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ミネルバ-望郷の町-  作者: 近藤 回
第五章

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狂人の言い分 1

 あのひとがいる。

 わたしは路地に隠れながら、混乱しそうになる気持ちを必死に抑えていた。どんどんと大きくなる恐怖心が胸を内側から叩き、息がうまく吸えない。それでも路地からすこし顔を出して様子を窺う。怖いのにどうして見てしまうのだろう。

 あのひとは、小さな男の子と手を繋ぎながら通りを歩いていた。

 わたしがふつうだったら、あんなふうに手をつないでもらえたのだろうか。

 あんなふうに笑って、話しかけてもらえたのだろうか。

 どうしたらよかったのだろう。どうすればよかったのだろう。

 わたしは、どうしてここにいるのだろう。

 熱くなった目から涙が落ちる。

 痛い。

 苦しい。

 つらい。

 あのひとがふと立ち止まる。

 そして振り向く、その前。

 目の前が真っ暗になった。



 仄暗い明かりに照らされた天井は白く、高かった。いままで夢を見ていたのだと気づき、その夢のせいなのか、胸のあたりがもやもやとして気持ち悪かった。濡れていた目元を拭おうと手を動かすも力が入らず、布団をのけるのも大変だった。体も頭も酷く重たい。

 悪戦苦闘しながら腕を出した時、夢で見たことは夢ではなかったことを思い出した。

 わたしは本当に見たのだ。図書館でヘイルと別れたあとに、あのひとを。縄で縛りつけられたみたいに胸が痛み、息が詰まる。夢でも現実でも感じる痛みは変わらない。

 かすかに花のような香りがして、何かがおかしいと思いつつなんとかベッドから起き上がった。わたしの目に映ったものは見覚えのない部屋だった。見渡した室内は全体的に白っぽく、ベッドの向こうに椅子と丸いテーブルが置かれ、窓と窓の間に大きな鏡がかけられている。ベッドの左右にサイドテーブルがあり、その上にオイルランプが置かれいていた。油壷が赤いたまねぎのような形のガラスで、ホヤは花が咲きはじめたように可憐な造りをしていたが、どこか不気味な光を放っていた。窓にはカーテンが引かれ、外はすでに夜のようだった。

 血の気の引いた頭に触れると、頭巾はなく、短かった髪が腰まで伸びていた。服は襟元が大きく開いた白のワンピースの寝間着に変わっている。何故と思うのと同時に、この部屋を出なくてはいけないと慌ててベッドから出た。裸足のままふらつきながらも扉に辿り着き、取っ手を握る。開けてすぐに体のバランスを崩し、絨毯に倒れ込んだ。

 気持ちは急いているのに、体が絨毯にくっついたように動かせず、横になっていたほうが楽だった。体がしびれた時のように、自分の意思では動かせない時のように重たい。

 足音が床越しに体に響き、すぐに体を起こされた。

「だいじょうぶかい?」

 女の気遣う声がかかる。目に映ったのは、濃い色の服を着た髪の長い女だった。

「そうか、目が覚めたんだね。ああ、君は本当に……。いや、色々訊きたいことがあるだろうけど、もう遅いからベッドに戻ったほうがいい。いま運んであげるから」

 わたしは目蓋を動かすだけで、何もこたえられない。彼女はわたしを軽々とベッドまで運び、横たえたあと布団をかけた。そのあと女は近くの椅子に座った。

「数日前の夜、怪しい男から君を助けて、こうして私の邸に連れてきたんだ。名前を訊いてもいいかい?」

 女ははっきりとした物言いで説明しながら、真っ直ぐにわたしを見た。

「……コーラル」

 わたしは目を合わせることができず、かすれた声でこたえた。

「海の宝石の名前だね。素敵だ。その髪の色も、澄みきった空を見ているようだね」

 名前を褒められたのは、初めてかもしれない。

「君のその角は、どうしたの?」

 彼女は恐らく、折れた左の角のことを言っているのだろう。

「壁に……」

「うん」

「壁にぶつけて、折った」

「どうして?」

「……おかあさんが」

 そこまで言って喉が詰まった。あれは、髪を切る前のことだった。


 あんたなんか生まなきゃよかった!


