魔女の挨拶 2
長い橋を渡り終わり、町中へと入った。
ミネルバと違って土地が広大だった。あるいは住人の数が少ないのか。どこからどこまでがひとつの土地なのかわからない。視線の先に大きな家が建っているのが見え、どの家を見ても屋敷レベルの建築物だった。ミネルバのように家と家がくっついているような建物はまったく見当たらない。
時刻は夜の七時前。空は真っ暗で、馬車につけられた明かり以外に見える明かりは少ない。
馬車が停まった。
簡素な四角い建物を向こうに見据え、あたしたちは門扉の前で馬車を降りた。敷地内はかなり広い。整えられた広大な庭には、ひとの背丈以上の生垣の道があり、建物まで続いていた。昼間に降った雨のしずくが敷き詰められた芝に残っているのか、ランタンや窓から漏れたかすかな明かりを受けてきらきらしていた。
あたしはこの日のために紺の正装のようなものを着ていた。小柄な男性用の正装で、髪は首の後ろで結っていた。
邸の後ろというよりは横に位置している裏の門扉の前に行き、白い制服の警備隊に素性確認をされたあと歩いて領主の邸に向かう。来賓は表の門扉を通って邸前で馬車を降りるようだ。明かりを持った白い制服のひとたちが生垣の道を行ったり来たりしており、手や腰に槍や剣を持っていた。
ランタンを持つサイラスを先頭にし、向こうに見える邸の明かりを目指してあたしたちは歩いた。サイラスの腰にはあの日あたしが持って帰った剣が下がっているのだが、もうひとつ、短剣もついていた。ノアのほうも剣を持ってきていて、腰のベルトから吊っていた。
「ここって、領主のお邸、なんだよね?」
馬車から表の様子を見たが、本当に広い敷地だ。ふつうの家が何軒建つだろうか。
「ああ。ニエジム領の領主の家さ。この邸みたいに、領主の人柄も立派だったらよかったんだけど」
あたしはサイラスの言っていることがよくわからず、彼を見返す。
「領主は、人間以外はこの領地に住むことを嫌がってるんだ。〈メイト〉も人間じゃないって思ってる。どこの領地も確かに人間が多いけど、それだけだ。色々な種族がいてふつうなんだ。それを排除しようとするのはおかしいんだよ」
「サイラス。そのくらいにしておいたほうがいい」
ノアは歩きながら周囲を窺っていたが、主にすれ違う警備隊員に対してのようだ。アレリアでは警備隊の制服は白らしい。ミネルバは黒なので、一目でミネルバから来たことがわかる。見張られているような気がして、胸焼け具合が酷くなってきた。
「そうですね。すみません」
サイラスはすぐさま表情を引き締めた。
「その領主って、どれくらい偉いの?」
あたしは話を変えた。それにはノアがこたえた。
「領主は領地を治めるひとですから、その領地では一番偉いですよ。ニエジム領の領主はオスバル・ミドエ氏です。領主は領地の規範を作ります。大抵はすでに決まっている規範に倣いますが、この領内では人間以外を締め出そう、というようにしたければそれができてしまう。もちろん限度はありますが、独善的になるのは否めません。そこで、警備隊の存在が重要になってくるんです」
「警備隊が?」
後ろを歩くノアを見ると、彼は頷いた。
「警備隊は、表向きは領内の警備と防衛のためですが、裏向きの理由は領主の権威に対抗するためです。警備隊だけは、領主の決めたことを無視してもだいじょうぶなんですよ。警備隊の役職で領主と対等の立場にいるのが地方司令官なんです」
「へー、地方司令官ってそんなにすごいんですか」
「はい。すごいんですよ、……本当は」
ノアは含むように、引きつった笑みを浮かべる。あたしは苦笑いをして前に向き直った。
前から気づいていたが、警備隊は男ばかりで女の隊員をほとんど見かけない。ミネルバに来た当初に見た獣人の女くらいだった。
ようやく建物の側面に着いたので左に曲がって裏に回る。三階建ての頑丈そうな建物だ。邸の外には彫刻などの装飾は見当たらない。全体が石造りの大きな邸で、それでいて石よりも窓ガラスのほうが多く配置されているように見えるデザインだった。格子のはまった大きな窓からはぼんやりとした光が漏れていた。一階の真ん中のほうは内側に抉れた造りになっていて、二階の床の部分が屋根代わりになり、それを八本の柱が支えていた。太さはあたしが腕を回しても届かないくらいはありそうだ。左手の端に、小さな裏口があった。
