後編
半ば魂の抜けたわたくしの様子に、彼は眉をひそめることなく軽く腕を組んだ。
「なんというか、誰を好きであっても領主にはなれるだろう? それとも、そうしないとおまえは領主になれないのか?」
訝しむのではなく『あれは? これは?』と昼食を提案するような態度だ。
「そ、それは……あなた様をいつまでも慕っていてはいけないと思って……」
「だから、何故それが駄目なんだ?」
「あなた様には許嫁がいらっしゃいますので、それで、その……」
「許嫁?」
彼は眉をひそめていたが、思い当たることがあったのか、ああ、と声を上げた。
「いるにはいたが、それは五、六十年前の話で、諸々の事情があって彼女は兄の嫁になった。それに彼女が亡くなって随分経つ」
「そうなのですか?!」
思わずそう返すと、彼は面白そうに笑った。
「なんだ。ずっと俺には許嫁がいると思ってたのか? じゃあ、ここ数年俺を避けてたのもそれが理由か?」
恥ずかしさに顔から火が出そうだった。
「さ、先程わたくしが言ったことは、お忘れくださいっ」
「それは難しいな。あれほど真面目に慕っていると言われたら、気の揺るがない奴はいないと思うが」
彼の左手が、さり気なく頬に触れてくる。その手つきが、先程の背中を叩く時とまったく違い、心臓が仔馬どころか大人の馬の襲歩のように鳴っている。呼吸が速くなり、景色が傾ぐ。堪え切れず、崩れるようにその場に座り込んだ。墓穴でもいいから、その穴に隠れてしまいたい。わたくしはなんてことをしてしまったのだろう。
「だいじょうぶか?」
心配の滲んだ声色で、屈み込んだ彼がこちらを窺う。
「どうか、忘れてください……どうか……」
かろうじて口にするが、顔は上げられない。
「そうやって変に遠慮して逃げようとするところは変わってないな、アルハ。おまえがそうなると、おまえの父や母は根負けしたが、俺がそれに負けたことはなかったはずだぞ?」
そうだった。彼は、どのような言動であれ、逃げようとすると必ず追い駆けてくるひとだった。自身が納得するまで、忍耐強く相手に対するのだ。
「さっきおまえをあやした時は、結構どぎまぎした。匂いも、体つきも、すっかり女になってた。おまえの言葉に、俺の心臓はどうやら射貫かれたらしい。最近は独りでいるのも空しく感じていてな。おまえと一緒になるのもよさそうだ」
彼はランプを脇に置くと、体を支えるために絨毯についていたわたくしの右手を持ち上げ、迷わずに、さも当たり前のようにそれに口づけた。
「アルフリーダ、俺と結婚してくれ」
……よく気を失わなかったと思う。
「あ、え……っ」
驚いてうっかり彼の瞳を見てしまった。わたくしの言葉などよりも強く射貫いてくるその視線から、目を逸らすことことができない。澄んだ草色の瞳は、おとぎ話の怪物のようにわたくしから体の自由を奪ってしまった。
「……………………はい」
長らく混乱していたわたくしが吐息のような声で承諾すると、彼は目を細めて、いままでに見たことのないような笑顔を見せた。いつもは朗らかに笑う彼の、優しい微笑みに、わたくしは魂まで魅入られてしまい、今度こそ気絶すると思った。
「そうとなれば、さあ、行くぞ」
しかしそうなる前に、彼はすぐさまわたくしを立ち上がらせると、手を引いて廊下に出た。すこし行った先に中背でやや小太り気味の父が立っていた。客人を応接間のほうに案内し終えていたのか、廊下に彼らの姿はない。
「ああ、セル兄さん、そこにいたんだね。ベルから聞いてるよ。こんな時に来てもらって、悪かったね」
父はこちらに気がつくと、わたくしたちの様子におかしなものを感じたのか、何事かと眉を寄せた。祖父の代から彼はこの家に出入りしており、幼い頃から父とよく遊んでいたようで、彼の前では父も少年のように無邪気になることが多かった。
「問題ない。ベル婦人が着替えを用意してくれたからな。丁度よかった、ジェフ坊。急な話になるんだが、アルハと結婚させてくれ」
彼は気さくに手を挙げて、事も無げに言った。
「あ、あはは、何を言うかと思えば、セル兄さん。冗談はよしてくれよ。心臓に悪い」
彼の軽い調子に、冗談だと思ったらしい。
「冗談? 何を言ってるんだ。俺は冗談を言ったつもりはないし、冗談は好きじゃない。それにアルハの様子がつらそうで心配だからって、おまえが俺を呼んだんじゃないか」
「いや、いやでも、確かに呼んだけど、どこをどうしたらそうなるんだい?」
「おまえの娘に情熱的に愛の告白をされて、心の臓のど真ん中をやられてな」
声を出して笑う彼を余所に、父は目を見開いて信じられないといった視線を向けてきた。彼の後ろにいたわたくしの顔がまた熱くなる。信じられないのはわたくしも同じで、父よりも混乱している。
「本当なのかい? アルハ」
父の声は、責めるものでも、面白がるものでもなく、心配そうなものだった。わたくしは目をつぶりながら、ぎこちなく頷いて見せた。とにかく恥ずかしくてたまらない。すると父は、胸を撫でおろすように長く溜め息をついた。
「なんだ、そうか。単純なことだったんだねぇ。僕はてっきり、領主としての責任を重く感じて、体を壊してしまうんじゃないかって思ってたんだよ。おまえは責任感が強いからね。でも、セル兄さんがついてくれるなら、心配はいらないね。おまえの顔色がよくなって、本当に安心したよ」
