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ミネルバ-望郷の町-  作者: 近藤 回
第一章

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怯えるひとの子 3

 ヘイルと別れて色々なことを考えていたら、気づいた時には門扉の前に立っていた。黒い大きな門扉のその向こう、広い庭の向こうに大きな家がどっしりと構えていた。左右に大きな切妻がひとつずつあり、壁には日に焼けて灰色になった木の柱がたくさん並んでいる。その柱と柱の間には白い漆喰が塗られ、きれいな縦縞模様になっていた。ふつうの家よりも二、三倍近くありそうなその家は警備隊の本部のひとつで、第七地区の警備隊の隊長が住んでいた。

 門扉を開け、重たい足取りで玄関へと向かいながら、どうしてこうなってしまったのだろうと体が震えた。リアがいてくれたらと何度思ったことだろう。

 足を動かしていたために玄関に着いてしまい、仕方なく鍵を出して扉の鍵穴に差し込む。右に回してみたが手応えがなかった。唇を引き結び、恐る恐る扉を開けると、ややむせそうな暖かい空気が中から漏れてくる。褪せた赤の漆喰と木の縞々の壁の廊下に一歩足を踏み入れた時、扉のない応接間の出入口から淡い金髪の少年が出てきて、わたしを見ると一瞬驚いた顔をした。

「あぁ、びっくりしました。どうもこんにちは。お買い物の帰りですか? 偉いですね」

 誰にも鉢合わせしないように入ろうとしていたわたしは、焦りで頭が真っ白になった。少年は花のように柔らかく笑いながら数歩近づく。

「こうしてお話しするのは初めてですね。あ、それに名前も……。ノア隊長から聞いているかもしれませんが、僕、トマスと言います。あなたはコーラルさんですよね。あなたも色々と大変ですね。どうですか? こちらには慣れました? あぁ、あなたが本当に羨ましいです。ここに住まわせてもらっているなんて……できることなら代わ」

「誰かいるの?」

 少年の後ろから声がした。すると少年はぴたりと言葉を止め、笑みを浮かべたまま背後に振り返った。

「すみません。彼女、コーラルさんが帰ってこられたので、ご挨拶をしてました」

「あ、おかえり。早かったね」

 応接間の出入口から顔を出した紅い髪の男は、落ち着いた声でわたしに言った。わたしは思わず視線を下げる。彼がこの家の正当な住人である、第七地区警備隊隊長のノアだった。警備隊の制服であるダブルボタンの黒いロングジャケットをいまは着ておらず、シャツの上に灰色のチョッキを着ていた。

 トマスのほうは制服の黒いジャケットを着ていた。ひ弱そうな見た目からは信じられないが、彼は警備隊に属している。顔は整っており、目の上と肩の上で切り揃えられた淡い金髪が錦糸のように揺れている。

「それでは失礼します」

 トマスはわたしの横を通ってゆったりと帰っていった。すれ違った時、香水なのか花のように爽やかな匂いがした。わたしは閉まったあとも床を見ていた。

「何か、言われたの?」

 ノアの気遣うような、すこし躊躇っているような声に、俯いたまま首を小さく横に振る。やや間があってからノアがまた口を開く。

「私の意見を聴きたいだなんて、彼も変わってるよね」

 トマスはここ一週間で何度も姿を見ていた。一週間前にノアに助けてもらったのがきっかけで、感謝を通り越してノアを尊敬しているようだった。

 わたしが黙っているとやがて諦めたのか、ノアは応接間に戻った。わたしはすこししてから顔を上げて、自分の部屋に戻ろうと廊下を歩いた。しかしそこであることを思い出し、はたと足を止めた。再びの焦りが腹のあたりから競り上がり、それを言わなければという気持ちと、言うのが怖いという気持ちに押しつぶされそうになる。言う、ということがこの上なくつらい。

「だいじょうぶ?」

 再び応接間から出てきたらしいノアの声が背中にかかる。足音で来ているのはわかっていたが、焦りは大きくなる一方だった。

「何かあった?」

 言わないと。

 言わなきゃ。

 早く言わないと、また見離されてしまう。

「……ごめんなさい」

 喉が震えて、小さな声しか出ない。

「何があったの?」

 心配そうな声。

「買い物……できなかったから」

「……あぁ、そう、よかった。何か嫌なことがあったのかと思ったよ」

 やっとの思いで口にした言葉に、心底安堵したような声が返ってきた。本当に嫌なことがあったのだが、やはり言えなかった。

「無理しなくていいよ。あり合わせでなんとかするから」

 肩に軽く手を置かれ、わたしは振り向いたあと思わず後ずさった。驚いているような空気をひしひしと感じる。

「……ごめんね」

 本当に申し訳なさそうな声に、体の中がぎゅっと圧縮されていく感じがした。下げた視界に、絨毯の端と木の床と彼の靴が映る。

「……明日、また、行ってくる」

 買い物には行きたくない。本当は外にも出たくない。しかしわたしは居候の身で、だからせめて買い物くらいはやりたかった。これくらいしておかないと、ここにいてもいいと自分が思えなかった。

「そうしたらいいよ」

 それが一番だというように彼は言った。

 わたしは足早に赤い廊下を抜け、窓越しの日差しがまぶしい白の回廊を通り、キッチンにある階段を上がった。二階に上がってすぐ右の扉を開ける。ここがいまのわたしの部屋だった。わたしの部屋は、この家の五つある寝室のうち、二番目に小さい寝室だった。

 この家で唯一気持ちの休まる部屋に入り、扉に鍵をかける。重い足でベッドに向かい、静かにそこへ倒れ込んだ。

 どこかに行きたいのに、わたしには金も行動力もない。行く当てもない。

 学舎に通っていた頃に戻りたい。あの頃は寮にいて、色々な種族の子と友だちになれた。

 あの時の楽しい時間に戻りたい。

 堪えていた目からとうとう涙がこぼれてしまい、枕に顔をうずめた。

「リア姉……」

 わたしを理解してくれたリアは、もうこの町にはいなかった。

第七地区警備隊本部モデル:Yelford Manor

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