怯えるひとの子 5
行きの時よりも一層暗くなった道を通り、大きな門扉を開けて自分の本部に帰り着いた。今日は月が見えず、本当に真っ暗だ。暗闇の中で光る、玄関先に灯された明かりがなんともいえない。
玄関から中に入ると、応接間のソファーに凛とした雰囲気を漂わせた女が座っていた。黄緑色の髪と眼を持った彼女は、約三週間前にアレリアから異動してきたエルフのサジタリスだ。
「お疲れさまです。ありがとうございます。残ってもらって助かりました」
そう言うとサジタリスは黙って頷き、ローテーブルの上の書類をてきぱきと片づけはじめた。彼女の眼鏡の奥の視線はいつも厳しいが、決して批判的ではない。頼めばほとんどのことをこなし、万年人員不足の我が隊にとって彼女の存在は冗談抜きで百人力と言えた。さすがは地方司令官の近くにいただけある。
しかし彼、ギダは何を考えて彼女を寄越したのだろうか。
サジタリスは、ギダの家族の墓参りに私が代理で行った時、隣領の森で会ったエルフだった。それがいまから一ヶ月半ほど前のことで、その時に妙な木箱を渡された。その箱はいまも私の部屋のワードローブに保管している。彼女が私の隊に異動すると聞いた時、それは驚いたものだ。
室内には天井から吊り下がった燭台の明かりのほか、ローテーブルの上にランプがひとつ灯されており、暖炉は煌々と焚かれている。マフラーやジャケットを着ていると暑く感じる。私はランタンを隅に置き、マフラーを外してジャケットと一緒にコート掛けにかけた。
「何か変わったことはありましたか?」
逆にロングジャケットの上からストールを羽織っているサジタリスに訊くと、彼女は何かを思い出したように応接間の本棚の左隣にある扉を見た。
「そちらの扉に彼女が入ってから、二時間ほど経ちました」
サジタリスは事務的にこたえる。
「……え?」
何を言われたのかすぐにはわからなかったが、ひとつ間を置いてからその扉に足を向けた。扉の先には二階に上がる階段と、その手前に小さなリビングへ続く扉がある。恐らく階段を上がることはないと思い、右手側にある扉を開けた。
部屋の中は小さなランプがひとつ灯されており、赤いソファーに水色の髪の少女が横になって眠っていた。暖炉が点いていない部屋の中で、彼女は毛布もかけていなかった。音を立てないように近づいて様子を確認すると、かすかに、甘くてさわやかなりんごのような香りが鼻についた。彼女がこの部屋にいることはとても珍しかった。
ソファーに顔を埋め、手でも隠されているのでよくは見えないが、特に変わりないようだ。彼女はすでに寝間着を着ていて、頭巾を被っていなかった。耳の後ろには、一対の白い角が頭に沿って生えている。白い足首が寒そうに目に映った。それからローテーブルには本が置かれていた。
「……眠っていた、のですね」
サジタリスは部屋の入口から、納得したようにコーラルを見ていた。
「そういえばリートは来ましたか?」
ふとサジタリスに訊ねる。リートとは、私の隊の警備隊員である青年だった。サジタリスと同時に隣町から私の隊へ異動してきたのだが、彼は今日本部に姿を見せていなかった。
「いいえ。来ておりません」
サジタリスは表情を変えずに首を横に振った。
「……そうですか。今日はありがとうございました」
昼間のことをアサギから聞いていたので、夜コーラルをひとりにするのが心配になり、サジタリスには本部に残ってもらっていた。サジタリスは会釈すると部屋から出て、玄関へ迷いなく向かったのか、かすかに扉が開く音と閉まる音がした。
私はすぐに玄関へ行くと扉の鍵を閉め、応接間の窓の鍵を確認してからカーテンを引き直した。例の手紙のこともあり、念を入れて用心しなければならない。防犯面ではこの家の立地は危険だろうが、コーラルの精神面では安心につながっていると思いたかった。
私はもう一度応接間の隣にあるリビングへ行き、近頃の心配の種の顔を覗き込んだ。雰囲気から全体的に力が抜けているのがわかる。眠っている時まで、怯えたり苛ついたり悩まされたりしていないことにほっとした。
起こして二階の自室で寝るように促さないといけないのだが、こうしてぐっすり眠っているのを見てしまうとどうにも気が引ける。しかしこの寒い部屋にいては風邪を引いてしまうかもしれない。
そういえばこの部屋からは、彼女の部屋は遠いのだった。彼女の部屋はこの部屋を出て、応接間を過ぎ、赤い廊下に出て、白の回廊からキッチンに入り、そこの階段を上がらなければならない。
さて、どうしたものか。
なんて思いながら、考えていることはひとつだった。
自然と表情が緩む。
こういう悩みなら、いくらでも大歓迎だ。




