7、失せ物と懺悔
「お願い。あれはとても大事なものなの。だから返して」
里から戻り、家の扉を開けた途端にリエラの悲しそうな声が聞こえた。見れば、膝をついたリエラが幼い娘に向かって話している。対して娘のスピカは服の裾を強く握り、まるで親の仇を睨めつけるかの如く床を見ていた。
「どうしたのだ、リエラ」
声をかけると、腰まで伸びた髪を首の後ろでまとめたリエラがこちらに顔を向けた。声色から察していたが、随分とつらそうな表情をしている。
「それが、この子が、わたしの大事なものを隠してしまったみたいで……」
その言葉に思い当たるものがあったが、いまはスピカをどうにかしたほうがよいと判断し、へそを曲げている我が娘の前で膝を折った。
「よいか、スピカ」
恐らく何十分も前からリエラに説得されていたのだろうが、スピカは頑固者ゆえに一度へそを曲げると意地でも態度を変えない。天邪鬼のようにも見えるが、彼女なりに引くに引けない事情があるらしい。その時は私が説得、あるいは叱ることにしていた。いったい誰に似たのだろうか。
「おまえの母のものは、おまえのものではない。母を困らせてどうするのだ」
正論を説くが、態度は予想通り変わらない。私は家の外で拾ったものと現状を合わせ、ある仮説を立てた。
「リエラはおまえが大事なものを隠したと言っているが、おまえは、母の大事なものを隠したのではなく、どこかに失くしてしまったのではないか? それで返せなくなり、正直に言うのも怖くなった。だから黙っている。そうではないか?」
その言葉にまず驚いたのは隣のリエラで、私は彼女に目を向けるとひとつ頷いて見せた。それから娘に目を戻すと、小さな手でさらに強く服の裾を握り、大きな黄緑色の目からぼたぼたと涙をこぼしはじめた。私が黙って手を広げると、スピカは勢いよく首に抱きついてくる。一歳と半年になる我が子の、子供の泣き方は本当に全力で、しゃっくりの大きさや息の詰まり方を見ているとすこし心配になる。余力を残すことを知らないからこそ、ある種の迫力がある。娘が落ち着けるよう抱え上げ、背中をさする。これ以上、何も言う必要はないだろう。
「あ、あの……」
リエラはどうしたらいいのかわからない様子でこちらを見るが、私は自身の口元に指を立て、娘が落ち着くのを待つことにした。娘はしばらく泣いていたが、疲れたのかそのまま寝てしまった。娘を私の部屋の寝台に寝かして部屋を出る。居間にいたリエラが心配そうな顔で待っていた。
「あの、どうしてあの子が、わたしの大事なものを失くしたとわかったのですか?」
「簡単なことだ。私がその『大事なもの』を外で拾ったのだ」
そう言って懐から紐に通された金の指輪を出した。それを見た途端リエラは安堵し、表情から張り詰めていたものが消えた。返ってきた金の指輪を大事そうに両手で握り締める。
「失くした手前、言い訳もできずに黙るしかなかったのだろう。しばらくは失くしたことにして、その後見つかったと言ってやればよい。そうすればスピカも悔いる」
「はい。そうします……」
笑顔のリエラは、失せ物が返って来てもまだどこか引っかかるものがあった。
「すみません、取り乱してしまって。いま夕食の支度をしますので」
「待て、リエラ」
「はい?」
振り返ったリエラの顔をよく見ようと、彼女の頬を両手で包む。
「どうしたのだ。まだ何か気にかかることがあるような顔をしているぞ。前に話したであろう。些細なことでも、他愛のないことでも、話してくれと」
はじめは驚いていた彼女だが、目をやや伏せ、口元を不安で歪ませた。
「スピカが……本当にわたしにそっくりだと、里の方に言われました」
確かにスピカはリエラによく似ていた。だがひとつだけ、目の色だけは私と同じ黄緑色だった。どちらかと言えば人間の容姿を受け継ぐことの多い混血の子として、わずかばかりでも私と同じものを持っているのが存外嬉しかったものだ。
「最初は、すごく嬉しかったんです。でも、何度も言われているうちに……『旦那様にはまったく似ていない』と言われているような気がしてしまって……。里の方々にはお世話になっているのに、そんなふうに思ってしまうのがとても嫌で……」
