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ミネルバ-望郷の町-  作者: 近藤 回
第三章

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化石の魚 4

「さて、そろそろ来てもいい頃なんですが……」

 からかわれてからすこし経った頃、ノアが立ち上がった。あたしもなんとなく立ち上がった時、何かに気づいたのか、ノアがいきなり森のほうに振り返った。あたしも急いで同じほうに顔を向ける。

 体が強張った。誰かがこちらを見ていたのだ。

 すらりとした女だった。長い、波打つような黄緑の髪を持った、耳が異様に長い女だ。長い黄土色のマントを羽織り、赤い縁の眼鏡をかけている。ブーツを履いた足があるところを見るに、幽霊ではないらしい。相手が生きているというだけでほっとした。こんな世界で幽霊が怖いだなんて、感覚がずれているかもしれない。

「ノア・ラグトムですか?」

 あたしの背筋に悪寒が走った。とても澄んだ声だった。感情を抑えたような口調で、さながら氷のように鋭い。

「そうです。あなたは……どこかで会いましたか?」

 ノアは考えるように女を見ていた。何か引っかかるらしい。

「司令官様のところでお会いしたかもしれません」

 女は非常に素っ気なく、ついてこいとも言わずに森のほうへと進んでいく。あたしはノアを見た。彼は頷いて、女のあとをついていく。彼女が墓場までの案内人ということだろうか。

 あちこちに枝や根が出ているので、気をつけないと服の裾や足が引っかかって大変だった。薄暗い中、葉や枝を踏みしめる音があたりに響く。平地を歩くよりかなりきつかった。

「あの、ノアさん。あのひとなんですけど」

 あたしは息が上がりながらも、前を颯爽と歩く女のことが気になった。

「彼女はエルフです。エルフは気配に敏感な種族で、特徴的な長い耳で風の声を聴くとも言われます」

 ノアがあえて声を抑えずに言うのは、それが無駄なことだと判断したのだろう。

「なんでエルフのひとがここにいるんでしょうか?」

「こういった森の奥に集落を構えていると聞きますが、その集落にエルフ以外の種族はいません。術を施して入って来られないようにするところもあります。エルフはもともと『ひと嫌い』で、ほかの種族とは馴れ合わないのです。名乗らないのもそのためです。だから恐らく、近くに集落があるのではないかと思います」

 森の中に入った時から思っていたが、気温が下がっていた。曇っている上に高い木々で空の明るさが隠されている。両手を胸に抱きながら進む。背中が寒い。

 進むにつれ、青々と葉を茂らせている木々の中に、背の低い木や、苔むした倒木が多くなっていた。そうなってからかなりの時間が経っているようだ。よく見れば毒々しい色のきのこも生えている。あれが例え食用であったとしても、食欲はわきそうにない。

 やがて広場のようなところに出た。とても広い。短い草がぼうぼうに生えてはいたが、ほかは異様にすっきりしている。この場所には何かがあったようだ。ここにあったものは片づけた、ということだろうか。近くから川のせせらぎが聞こえた。

 広場の中央にぽつんと不格好な石があり、それに近づいていく。この石が墓石なのだろうか。石はあたしの腰くらいの高さで、かなりいびつだった。文字のようなものが彫られていて、不思議なことになんとなく読めそうな気がした。が、文字はかなり不揃いで、とても下手に見えた。横のノアを見ると、思い詰めたように眉を寄せて石の文字を見ていた。当のエルフの女はこの石を見、あたしたちを見て、そのままだった。やはりこの石が墓石らしい。

「こちらですか?」

 石の前に立ったノアが訊いた。エルフの女は黙って頷いたかと思うと、何も言わずに森のほうへと行ってしまった。あたしは咄嗟にノアの袖を引っ張った。ノアはあたしを安心させるように、袖を引っ張るあたしの手に自身の手を重ねて、ゆっくりと言った。

「だいじょうぶですよ。たぶん戻ってくると思います。それに彼女が戻ってこなくても、道、覚えてますから」

 あたしはその笑みに安堵し、手を離した。

 ノアはその場で胸に手を当てて、目をつぶった。忘れていたが、目的は彼の友人家族の墓参りなのだ。あたしは慌てて俯き、目をつぶった。

 肌寒い風が通る感覚。

 木々のこすれる音。

 川のせせらぎ。

 鳥らしきものの鳴き声。

 赤の他人の墓だからだろうか。安らかに、とか、ご冥福を、と正直思えなかった。視界を閉じたことで、耳に入ってくる音がやけに大きく感じた。ここで死んだひとたちのことを思えないのに、悲しい気持ちばかりが湧いてくる。まるで覚えがあるように。

 死ぬ、というのはいったいどういうものなのだろう。

 数年前まで、死というのはずっと先にあるものだと思っていた。いや、先にあるというよりは、考えてすらいなかった。確かにあるはずなのに、まるでないように思っていた。

 聞いたことがある。

 死というのは『前』にあるのではなく、『後ろ』にあるのだと。

 そして気がついた時には、『死』に飛び越されているのだと。

 どうしていま、そのことを冷静に考えられるのだろうか。

 草を踏む足音が聞こえて目を開けると、本当に女が戻ってきた。彼女の手には細長い木箱が抱えられていた。五十センチくらいだろうか。木箱には錠がかけられていた。

「これを」

 エルフの女は、ノアに木箱を差し出した。

「私に渡さずとも、あなたが直接渡してしまったほうが早いのではありませんか?」

「いいえ、違います」

 新緑のように瑞々しい髪を揺らしながら、彼女は否定する。

「これは、ほかならぬ司令官様が、あなたに預かって頂きたいとおっしゃったのです。お受け取りください」

 ノアは木箱と女を交互に見て、しばらくしてから承知した。いったい何が入っているのだろう。

「くれぐれも、よろしくお願いいたします」

 抑揚の乏しい女の声が一瞬淀み、遠くなった気がした。あたしは眩暈を起こしたのか、盛大にふらついた。景色というものが、形を失っていくように見えた。

 気がつけば、先程休憩した倒木のあるところに立っていた。いったい何が起きたのだろうか。

「どうやら、戻されたようですね」

 振り向くとノアが森を見つめていた。腕にはあの木箱が抱えられ、一応夢でなかったことを物語っている。

「彼らの土地である以上、長居はできません。帰りましょうか」

「あ、はい」

 ノアの先導で、あたしたちは森をあとにした。あたしは途中、何度も森のほうを振り返った。一度だけ彼女の、黄緑の髪が目の端に映った気がした。

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