その裏口の前に立っていた警備隊員が槍を持ったまま駆けてきた。あたしは怯んで後ずさり、サイラスの後ろに隠れた。
「サイじゃん! 久しぶり。元気だったか?」
男は、いや青年は満面の笑みでサイラスに話しかけた。
「あ、ああ! リートか! 驚いた。おまえ、こんなところにいたのか」
「まあね。担当地区でもないのに駆り出されちゃったよ。こんな盛大にやんなくてもいいのにさ。ムティー隊長もソックも文句言ってたし」
青年は茶目っ気たっぷりに身振り手振りを交えて話した。薄紫の長髪は波打ち、首の後ろで縛っている。毛質がタコの足みたいだ。
「あれ、この子、だれ? もしかして例の〈メイト〉?」
青年があたしに気づいた。浅黒い肌の彼は、ひと懐っこそうにあたしを見ている。
「ああ、そうだ。ツカサっていうんだ」
サイラスはあたしに首だけを向けた。
「こいつはリート。アレリアの警備隊員だ。偏見は持ってないから」
あたしはおずおずとサイラスの後ろから出た。
「どうも」
「ども。よろしくー」
リートは嬉しそうにこたえた。つり目だがとても愛嬌のある青年に思えた。リートはノアにも挨拶した。
「ラグさんも来てくれたんですね。どうもです」
「ああ、うん。呼ばれちゃったからね。いつもご苦労さま」
「もしかして司令官にですか? そういえばさっき会いましたよ。すっごい楽しそうでした」
「ああ、そう。楽しそう、ね」
ノアは諦めたように目を逸らした。それほど嫌らしい。
「なんだなんだ。失礼だなぁ、その態度。折角呼んでやったんだから、もっと嬉しそうな顔をしてもらいたいな」
と、また別の男の声がリートの後ろから聞こえた。裏口のほうだ。なんだろうと目を細めていたあたしは、その声の主の顔を見て口が開いてしまった。
「あなた……っ!」
相手は、前にミネルバで会ったガーランドだった。
「言った通りだろ? すぐに会える気がするって」
金髪金眼の青年は、リートと同じ警備隊の白い制服を着て、ニコニコと音が出そうなほどの笑顔で近づいてきた。眼鏡をかけていないと思ったが、上着のポケットに差さっていた。
これはいったいどういうことだろうかと瞬きを繰り返していたら、金髪の彼は右手を差し出してきた。
これは、握手、だろうか。
ガーランドの顔と手を交互に見て、あたしは右手を出そうかどうか迷った。迷った末におずおずと右手を出すと、彼の大きな手がそれを包んだ。とても温かいが、硬くてがっしりしている。
「これ、どうしたんだ?」
右手の包帯に気づいたガーランドが訝しむ。あたしがこたえずにいると何かを察したのか、仕切り直すように笑顔になった。
「来てくれて嬉しいよ」
とりあえず握手したが、あたしの手を労わってか強くは握られなかった。しかしいつまでも手が離れない。不思議に思っていると、ガーランドはごく自然な動作であたしの背に両腕を回した。目の前が彼の制服の白い生地で覆われる。突然のことで体が固まった。
「ちょ、ギダっ!」
そこから開放してくれたのはノアだった。彼はあたしからガーランドを引き剥がすと、呆然としているあたしを後ろにしてガーランドを睨んだ。
「何やってるんだ! 驚いてるじゃないか」
ノアの真剣な雰囲気に対し、ガーランドはくるりと目を回して疲れたように口をへの字に曲げた。
「あーあー、はいはい。すいませんね。嬉しかったからつい」
「君に限って、つい、でやっていいことなんてほとんどないだろう」
「相変わらず頭が固いな。そんなんだからいつまで経っても女ができないんだ」
「余計なお世話だ」
「俺は興味ない女にこんなことしない。興味があるからしてるんだ。邪魔をしてもらいたくないんだけど」
「前はとっかえひっかえしてた奴がよく言うね」
「理由があったからな」
「理由があってもしていいことじゃない」
「彼女は別枠だ。さっきも言ったように、おまえに邪魔される謂れはないはずだ」
「私は君の邪魔をしてるんじゃなくて、ツカサさんを守ってるんだよ」
