4、帰郷
「ただいま、じいさん」
日が落ちる前に辿り着いた森の、その入口に立っているエルフの老人に軽く手を上げる。俺の中の祖父の印象からすこしもずれていない白髪の老人は、挨拶をしたというのに至極嫌そうに顔を歪めて俺を迎えた。苦々しく俺を見遣ると、出し抜けに唾を吐いた。
「そんなへらへらした面構えの奴なぞ知るか。帰れ」
祖父のアクイラは相変わらずの理不尽さと屁理屈さを振り回し、俺は身をもって帰って来たのだと実感した。これでこそ俺のじいさんだ。
「酷いなー。じいさんはたった十一年会わなかった孫の顔を忘れるのか?」
「生憎わしの孫はもっと可愛げがある。背ばかりでかくなりおって、木偶の棒そのものだ」
祖父が貶す言葉を吐くのは身内だけで、親しいからこそと言えた。それがわかっているので笑みさえかたどれる。なんと言われようと、彼は俺の祖父で、唯一の家族だった。
「さっさと行くぞ。まったく、おまえひとりで奥まで来られたら、わしがここまで来なくて済んだんだ」
「ああ、本当に有り難いよ。久々すぎてふつうに森に迷っただろうし」
「まさに木偶の棒だな。おまえにぴったりだ」
ハッとアクイラは吐き捨てた。エルフは三百年ほど生き、老けるのも晩年の五十年からだった。アクイラは晩年の五十年に入って久しく、顔にはしわがいくつもできて溝のようであり、ランタンのついた杖を持つ手は節くれ立っていた。
「そうだ。じいさん、手紙、助かったよ。書くの大変だったろ?」
森の中を歩きながら、つと訊く。
「おまえはどうしてひとつのところにいない? そのせいで愚弟に手紙を送るはめになったのだぞ」
一瞬なんのことかわからなかったが、なるほどと思った。アクイラは、去年最本部に引っ越した俺を新しい住所が覚えられないという個人的な理由によって責めているのだ。一応手紙で最本部の住所は伝えてあるのだが、祖父は一度こうだと思うと意地でも認識を変えない。俺の名前を本名しか存在を認めていないのもそうだ。アクイラにはきっと、物事のひとつひとつに、ひとつずつこたえが紐づけされていて、それ以外は余計なものだと決めているのだろう。
「仕事の都合だよ。そっちにいたほうが仕事場に直結してるし、都合がいいんだ」
「生意気を言うな、小僧。言うことを聞かん奴は馬に蹴られて死んでしまえ」
「はいはい」
素手で馬糞を投げつけてくるようなアクイラの言い回しを聞いていると、サジタリスの小言など小鳥のさえずりのようなもので、可愛げさえある。
久々に歩く森の道は、正直に言うと自分の運動不足をすこし感じさせられた。書類整理が多いが、これでも体が資本の仕事に就いているので極端に体力が減ったわけではない。週の何日かは剣を握って型を確認するし、相手さえいれば演習もする。しかし森の中を歩くのは石畳と明らかに違い、普段とはまた違う体の部分を使っているようで、アクイラに悟られないよう息を整えるのは大変だった。
刺すような寒さの中、一時間ほど歩くと木々の間にぽつんと一軒の家が姿を現した。玄関先に明かりが灯っている。十年以上振りに見るその家は、自身の目線が高くなったこともあって小さく感じられた。アクイラは何も言わずにさっさと中に入っていく。俺も特に何も言わずにあとから中に入った。
丸太で造られた一階建ての家は、入ってすぐに広いリビングがあり、その隣にアクイラの寝室がある。部屋らしい部屋はそれらともうひとつだけで、当然ながら俺の寝室はない。リビングにある薪ストーブですべての調理をするのでキッチンは申し訳程度の造りだ。屁理屈な老人の一人暮らしに似つかわしく、非常に大雑把で簡潔的だ。俺がここに住んでいた時はリビングのソファーで寝ていた。それがふつうだと思っていたし、いまでもそう思っている。ただ、いまの身長だとソファーの長さが足りないのは明白だ。最本部にいた時にはまったく感じられなかった、強烈な木の匂いが漂っている。
「さっさと茶でも淹れろ。おまえが客なんだ。おまえが出せ」
「はいはい。なんなりと」
壁際の棚から紅茶の茶葉を探し、使う食器を流し場で軽く洗う。紅茶の茶葉は前に俺が贈ったものと同じもので、余程気に入ったらしく、以降は弟のセルペンスに茶葉を頼んでいた。しかし一度、天候不順によりその茶葉が収穫できなかった時、アクイラはわざわざセルペンスの邸にまで乗り込み、役立たずだ無能だと罵詈雑言を叩きつけたらしかった。ここまで聞くと、セルペンスが里を出て行ったのはアクイラが一因であったのではと思えるが、当のセルペンスはアクイラを何故か尊敬している。