この家に差し入れに来る里の者達のことだろう。先の騒動より以前から、彼らはリエラと距離をとっていたが、私がここに越したことで多少態度を変えた。だがいまは、八割九割と言わず、十割方『私の子を産んだ』リエラに興味本位で近づいている。そしてその好奇心が満たされると、改めて取るに足らないことだと思いたいがために遠回しに貶す。いったい何に優劣をつけたいのだろうか。リエラの話し相手になるのならと思っていたが、口さがない者達のこと。スピカがリエラに似ていると言ったのは、リエラを貶す意図であった可能性は充分にある。やはりリエラに関しては、里の者に気を許すべきではなかったか。
「スピカはおまえと私の子だ。それは私がよく知っている。不安に思う必要はない」
リエラは悲しそうにしながらかすかに頷き、おずおずと抱きついてきた。スピカが私に似ていたところで、本当にリエラが産んだのか、と里の者達は遠回しに言っただろう。どこまでいっても彼らは変わらない。例え里から出たとしても変わるかどうか。
「すこし前にスピカの夜泣きが酷いからと、おまえは部屋を二階に移したが、そろそろもとに戻さぬか、リエラ」
スピカが腹にいるとわかってから、リエラとは私の部屋で共に寝ていた。階段での万が一のことを考え、かつ、腹が出ると二階に上がるのも一苦労であることを見越してのことだった。
「ひとりで眠るのも寂しくなってきた。言う時機を逃していたが、夜泣きなど里で珍しいものではなかったのだ。里の者の話もそうだが、おまえは物事を気にし過ぎだ」
すこしでも不安がなくなるようリエラの頭を撫でる。忘れてしまいがちだが、私からすれば彼女は本当に年若く、生まれてまだ二十年も経っていない。他種族より寿命が短い人間は成熟するのが早いと聞くが、それでもこの状況、一族の存続や子育て、日々の暮らしを維持していくことは、リエラにとって負担が重すぎる。
だからこそ、私がいる。
だというのに、私はどれほどリエラを支えられているのだろうか。
「前に、スピカがまだ腹にいた時、わけもなく不安がっていたな。その時は添い寝をしただろう。まだ不安に思うようなら、今宵もそうする。子を産んだとて、甘えてはならない理由はない。私はおまえにはなれん。その不安を受け持つことはできぬが、せめて隣にいさせてくれ」
腕の中で、リエラが頷いた。
その夜は私の部屋のふたつの寝台をぴたりとくっつけ、親子三人で横になった。
「……旦那様」
明かりを消してすこし経った頃、隣に寝ているリエラが、躊躇いがちに私を呼んだ。リエラとスピカは私を挟む形で横になっている。どうしたのかと訊くと、彼女は囁くような声で話しはじめた。
「わたし、ずっと、弟のこと、好きになれませんでした」
その声色は、懺悔のものだった。
「弟が流行り病で死んでしまったあと、悲しんでいたお母さんも、段々と体調を崩していって……。だからお母さんが死んでしまった時、弟のせいだって、思ったんです。弟がお母さんを連れて行ってしまったんだって……」
すすり泣く音が間近で聞こえた。毛布の下でかすかに震えていたリエラの手を握る。
「でも、いまは、お母さんの気持ち、わかります。わたしも、スピカが死んでしまったらと思うと……。だから、弟のこと、やっと許すことができました……」
リエラの中で、ずっとあったわだかまりだったのだろう。生来の優しさゆえに、弟を真っ向から嫌うこともできず、かといって許すこともできなかった。しかし娘を産んだことで板挟みになっていた心がようやく解放されたのだ。私はリエラが、ただ優しく、ひとが好いだけではないことに、すこしだけ安堵した。純真であることはいいことだが、同時に傷つきやすくもある。恨みつらみ、妬み嫉みも、ひとが持っていて当然のものだ。
リエラが眠りにつくまでの間、気分を変える何かをしたほうがいいのではと考えていた。翌日、リエラとそのことを話し合い、その二日後、私とリエラとスピカは共に町へと下りた。三人で町に下りたのはこれが初めてで、町を見て回り、その日は帰らずに町のいい宿に泊まり、翌日に帰宅した。はしゃいでいたスピカと違い、リエラははじめ恐縮していたが、途中から明るい笑顔を見せ、帰る頃には穏やかさの中にすこしの名残り惜しさを漂わせていた。




