20、関われなかった時間
* 風後の月(10月)、16の日 / Emma
「司が!? 踊り子をやったのっ!?」
「はい。僕の知り合いがしつこく誘ってました。でも色々とあって演奏会が中止になって、司さんが踊ることはなかったです」
広い喫茶店の一角で、わたしはコーラルと、警備隊員で演奏会参加者であるアサギとテーブルを囲んでいた。
年に一度の鎮魂祭で開かれる演奏会を聴きに来ないか、というコーラルからの手紙の誘いにのり、今日は昼からミネルバを訪れていた。演奏会は夜にあるので泊まりがけで遊びに来たらどうかとも提案され、わたしも彼女に会いたかったのでお言葉に甘えることにした。
昼過ぎに着いた第七地区警備隊の本部でノアに挨拶をした。泊まることへの厚意に感謝しつつ、コーラルとノアの、前よりも近くなった自然な距離感が、端から見ていてまぶしかった。
諸々の準備をしてコーラルと共に町へと繰り出す。家々の玄関には白い花束が飾られ、行き交うひとびともどこかそわそわしているような雰囲気だった。そんな折、この喫茶店で司令官とばったり会い、わたしに不安を残して彼は帰ってしまった。気持ちを落ち着けようと店内に戻り、コーラルたちと話しはじめていまに到る。
「なんか意外だったわ……」
わたしが家族と離れ離れになったのが十五歳で、妹は十四歳になる年だった。その頃の印象が強かったので、表舞台に出ることが苦手だった妹がまさか演奏会の踊り子をやろうとしていたとはとても信じられなかった。誘ったひとの言葉が巧みだったのだろうか。それとも余程押しが強かったのだろうか。そういえば妹の手帳に、面倒なことを引き受けてしまったが背に腹は変えられない、と書かれていたことを思い出した。
「でもどうして演奏会は中止になったの?」
素朴な疑問に首を傾げると、左斜め前、右斜め前と個々の席に座っていたコーラルとアサギが、どうしよう、というように見合った。何か訊いてはいけないことだったのだろうか。
「それが、司さんは、町で〈メイト〉を毛嫌いするひとに攫われてしまって、それで彼女を捜すためにやむなく中止になったんです。騒ぎになりましたがなんとか見つかりました。ただ攫われた時に頭を強く殴られたみたいで、痛そうにしていた時がありました」
無表情のアサギが淡々とこたえる。今日は長い上着にチュニックとズボンと、町のひとたちと同じような格好だった。五ヶ月前のコーラルの結婚式で見かけた時と違い、黒い髪は指通りがよさそうなほどさらさらになっていて、その変わりように気づいた時、思わず二度見してしまった。
「それやったの、わたしの知り合いで……」
浮かない表情のコーラルが話を継いだ。
「わたしの知り合いが怪我させたの。気に食わないからって攫って……何考えてるのか、ほんとわかんなくて……」
「コーラル、そんな顔しないで」
言うと彼女は首を横に振る。
「わたし、あいつのとこに行って、殴り合いになって、でも火事になって、家燃やしちゃって……。そのあと混乱して魔物も呼んじゃうし……リア姉にも怪我させちゃって……」
「いいよそんな、無理して言わなくていいから。そんな、そこまで責任、感じなくていいよ」
断片的な話でもわかる。コーラルにとっては一年前の鎮魂祭のことが負の記憶として連鎖的に残っているのだろう。話題にするべきではなかった。
「僕もそう思います。リアも随分元気になってましたし、コーラルは悪くありません。反省があるとすれば僕のほうです。僕も司さんに怪我をさせてしまったことがあるので」
「え? そんな、えっと、別に無理に言おうとしなくてもいいから、ね?」
コーラルもアサギも気まずそうに肩を落としている。
「司とのことは、ちゃんと決着がついてるならわたしに言うことないわ。わたしが何を言ってもあの子の言葉にはならないし、あの子の出した結論でもないから」
