嵐、来たる 3
午後になり、わたしはようやく外に出て第四地区にある市場へと向かった。あの広場での魔物騒ぎがなければ、昨日来ていた場所だった。広場にカラフルな屋根やパラソルと品物の載った台が並んで常に活気があり、いまのわたしにとっては一番来たくないところでもある。昨日の教訓を生かし、今日はちゃんとコートを羽織ってきた。
極力周りを見ないようにしながら、頼まれた野菜や調味料を買い揃える。大抵は買ってくる材料で何を作ろうとしているのかがわかるが、どうやらミネストローネを作るようだ。いまの時期、温かいスープが飲めるのは嬉しい。朝はベッドから出るのがつらいほど寒くなってしまった。日が落ちればもっと寒いのだから、買い物は日が差している時間、もっというと午前中がいい。
そうこうしているうちに視線を感じるようになって、背筋が冷たくなった。意識がそこに向いた途端、周りの話し声も急に聞こえてきた。わたしは足早に市場から逃げた。周りのひとが何を話そうと話し声を聞きたくなかった。後ろから誰かがついてきやしないかと焦りながら、歩きに歩いた。
とにかく歩いて、ふと顔を上げる。はちみつ色の家々が並ぶ通りの真ん中あたりに、歪みのないガラスの大きな窓が目立つ建物があった。そこは服屋で、普段着というよりは社交場で着ていく衣装を取り扱っている店だった。わたしはその店の大きな窓の前で立ち止まった。
ガラスの向こうには、細身の青いイブニングドレスが飾られていた。肩の部分にはほとんど布がなく、腰は締まっており、スカートの部分は何枚も布が重ねられていて、一番上の布は下が透けるほど薄かった。ドレスの滑らかなひだを見ていると、生地の柔らかさまで感じられそうだった。ドレスの足元にある値札は、溜め息が出るほど高い額が書いてある。
似合わないとわかっていても、買えないとわかっていても、見かけるたびに立ち止まってしまう。こんな素敵なドレスを着て舞踏会に出られたらと夢見てしまう。
「あんた、この色似合ってないわよ?」
不意の言葉に心臓が大きく跳ねた。余程見入っていたのか、隣に誰かがいることにまったく気がつかなかった。
「あんたは白とか薄い桃色とかがいいから、とにかく原色はダメね。顔色も悪くなるし、ドレスだけが浮いて見えるわ。何より背が足りないし、形も合ってない」
紺のフードを被った左隣にいる少女は、わたしと飾られたドレスを交互に見ながら、似合っていないということをあらゆる角度から言った。その言葉の勢いに圧され、わたしは何度も瞬きをした。
「あんた、コーラル・シェニエ・アイラルね?」
間違いない。彼女は昨日あの広場で大きなカラスを操っていた少女だ。いまはフードを被っているので角を確認できず服装も違うが、確かにあの少女だった。
「あら、あたしが怖いの?」
後ずさったわたしを見て、少女が挑発するように言った。
「今日は何もしないわ。あたし、あんたに忠告しに来たのよ。この町はずっと前から面倒なことになってるから」
「……なんで?」
「あら、あたしがそんなことをするのはおかしいのかしら? 知り合いでもないものね。でも、同じ〈角を持つ者〉として見過ごせないと思ったのよ」
こちらの事情を知っているようだが、わたしが怪しむように眉を寄せていたので、少女はやれやれと首を振った。
「すこし話したいの。時間をちょうだい」
そう言って彼女に連れてこられたのは、とても狭い喫茶店だった。こんな店があるとはまったく知らなかった。店に来るまでに随分と狭くてわかりにくい道を通ってきて、店の外も一見しただけでは喫茶店なのかわからなかった。店に入る前、何故自分はこの少女についてきてしまったのだろうかと後悔した。
店が狭いこともあって、白い壁に焦げ茶の梁が渡された店内はすっきりとしていた。入ってすぐにカウンターがあり、店員がそこに立っていた。左手には喫茶スペースもある。彼女は迷いなくそこへ行き、別の席に自身のコートとフードを置いて、慣れたように座った。やはり昨日見た角は見間違いではなかった。店内はテーブルが三つあり、席が向かい合うように置いてある。家具はカラメル色で統一されていた。わたしも別の椅子にコートとマフラーと荷物を置いて、少女の向かいに座った。
店員がメニューを持ってきた。わたしはそれを開いたが、わけがわからずに向かいの少女を見てしまう。少女は無表情でこたえた。
「ほら、選びなさいよ。おごってあげるわ」
「えっ……」
嬉しい気持ちと疑いの気持ちが同時に出てくる。素直にありがとうと言えないわたしの気持ちをわかってか、彼女はさっさと自分の注文をしてしまった。
「あの、これ、どういうものなの……?」
恐る恐る訊くと案の定少女は、わけがわからない、という顔をした。