こうしていると懐かしさばかりが湧いてきて、変に穏やかな気持ちになった。しかしこの家も狭くなった。背が高くなるとこうも窮屈に感じるものなのか。近くの川からケトルに水を入れ、家に戻ってストーブの上に置いた。ケトルの外側についていた水滴が落ちて、じゅうっと音を立てる。
ここで暮らしはじめた頃から祖父は頑固で屁理屈屋だったが、その頃から威圧感は覚えなかった。俺自身が捻くれた性格で、かつ視力の回復した目に慣れるのに必死だったせいもある。意図して祖父をからかえるくらいで、孫だったこともあり、祖父は俺が本当に困った時はなんでもしてくれた。俺はこの里の誰よりもアクイラと仲が良いと自負しているし、これからも俺しかいないとも思っている。
「この前の魔族のことは解決したのか」
キルトカバーのされた別のソファーに座るアクイラが訊いてきた。俺は頷く。
「ああ。その魔族はもう、この世界からいなくなった」
「……そうか」
アクイラはそれしか言わない。それが俺にどう関わっているのか俺にすらわからなかったはずなのに、真っ先に手紙を寄越したのを考えると、祖父は直感的に何かを感じたのだろう。こういうところは本当に侮れない。
「ああ、そうだ。領主、死んだよ」
「愚弟から聞いている。当然の報いだ。燃やされてなければ裸にひん剥いて逆さ吊りにしてやったものを、惜しいことをした。まあ、孫が殺人犯になると沽券にかかわるのでな。自分の手を汚さずに済んだと思って、喜ぶんだな」
厳めしく言っているが、どことなく安堵しているようにも見えた。祖父には何も言っていなかったが、俺が復讐に血眼になっていたことはお見通しだった。数年間共に過ごしたせいだろう。祖父は祖父として、俺を心配していた。
「俺は、この手であいつを殺してやりたかったよ」
俺の家族を死に追いやった男の最期は、考えれば考えるほどあっさりとしていた。たゆたう煙のように俺の中で存在が薄れていくのに、昔に聞いた音が、声が、ふとした時に耳の奥でこだまする。
「俺は忘れられない。あの時の、みんなの声を。泣いて、叫んで、焼けて崩れる家の、むせ返る空気を。俺を助けて死んだガーランドの声を。最期まで俺を案じた、兄さんの言葉を……忘れられるわけがない」
彼らは最期の時、どんな顔をしていたのだろう。
「忘れろ。そのほうがおまえのためだ。沸いたぞ」
目をやると、ケトルの注ぎ口から蒸気が出はじめていた。木製のローテーブルの上に用意していたティーポットに湯を注ぎ、蓋をする。
「サジタリスはどうした。何故一緒に来なかった」
「手紙にも書いたけど、隣町に異動させたんだ。だから普段から会わないし、あいつはあいつで自由にやってるよ」
「面倒なことをしおって。サジタリスがおまえを追ってここから出て行った時に、さっさと子供を作ればよかったのだ」
「サーシャは俺の許嫁じゃない」
「いまはおまえの許嫁だろう。サジタリスは『ガーランドの許嫁』だ。それなら名前を継いだおまえのものだ。エルフの女はいいぞ。胸も尻もでかい。しかしまあ、欠点をひとつだけ挙げるなら、ガタイがよすぎることだな。でかい女は体力を使う」
変に饒舌になってきた。こういうところはネイハムと似ている気がする。
「はいはい。ばあさんが聞いたら泣いちゃうな、これ」
軽く流した俺にへそを曲げることもなく、アクイラは上機嫌にソファーの手すりを爪で叩いている。若い頃はモテたと自慢されていたが、孫の背が伸びる度に自分より低いことを確かめてくるくらいの自尊心の高さで、その話が本当なのか怪しいところだ。が、ここで否定をすると血を受け継いでいる自分を四分の一ほど否定することになる。祖父がモテたのは本当だろう。何せ俺の四倍はモテたことになるのだから。
「リエラはいいんだ。わしが娶ってやったんだからな」