司がここで何を思って、何を感じて、何をしたのか。わたしには知りようがない。図らずも辿った妹の足跡は、まるで他人の噂話を聞いているみたいに自分の中に馴染まない。
七ヶ月前にミネルバを訪れた時もそうだった。コーラルとスリプの三人で喫茶店に入った日、わたしはノアとも司のことを話していた。ノアは司がミネルバでどのように過ごしていたのかを教えてくれた。警備隊の手伝いとして居候し、家の中や庭を掃除したり、迷子の犬を飼い主に届けたり、隣領のエルフの森にまで行ったり。アサギとのことは聞かなかったが、ノアが意図的に伏せたのだろう。時折この世界のことを教えると司は驚き感心して、その素直な反応を見るのが楽しかったと言っていた。けれどその話が終わりになる頃、彼は後悔を口にした。もっと妹のために何かできたのではなかったのか、と。わたしは否定するしかなかった。
他人から聞く司のことと、自分の中の妹の印象にズレがあり、わたしが関われなかった空白の時間を強く感じた。一ヶ月の間、直に触れて共に過ごせた時間にはズレも違和感もなかったのに、誰かの口から語られる妹にはどこにも懐かしさがない。わたしが関われなかった時間に関われた他人に嫉妬しているのか、あるいは認めたくないのか。
わたしのほうが後悔している。
妹と離れ離れになったことを。
関われなかった時間があったことを。
妹の手帳にミネルバで過ごした日々のことが簡略的に書かれていても、妹を知るひとから話を聞くたびに書かれていないことのほうが多いと痛感させられる。手帳は日付があとのほうになるほど書かれていることが少なかった。
やがて時間になり、重たい雰囲気のまま演奏会の舞台のある湖の公園へと向かった。近頃は日が落ちると途端に寒く、そろそろ厚手の上着が必要になる。湖に近づくにつれて食べ物を売る露店というのか、恐らく家の中から出してきたテーブルや椅子が道端に増え、露店なのか彼らの席なのか一見しただけでは判断がつかない。熱気とにぎわいを肌に感じた。
横長の舞台は湖側を背にして木の板で組み立てられていた。演目によって演奏家たちが上がったり、踊り子たちが上がったりする。アサギは演奏家のひとりで、横笛を担当していた。舞台からやや離れたところで待機するアサギたちに露店で買った飲み物を持っていった。紅茶にすこし酒が入っている温かい飲み物だった。カップはあとで返却しなければならない。
「そういえば司さんは、帰りたいって言ってました。向こうに帰りたいって。あなたも帰りたいですか」
唐突な質問に戸惑う。何故そのようなことを訊くのかと思ったが、曇りのない眼を向ける彼はきっと同じ〈メイト〉として、わたしがどのようなこたえを持っているのか純粋に聞きたいのだ。
そうだ。
もう〈メイト〉は、わたしと彼しかいない。
「わからない。帰りたいとも思うし、……帰りたくないとも思ってる。でももうわたしたちは帰れない。だからこの話をするのは……」
「……そうですね。余計なことを言いました」
話しぶりから、彼は帰りたいと思っていないようだ。わたしがこちらに来たのと同じ頃に彼は来たらしく、同じくらいの期間を別々の町で過ごしてきたとはいえ、彼のほうがこの土地に、空気に馴染んでいるように思えた。
「では、僕たちが今後どうなるのかもあまり話したくないということですね」
「……ええ。だって、決まり切ってるもの。わたしたちは、いつまで生きられるのかわからない」
最本部の庭で気を失って以来、体の著しい不調はなかった。体内にあるという魔力が尽きて、いつ体が弱っていくのか。恩人であるシャノンですら確かなことはわかっていなかった。司令官に病を患っていることと同じことだと諭されても、この不条理を嘆く思いは癒されない。七年もの間、そしていまも積もっている、この嘆きは。
「そうみたいですね。それならなおさら、後悔をしない道を、やりたいと思うことをやったほうがいいと思います。あなたはどこか無理をしているような、遠慮しているような気がするので」
