10、報告と余生
目が覚めると同時に、頭に痛みが走った。頭の横のほうを恐る恐る触ってみると、こぶができていた。いったい何が起きたのかと思い出そうとしていた時だった。
「あ、目が覚めたんですね。よかった」
女の声が部屋に響き、扉のほうに目をやる。そこで自身が寝台に横になっていることに気がついた。当然ながら自身の寝台だ。ということは、自身の家には違いない。カップを持った若い女がこちらに近づいてくるのをなんともなしに見ていたが、焦げ茶の髪と眼を持った若い女の、その容姿を認めた途端、寒気が走った。
「誰だ!」
飛び起きて思わず叫ぶと、若い女は体をびくつかせ、足を止めた。
この女は誰だ。こんな奇妙な気配を漂わせている者がここまで近くにいる事実に、心臓が嫌な鳴り方をする。だのにこの女は、わずかに既視感を……懐かしいと思わせる何かを持っていた。
「ひとの連れをいきなり怒鳴ることないだろ、じいさん」
女の後ろから、背ばかり高くなった金の髪に金の瞳の孫が姿を見せる。
「これはいったいどういうことだ! 説明しろ!」
孫に捲し立てるが、孫はどこ吹く風というように肩をすくめた。
「ここに来たら、じいさんが居間で倒れてて、それでベッドに寝かせたんだよ。こぶできてたし、頭を打ったんだろ。おかげでこっちの寿命が縮まったよ」
「どうやってここに来た。その女はなんだ」
「そりゃあまぁ、部外者もいるから一応サーシャに案内してもらって来たんだよ。居間にいる。さっきも言ったけど、彼女は俺の連れ」
淡々とこたえる孫は、私が警戒を緩めないとわかると、戸惑っている女を部屋から出し、扉を閉めた。女から受け取ったカップを寝台横の小さな机に置き、近くの椅子に座った。カップの中はただの水のようだが飲む気になれない。
「怒鳴れるくらいならだいじょうぶそうだな。もう歳なんだから気をつけてくれよ」
余裕のある態度に余計に腹が立つ。
「いったい何しに来た。用がないならさっさと帰れ」
「いやいや、用があるから来たんだって」
「ならさっさと言え」
「えー……」
孫は何故か渋る。いまさら情緒がないとでも言い出すつもりなのか。今年の初めに帰って来た時は特に用もなかったというのに、年の瀬まで一ヶ月もない今日日、一年も経たずにいったいなんの用ができたというのか。
「女を連れてくるとは、随分と肝が据わっているようだな。前は大事な者が死んで塞ぎ込んでいたくせに、もう鞍替えか」
「俺もそれは感じてるし、言い訳はしない。そこにどんな事情があるのか、当人同士にしかわからないことだってあるだろ?」
「賢しいことを言うな。生意気な」
「はいはい」
孫はおかしそうに口元を歪ませている。しかし一向に話し出さないところを見るに、まだ迷いがある内容のようだ。さっさと話せと舌打ちをしそうになる。
「おまえは昔から、自分が認めていないことに対する勝ち負けの意識が強かった。愚弟に対してやたらと張り合っていた時期があったのを覚えているぞ」
いまでこそ愚弟と孫の仲はふつうであるようだが、昔は孫の顔に、こいつだけは尊敬できない、と書いてあると思えるほど愚弟に対する態度は散々だった。そして尊敬できない愚弟に対し、表立ってはいなかったが、例え些細なことでも負けることをよしとしなかった。
「なんでいまそんな話をするんだ?」
鈍い孫は私の意図がわからないようだ。
「おまえがいま話すのを渋っていることが、おまえが負けたと思っていること、素直に認められないことだと言っている」
「うわぁ……当たってる」
図星の孫をしばらく睨んでいると、ようやく諦めたのか、真っ直ぐこちらを見た。
「わかっているとは思うけど、彼女、生まれも育ちも特殊だから、曾孫の顔は見せられないと思う」
「……たったそれだけのことを言うのを迷っていたのか?」
なんと情けない孫だろうか。家の中でなければ唾を吐いてやったところだ。
「じいさんにはわからないかもだけど、言葉に出すのは結構勇気が要るんだよ。俺がどんだけ悩んだか」
