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ミネルバ-望郷の町-  作者: 近藤 回
第三章

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化石の魚 2

 そのあとも彼女と話し、浴場を出てからも一緒だった。彼女はレイと名乗った。近くで見る彼女はあたしよりも背が高く、体つきはすらりとしていた。柔らかい髪を首の後ろで引っ詰めている。格好は白いシャツにぴったりとした黒のズボンで、身軽さを感じさせた。

 館内はほのかに暖かく、長袖一枚でも平気なくらいだった。どうやら温泉を建物内に循環させているようで、個別の部屋までも同様に暖かかった。壁には等間隔に明かりが灯されている。窓の外は暗く、紺色で、壁の明かりがガラスに映っていた。

「そういえばここに来る途中で森を見た?」

 レイが訊ねる。あたしは馬車の車窓からの景色を思い出しながら頷いた。長い長い森だった。すこし奥に小高い山があった。

「あの森は、一部が燃えてなくなったんだ。酷かった。そこに住んでいた森の守人(もりびと)が死んだんだ。もう十五年も前の話になるけど、その時に焼け死んだ家族の幽霊が森を彷徨ってるって話だよ」

 見た方向からは焼けた部分は見えなかったが、レイの話では燃えたところがあるのだろう。

「よく知ってるのね」

「知るひとぞ知る話だ。同時期のゲルメジ岩礁事件のほうが有名だろうね」

 レイは微笑んだ。先程から思っていたが話し方や仕草が優雅で、紳士のようだった。

「……あの、話は変わるんだけど」

 先程から考えていたのだが、あたしは自分のことを正直に話すことにした。頭の隅で自分のことを正直に話していないことが悪いことのように思え、落ち着かなかったのだ。それに彼女なら話してもいいような気がした。安易かもしれない。

 彼女はあたしが〈メイト〉であることに、思っていたよりも驚かなかった。

「あんまり驚いてないのね」

「ミネルバにはよく来るって聞いてる。詳しいひとがいてね。どこかからひとが来るなんて、にわかには信じがたいけど。それで、あなたはいま、どこに住んでるの? もちろん当てもないんだよね?」

「あ、えっと、すごく親切な警備隊のひとがいて、いまはそのひとの家でお世話になってるの。そうじゃなかったら、いま頃どうなっていたか」

「それはよかった。でも何かと不便では?」

「それを言ったら切りがないから。お世話をしてくれるひとは優しくて気の回るひとだし、それ以上に望むのは贅沢だわ。こっちが萎縮するくらいだもの」

 レイは苦笑した。何故か嬉しそうに。

「それもそうか。あんなに優しいひとはほかに見たことないよ」

 言ったあとで彼女は、しまった、という顔をした。

「え、え? 知ってるの?」

 あたしが瞬きしながらレイを見ると、レイは困っているのか顔を逸らした。

「あ、いや、もしかしたらあのひとかなって思って……」

 するとあたしの後ろから声がした。

「あ、こちらにいたんですね。もう入られたんですか?」

 振り返ると噂の当人が優しい笑みを浮かべて立っていた。

「あ、はい」

 大きな浴場に入れたことはとても嬉しく、笑顔で伝えたかったのだが、微妙な声色でこたえてしまった。

「何か気になることでもありました?」

 あたしの声色を汲んだノアはやや気がかりそうに言葉を返してきた。あたしがどれだけ風呂というものを重視しているか、あの家の家主である彼には当然知られていた。

「あ、違うんです。温泉、すごくよかったです。それで、さっき知り合ったんですけど」

 と言ってレイを紹介しようとすると彼女が言葉を被せてきた。

「ごめん。用事を思い出した」

 彼女はこちらを見ないまま、慌てたような声色だ。

「え? そうなの?」

 あたしは急な話で驚いた。もうすこし話していたかったのだが。

「ちょっと待ってください」

 ノアが話に割って入ってきた。彼がこんなふうに強引に話に入ってくることなどなかったので、あたしは意外に思いながら彼を見る。と、レイが近くの物陰に走って行った。しかし逃げたわけではなく隠れただけのようで、すこしすると恐る恐るといった様子で顔を半分だけ覗かせた。ノアが溜め息をつきながら言う。