どきりとした。今日までほとんど会話をしてこなかったはずの、隣に立つ無表情の黒髪の青年に、誰よりも見透かされた気がした。
「でもあなたが羨ましいです。僕は取り繕うのがとても下手で、周りに馴染めなくて、向こうでも除け者にされていました。だからノアさんに会ってなかったら、きっと生きていなかった」
すこし離れたところにいて別の演奏家たちと話していたコーラルがこちらに駆けてきたかと思うと、そろそろ開演の時間だとアサギに知らせた。
「これ、ありがとうございました」
アサギは飲み物のお礼を言うと、ほかの演奏家と共に自らの椅子を持って舞台に上がった。演奏家たちが音合わせをはじめ、目と目を合わせると唐突に演奏会がはじまる。あたりは波が引くように静まり、ひとびとは思い思いに耳を傾けた。すこし離れたところから喧騒が聞こえるが、見えない壁でもあるように遠く感じた。
何度もあったのに、演奏というものを久々に間近で聴いた気がした。明るく伸びやかで、どこか切ないその旋律は、わたしの心を揺さぶり続けた。舞台の周りを舞う踊り子に亡き妹を重ねる。涙があふれて止まらない。
迷っていないはずなのに、躊躇っている。
自身の情けない部分を、繕って隠してしまう。
司令官に受け入れられても、拒絶されても、わたしはそのあとのことを考えていない。その向こうに横たわる問題を考えたくなくて、見たくなくて。
*
演奏会が終わり、わたしとコーラルは家に戻った。楽しそうなコーラルの様子に合わせて笑ってはいたが、同じように楽しめなかった自分にどうしてと恨めしくなった。
わたしが休む部屋はコーラルの部屋だった。わたしがどの部屋を使うか考えた時、司が使っていた部屋はなんとなく使う気になれず、ほかの部屋からコーラルの部屋にベッドを持ってくるのも難しい。そしてほかの寝室となると家主であるノアの部屋と隣接することになってしまう。妻であるコーラルに失礼になると思い、それとなく伝えると、自分が別の部屋に移るから自分の部屋を使ってほしいと提案してくれ、それに甘える形になった。
シーツや掛け布団を新しいものに変えてくれたベッドでうとうととしていた時、懐中時計のことを思い出して慌ててランプに火を点け、バッグを引き寄せた。懐中時計は一日一回、鍵状の道具で巻かないといずれ止まってしまうのだが、ライラから懐中時計の入った小さな布袋を受け取った当初、それを知らずに止めてしまったことがあった。ライラが扱い方を知っていたのですぐに教えてもらい、それ以来寝る前の日課になった。
懐中時計を受け取ってから数日後、ライラが躊躇いながら、懐中時計を渡した時の司令官が酷く酔っていたことを話した。もしかしたら覚えていないかもしれない、と。それでも構わないと思った。一瞬でもわたしに渡したいと思ってくれたことが嬉しかった。
けれどいまは、忘れているなんて嫌だ、と切実に思っていた。どんなことがあっても覚えていてほしい。わたしに渡したことを覚えていると言ってほしい。どんな思いで渡したのか教えてほしい。
確かめればいいのに、わたしは今日まで訊けずにいた。折角今日会えたというのに、訊く機会を逃したままもう四ヶ月……。
明日アレリアに帰る。明後日は仕事に戻る。
訊きたい……聴きたい。
とりとめのない思いの最中に動かしていた手は、目的の物を探し当てることができなかった。まさかと血の気が引き、バッグを引っくり返して中の物を広げた。
……ない。
どこにもない。
思い返すと荷造りで慌ただしかった昨日も懐中時計を巻き忘れていて、ものを見ていなかった。バッグのポケットやほかの小袋に間違って入っていないかと何度も確かめるが、懐中時計はおろか時計が入っていた小袋も見つからない。翌日帰った家にも、その次の日に総務課の自分の執務机を捜しても見つからず、生きた心地がしなかった。




