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ミネルバ-望郷の町-  作者: 近藤 回
第五章

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報復者の眼差し 2

 午後九時半を過ぎた。

 領主の娘が誘拐されたことが広まったらしく、警備体制が崩れた庭を突破するのは思ったよりも簡単だった。邸から庭、そして塀までの直線距離が一番短いルートを通り、低木に隠れる。周囲を窺ってから塀を上り、足早に向こう側の塀の陰に隠れ、ビンダリー通りへ向かった。

 アレリアの邸はひとつひとつが大きく、庭も広かった。領主邸のように邸までのアプローチが長いところは数える程度しかないが、大抵は塀で庭を囲っている。ミネルバよりも歩きにくいかと思いきや、場所によりけりだ。家の壁が路地を形成しているミネルバのほうは圧迫感があるが、道が複雑なので追っ手を撒きやすかった。

「ちょっと、いつまでそうしてるのよ。背後がガラ空きよ。気づきなさいよ」

 小声で誰かが悪態をついた。あたしは構えることなく振り向く。

 黒髪おかっぱのスリプが腕を組んで、偉そうに立っていた。忍ぶ気がない態度で、頭に生えた角を隠すためにフードを被っている。スリプはシャノンのお気に入りで、スリプはシャノンを崇拝していた。それともうひとり、頭に赤いバンダナを巻いた少年がスリプの後ろで屈んでいた。フックだ。

「シャノン様から聞いてるんでしょ? さっさと教えてあげるから行きなさいよ、おバカさん。待ちくたびれて足が冷えちゃったわ」

 返される言葉にいちいち反応していたら、あたしの心は擦り減ってなくなっていただろう。これほど口やかましい娘の何がいいのかと、前にシャノンに訊いたことがあった。匂いがいい、と要領の得ないことを言っていた。スリプから甘い匂いがするのだという。

「誘拐された者たちはどこにいる?」

「耳の穴かっぽじってよく聴きなさい。すぐそこのハドン通りよ。見るからに怪しげな荷馬車が停まってるわ。ていうか馬を暴れさせて止めたんだけど。目当てのものはそれでしょ。遠くからしか見てないからなんとも言えないけど、用心深く見張りが出てきたから間違いないわ。あのいけ好かない金持ち女が住んでる、胸糞悪い邸に行こうとしていたのよ」

 スリプは吐き捨てるように言った。彼女が健気で甲斐甲斐しい性格だったら、素直に感謝するのだろうが、相手はかなりの捻くれ者で、こちらは相手のことを包み込めるほど大きな心を持っていない。広いことの例えが海なら、あたしの心はせいぜい水溜り程度だろう。誰か彼女に礼儀作法を教えてやってもらえないだろうか。

「お頭、視認できたのは三人だけ。直に馬も平静になるから、急いだほうがいい」

 あたしのことを『お頭』とまともに呼んでくれる数少ない盗賊団員のフックが、ぽつりと言った。見張りを入れて三人が荷馬車の周りをうろついている、ということか。

「ちょっと、フック! いまあたしが言うはずだったのに取るんじゃないわよ!」

「ああ、そう? 悪い」

 スリプの罵声に怯むことなくフックは受け流した。スリプはさらに苛立ちを募らせたようだ。歯噛みをして、顔が凄みを増している。というか、どうして仲の悪いふたりでここに来たのだろう。道中、よく仲違いしなかったものだ。

「ありがとう。行ってくるよ」

 ふたりの様子にすこしほっとしながら、あたしはすぐにでも解決してこようと決意した。周囲を気にしながら足早にその場から発った。

「ちょっと! もう。一応、気をつけなさいよー!」

「いってらっしゃい」

 背中にかけられた声に、思わず笑みがこぼれた。



 意識を集中していた時、周囲のものとは明らかに違う性質の音を耳が捉えた。

 剣戟の響きだ。

 あるところまで来て、足を止める。この先で聞こえる。

 一瞬不気味なほど静かになったかと思うと、重たい何かを吹っ飛ばした音がした。金属が石畳にこすれて転がる音。その金属、片手剣があたしの見えるところまで転がってきた。あの重そうな剣を誰かが蹴ったのだろうか。