言葉の応酬が展開されたあと、ノアとガーランドはしばらく黙って睨み合っていた。胃が萎縮するほどの沈黙のあと、やがてノアが厳しい顔で溜め息をつく。
「いい加減にしてくれ、ギダ。これ以上地方司令官として相応しくない行動をしないでくれ」
ノアの冷めた声に、ガーランドはただ肩をすくめてみせる。先程から気づいていたが、ノアは金髪の彼のことを『ギダ』と呼んでいないだろうか。
ガーランドは改めてあたしを見ると、かしこまってお辞儀をした。
「地方司令官としては、初めまして。この度〈火前の月〉にニエジム領土警備隊、地方司令官の任を拝しました、ギダ・オーク・アイラルと申します。駆け出しの新米ではありますが、どうぞお見知入り置きを。二十六歳、人肌恋しい独り身です」
最後に要らぬことを付け足し、何かを期待するような視線を向けてきながら彼は自己紹介をした。〈火前の月〉とは、確か年がはじまって二番目の月で、向こうでいう二月になるだろう。いまは〈風後の月〉、年がはじまって十番目の月なので、就任して九ヶ月目ということになる。確かに新米だ。
「やっぱり会ってたんだね。ツカサさんと」
ノアが胡散臭いものを見るようにギダを睨む。
「ああ。おまえに会った日の帰りにさ。いやー、偶然ってすごいよな」
ガーランド改めギダは機嫌よく返す。ノアと表情が正反対だ。
「あ、そうだ。あの時はありがとうございました」
サイラスが思い出したように、ギダに礼を言った。ギダは気にするなというように、軽く手を振って見せる。
「まさかとは思うけど、ツカサさんを呼び出したいがために、私たちを呼んだんじゃないだろうな?」
ノアが怪訝そうに訊ねると、ギダは、おみごと、というように手を一回鳴らした。
「さすがノア。察しがいい」
「ふざけるな。君はそうやって気軽にひとを呼びつけるが、君の言葉にどれほど影響力があるのか自覚しているのか。一言一句、一挙手一投足、気をつけなければいけない立場だろう」
「そんなこと言っても、俺まだ新米だし。こういう立場って、先陣切って行くのが当たり前だけど、ある程度は下から支えられないと成り立たないんだぞ。まったく、心が狭いな、おまえは」
ナンセンス、とでも言いたげにギダは片目をつぶってみせた。
「ほかならぬ君が、狭くする原因を作ってるんだろうが」
ノアが不気味なほど静かに反論した時、サイラスが困りながらも仲裁に入った。
「ふたりともやめてくださいって。ここ入口だし、迷惑になりますよ。それに」
と言って、サイラスはあたしを見る。
「まだ調子、悪いんだろ?」
彼の言葉に、ノアが慌ててあたしを見た。
「すみません、気がつかなくて。中で休みますか?」
表情がいつもの穏やかなものに戻っていることに安堵しつつ、あたしは首を横に振った。
「まだ外にいたいというか、外を歩いていたいんですけど……」
あたしとノアとサイラスとリートが揃ってギダを見た。
「ああ、じゃあこれ、つけといて。身分証だから。歩き回りたいなら、警備の関係もあるから裏庭だけにしてくれ。キミにはあとで頼みたいことがあるし、すぐ戻ってきてもらえると助かる」
何を頼みたいのか疑問に思いつつ、ギダは四センチくらいの長方形の金のバッジを渡してきた。服の襟につけるようで、それをノアとサイラスにも渡した。
「ギダ。ちょっと訊きたいことがあるんだ」
落ち着きを取り戻したノアが言った。ギダが顔を向ける。
「なんだ?」
「あの木箱のことだよ。墓石の名前のこともだ」
「ああ、それか。訊かれると思ったよ。そのことだけど……」
ふたりは話しながら邸の中に入り、サイラスがそのあとに続いた。リートは引き続き裏口付近の警備に戻った。あたしは建物の中には入らず、その外側を歩く。ある程度離れた時、ほっとしたあたしは空を見上げた。
馬車でサイラスが言っていた、地方司令官のことをうまく説明できないこと、地方司令官が苦手なことを、あたしは身をもって理解した。彼はミネルバで会った時と変わらず行動が突飛で、いまさら顔が熱くなってきた。風が冷たくて本当によかった。
領主邸モデル:Hardwick Hall




