報復者の眼差し 1
午後九時前。
邸の左側、二階の窓から中の様子を窺う。カーテンの隙間から見える景色に、なんの問題もないことを確認し、外から窓を開けた。二階の窓は細長い窓が縦横に三つずつ並び、一番下の真ん中の窓だけが開閉する。外から開けられたのはあの女が中にいるからだ。敷地内に侵入するのは警備隊がいるとはいえ難しくなかった。夜であることも一因だろう。室内は一年前に入った時と変わっていない。
今日は領主が主催する特別な晩餐会だった。
扉を開けてあたりを窺いつつ、上に行くための階段へと足早に向かう。階段の近くで使用人が話していたが、ひとりはダイニングに、ひとりは階段を下りて行った。好都合だ。あたしは下り階段の反対方向にある上り階段を、音を立てないようにして素早く上がった。あの女とはどこで落ち合えるだろうか。
無駄に広い邸だ。前より色々と増えている気がするが、それほどうろついたわけでもないので本当のところはわからない。手すりの陰に隠れつつ三階へと足を踏み入れた。
急に足音が聞こえ、慌てて近くの扉の向こうに隠れた。しばらくすると近くの扉の開く音がし、足音は石階段を下りて行った。三階を警備している警備隊だろうか。しかし警備隊の動きはいま二階に集中しているはずだ。いまは領主も客も二階の応接間にいるのだから。何かあったのだろうか。
息を短く吐き、静かに物置から出る。扉をひとつ開け、どちらに行こうかと迷ったが画廊のほうに行くことにした。扉を開けるのは必要なことだけに、本当に緊張する。
足音を消しながら広い画廊の窓際を歩き、立ち止まっては耳をそばだてて何度も周囲を確認する。等間隔に置かれた壁の明かりは弱々しく、誰の人影も見えない。逆にそれが恐ろしい。
そのまま画廊の中心へと進み、窓とは反対側のとある扉へと近づく。半分ほどをカーテンが覆っているこの扉の向こうに、領主の書斎があった。あたしはこの書斎か、寝室に用があった。ふと領主の容姿を思い出して、静かに怒りがわいた。二階にいるはずのあの男とその妻を何度も見たことがあった。
何度も、何度も、何度も。
この目にあの男たちの姿を焼きつけた。
胸の内にわきたつ負の感情を、呼吸を整えてなだめる。
あの男には、まだ用はない。
この扉の向こうが情報通りであるように祈らずにはいられない。今日の潜入は思いの外順調で、これを逃せば次にいつここに来られるかわからない。目を細めて、扉を睨む。大事なものを隠すなら、己の目の届く範囲に隠す確率が高い。例の権利書もあの男の部屋にある確率が高いだろう。だがあの領主は捻くれた性格だともっぱらの噂で、この考えは安直かもしれない。
その時あたしの耳に、かすかな音が聞こえた。
咄嗟に屈んで調度品の陰に隠れる。あたしは動きを止めて、必死に音の正体を探った。
ここは三階の長い画廊だ。領主の書斎と寝室以外には、領主の妻の寝室に、書斎の横に大広間がある。それから寝室がもうひとつと、大きな物置部屋があるだけだ。いまここで物音が聞こえたというのなら、この広く長い画廊に音の源があるはずだ。
誰か、いる。
腰につけた短剣を抜き、構える。その場から恐る恐る目を凝らし、薄暗い画廊を見渡した。右斜め前の、四角い出窓のようになっている空間の絨毯の上が黒く見える。すこし経ってから、それがひとであることに気づいた。薄暗い画廊の窓の手前、絨毯の上にひとが倒れているのだ。近づくに伴って鼻腔をついてくる妙な臭い。それは血の臭いだった。見覚えのある倒れた影に、あたしは残りの距離を急いで駆け、その途中で我知らず短剣を取り落とした。
体を仰向けにして、息を呑んだ。
紅い髪の下の青白い顔。眉間に深く刻まれたしわ。見慣れた黒い制服。抜き身の剣が近くに落ちていた。
どうしてノアがここにいるのかは、さして問題ではない。彼は警備隊なのだから、町を越えて警備に来ることもあるだろう。しかしよく見ると、左のわき腹が何かで濡れていた。制服が黒いせいで判断しにくいが、画廊の絨毯にはどす黒い染みが広がっていた。
あたしは必死に彼の頬を叩いた。唸り声が聞こえ、眉間のしわが深くなったあと目が薄っすらと開いた。
「……あぁ、あなたでしたか」
その弱々しい様子に胸が痛んだ。
「このようなところで……奇遇ですね」
か細い呼吸が、彼の末路を暗示させる。何か話しかけたいのに、声が震えてしまいそうだった。ノアの顔が苦痛に歪み、その様子に自身の脇腹も痛くなりそうだった。
