化石の魚 5
宿泊先にようやく帰り着き、ノアに続いて中に入ろうとした時だった。
「ああ、行くの? 気をつけてね」
ノアは入口の扉の前ですれ違った誰かに声をかけ、そのまま中へと入っていった。
相手はアサギだった。彼はこれから外に出るようだ。コートのポケットに手を突っ込み、ほの暗い視線は声をかけられても上がることはなく、いかにもじめじめした雰囲気である。
「あ、ねえ」
あたしは珍しく声をかけた。あれだけ勇気がいると思っていたのに、いとも簡単に声が出た。
アサギはちらりと目を向けただけで、そのままあたしの横を通り過ぎた。扉の前で止まったあたしは、そのまま引きずられるようにアサギを数歩追った。
「ねぇ、ちょっと」
足早に去ろうとする彼を呼ぶが、止まりそうもない。あたしはむかついて、走って追い駆けるとアサギの腕を掴んだ。
「ねえってば!」
アサギはようやく止まってこちらを見た。口を引き結んで、表情は見受けられない。二、三度瞬きをすると、ようやく口を開いた。
「……なんの用ですか」
「あのねぇ、呼び止めてるんだから止まってよ」
あたしは手を離し、咎める。
「あなたに呼ばれたら、止まらなければいけないんですか」
アサギは青い目を細め、口調にはすこし棘があった。あたしはますますむかついた。
「ねぇ、どうしてあたしを無視するの? あたし、何かした? したなら言ってよ」
「……別に何も」
アサギは目を伏せる。言いたいことがありそうなのに、この態度だ。
「嘘よ。はっきり言ってよ。あんたって本当に無愛想ね」
「僕は別に、あなたに用はありません。あなたと話したいとも思いません」
いったいなんなのだろう。
いったいなんの恨みがあってあたしにこんな態度をとるのだろうか。
「――思い出した」
その時、何故それを思い出したのかわからなかった。
「あんたのサユラって名前、ニュースで聞いたんだわ」
あたしはそれを迷わずに口にした。アサギの表情が本当に消えたことにも気づかずに、感情のまま言葉をぶつけた。
「どおりで聞いたことがあると思った。同じ〈メイト〉なのに、なんでなんにも教えてくれないのよ。面白がってるの? あたしが不安で心細い思いをしているのに、それを面白がってるなんて最低ね」
確かにあたしは、『サユラ』という音を聞いた。耳で聞いただけだが、ニュースで言っていたのは間違いない。それがアサギと関係があるのかはわからない。しかしあたしは、いったい、いつ、そのニュースを聞いたのだろうか。
そう思った途端、なんとも言えない不安が腹の底からわいた。
「それ以上、口を開くな」
アサギは目を見開き、押し殺した声で言った。あたしは息を止めた。
「笑わせないでください。面白がっているのはあなたたちのほうじゃないですか。僕がどれほど苦しんできたか知らないくせに。あなたに僕を責める権利なんてありません。あなたなんて、来なきゃよかったんです!」
アサギは憎悪をむき出しにして、何かを我慢するように拳を強く握っていた。血の気が引いたあたしは後ずさった。するとアサギは顔を背け、どこへともなく歩き出そうとした。
取り返しのつかないことをしたと気づいた。
「あ……っ」
我知らず右手を伸ばした。こんな状況で、それでも引き留めようとしたのかもしれない。しかしすぐに掌に焼けるような痛みを感じ、手を引き戻した。
掌を斜めに線が走り、血が、流れていた。
熱い。
赤い。
血が、血が止まらない。
「アサギ!」
ノアの叫び声が聞こえた。戻ってきたのだ。駆け寄ってくる足音が聞こえる。
掌の痛みにすべてが集中して、視界がぶれた。足の力が抜ける。目の焦点が定まらないが、見上げると、黒髪の青年が青白い顔で、信じられないというように目を見開き、こちらを見下ろしている。
彼の手には、刃がむき出しの短剣が握られていた。
ああ、そういうことか。
「何してるんだ!」
ノアの声が遠い。耳に蓋がついているみたいだ。
掌が心臓になったみたいに、脈打っていた。痛さが寄せて、引いていく。
心臓の音というのは、こんなにうるさかっただろうか。
ああ、ああ。
掌から、視線を逸らせない。
無意識に、左手で頭を押さえた。
血が止まらない。
血が、止まらない。
頭から血が止まらなかったのは、誰だ?
血が止まらなかったのは、止まらなかったのは。
階段から落ちた、姉だ。