「お、お父様……」
父の安堵した顔を見ると、わたくしまで気が緩み、目頭が熱くなった。
「あ、でも、自分の娘とセル兄さんが一緒になるなんて、なんか変な感じだなぁ」
「お、反対するか?」
彼は面白そうに返す。父は首を横に振った。
「まさか。複雑だけど嬉しいことには変わりないよ。それに僕が反対したところで、セル兄さん、きっとアルハをどっかに連れてっちゃうでしょ? それはちょっと勘弁してほしいから」
「お見通しか。さすがジェフ。俺の悪友」
「長い付き合いだもの。兄さんは、気に入ったものは絶対に譲ってくれなかったからね」
笑い合うふたりは本当にお互いを知り尽くしているようで、女であるわたくしが入り込めない雰囲気だったが、これまでどおりのやりとりに安堵し、微笑ましくも思えた。
結婚のことは許可をもらえたが、客人がいることもあり、詳しいことは後日決めることになった。悪天候のことも併せて、客人同様、今夜は彼も邸に泊まることになった。
寝巻に着替え、自室で一息つく。彼が同じ邸内にいると思うと心臓の鼓動が速くなるので、なるべく考えないようにしようとしたが、つい先程結婚が決まったのだから土台無理な話だった。
窓がガタガタと揺れ、遠くで雷鳴が聞こえる。思いがけないことが先程まで起きていたとはいえ、雷への恐怖は消えず、もう寝てしまおうとベッドに潜り込む。夜の邸の中は静かで、父と客人はまだ話しているだろうが、本当に居るのだろうかと疑問にも思えた。仰向けで見る、ランプの明かりで照らされた天井のいつもと変わらない様子に、えも言われぬ気持ちが頭をもたげた。もやもやとして、鳩尾のあたりがすっきりしない。
突如として扉がノックされ、わたくしは飛び起きた。慌てて扉に向かい、開けると、我知らず望んでいた相手がそこに立っていた。
「寝る前に挨拶に来た。もう寝ていたか?」
わたくしは首を横に振り、何か話さねばと口を開く。
「今日は、その、本当に……」
ありがとうございます、だろうか。とても嬉しいです、だろうか。なんと言ったらよいのだろう。彼がこちらをまじまじと見ていることも手伝って、心臓がまた仔馬の速歩のように鳴り出す。
「髪を下ろしていると印象が変わるな。淑やかだ」
彼にとっては何気ない言葉でも、わたくしにはとてもではないが耐えられそうにない。恥ずかしさに俯くと彼は楽しそうに笑った。
「硬いな、アルハ。さっきのこと、夢だと思ってないだろうな?」
「いえ、その……」
すこし思っていた。
「まぁ、寝る前の挨拶は方便で、顔を見たくなったんだ。さっきまで一緒にいたのに妙な話だ。まだ雷も鳴っているが、だいじょうぶか?」
彼はいつになく気にかけてくれたようだ。嬉しさに思わず顔が綻んだ。
「はい。お気遣いくださり、ありがとうございます」
言い終わるや否や彼の顔が近づき、口づけをされた。
一瞬のことで驚いて固まっていると、離れた彼が悪戯でもしたように口の端を上げた。
「夢じゃないからな。それじゃ、また明日」
彼の駄目押しの行動に、腰が砕けそうだった。
晴天となった翌日、わたくしが新しい領主として客人に挨拶をすることは当然ながら延期となり、客人に帰ってもらったあと、わたくしと彼は正式に婚約した。父も母も本当に喜んでくれた。侍女のベルは涙まで見せていた。
その後の彼との話し合いで、彼は自分が入り婿としてこの家に入り、領主としての責を担っても構わないと言ってくれた。しかしひとつだけ条件があった。
「俺はエルフだから、おまえよりも絶対に長く生きる。だからおまえが死んだら、領主の位を子か、あるいは誰かに譲って、俺はこの家を出る」
驚いて何故と訊き返すと、彼はこう言った。
「俺はおまえと一緒になるのであって、この家と一緒になるわけじゃない。領主の仕事を引き受けるのも、おまえがいるからこそだ。アルハがいなくなったあとの家にいられるほど愛着を、この家には持たないだろう。それに俺はひとつのところに長く居られない性質だからな」
エルフと人間とでは生きる時間の長さにかなりの差がある。人間の寿命がだいたい六十年であるのに対し、エルフは三百年と、とても長い。旅をするのが大好きな彼らしいこたえでもあった。
では、子を産んで立派に育てあげるまでは死ねませんね、とわたくしが返すと彼は頷いた。
「そうだぞ。だからうんと長生きしてくれ」
彼は本当に、わたくしがいるからこそ、この家に留まってくれるのだ。複雑であったが喜びのほうが勝った。わたくしはなんと幸運に恵まれたのだろう。
一ヶ月後には式を挙げ、思っていたよりも早くに子を授かることができた。子を産んで二、三ヶ月は体調が優れなかったが、このまま夫と子供を残して死ぬわけにはいかないと気力を保ち、いまでは日常生活を送れるまでに体力を回復することができた。周りと、何より愛する夫の支えがあってこそだと感謝の念が尽きない。
ベッドで眠る我が子を見下ろしながら、ぷっくりとした柔らかい頬をつついた。
「あなたのパパが、ママがいなくなっても、この家に居たいって思えるように、ママ、頑張るわ」
だって、パパもあなたも、独りになんてしたくないもの。
わたくしの大事な、大事な、愛しいひとたち。




