メイト〉とってことか?」
「そういうことになります」
アサギは話を切り上げると顎に手を当てて黙り込む。視線を戻したわたしと目が合ったニジェットは、意地悪そうに顎を上げてこちらを見下ろした。
「それにしてもいいとこに転がり込んだじゃねぇか、角っ子。もういっそ、ここの子にしてもらえよ。あいつ、無駄に有能だからな。苦も無く養ってもらえるぞ。あーでも、おまえ十五なんだっけ。だったら嫁にしてもらえ。ちっと若いが問題ないだろ」
驚いた。まさか自分に対して『嫁』という言葉が使われるとは想像もしなかった。このミネルバに、ニエジム領にいる限りないと思っていたからだ。小さい頃から漠然とお嫁さんになることを夢見てはいた。しかしそれが叶わないことはわかっていた。こんなわたしを好んで貰おうとするひとなど、この町にいるはずがない。こうして見ず知らずの家に預けられていることは、そのことに拍車をかける材料になるだけだった。
だからわたしは、どうやってひとりで生きていこうかとこの二年間、悩んでは見て見ぬふりを繰り返してきた。もちろんこたえなど見つかっていない。
「ランダ隊長。若者で遊ぶのはやめてください」
アサギの言葉に、ニジェットは肩を揺らして大きく笑った。