「なに、あんた。まさか字が読めないの?」
「そうじゃなくて、ここに書かれてるデザートの名前? 初めて見るものばかりで、どんなものかわからなくて……」
「ああ、そういうこと。そうよね。まあ、見ても食べても驚くと思うけど。あんた、好きな果物は? 嫌いなものとかあるの?」
「好きな果物は……桃かな。でも、いまは……」
「じゃあ、これで」
彼女がメニューを指し、わたしの分のデザートと飲み物を店員に頼んでしまった。助かったと言えば助かった。
「自己紹介、まだだったわね。あたしは、スリプ。スリプ・タラップよ」
スリプが淡々と自己紹介をした。彼女は白いシャツに黒のチョッキを着ており、胸元はタイの代わりに幅広の布でリボン結びがしてあった。昨日も思ったが、服のセンスがすごくいい。この町では売っていなさそうなものばかりを着ている。
「ここは、あの暴論に同調しないひとがやってる店だから、何を話しても、その頭巾を取ってもだいじょうぶよ。一息つきたい時に来たらいいわ」
とは言っても、デザートの値段が少々値の張ったもので、あまり気軽に来られそうにないのは残念だ。彼女の紺色の眼はいつも半眼らしく、ともすると睨まれているような気がしてしまう。
「あたしのこの角を見れば、何を忠告しに来たのかだいたいわかるわよね。あんた、できるだけ早くこの町から出てったほうがいいわよ。取り返しのつかないことになる前にね」
店員が盆にデザートを載せて持ってくると、目の前のテーブルに並べた。
「桃だ……」
わたしの前には、半球体の透明な、ぷるぷるとしたものの中に桃の切り身が入っているケーキが置かれた。
「魔術と同じような力を使うことができる道具があるのよ。誰にでも使えるから、こういうふうにケーキを冷やして溶かさないようにできるの。ほかの国じゃ、こんなふうに使われるのも当たり前だし、たくさん出回っているわ。時期の過ぎた果物も、こうして食べることができる」
スリプの前には、円柱状の、上が赤色で下がクリーム色に分かれたケーキが置かれた。それからすこしして、温かい紅茶がほっとするような香りを漂わせながらふたつ来た。彼女は手慣れたようにケーキ皿に添えられた銀のフォークを取り、切り分けたケーキを口に運んだ。彼女が食べたケーキも自分のケーキも、いったいどんな味がするのか想像ができない。
わたしは緊張しながらフォークを持って、ケーキを切りつけた。透明な層をひと口大に切り、口に入れた。桃の甘さと透明なもののすっぱさが絶妙に混ざり合い、また冷たさも相まって、わたしはいままでで一番美味しいものを食べていると思った。いままで喫茶店やレストランで食べてきたデザートは、パイやタルトなどの焼き菓子だった。常温か温かいのが当たり前だった。それがどうだろう。甘くて、冷たくて、美味しいとは。
スリプはケーキを半分ほど食べると、紅茶に口をつけた。わたしもつられて紅茶を飲む。味はいつも飲んでいるようなフルーティなものではなかったが飲みやすかった。
「ここの領主はいかれてるわ。あんな暴論を振りかざすなんて、能無しのやることよ。この力は望んで手に入れたものじゃない。でもあたしは、なかったらよかったなんて思ったこともないわ。最初から力のある者は、自分の力のことなんて考えない。それが当たり前だからよ。たかだか一領主の考えに生き方を曲げられるなんて論外だわ」
スリプはまるでケーキがまずいというように顔をしかめた。もちろんそういうわけではないのはわかる。
「あんたが聞きたいなら、色々教えてあげられるわよ。魔物をどうやって操ってるのかとか、ほかの土地や国のこともね。少なくとも、ここより住みやすいことは確実ね。ちゃんと考えたほうがいいわ。ひとりでも生きていける方法をね」
言われたくないことを言われ、わたしは黙るしかなかった。もちろんずっと考えてきたことだった。
わたしはこの町にいる限り、周囲からも、親からも歓迎されない。だったらわたしは、この町から出て行かねばならない。遠く離れた地で、ひとりで、生きていかねばならない。そこまで考えて、わたしはふと、自分の足場が不安定なものであることに、さも初めて気がつくのだ。
親から出て行けと言われれば、そこでもうすべてが終わるような気がしてしまうほど臆病者で、そうなった時、ひとりで生きていけるのだろうかと怖くなってしまう。才能もなく、何を努力したらいいのかもわからず、途方に暮れてしまうのだ。そんなことをこの二年間考えては、目を逸らしてきた。
自分で人生を決める。
できるのか、と考えてしまうわたしは、意気地なしなのだろう。
できるのか、ではなく、するのだ、と言われることはわかっている。
だからわたしは、その考えを、弱音を、誰にも言えなかった。