「なんだ、とどめを刺さないのか? それは見せかけか?」

 挑発するような声。女の声だ。

 程なくして鈍い音がし、重たい何かが倒れた音がした。馬の悲鳴があたりに響く。

 顔だけを出すと、青年がふたりいた。ひとりは白い制服で、右肩を押さえてやや前のめりの体勢だ。もうひとりは黒い制服で、街灯のわずかな光を背に受けていた。こちらのほうは見覚えのある顔だった。手には剣が握られている。

 青年たちの前にはふたつ倒れた影があった。様子から推測するに、青年のひとりが持っていた剣で倒したようだ。暗い色のローブを羽織っているため、倒れた者の体勢がどうなっているのかわからない。無造作に置いた毛布の影のように見えた。

 誰かが舌打ちをしてあたしのいる路地のほうへ駆けてきた。青年たちのいる場所よりも手前に例の荷馬車があったが、その陰からローブの人物が出てきたのだ。あたしは逃げも隠れもせずに短剣を構え、ローブを着た人物が路地を曲がってきたところで顔を合わせた。

 息を吸った音。女だ。

 あたしが口を開く前に、ローブの女はナイフを振ってきた。

「どけぇっ!」

 冷静にナイフを避け、次にナイフを持った右手を蹴飛ばし、そのまま裏蹴りで女の腹を蹴った。

「うぅ……っ」

 倒れこんだ女からうめき声が漏れるが、気にせずに胸倉を掴んで起こした。

「あなた、誰か刺した?」

 しばらく焦点が合わなかった瞳がはっきりとあたしを見た途端、唾を飛ばしてきた。

「そんなこといちいち覚えてるものか」

「……そう」

 頬を力の限りはたいたあと、腹に一発入れ、そのまま胸倉を離した。このくらいすればしばらくは動けないだろう。

「おまえは……」

 背後からの声に素早く振り向く。数歩先に背の高い青年がいた。

「ああ、やっぱり。彼の部下だよね。こんばんは」

 軽く挨拶をする。ノアの部下だから見間違えない。

「なあ、サイ。このひと、だれ?」

 白い制服のもうひとりの青年が、背の高い青年に訊いた。白い制服の青年の長い髪はうねっていた。あたしは隙を見せないようにして立ち上がる。

「盗賊のお頭だよ」

 こたえた背の高い青年はあたしから目を離さない。あたしは口を開いた。

「今回のことは、あたしたちは何も関係ない。誘拐があったのだってさっき知った。だからこれも、あなたたちに任せるよ」

 地面に倒れているローブの女を足で小突いた。背の高い青年の表情は硬く、ただこちらを見ている。

 あたしは溜め息をつくと、青年ふたりを無視して足早に荷馬車の後ろへ行き、間仕切りの垂れ幕をどけた。暗くて見にくかったが、ひとがふたり、中で倒れていた。倒れているひとりはここの領主の次女だ。金髪にあどけなさの残る面影で間違いない。それからその隣に例の〈メイト〉がいた。中に乗り込み、素早くふたりの状態を確認する。

「なんともない、か」

 ひとまずシャノンが言ったことは達成した。

 背の高い青年が荷馬車の後ろに駆け寄ってきた。タコ髪の青年の姿は見えなかったが、前のほうで「どうどう」という声と馬の荒い息が聞こえた。背の高い青年が少々焦った様子だったので、あたしは言った。

「生きてるよ。見た限り怪我もない」

 それを聞いてか、彼の肩から力が抜けた。あたしは荷馬車から降りた。

「どこに行く?」

 背中に声がかかる。あたしは青年に首だけを向けた。

「彼女と領主の娘を帰すのも、あなたたちに任せるよ。あたしは別に何か盗んだわけでもないから、帰らせてもらうだけ。みんな、来たみたいだね」

 馬車を引く馬の首が向いた通りの向こうから、白い制服の一団が駆けてきた。本当はノアのことも話そうかと思ったがやめた。いずれわかることだ。世間話をする時間はない。

「あ、ムティー隊長だ」

 タコ髪青年の、間の抜けた声。

 あたしはすぐさま来た道を戻り、陰から陰へと渡った。あのふたりは追ってこないようだが、ほかの警備隊では話が通じないだろう。万が一追い駆けられていることを考え、通りを適当に抜ける。色々な邸の敷地内を渡り、とりあえずは先程スリプたちがいた通りに向かった。