「休暇ですか? ライラさん」

 物陰から彼女が頷く。ノアが口にした名前は、彼女自身があたしに教えてくれたものではなかった。

「どうしてそこに隠れてるんです?」

 ノアは疑わしそうに目を細めながら会話を続けた。

「いや、あの、捕まると、色々と不都合というか、困るというか……」

 しどろもどろで、先程の紳士然とした態度はどこにいってしまったのだろうか。これでは叱られた子供を見ている気分だ。

 名前に関して何も言わないところを見るに、本当に『レイ』ではなく『ライラ』なのだろう。どうして本当の名前を教えてくれなかったのだろうか。何か、彼女にとって不利になるようなことがあるのだろうか。

「ええ、まあ、そうですね。こちらの職業上、あなたを捕まえないわけにはいきません」

 ライラを捕まえる理由があると彼は言うが、いったいどういうことなのだろう。

「まったく、だーから言ったでしょうが」

 ライラがいるほうとは反対の廊下から少女が現れた。不機嫌そうな少女は小気味よく靴音を鳴らしながらこちらに近づき、あたしから五、六歩向こうで止まったかと思うと、さらに向こうにいるライラを睨んだ。

「ちゃんと変装していけって言ったじゃないの。なんにもわかってないわね。頭ん中、綿しか入ってないんじゃないの? こんなとこで見つかって、バカっていう自覚をさすがに持ったわよね?」

 仁王立ちの少女は不機嫌な調子でライラに文句を浴びせた。黒髪おかっぱ頭の少女には、耳の上から羊のようないかつい角が生えており、角の先が上を向いていた。

 少女はノアに顔を向ける。

「あのさ、こいつを捕まえんのはいいけど、本当に捕まえられるの? 証拠でもあるの? こいつが犯罪を行っている瞬間を見たのかって言ってんのよ」

「……いいえ、厳密にはありません」

 ノアは厳しそうにこたえた。

「じゃあ、証拠もないのに捕まえるの? 見てもいないのに勝手に犯罪者にしてもらっちゃ困るわね。充分な証拠があるとか現行犯逮捕とかでもない限り、ふつうは捕まえられないわよね? それに誰かの証言だけじゃ不充分だわ。そのひとが嘘をついている可能性もないとは言えないじゃない。ねえ?」

 高圧的な少女の言い分にノアは臆することなく考えていたが、しばらくすると諦めたように溜め息をついた。

「確かに、そうですね。あなたの言う通りです。あなた方が実際に物を盗んだところを見た者はいませんし、証拠もありません」

「あーら、よかった。うちのアホな友だちが捕まっちゃうかと思ったわ。でもこのアホな友だちは捕まりたかったみたいねぇ?」

 少女は皮肉げにライラを見ると、ライラは顔を赤くして物陰に引っ込んだ。少女はライラのあとを追い、しばらくすると物音も聞こえなくなった。

 はじめから話が見えず、とっかかりすらない。どういうことなのだろうと、額に手を当てているノアを見た。

「ああ、すみません。よくわからなかったですよね。実は彼女、盗賊団のお頭なんです」

「……え?」

 あたしの間の抜けた声に、ノアは苦笑した。どうやら聞き間違いではないようだ。

「驚くのも無理はありません。あの姿からは想像できないですよね。でも本当なんです。ここらでは結構有名で、『北の魔女の蛇』というんです」

 どこかで聞いた気がする名前だ。

「彼女のことは昔から知っているんです。ミネルバの隣にあるアレリアで働いている時に会ったのが最初で。もう十年近く前でしょうか。彼女が自分で、自分は盗賊だって言ったんですよ。それ以来ちょくちょく見かけるというか、今日は一年ぶりに彼女を見ましたね」

