異邦人の動揺 3
目が覚めた。
青いソファーの上、毛布のかかっている体を起こさずに何度か瞬きをしていると、向かいのソファーに誰かが座っていることに気がついた。
「あ、目が覚めました?」
その誰かが穏やかに声をかけてくる。あたしはハッとして体を起こした。
「お腹、空いてませんか?」
向かいに座る紅髪の青年は書類か何かを持ったまま、こちらに笑いかける。あたしは混乱し戸惑いながら、何故か素直に頷いてしまった。すると彼は部屋を出て行った。
呆然としつつ目の前のローテーブルを見ると、そこにはすずらんのような形のホヤのランプがひとつ置かれていた。この家から逃げ出した時と違い、天井の明かりには火が灯り、間接照明だけをつけているような落ち着いた明るさだった。外はとっくに夜なのか、窓にはカーテンが引かれている。
すこししてから青年がお盆に何かを乗せて戻ってくると、それをソファーの前にあるローテーブルに置いた。
「作ってから時間が経っているので冷めてしまってるんですけど、よければどうぞ」
お盆に載せられた皿には、パスタのようなものが盛られていた。冷めているので匂いもあまりしない。けれど食べ物を見た途端、頭と腹が反応し、恐る恐るフォークに手が伸びた。形の崩れた赤い具やハムのような桃色の具が散った皿にそれを刺し、クリーム色をした麺をすこしだけ食べてみる。トマトのような爽やかな酸味が口の中に広がった。さっぱりとしていて、ハムらしきものの塩味が時折顔を出してくる。
一言で言うなら、美味しかった。
無言で、夢中で食べた。皿の上が残りわずかとなった時、ローテーブルの上に二組のカップとソーサーが置かれた。見ていると、目の前で透明な橙色の液体がカップに注がれ、カップの向きを整えてからこちらに差し出された。
「りんごの紅茶です。美味しいですよ」
彼は穏やかに笑う。促されるままにカップを持ち上げると、あたしの知っているりんごの匂いがして、口にするとその温かさが体の中に広がり、じんとしびれた。
「落ち着きましたか?」
彼の問いに小さく頷くと、彼は嬉しそうに笑った。
「色々と訊きたいことがあると思いますが、まずは自己紹介をさせてください。私はノアと言います。ノア・ラグトムです。このミネルバの町で警備隊として働いています」
警備隊。昼間にこの部屋でサイラスと会った時、彼もそうだと言っていたことを思い出す。いまのノアは白いシャツに灰色のチョッキ、黒のズボンという出で立ちで、黒いロングジャケットを着ていないと思ったが、この部屋の入口付近にあるコート掛けのようなものにそれがかかっていた。
「名前を伺ってもいいですか?」
ノアの問いにあたしは頷く。相手からの厚意を受けて落ち着いた心と体、そこから徐々に蘇った記憶の中から自分の名前をすくい上げる。
「つかさ、です。如月司です」
「ツカサ、がお名前ですね?」
あたしはまた頷く。ノアは間を置いてから表情を引き締めた。
「ツカサさん、これから私が話すことはとても信じられないかと思いますが、聴いてください。もうすでに町に出て色々なものを見ているあなたなら、ここがあなたのいたところではないと薄々気づいていると思います。このミネルバ町は時折あなたのように『どこか』からひとが来ます。私たちは彼らのことを〈メイト〉と呼んでいます」
この家を飛び出て町に着く前から、ここは自分がいたところではないと気づいていた。その事実はナイフとなり胸に向けられ、しかしその切っ先が刺さる手前で抵抗感がそれを留めていた。彼の言葉は、胸に向けられていたナイフを押し込んだ。
「百年以上前からあることで、六年前にもありました。どうして〈メイト〉が来るのか、何が原因なのかわかっていません。それから、ほとんどの方はいつの間にかいなくなっているそうです。私としては、もとのところに帰っている、と思いたいのですが、実際のところは誰にもわかりません。……だいじょうぶですか?」
ノアが心配そうに訊いてくる。あたしは余程差し迫った顔をしていたようだ。
