狂人の言い分 1
あのひとがいる。
わたしは路地に隠れながら、混乱しそうになる気持ちを必死に抑えていた。どんどんと大きくなる恐怖心が胸を内側から叩き、息がうまく吸えない。それでも路地からすこし顔を出して様子を窺う。怖いのにどうして見てしまうのだろう。
あのひとは、小さな男の子と手を繋ぎながら通りを歩いていた。
わたしがふつうだったら、あんなふうに手をつないでもらえたのだろうか。
あんなふうに笑って、話しかけてもらえたのだろうか。
どうしたらよかったのだろう。どうすればよかったのだろう。
わたしは、どうしてここにいるのだろう。
熱くなった目から涙が落ちる。
痛い。
苦しい。
つらい。
あのひとがふと立ち止まる。
そして振り向く、その前。
目の前が真っ暗になった。
*
仄暗い明かりに照らされた天井は白く、高かった。いままで夢を見ていたのだと気づき、その夢のせいなのか、胸のあたりがもやもやとして気持ち悪かった。濡れていた目元を拭おうと手を動かすも力が入らず、布団をのけるのも大変だった。体も頭も酷く重たい。
悪戦苦闘しながら腕を出した時、夢で見たことは夢ではなかったことを思い出した。
わたしは本当に見たのだ。図書館でヘイルと別れたあとに、あのひとを。縄で縛りつけられたみたいに胸が痛み、息が詰まる。夢でも現実でも感じる痛みは変わらない。
かすかに花のような香りがして、何かがおかしいと思いつつなんとかベッドから起き上がった。わたしの目に映ったものは見覚えのない部屋だった。見渡した室内は全体的に白っぽく、ベッドの向こうに椅子と丸いテーブルが置かれ、窓と窓の間に大きな鏡がかけられている。ベッドの左右にサイドテーブルがあり、その上にオイルランプが置かれいていた。油壷が赤いたまねぎのような形のガラスで、ホヤは花が咲きはじめたように可憐な造りをしていたが、どこか不気味な光を放っていた。窓にはカーテンが引かれ、外はすでに夜のようだった。
血の気の引いた頭に触れると、頭巾はなく、短かった髪が腰まで伸びていた。服は襟元が大きく開いた白のワンピースの寝間着に変わっている。何故と思うのと同時に、この部屋を出なくてはいけないと慌ててベッドから出た。裸足のままふらつきながらも扉に辿り着き、取っ手を握る。開けてすぐに体のバランスを崩し、絨毯に倒れ込んだ。
気持ちは急いているのに、体が絨毯にくっついたように動かせず、横になっていたほうが楽だった。体がしびれた時のように、自分の意思では動かせない時のように重たい。
足音が床越しに体に響き、すぐに体を起こされた。
「だいじょうぶかい?」
女の気遣う声がかかる。目に映ったのは、濃い色の服を着た髪の長い女だった。
「そうか、目が覚めたんだね。ああ、君は本当に……。いや、色々訊きたいことがあるだろうけど、もう遅いからベッドに戻ったほうがいい。いま運んであげるから」
わたしは目蓋を動かすだけで、何もこたえられない。彼女はわたしを軽々とベッドまで運び、横たえたあと布団をかけた。そのあと女は近くの椅子に座った。
「数日前の夜、怪しい男から君を助けて、こうして私の邸に連れてきたんだ。名前を訊いてもいいかい?」
女ははっきりとした物言いで説明しながら、真っ直ぐにわたしを見た。
「……コーラル」
わたしは目を合わせることができず、かすれた声でこたえた。
「海の宝石の名前だね。素敵だ。その髪の色も、澄みきった空を見ているようだね」
名前を褒められたのは、初めてかもしれない。
「君のその角は、どうしたの?」
彼女は恐らく、折れた左の角のことを言っているのだろう。
「壁に……」
「うん」
「壁にぶつけて、折った」
「どうして?」
「……おかあさんが」
そこまで言って喉が詰まった。あれは、髪を切る前のことだった。
あんたなんか生まなきゃよかった!
興奮しきった母は手を上げそうになったが、父に止められ、わたしは急いで自分の部屋へと逃げた。怖くて怖くて、気がつけば角を壁にぶつけていた。根元から折ることはできなかった。
涙が出た。この見知らぬ部屋にいることよりも、何よりも母のほうが怖かった。
「つらかったんだね。だいじょうぶ。ここには君を苦しめるものは何もない。つらいことは忘れてしまえばいい。君さえよければ、好きなだけここにいてもいい。逃げてもいいんだ。心が壊れてからでは遅いのだから」
重い目蓋を閉じ、その言葉を一旦は振るいにかける。けれど嫌だとも、帰りたいとも言う気になれなかった。ここがどこかはわからないが、母がいないことは確かだろう。わたしと母とつなげるものはここにはない。あんな、声を聞くだけで体が震えだすような思いをしなくていいのなら、ここにいてもいいかもしれない……。そう思うと母の言葉が徐々に遠くへ、小さくなっていく。
ふと誰かが同じようなことを言っていたような気がしたが、頭の中にもやがかかったように思い出せない。洞窟の中にいるみたいに、聞こえる音が頭の中に響く。体の重さは増し、先程まで開けていた視界はぼやけていた。
「君は大変な思いをしてきたみたいだね。その角、わたしはおとぎ話でしか知らないが、ここでは君のような子は生きづらいだろう」
おとぎ話。
昔、自分のことについて調べたことがあった。その時に〈角を持つ者〉のおとぎ話があることを知った。
あるところに、正しき心を持った優しい牛がいた。牛は、周りの牛たちにとても好かれ、尊敬されていた。
ある日、牛は道中で人間の作った作物を荒らす牛に会った。正しき心を持った牛は、作物を荒らす牛をこらしめた。しかしその牛にも事情があり、何日も食べ物を口にしていなかった。
心正しき牛は悩んだ。そして作物を荒らす牛を見逃した。
すると人間は、心正しき牛が作物を荒らしたと思い、牛をこらしめようとした。何日も、何日も追い駆けまわされた牛は、疲れ果て、痩せていった。そして力が尽きかけた時、人間に角としっぽが生える呪いをかけた。
角としっぽが生えた人間の周りには、狂暴な魔物が絶えずうろついた。人間の村は、とうとう滅んでしまった。
こんな話だった。正しい心を持った牛が可哀想で、幼いわたしは泣いた。おとぎ話だから本当にあったことではないだろう。けれどいまになって思い返すと、どうしてひとを呪ってしまったのかと思ってしまう。
〈角を持つ者〉は人間から生まれてくる。突然変異で生まれ、人間だが人間ではない。先祖にサテュロスがいて、先祖返りではないかとも言われているが、わたしの足は動物のような毛で覆われておらず、しっぽも生えていない。
どうしてわたしの頭には角が生えているのだろう。どうして角が生えたくらいで嫌われなくてはいけないのだろう。魔物なんて呼びたくて呼んでいるわけではない。涙が止まらず、頬を伝って落ちていく。
「忘れなさい。いま君が思い出しているつらいこと、考えてつらいことを。忘れなさい。君が本当に在るべき場所が、必ずあるから」
そう言われると、不思議とそれらが遠のいて、本当に忘れられそうだった。わたしの意識は、静かに遠ざかっていいく。
「だいじょうぶ。ぐっすり眠れるよ。安心して」
このまま、すべてを忘れて、ずっと、眠っていられたら。
きっと、誰も、自分も、泣かないで済むだろう。
でも、叫びたかった。
泣いて、わめきたかった。
その気持ちは、何か薄い膜に覆われているみたいに、表に出ることはなかった。