 興奮しきった母は手を上げそうになったが、父に止められ、わたしは急いで自分の部屋へと逃げた。怖くて怖くて、気がつけば角を壁にぶつけていた。根元から折ることはできなかった。

 涙が出た。この見知らぬ部屋にいることよりも、何よりも母のほうが怖かった。

「つらかったんだね。だいじょうぶ。ここには君を苦しめるものは何もない。つらいことは忘れてしまえばいい。君さえよければ、好きなだけここにいてもいい。逃げてもいいんだ。心が壊れてからでは遅いのだから」

 重い目蓋を閉じ、その言葉を一旦は振るいにかける。けれど嫌だとも、帰りたいとも言う気になれなかった。ここがどこかはわからないが、母がいないことは確かだろう。わたしと母とつなげるものはここにはない。あんな、声を聞くだけで体が震えだすような思いをしなくていいのなら、ここにいてもいいかもしれない……。そう思うと母の言葉が徐々に遠くへ、小さくなっていく。

 ふと誰かが同じようなことを言っていたような気がしたが、頭の中にもやがかかったように思い出せない。洞窟の中にいるみたいに、聞こえる音が頭の中に響く。体の重さは増し、先程まで開けていた視界はぼやけていた。

「君は大変な思いをしてきたみたいだね。その角、わたしはおとぎ話でしか知らないが、ここでは君のような子は生きづらいだろう」

 おとぎ話。

 昔、自分のことについて調べたことがあった。その時に〈角を持つ者〉のおとぎ話があることを知った。


 あるところに、正しき心を持った優しい牛がいた。牛は、周りの牛たちにとても好かれ、尊敬されていた。

 ある日、牛は道中で人間の作った作物を荒らす牛に会った。正しき心を持った牛は、作物を荒らす牛をこらしめた。しかしその牛にも事情があり、何日も食べ物を口にしていなかった。

 心正しき牛は悩んだ。そして作物を荒らす牛を見逃した。

 すると人間は、心正しき牛が作物を荒らしたと思い、牛をこらしめようとした。何日も、何日も追い駆けまわされた牛は、疲れ果て、痩せていった。そして力が尽きかけた時、人間に角としっぽが生える呪いをかけた。

 角としっぽが生えた人間の周りには、狂暴な魔物が絶えずうろついた。人間の村は、とうとう滅んでしまった。


 こんな話だった。正しい心を持った牛が可哀想で、幼いわたしは泣いた。おとぎ話だから本当にあったことではないだろう。けれどいまになって思い返すと、どうしてひとを呪ってしまったのかと思ってしまう。

 〈角を持つ者〉は人間から生まれてくる。突然変異で生まれ、人間だが人間ではない。先祖にサテュロスがいて、先祖返りではないかとも言われているが、わたしの足は動物のような毛で覆われておらず、しっぽも生えていない。

 どうしてわたしの頭には角が生えているのだろう。どうして角が生えたくらいで嫌われなくてはいけないのだろう。魔物なんて呼びたくて呼んでいるわけではない。涙が止まらず、頬を伝って落ちていく。

「忘れなさい。いま君が思い出しているつらいこと、考えてつらいことを。忘れなさい。君が本当に在るべき場所が、必ずあるから」

 そう言われると、不思議とそれらが遠のいて、本当に忘れられそうだった。わたしの意識は、静かに遠ざかっていいく。

「だいじょうぶ。ぐっすり眠れるよ。安心して」

 このまま、すべてを忘れて、ずっと、眠っていられたら。

 きっと、誰も、自分も、泣かないで済むだろう。

 でも、叫びたかった。

 泣いて、わめきたかった。

 その気持ちは、何か薄い膜に覆われているみたいに、表に出ることはなかった。

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