乱暴な物言いだが、アクイラは壁にかかっている祖母の肖像画を嬉しそうに見上げていた。肖像画の祖母は、カールのかかった茶髪で、丸顔に人懐っこい笑みを浮かべている。この家の中で祖父の唯一の癒しなのだろう。祖母は四十歳になる前に死んだ。肖像画はとても若く、祖父がリエラと結婚した頃の、祖父にとって一番魅力的だった頃を描いたものだろう。見る者が安心するような彼女の微笑みを見ていると、一度でいいから会ってみたかったと思った。アクイラがリエラと結婚したのは、リエラが十六の時で、花のつぼみが開くようにさぞ愛らしさに溢れていたに違いない。娶ってやったと言いながら、その実、祖父のほうがべた惚れだった。
「リエラは美人ではなかったが、気立てだけはよかった。美人は三日で飽きる。その点、リエラは合格だったわけだ」
予想した通り今度はのろけか。適当に相槌を打ちつつ、時間も経ったので紅茶をカップに注いだ。アクイラは砂糖入れから砂糖をスプーン山盛り四杯入れた。俺は山盛り一杯入れる。離れていてもアクイラのカップから、溶けきれない砂糖がかき回されてジョリジョリと鳴っているのが聞こえた。俺の甘党は祖父譲りだ。
「あれから体はどうだ。変わりないか」
アクイラはカップに視線を落としながら何気なく訊いてきた。
「何も起こってないし、視力もまあ変わらない。ちょっと悪くしたけど、安定したままだよ。ほんと薬、さまさまだ」
アクイラはエルフの里にとって一番大事なものである霊薬を俺に飲ませてくれたが、万が一のことを気にしているようだ。霊薬はエルフにしか効かないので、純粋なエルフではない俺にどう作用するのか誰にもわからなかった。それ以前に、霊薬を使うこと自体を里の者が反対していた。アクイラはその反対を押し切って霊薬を俺に飲ませてくれた命の恩人だった。しかしその霊薬があったからこそ、俺の家族は死んだのだ。欲にまみれた領主の企みによって。
「それから、おまえ、命よりも大事な奴はどうなったんだ」
十一年ぶりだったこともあって、祖父はいつになく話しかけてくる。ほかの里の者とはあまり話さないため、俺に話したいことがたくさんあったのかもしれない。
「……死んだよ」
たった一ヶ月前のことだ。あれから随分経った気がする。
彼女が死んでから、いつの間にか、それだけの月日が経ったのだ。
「……まさかとは思うが、この前ここに来た女か」
「この前?」
「サジタリスが案内をして、墓場まで連れていった時だ。魔族と、もうひとり、妙な気配のする女が来た。おまえが呼んだと聞いたが」
そこまで言われて、いつぞやの、友人に墓参りを頼んだ時のことだとわかった。
「見てたのか?」
「当たり前だ。あんな妙な気配を振りまかれて、ふつうにしてられるエルフはおらん」
墓場もとい、俺の家があった場所は里の外ではあったが、森の中なので彼らの行動範囲に入っている。もともと里を守るために俺の家族がいたわけで、そこまでは頑張れば誰でも辿り着けるらしい。だが長くいれば森にかけられた術が作用しはじめ、森の入口へと戻される。俺の家族が森に居続けられたのは、例の権利書があったからだ。
しかし、そうか。祖父は彼女を、見たことがあるのか。
「おまえは妙な奴を気に入る癖があるからな。だったらなおさら、サジタリスに子供を産ませてその女のことは忘れることだ。死んだ奴を偲んでも、それほど慰めにならん。絵では話もできんしな」
屁理屈なアクイラでも寂しいと思い、それを自覚している。肖像画の祖母は微笑むだけで返事をしてはくれない。生身のひとでなければ反応は返ってこない。しかし俺は、アクイラのように独りになりたいとも心のどこかで思っていた。誰とも会わず、どこかで静かに暮らしたいと。この数ヶ月の間に色々なことが起こったせいもあり、精神が擦り減ったままなのかもしれない。擦り減った精神が女を抱くことで戻るというのならしてもいいが、気分的にする気になれなかった。誘われたらまた別なのだろうが。
「ああ、そうだ。おまえ、明日の朝一番に帰れ」
「は? なんだよ、じいさん。久しぶりに帰って来たのに、ゆっくり寝かせてももらえないのか?」
「おまえがいると家が窮屈に思えて敵わん。ゆっくりしたところで、懐かしめるものもそうそうないだろうが」
そう言うとアクイラはカップの中身を飲み干し、自分の寝室へと引っ込んでしまった。わざわざ休みを作って来たというのに、アクイラは本当に自分勝手だ。しかし俺の顔を見て一応は安心したのだろう。だからこその発言だと思われた。
俺は毛布を探し出してからソファーに体を沈めた。きしみ方が昔と違う。薪ストーブにくべられた木がはぜた。目蓋を閉じると、静寂が隣にいた。