「言い訳をするな。意気地なしめ。負けを認められん奴に説得力などあるものか。それ以前に、男と女の間に勝ち負けを持ち込むのは、無粋者のすることだ」
「それは……あぁ、うん、確かに」
孫は情けなく溜め息をついた。ただのひとつも負けることなく世を生きるなど有り得ないことだと言うのに、孫はようやく認めたようだ。
「おまえのことだ。あの女には何も言っていないのだろう」
「いやー、それが、向こうからなんだよね。言ってきたの」
孫の言葉の意図を図りかねて目を見張る。
「向こうから結婚してくれないかって言ってきたんだよ。ほんとすごいよな。いろんなことすっ飛ばして、真っ直ぐにくるんだから。俺だったらできない」
孫は珍しく困ったように笑っていた。女から申し出をするとは、なかなか聞けることではない。一瞬世間知らずだと思ったが、時代は変わっていくものだと考えを改める。見てこそいないが、我が娘もそうだったではないか。ただ先程のあの女からは、娘のような気の強さは感じられなかったが。我が妻のようにしたたかなのかもしれない。
「それであの女の申し出をおまえが断ったら、恥と思って死ぬのではないか?」
何気なく言うと、渇いた笑いが孫の口から漏れた。
「だからすごいんだって。俺には真似できない」
申し出を受けるにしては煮え切らない態度に苛つく。それ以前に、女からの申し出の返答を保留にしておきながら、唯一の身内である祖父の家にその女を伴って来るとは、随分と思慮の足りない行為だ。もしわかってやっているのなら、相当意気地が曲がっている。
私はひとつ溜め息をついてから口を開いた。
「迷うのは構わんが、一度決めたのならやれ。どんな物事も、絶対に後悔しないと言えるものはない。奇跡など、気がつくことができれば幾らでも起きておる。他愛のない日常など、あっという間に崩れ去る。やってから悩め。取り返しのつかないことをしたのなら、その場で死ぬか、墓場まで持って行けばよい」
そう言うと、孫は目を見開いて驚いていた。
「まともなこと言えたんだな、じいさん」
「いますぐ帰れ」
「冗談だって」
孫は気持ちがようやく落ち着いたようだ。生意気な表情がいつになく柔らかくなった。立ち上がって部屋を出て行こうとする孫を止め、私は首から下げていたものを渡した。
「持っていけ」
「なんだこれ、指輪? なんでこんなもの持ってるんだ?」
「昔、リエラに渡したものだ」
「え」
「死んだ者は己の魂以外、何も持っては行けんからな」
「だけどこれ、明らかに大事なものだろ? いままで持ってたんだから」
「もったいないから持っていただけだ。おまえのことだ、あの女に指輪のひとつも用意してはおらんのだろ。くれてやる。わしはもう要らん」
それに私には、妻からもらった腕輪がある。
「俺、じいさんの中でどんだけ気が利かない奴なんだよ」
頭をかいた孫は長く溜め息をついたあと、礼を言って素直に指輪を持っていき、部屋から出て行った。それから程なくして、あの女と従姉妹と共に帰っていった。
しばらく寝台に座ったまま、なんともなしに窓の外を眺めていた。家の裏手の畑には何も植えられていないが、小さくて丸々とした小鳥がその場を跳ねまわっていた。
「曾孫の顔が拝めるまで残りの命を使って待つのも、まあ、悪くはなかろう。そうは思わんか、リエラ」
奇跡など、幾らでも起きているのだ。
私とリエラの間に子ができたように。
「もうすこし、スピカたちと共にそちらで待っていてくれるか。手のかかる孫がこれからどういう道を辿るのか、もうすこしの間、見てやろうと思ってな。なに、そう時間はかからん。二十年など、あっという間だ」
リエラと過ごした年月も二十数年ほどだった。私の寿命からしたら本当にあっという間で、しかしこれ以上に無いほど満たされた日々だった。
あの日々と同じような穏やかな気持ちで目を細めると、遠くでかすかに、嬉しそうな笑い声がいくつも聞こえた気がした。
番外編3、おわり。