「誰に、誰にやられた? 顔は? 男? 女? 格好は?」
「女性、でした。メイドに、扮していたようで、領主の娘と、もうひとり、彼女が攫われました。〈メイト〉の……あなたも会いましたね」
彼女も攫われたのか。
「そうだね。確かに会った」
じわじわと迫る焦りに呑み込まれそうになる。どうしたら彼を助けられるのか、何も思いつかない。盗賊の身であるがゆえに誰かを呼ぶわけにもいかない。いますぐにでも誰かを呼ばなければノアは恐らく助からないだろう。
死なれては困る。
「もう話さなくていい。いまはとにかく助かる方法を」
必死に考えた。咄嗟に握ったノアの右手が酷く冷たい。
「……いいんです」
ノアは静かに目を伏せた。
「報いを受ける時が、来ただけ、ですから。行って、ください」
途切れ途切れに、苦しそうに彼はつぶやいた。それきり意識がなくなったのか、彼の体から力が抜けた。
誰が、誰がそんなことをするものか。このひとだけは、絶対に死なせたりしない。
これ以上の探索は諦めよう。いまは目の前の命を救うことを最優先で考えなくては。
「どうしたんですの?」
余裕のある、聞き覚えのある声に、あたしは顔を上げた。
黒髪に赤い眼の女が、近くに立っていた。いつの間に、どこから、という疑問を抱くのは野暮だ。この女は神出鬼没の魔族であり、あたしたちの盗賊団『北の魔女の蛇』の、本当の頭領である。あたしは縋る思いでシャノンを見上げた。
「刺されたんだ。血が流れ過ぎてて、止血もできてない。このままだと確実に……」
もう彼女しか頼れる者はいなかった。黒いドレスの魔女は、あたしの隣で屈み込むと彼を見る。
「あら、この方……あの家の主ではありませんか」
シャノンはノアの顔を覗き込むと納得したように頷いた。
「そう。わかりました。手を尽くしますわ。安心なさい」
「ありがとう」
「それにしてもこの方、何もしなかったのですわね」
「……どういうこと?」
あたしは訝しむ。
「魔族でありながら己が力を使わなかった。術を使わなかった、ということですわ。痕跡がありません」
彼が魔族であることには随分前から気づいていた。だが術を使ったところは見たことがなかった。それは彼の周りの人物たちも同様らしく、何より彼は自身が魔族であることを隠しているようだった。人間以外の種族にとっては、とてもではないが住みたいとは思えないこの領地に住んでいるのだから、素性を隠すのは当然だろう。おまけに魔族というのは、いい噂をほとんど聞くことがない。現に目の前にいる魔女に対して、あたしは感謝こそすれ、信用はしていない。彼の頑なな姿勢は、命に関わるような出来事があったとしても変わらなかった、ということか。単にその機を逃しただけかもしれないが、本当なら異常ともとれる姿勢だ。
あたしは腹を決め、立ち上がった。自分の手に血がついていた。
「ライラ、予定を変更してください」
シャノンに向き直ると、彼女はノアを見つめたまま話した。
「今夜の予定は白紙に。攫われた者たちを追ってください」
「……わかった」
久々に腹が立って、絨毯を蹴った。
「あまり手を出してはいけませんよ。警備隊の方々に渡してしまえば済むのです。わたくしたちが裁かずとも、向こうで裁いてくださいます。手間が省けますわ」
シャノンはずる賢く口元を歪めた。いつ見ても肝が冷える笑みだ。
「ですから、あなたが攫われた者たちを見つければ、おのずと相手のほうから姿を現してくるでしょう。ビンダリー通りに行きなさい」
「……わかった」
あたしは窓のほうへ行き、鍵を外して開ける。通路のずっと向こうから、かすかに物音が聞こえた。十中八九警備隊だろう。これで彼が助かる可能性が高くなった。シャノンは見つかっても適当に言い訳を繕って逃げるだろう。まったく心配ない。
「ライラ。忘れ物ですよ」
振り返ると、先程取り落とした短剣をぽーんと放られた。悲鳴を上げそうになったがなんとか柄の部分を掴む。
「行けば、スリプたちの居場所もきっとわかりますわ。気をつけて」
「わかった。ありがとう」
とりあえず短剣をホルスターに仕舞っておこう。と、シャノンが明るく言った。
「だいじょうぶ。あなたの愛しいひとは、必ず助けますわ」
「!?」
鎌をかけられたとわかったのに、思わずたじろいでしまった。
あたしは急いで窓から外へと出た。三階だったことを思い出して慌てたが、すぐに階下の建物の出っ張りに掴まった。なんとかして、そのまま地上に下りた。