「何か訊きたいことはありますか?」
「あ……えっと……」
「なんでもいいですよ。私にこたえられることであればこたえます」
声色に気遣いを感じて、目の前にいる人物は信じられるのではないかとあたしは思いはじめていた。しかし昼間のことやつい先程聞いた話をどう考えたらいいのかわからず、訊きたいこともわからない。
ふと、町でノアを見た時に思い出した光景を顧みる。あの草も花もない場所はいったいどこだったのだろう。あたしは、確か通りを……ダイガクの……大学の帰り道を歩いていた、はずだった。そのあとのことはとても曖昧で……いや、それ以前に自分自身のこともどこか曖昧に思えて、気持ち悪かった。
すこし離れたところから扉の開く音がし、間を置いてから扉の無いこの部屋にふたりの青年が入ってきた。背の高い、明るい茶髪のサイラスと、その後ろに背の低い、黒髪の青年がいる。サイラスがノアに話しかけた。
「見回り、戻りました。あ、おまえ、目が覚めたのか」
後ろの言葉はあたしに向けてのものだった。
「おまえあの時、町にいたろ。ここにいたほうがいいって言ったのに」
サイラスが腰に手を当てて不機嫌にこちらを睨み、その視線にすこしびくついてしまう。あたしは彼を見ていないが、彼はあの場にいたようだ。
「サイラス、彼女は昨日の夜に初めてこの町に来たんだ。混乱するのも無理ないよ」
ノアが庇う。
「わかってますよ、そんなこと。で、話したんですか? 町のこととか、〈メイト〉とか」
「ついさっきね」
「で、これからどうするんですか? こいつのこと」
サイラスは遠慮なくあたしを指さす。
「あ、そうか。そうだった。……ツカサさん」
改めて呼ばれ、あたしはおずおずとノアを見る。
「あなたはいま残念ながら、何も手がかりがなく、何も頼りがない状態です。そんなあなたを路頭に迷わせるわけにはいきません。どうでしょうか。一時的にではありますが、ここに住みませんか?」
「……え?」
彼が言うまで気づいていなかったが、先程胸に刺さった事実は、あたしが衣食住のすべてを失っていることを物語っていた。そのことに一瞬寒気がしたが、ノアの提案への驚きがそれに勝った。何故彼はここまでしてくれるのだろうか。単なるお人好しにしても限度がある。
「幸いこの家は広くて部屋が余ってますし、それほど不便もないと思います。その代わりといってはなんですが、警備隊に所属する私たちのお手伝いをしていただけませんか? もちろん、その分の賃金は払いますし、食事も用意しますよ」
「待ってください」
誰かが話を止める。見ると、サイラスの後ろで大人しく立っていた黒髪の青年が前に数歩出てきた。ぼさぼさの黒髪はあちらこちらに跳ね、鬱陶しそうな前髪が目にかかり、長い後ろ髪を首の後ろで結んでいた。彼は無表情のままノアに言った。
「本気ですか。ノアさん」
「もちろんだよ、アサギ。私は、冗談は好きじゃない」
「僕は、嫌です。このひととは一緒に働きたくありません。第一、役に立つとは思えません」
アサギと呼ばれた青年は青い眼だけをあたしに向けてくる。ノアは厳しい顔で首を横に振った。
「彼女に見回りやそのほかの警備隊の仕事を手伝ってもらうわけじゃないし、役に立つか立たないかの問題じゃないんだ。彼女の今後が懸かってるんだよ。彼女の事情を無視したとしても、現実問題、私たちの隊は人手不足だ。彼女に家のことを手伝ってもらえるだけで随分助かるんだよ。この家の維持もしていかないといけないし」
「嫌です」
事の成り行きを見ていたあたしは、突きつけられる拒絶の言葉に傷ついていたが、彼の反応こそ当たり前の反応なのだろうと思った。ただどこか、個人的な恨みのようなものも感じて、疑問に眉をひそめた。
「アサギ。彼女のこと、認めてくれないかな」
「……」
アサギは黙り込むと口を一の字にし、すぐに背中を見せて部屋から出た。かと思うと玄関の扉が開く音がして、家を出て行ったようだった。ノアとサイラスは仕方がなさそうに溜め息をつく。