 ノアは顎に手を当て、昔のことを思い出しているようだ。

「あの、どうして捕まえなかったんですか?」

「それは、先程の少女の言うことがもっともだからです。我々警備隊は、本来領民を守るためにいる。防衛が本来の役目なのです。ですので、証拠もないのに誰かを捕まえることはできません。私も詰めが甘かったようですね。まあ、多少強引に捕まえることも可能だったでしょうが、ここは自分の管轄地区というわけでもないので、融通が利きません。ほかの領地で我々ができることといえば、情報提供くらいでしょうね」

 言い終わって、ノアは疲れたように壁にもたれた。捕まえるにも色々と手順を踏まなければならないようで、大変というか面倒臭そうだ。

「アサギもね、よかったって言ってましたよ」

 ノアがぽつりとつぶやいた。

「何を?」

「温泉」

「そう、ですか」

 ライラの話を聞いていたので驚いたが、彼が〈メイト〉であるならふつうかもしれない。

「なんか、色々、大変なんですね」

 そう言わずにはいられなかった。

「はは。そう思います?」

 苦笑するノアに曖昧に笑い返したあと、ふと気になっていた明日のことを訊いた。

「そういえば、明日はどこかに行くって言ってましたよね?」

 今回の慰安旅行は二泊三日で、明日は丸一日自由だった。彼は馬車の中で、どこかに行くようなことを話していた。

「ええ。墓参りに行こうかと。頼まれまして」

「あの……それ、ついていってもいいですか?」

 アサギがいると思うと館内も何か落ち着かず、それなら外に出たほうがいいと思っていた。

「いいですけど、退屈だと思いますよ」

「それでもいいです」

「結構歩きますし」

「だいじょうぶです」

 引き下がらないあたしの様子に、ノアは一旦口をつぐんだ。視線を床に向けながら何かを考えているようだったが、やがて視線だけがあたしに向けられた。

「お墓なんですが、森にあるんです。道中見ましたよね? 遠いですよ。ただ、詳しいことは行ってみないとわからないので、行き当たりばったりなところもあるのですが……」

 あたしは視線を返しながら頷いた。馬車の窓から見たあの森のことだ。墓が森のどこにあるのかで、歩く距離がかなり変わりそうだ。

 そういえば先程ライラが、森で幽霊が出ると言っていなかっただろうか。思い出して腕に鳥肌が立ったが、それでもあたしはひとりになりたくなかった。頭の中で、幼い頃に聞いた歌が蘇る。


 おばけなんてないさ

 おばけなんてうそさ

 ねぼけたひとが

 みまちがえたのさ


 だいじょうぶよ。おばけなんていないわ。

 本当に司は、おばけがだめなのね。


 姉の笑い声が聞こえた気がした。そういう姉は泣き虫なのだが。

 小さい頃は、寝る時にどこかの扉がすこしでも開いているとその隙間からおばけが見ているような気がして、すぐに閉めに行ったものだ。橙色の豆電球を点けていたせいで余計に怖かった。けれど明かりを完全に消すことも、怖くてできなかった。

 いつからだろうか。豆電球にわずらわしさを覚えて、消して寝るようになったのは。

 なんだかもやもやする。

「それじゃあ、明日は一日のんびりできますから、午後から行きましょうか」

「あ、はい」

「では、明日。常駐の警備隊に一応さっきのことを伝えに行ってきます」

 ノアは軽く会釈して立ち去ろうとしたが、ふと振り返った。

「ツカサさん、いま砂糖菓子とか持ってます?」

 唐突な質問だった。

「え、いえ、持ってませんけど」

「そうですか。すみません、変なことを訊いて。さっきそんなような匂いがしたもので」

「好きなんですか? お菓子」

 訊くとノアは苦笑いをして、首を横に振った。

「いえ、すこし苦手なんです。だから、そういった匂いに敏感なのかもしれません」

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