 塀から道に下りてすぐだった。

「あ、ねぇ、そこのお嬢さん」

 軽い調子で声をかけられ、心臓が体の外に飛び出しそうになった。

 本当に誰か追い駆けてきたのかと信じられない気持ちで振り返ると、警備隊の白い制服を着た男が余裕そうに立っている。曇っていた空が完全に晴れ、月の光がはっきりと地面に注いだ。その光を受けた男は、不気味なほどその場に浮いた雰囲気を醸し出していた。

「こんばんは」

 男は口角を上げた。冷たい風があたりに吹き抜ける。

「よかったー、会えて。ずっと会いたかったんだよね、キミに」

 陽気な声。シャノンと同じ系統の人物に思え、心臓が高鳴る。笑い方が似ていたのだ。

 満面で、かといって本心から笑っていない部類の、掴みどころのない笑い。

 見れば見るほど、呑み込まれる。

「あなたのこと、知ってる。ここの警備隊の地方司令官のはずだ。何故ここにいる? 領主の相手をしているはずでは?」

「そんなに構えないでよ。何もするつもりはないし」

「保証はない」

「まあ、それもそうか」

 じっと様子を窺うが、男はこちらを捕まえるような挙動を見せない。

「結構変わったかと思ったけど、あんまり変わってないみたいだね。なんか安心したよ」

「話が見えない」

「俺のこと覚えてない? そうか、あれから結構経ってるもんなぁ」

 男はもったいぶるような物言いで、わざとらしく腕を組んで見せた。男の態度には奇怪な印象しかない。ゆっくりと右手を短剣に伸ばした。

「本当に覚えてない?」

 男はもう一度訊いてきた。

「わからない。見覚えもない」

「じゃあ、仕方がない。ガーランド、って覚えてるか?」

「……ガーランド?」

 言われた名前が頭の中で引っかかった。よくよく考えれば、確かに聞いたことがある名前だった。どこで聞いたのだろう。あたしを見知ったような口ぶりも気になる。『あれから結構経ってる』と言っていたのだから、たかだか数年前の話ではないようだ。

「思い出せない? 小さい頃、よく遊んだじゃないか、レイ」

「どうして、小さい時の呼び名を……」

 脳裏にある考えがよぎ、ハッとした。

「まさかっ……生きてたのか?」

 あたしの返答に、男は満足そうに笑って見せる。

「でも、それはおかしい。……何故ならガーランドは」

 記憶の中のガーランドは、金髪で、あたしよりも年上で、いつも優しい笑顔だった。だが目の前の男は自身と年齢がそれほど変わらないように見え、よくないものを含んだ笑みを浮かべている。

「久しぶり。お互いがこんな立場になってから会えるなんて、思ってもみなかったよ。俺もレイが生きてるとは思ってなかったし」

 男は静かにはっきりと言った。それから納得したように何度か小さく頷いた。

「思い出してくれたみたいだから、話を端折れそうだ。キミに折り入って話があるんだよね」

 ますます怪しい雰囲気になってきた。あたしは構えたまま男を凝視した。気候に合わず、汗が頬を伝う。ひとに相対して、これほど緊張したのはシャノン以来だった。加えて幼馴染みらしき男に対してなのだ。何かが酷くおかしい。

「あの邸に侵入したってことは、あれを探しているのか? 例の権利書」

 男の問いに思わず苦笑いが浮かぶ。

「……お見通しってわけか」

 彼はこの領地のすべてを把握しているのだろうか。

「キミが俺の話を聞いてくれるなら、その権利書がどこにあるか、教えてあげるよ」

「何が狙い?」

 この男から出てくる言葉は信じられないものばかりなのに、その気持ちすら食ってしまうような雰囲気だった。得体の知れない男は、さらに耳を疑うようなことを言ってのけた。

「俺と、手を組んでほしい」

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