「すみません、ツカサさん。彼には複雑な事情があって。彼の態度を許してもらえませんか」
「あ、はい……」
許すも何も、わけがわからないのでそう返すしかない。
「で、ツカサはどうすんだ?」
気まずい雰囲気が漂い、部屋に沈黙がおりそうになったが、サイラスがそれを防いだ。
「おまえ、行くとこないんだろ? だったら俺は、ここに住んだほうがいいと思うけどな」
「でも、さっきのひと、あたしのこと嫌だって……」
「それはあいつの事情だ。おまえには関係ない。おまえが考えるのは、ノアさんの提案を受けるかどうかってことだけだ。まあ、俺がおまえの立場だったら受けるしかないと思うけど」
彼の言葉のおかげで頭が整理されるが、やはりすぐに決められることではなく、こたえが出せない。
「すみません、提案の仕方が悪かったかもしれませんね」
見兼ねたのか、ノアが困りながらも謝った。あたしは小刻みに首を横に振った。
「私たちの手伝いのことはこの際忘れてください。こたえが出るまでの間、いえ、こたえが出なくても、好きなだけこの家にいてください。私はそれでも構いませんから」
「えっ、そんな、それじゃあ……。なんでそんなにしてくれるんですか? あたし、何も持ってないのに」
提案から交換条件がなくなったことに驚き、あたしは何故か慌てた。するとノアは困ったように笑い、サイラスを見る。
「うーん、どうしてかなぁ。ね、サイラス」
「え、俺に訊きます?」
サイラスは頭をかくと、肩をすくめた。
「このひとの世話好きはおまえにはじまったことじゃないし、俺も世話になったひとりだ。だからそういう意味では保証するぞ。それにノアさん、紳士だし、おまえに手を出すこともない」
「サイラス、そういうことは言わないでほしいなぁ」
ノアは気恥ずかしいのか何かを堪えるように目を伏せている。
「いや、ツカサは女だし、言っておかないと誤解されますって。おまえだってちょっとは気にするだろ? 知らない男の家に泊まるんだから」
指摘されてから、確かに、と思い至った。
「とりあえず今日は泊まって、明日からノアさんの提案を考えたらいいんじゃないか? もう夜だし、俺ももう帰るし」
「え、いま何時なの?」
「いまは七時半くらいだ。そこに時計があるだろ?」
サイラスが自身の背後を指さす。見ると部屋の出入口近くの端に立派な柱時計があった。文字盤の文字は読めないが、構造は同じようで、長針と短針がそのくらいの位置にあるのが見えた。
「そういうわけで、ノアさん、あとはよろしくお願いします。お疲れさまでした」
そう言ってサイラスはさっさと帰ってしまった。
呆気にとられながら視線をノアに向けると、彼は苦笑した。
「色々とすみません。ですが彼の言う通り、私の言ったことは明日から考えて、今日はどうか休んでください」
あたしが頷くと、彼はあたしが使う二階の寝室に案内してくれ、そのまま休むことにした。
考えることはたくさんあるのに、どれも具体的な言葉や思いにならず、画用紙に黒のクレヨンでぐちゃぐちゃと書き殴ったようなものだけが体の内側で蠢いていた。
司ならだいじょうぶ。
無理に考えないで、明日の不安は明日に置いといてもいいんじゃないかな。
心の中で姉の声がし、知らずと握っていた拳が解けた。
疑問に思ったことを書き出しておくのもいいかもしれない。頭の中にあると、いくらでも疑問があるように感じてしまうが、書き出すと案外少なかったりするものだ。そんなことを考えながら、あたしはいつの間にか眠りについていた。
夢を見た。
指のひとつも動かず、開いたままの視界には星が見える。
周りには何人もひとがいる気配がし、何かを言っている。
頭の後ろが生温かいのに、体の感覚はない。
前にも同じようなことがあったような気がした。
自分ではない誰かが、こんなふうに。
こんなふうに……。
目が覚めると、後味の悪さだけを残して、忘れてしまった。
本部モデル:Yelford Manor(改修前)