異邦人の動揺 1
うすぼんやりとした意識が閉じた目蓋の裏にあった。
浮いたり沈んだり、何かでゆっくりとかき混ぜているような揺らぎの中で、いつからか音が断片的に聞こえてくる。
「このメモ、――に訳してもらえないかな」
「――」
すこしくぐもって聞こえるそれは、よくよく聴いてみるとひとの声だった。
「――もしかしたら、君と同じところから――だとしたら私の書いた字は――メモを置いていく意味が――」
「――」
ふたりのひとが話をしているようだった。片方は頑なな態度で拒否している。
「どうしても?」
「――」
「わかった」
何かを頼んでいたほうは折れたのかそれ以上声はしなくなった。
あたりが静かになり、気まぐれな揺らぎがなくなると、意識はまた深く沈んでいった。
*
「大変だっ!」
「……?」
大きな音がして、あたしは目が覚めた。
青いソファーの上、毛布のかかっていた体をゆっくりと起こして何度か瞬きをしていると、部屋の入口に見知らぬ青年が立っていた。
「……え」
その恐ろしい事実に気がつき、遅れて頭の後ろが冷たくなった。
「えっ……だ、誰っ!?」
声が震え、毛布を握る手に力が入る。
見知らぬ青年は腰に手を当てると仕方がなさそうに目を細めた。
「それはこっちの台詞だ。つっても、だいたい察しはつくけどな。なんて間の悪い……。おまえ、いま起きたのか? 誰かいなかったか?」
「え……えっ」
「だから落ち着けって。俺はサイラス。この町の警備隊員だ」
黒い服を着た、短くまとまった明るい茶髪の青年は自身の胸を叩いた。
「おまえの名前は?」
「あ……」
訊ねられるが、頭が真っ白になっているせいなのか思い出せない。
「だから落ち着けって。俺は少なくともおまえの敵じゃないし、何もしない。だから教えてくれないか。この家で誰かに会ってないか?」
あたしがぎこちなく首を横に振ると、サイラスは仕方なさそうに溜め息をつく。
「そうか。まあ家に鍵がかかってた時点で気づくべきだったな……なんだ? それ」
サイラスは、あたしの目の前にあるローテーブルの上の何かに気がつくと、近づいてそれを持ち上げた。近くで見るサイラスは結構背が高い。
「なるほど。ノアさんのメモ書きか。ほらこれ」
と言って、そのメモの重しになっていた、持ち手がクローバーの形の鍵を差し出してくる。
「自分たちは見回りに行ってくるから、この家の鍵を置いていくってさ。好きに使ってくれって」
言われるまま鍵を受け取るが、ローテーブルに戻されたメモを見ると、曲線が踊っているだけでまったく読めなかった。あたしはますます混乱して、ここから出してくれと叫ぶように心臓が鳴った。
ここは、どこだ。
目が泳ぎつつも、周りを観察しはじめる。
この部屋は、三人は座れそうな青いソファーが向かい合わせで置いてあり、リビングのようだった。左手側に大きな窓があると思ったが、菱形の枠が入っている縦長の窓が横に四つ並んでいた。蔦模様のカーテンが端に寄せられ、外に広がる庭がよく見える。外国の町並みを写した写真集の中でしか載っていなさそうな内装で、右手側には立派な暖炉があった。ソファーの後ろにある本棚は天井まであり、本がぎっしりと詰まっている。その本棚の左隣には古そうな焦茶の扉があった。
目の前のローテーブルも、ソファーの後ろにある本棚の前にある机も、ほかにも何かと彫り物がされていて、手間のかかっている家具や調度品ばかりだ。
ここは、違う。自分の家ではない。それだけはわかる。
あたしは縋るようにサイラスを見上げた。
「ねぇ、ここ、どこなの?」
サイラスは真面目な顔でこちらを見下ろす。
「たぶん言っても信じないだろうから、俺は言わない。ただ、ノアさんが帰るまでこの家にいたほうが、ほかのところにいるより安全だ。それだけは言える」
「誰なの? そのひと」
「ノアさんは俺の隊の隊長で、ここに住んでる。世話好きで優しいひとだから、出掛ける時もきっとおまえを起こさなかったんだろう。紅い髪だから、見たらすぐにわかる」
紅い髪、と言われ、頭に一瞬針で刺したような痛みが走る。何かを思い出しそうになったが、いまいちはっきりしない。
「悪いが俺はこれから町に戻る」
「え、どうして?」
「町に盗賊が出て大騒ぎなんだ。おまけに湖のほうでは魔物が出た。だからノアさんたちを呼びに来た。いないなら一刻も早く町に戻らないと。〈メイト〉が来た日にこんな騒ぎが起こるなんて、間が悪すぎる。こんなことなら、用事なんか別の日にすればよかった」
そう言うやサイラスは踵を返し、部屋の入口から出るとすぐに左に曲がった。あたしの座るソファーからやや離れた場所に入口があり、扉代わりのカーテンが端で括られていた。その向こうには廊下の壁らしき空間が見える。
程なくして扉の開く音が聞こえたかと思うとすぐに閉まり、大きな窓の向こうの黒い影があっという間に小さくなっていった。
一瞬、嵐が去ったような感覚になったが、すぐさま不安が押し寄せた。心臓の音が耳に張りついたみたいにうるさく、息が浅くなる。
ふと横を見ると見慣れたショルダーバッグがソファーの端にあり、咄嗟に手繰り寄せた。中は貴重品などが入っている。見慣れないものに囲まれている中で、それは唯一の見慣れたものだった。
震えそうな奥歯を噛みしめて止める。
ここから……ここから出ないと。
わいた焦燥感に突き動かされ、あたしは無我夢中でこの家から駆け出た。