8、喪失と霊薬
「パパッ!」
勢いよく食卓が叩かれたかと思うと、成長したスピカが射貫くような視線で席に着いていた私を見た。娘は十九になり、容姿はリエラに似ていたが、勝気な性格は幼い頃より変わっていない。頭にヘアバンドをつけ、茶の髪は肩の上で切り揃えられている。
「いいひと見つけたんだけど、男のひとってどうやったら落とせるのかしら?」
また何を言い出すのかと思えば、リエラが聞いたら驚いて返答に困ってしまうようなことを言う。日常的に私と森を見回りながら、スピカは幼い頃より町の学舎へ通っていたこともあり、町にはよく出かけていた。そこで恐らく見つけたのだろう。本来であれば私が縁談相手を探すべきなのだろうが、特段驚くことではなかった。行動力のある娘だ。
「上目遣いで真剣に、だがすこし不安そうに、わたしのことを愛してくださいますか、と言われたら、大抵の者は落ちると思うのだがな」
「ママにそう言われたの?」
「そうだが」
「あのママが……すごいわね……」
スピカは静かに驚いていた。リエラの性格からして想像ができないようだ。ふと、どういう経緯でリエラと夫婦になったのか娘には話したことがなかったと気づく。
「その相手はどういう者なのだ?」
「確か、学者? 研究者? って言ってた気がするわ。このへんの植物とか地層? とかを調べてるんだって。背が高くて、すごく優しいひとなの」
わたしの目に狂いはない、と娘は自信満々だ。
「その者はこの、守人の一族を継いでくれるのか?」
「まだそこまで話してないわよ。これからそういうふうになるように彼を落とすんだから」
気の早いことを話してしまったようだ。
「それにしても急な話だな。それほどいい相手なのか?」
父としての懸念よりも、純粋な疑問が口を突いた。
「それもあるけど、ママのことが心配なの。調子もよくないみたいだし、なかなか外に出られないから」
そう言ってスピカは、私とリエラの部屋の扉を気遣うように見た。
「だったら一日も早く元気になれるように、孫の顔を見せてあげたいなって思ったの。まあ、いいひとが見つかったっていうのもあるけど、一族のことなんて二の次よ。ママのほうが大事」
リエラはこの一年の間に、徐々に体を悪くし、一日を寝台の上で過ごすことも増えてきていた。幾度となく医者に診てもらったが原因はわからずじまいで、心的要因ではないかと言われもしたが、当てはまる気も、当てはまらない気もして、有耶無耶なことを言ってくれるなと毒づきそうになった。リエラに代わりいまはスピカが台所を預かり、日々の料理を振る舞ってくれている。
「決めたら行動あるのみ。近いうちに絶対彼を連れてくるわ」
有言実行のスピカはぐっと握り拳を作った。こうなるとその相手が蛇に睨まれた蛙のようで、すこしだけ同情をしないでもない。正直なところ、ここまで気の強い娘を『自分の妻に』と言い出す者はなかなかいないのではないかと思っていた。
娘が勢いよく家を出て行ったあと、私は席を立ち、自身と妻の部屋の扉を開けた。寝台の上に座り、窓の外を見ていたリエラがこちらに向くと、嬉しそうに柔らかく笑った。目尻や口元のしわ、首や指の細さに老いを感じるが、彼女の魅力は失われていない。
「スピカと何を話していたのですか?」
リエラが問う。私は近くの椅子に座り、ほのかに温かいリエラの手を握った。
「スピカがな、いい相手を見つけたようなのだ」
「まあ」
「まだ申し出などはしていないようだが、近いうちにここに連れてくると息巻いていた。あれは誰に似たんだろうな」
そう言うとリエラはおかしそうに笑い声を漏らす。
「リエラ、考えていたことがあるのだ」
「なんでしょう?」
「おまえに、霊薬を飲んでもらいたのだ」
リエラは面食らったのか、一瞬ハッと息を止めた。
「こうしているのもつらかろう。おまえにはエルフの血が流れている。それならば霊薬も多少は効くはずだ」
「……ですが、霊薬は里の方々にとってとても貴重なもののはずです。それをわたしなんかのために使うのは……」
