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ミネルバ-望郷の町-  作者: 近藤 回
第三章

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化石の魚 1

 馬車に揺られること数時間。

 あたしからすると馬車というのは優雅でかっこいい乗り物だが、実際に乗ってみると結構揺れて、優雅でもなければ休んだ気もしない。そして結構うるさい。

 遠くに見える広い森を横目に、座り過ぎておしりが痛くなってきた頃、古代の立派な神殿かと思うような門構えの建物が見えてきた。石造りの頑健そうな建物で、ひとつひとつの石が大きい。正面に二本、長くて大きい円の石柱があり、縦に溝が何本も入っている。そのふたつの柱の真ん中に大きな木の扉の入口があった。

 ミネルバとの趣きの違いにとても驚いた。隣の領地になるとこうも建築様式が違うものなのだろうか。それとも宿泊施設ゆえの趣きの違いだろうか。

 馬車から降りると、厚手のコートを羽織りたくなるような寒く湿った風が吹いていた。午後の日差しは雲のせいでお預けになっている。

「いやー、やっと着いた。座ってただけでしたけど、疲れましたね」

 横に立っているノアが嬉しそうに言った。あたしはつられて口の端を上げた。ノアはシャツにズボンにロングコートと、今回は流石に私服を着ていた。彼はいつも夜遅くまで起きているらしかったが、朝は早くから動いており、制服以外の服を見たことがなかった。寝間着も見たことがない。

 こうして地方司令官が手配してくれたという宿泊施設の前に着いたが、ノアは散々悩んでいた。結局は慰安旅行という言葉の魅力に折れて行くことに決めたが、決めてからも悩みの種があった。

「ほら、さっさと降りろって」

 振り返ると、別の馬車からサイラスとアサギが降りてきた。ふたりも当然私服だ。サイラスは建物を嬉しそうに見上げているが、アサギは相変わらずの仏頂面で陰気な雰囲気を出していた。本来なら馬車一台で四人乗れたのだが、ノアが気を遣って四人を二台の馬車に分けたようだった。

 慰安旅行に行くと決めたあとの悩みの種というのは、アサギのことだった。彼は旅行に行くことを頑なに拒んだのだ。理由は恐らくあたしも行くからだろう。サイラスの長々とした説得をほぼ無視したあと、彼は本部を出て行き一方的に話を打ち切った。それから数日後の今日、こうして彼の姿があるということはサイラスが説得を成功させたらしい。息抜きをしに来たわけだが、すこしばかり息が詰まって、正直来なければよかったのにと思ってしまう。


 人間だもの。意地悪になることも、ふつうにあるわ。


 心の中で姉の声がする。可愛い姉が意地悪をする分には波が立たないだろうが、姉はむしろそんなことはしない。姉は父に似て優しいのだ。あたしはきっと、いなくなった母に似ているに違いない。

「早く中に入ろうぜ」

 サイラスが肩に荷物を引っかけながら声をかけてきた。あたしは頷いた。

 建物の中の壁は生成り色で、広く明るく、天井も高かった。アーチ状で、角から対角線が引かれ、頂点で交差している。建物は立方体ごとに区切られ、ひとつの正方形の中に受付があり、ほかの正方形は廊下となり、ラウンジとなっている。形が同じ大きさのブロックをくっつけたような構造だった。奥に行けば温泉や泊まる部屋があるのだろう。受付でさまざまな確認をしたあとに鍵を渡され、それぞれの部屋に案内された。

 あたしは部屋に案内され個人行動になったあと、すぐに浴場へ向かった。今回一番楽しみにしていたものだった。あの家に厄介になってから一番不便に感じたことは、服の無さよりも何よりも風呂だった。あたしは風呂が大好きだったが、それゆえに困ったことになっていた。

 ここでは湯を鍋で沸かしそれをバスタブに移すのだが、湯は半分くらいしか入れない。バスタブで体を洗い、出たらそのまま流すようだった。限られた湯量で体を洗うしかなく、とても大変だった。話を聞いた限り、疲れを癒すために夜に入る、のではなく、身支度を整えるために朝に入るようだった。

 浴場は思っていたよりは小さかった。しかし家庭のものよりは明らかに大きい。脱衣所で服を脱ぎ、タオルを持って早速浴場へと入る。一面の湯気が雰囲気を出している。床も壁もタイルが敷き詰められ、壁の上のほうには窓のようなものが開いていた。

 あたしのほかにはひとが見当たらないが、貸切りのようでとてもよかった。シャワーを浴びて、湯量を気にせず使える幸せを味わったあと、湯船にゆっくりと浸かった。全身に鳥肌が立った。こびりついていた不安が霧散して、頭の中がすっきりしてくる。

 そして思い出したことは、またしても先日の、ヘイル少年が言っていたことだった。

 あのアサギが、あたしと同じ〈メイト〉だという可能性。

 アサギに直接訊いてしまえばいいのだが、自分と彼の間に流れる雰囲気が気軽にそうさせてくれない。彼はどう見ても、あたしに話しかけられるのを避けていた。これで気のせいだったら、とんだ被害妄想だ。しかし感じるものは感じる。

 物音がしてふと我に返った。折角大きな湯船に浸かっているのに、こんなことばかり考えていては台無しだと思っていると、女がひとり、体を洗ってから湯船に入ってきた。広い湯船なので離れていたが、女はこちらに声をかけてきた。

「あなた、ここに慣れてるの?」

 そう言って、女はすこし離れたところに体を落ち着けた。

「え、いえ、ここに来たのは初めてですけど」

 そうこたえると女は「おや」と声に出して驚いていた。湯気の向こうで見えにくかったが、髪も目も、やや赤味の差した焦げ茶色だった。髪の長さは、タオルを頭に巻いているので正確にはわからない。

「そう。常連客なのかと思ったよ。まあ、それにしては見ない顔だと思ったけど」

 彼女は納得したようだ。年はいくつだろう。年上のように見えるので二十代半ばくらいだろうか。年齢というのは本当に読みにくい。あたしは彼女に問い返した。

「あなたは? 常連なの?」

「あたし? あたしは、そんなものかな。息抜きによく来てる。でもここの浴場に浸かりに来るひとたちは、常連以外はあんまりいないから、いつも空いてていい」

「どうして空いてるの?」

「そんな質問をするってことは、ここのひとじゃないんだね。どこから来たの?」

「えっと……ミネルバ、から」

 あたしはこたえようか迷ったが、言うだけ言った。嘘は言っていない。

「それならわかりそうなものだけど」

「わからないから訊いてるの」

 観念したように言うと、彼女はふふと笑った。

「いや、ごめん。探りを入れるつもりはなかったんだ。わかりやすいように言えば、ここいらのひとたちは誰かと同じ風呂に入るなんて考えもしないんだ。こんなふうに湯に長く浸かるということもね。だからここに来るひとのほとんどは、部屋の備えつけで事足りる。ここには来ない。あたしも最初は驚いた」

 つまりこの施設をつくったひとは、集客を見込めないものをあえてつくった、ということか。建設費や人件費など、どれほどかかっているのかわからないがすごい決断だ。

「世の中には色々な習慣があるんだね」

 女は力を抜くように大きく息を吐いた。

「そうね」

 あたしは大いに同意した。建築様式はまったく違うにせよ、大きな湯船に浸かれることは幸せ以外のなにものでもなかった。

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