「そう言ってくれるな。私にとっておまえは、替えのきかぬ存在なのだ」
リエラに言ったことはないが、このままいけば確実に死期が近づく。彼女から漂うあらゆるものからそれは感じられた。
「申し訳ありません……。でも、わたし、飲むことはできません」
弱々しいが、はっきりとリエラは言った。
「霊薬は本当にすごい薬だと聞いています。だからもしそれを飲んでしまったら、わたしきっと、旦那様よりも長く生きてしまう気がするんです。わたし、もう、置いて行かれるのはつらくて……」
「私を置いて行くのはいいのか?」
切実に問い返すと、リエラは困った顔をした。
「すみません……でも、やはり飲めません」
リエラは私の提案を受け入れなかった。理由も納得できた。しかしどこまでいっても歯痒い思いだった。苦しさに眉間のしわが深くなる。私の様子を見かねてか、リエラがもう片方の手を私の手の上に重ねた。
「旦那様、ありがとうございます。本当にありがとうございます。わたしは幸せ者です。もし霊薬を使うのなら、どうかスピカや、これからできるあの子の家族に使ってあげてください。旦那様とわたしの、自慢の娘と、その家族に」
私はあらゆる感情を押し留め、頷くことしかできなかった。
「この頃よく、旦那様と会った時のことを思い出すんです。父が亡くなって間もない時、扉を開けたら、黒い服を着たエルフの男の方が立っていて……。わたし、あの時、ああ、なんて綺麗なひとなんだろう、って思ったんですよ。男の方に綺麗と思ったのは、後にも先にも旦那様だけです」
「そうなのか?」
驚いて訊き返すと、ふふふ、とリエラは嬉しそうに笑った。あの時のリエラは、私が誰であるかを思い出そうとしていたのではなく、見惚れていた、ということらしかった。ここに来ての真相にすこし面映かった。
宣言した通り、スピカは一ヶ月もしないうちに若い男を連れて来た。金の髪に金の瞳を持った、人間にしては長身の青年は、ともすると弱々しく映る優しい面差しで、私とリエラに挨拶をした。スピカと同じような性格であるなら日常的に反発しあいそうだと思っていたが、この青年であればそういったこともないだろう。スピカによくよく言われていたのか、守人の一族のことを理解しており、孤独の身であるために婿入りすることに異存はないという。出会いという偶然に見せかけた『何か』は、空恐ろしいほど本当によくできている。
婿殿が住むのであればいまいる家は手狭になるだろうと考え、家をスピカに譲り、里の者達の手を借りて、すこし離れた別の場所に新しく家を建てた。家具や道具をすべて整えてからリエラを迎えに行き、新しい家に向かう道中、私に抱えられたリエラが何度も『重くはないか』と訊いてきた。私はその度に否定し、抱えたリエラの体の軽さに胸が痛かった。
程なくしてスピカの腹に子が宿り、玉のような女の赤子を産み落として約一年後。
リエラは、土に還り、そして森を渡る風となった。
喪失感というものが、これほどのものとは、思いもしなかった。
体が食べ物を受け付けず、何もする気が起こらなかった。
娘や里の者が気遣って顔を見に来るが、正直、独りにしてほしかった。
どれくらい家に籠っていたのか覚えていないが、ある時、明るい窓の外を見遣った時だった。
『もし霊薬を使うのなら、どうかスピカや、これからできるあの子の家族に使ってあげてください。旦那様とわたしの、自慢の娘と、その家族に』
唐突に妻の言葉を思い出し、霊薬を作らなければという切迫感が自身を襲った。その日から一心不乱に霊薬作りに没頭した。弟達に材料の調達など様々な雑事を手伝わせ、私は大鍋を前にひたすら薬の調合を繰り返した。霊薬作りは通常であれば三十年はかかる。作っている間、どう過ごしていたのか記憶は曖昧だ。ずっと走り続けているような緊張感の中、切迫感からくる並々ならぬ集中力を前に、霊薬はわずか十年ほどで完成した。黄緑色の、発光する液体を茶色のガラス瓶に詰め終わった瞬間、弓の弦が弾け切れたように、私の意識は途切れた。




