4、頃合い
ああ、そうなのか。
と、思えたらよかったのに、混乱、なんてものではない。面と向かって、これほど純粋に気持ちを伝えられたのは、初めてだと思う。これは予想していなかった。私は改めて、物事は自分が思っていたよりも単純であって、単純でないことを痛感した。いや、侮っていたと言うべきか。廊下のほうから物音が聞こえていたが、それを気にする余裕がなかった。
「えっと、つまり、今回のことは嫌でもないし、むしろ問題ない、ってこと……?」
自惚れているようで多少の恥ずかしさが湧くが、確かめないわけにもいかない。彼女は小さい体をさらに縮こめて、かろうじて頷いた。
と、キッチンの扉が急に開いて、心臓が止まった。
「おはようございます」
そこにいたのは部下のアサギだった。いつもの無表情でこちらを見ている。
「あ、おはよう」
慌てて挨拶を返すと、アサギはキッチンの状況に疑問を持たなかったのか、何も言わずに扉を閉めた。足音が応接間のほうへと向かっている。早めに来たのか、それともいつの間にか定時になったのかわからないが、いずれにせよこの話は一旦保留にしなければならない。
「またあとで、話、いい?」
彼女は頷いて席を立ち、静かにキッチン内の階段を上がって行った。
これほど早くにこたえが聞けると思っていなかった。いや、そういうことではない。そういうことではないのだが、まさか肯定的に受け入れられるとは予想外のなにものでもなかった。
衝撃を受けたまま町を見回り、気がつけば夜になっていた。部下も皆、帰っていた。信じられないが、日がな一日記憶が曖昧だ。いつ帰ってきたのか、私は応接間のソファーに腰かけていた。木のはぜる音が左手の暖炉からしている。薪をいつくべたのか、何本も置いてあった。
「……あの」
振り向くとソファーの近くに、恥ずかしそうに俯いているコーラルが立っていた。
彼女の姿を見た時、不思議な感じがした。
それがなんなのか考えそうになったが、その前に何故ここに彼女がいるのかわかり、ハッとした。
「あ、ごめんね。またあとでって言ったの、私のほうなのに」
時間を割けなかったのかどうかは、記憶が曖昧なのでわからない。コーラルは視線を合わせないまま、小さく首を横に振り、促すとおずおずと隣に座った。また隣だ。
いつもは座らない側のソファーで、正面に本棚とその左隣に扉が見えた。客人にはいつもこちらに座ってもらっているが、こちらの景色は広さを感じず、あまりよくないかもしれない。いつも私が反対側に座っているのは、応接間の出入口や窓の外を見渡して、誰が来たのか、怪しい人影がいないかどうかを把握するためだった。決して眺めがいいからというわけではない。
と、こんなことを考えている場合ではなかった。呼吸をやや整えてから彼女に向き直る。
「朝の確認で申し訳ないんだけど、私の申し出を受ける、ってことで……間違いないんだよね?」
似たようなことを口にしていたはずなのに、今回は妙な感じがした。その問いに、彼女は朝と同じく真っ赤な顔で頷いた。その様子は花も恥じらいそうだった。
「わかった。……ありがとう」
私のわがままに付き合わせたようで申し訳なさもあったが、それを言うのは失礼だと思い口にしなかった。彼女は彼女の理由でこの話を受けたのだ。
「もう、休もうか。お互い疲れただろうから」
「……うん。すごく」
苦笑しながら言うと彼女も同意した。しかし彼女はすぐには席を立たず、しばらく座っていた。
さて、彼女の同意を得たところで、これからの問題というと、彼女の親、特に母親への報告だった。彼女と母親はほとんど縁を切っているようなもので、その状態で報告をしに行ってもいいものだろうかと悩んでしまう。しかし彼女を生んだ親である以上、挨拶をしに行かないわけにもいかない。いっそ遠いところに住んでいるのなら、手紙で済ませてしまうのだが。このことは追い追い考えることにしよう。私だってしたくないことのひとつやふたつはある。
もうすこし考え事をしたかったが、違和感というのか、何か落ち着かなかった。自分でも先程言ったが、すぐに自室に行って珍しく早めに休んだほうがいいかもしれない。問題は確かにいくつかあるが、コーラルの同意を得る以上に難しいことなどないようにも思えた。
「あ、そうだ」
私はあることを思い出し、自分の髪についていた木製の髪飾りを外してコーラルに渡した。
「何かのしきたり?」
彼女は掌の髪飾りを不思議そうに見つつ、鋭く正解をこたえた。私は頷く。
「そう。うちの部族では伴侶になるひとに、自分の髪飾りを渡すんだ。部族を追い出された身だし、守る必要もないんだけどね。指輪のほうがよかったと思うけど」
コーラルは首を横に振り、まじまじとそれを見た。ゆっくりと目が細まり、口元が緩やかな弧を描く。その、幸せそうな表情は、いままで見たことがなかった。ガラスでも散りばめたように輝いて見え、私は何を思ったのか、手を伸ばして彼女の頬に触れていた。
考えていたよりも温かい。
ひとの頬というのはここまで温かくなるものなのか。
目が合った。
エメラルド、いや、グリーンガーネットを思わせる瞳だ。見入る。
あの表情が消えている。
どこにいってしまったのだろう。
「う、あ、あの……っ」
消え入りそうな声が、紅も引いていないのに赤い唇から漏れる。
その声が、鮮明に聞こえた。
正気に戻った私が見たものは、あまりにも近くにある彼女の耳まで赤くなった顔だった。
彼女は慌てて立ち上がると、駆け足で応接間を出て行った。
呆然として後ろ姿を見送ったあと、ゆっくりと姿勢を戻す。
自分がしようとしたことを考えると、心臓がいやにうるさく鳴りだした。
あれが相手に好意を持つことで自らが起こしてしまう現象のひとつだとしたら、まさに由々しき事態になっていた。今朝、彼女に好意を示されたことによって、私のほうも好意を抱くようになってしまったのだろうか。だとすればなんと単純なのだろう。しかしいままでもそういったことがなかったわけではない。
頃合いだったのか。
それとも、彼女だったからなのか。
世のひとびとはこのような感情を持って、何故だいじょうぶなのだろう。今回はかろうじて未遂で済んだが、次はそうなるとも限らない。これではますます彼女の力が出てしまわないよう、配慮をしなければならなくなった。彼女の力である匂いは魔族を依存させる。依存が好意と似ているようなものなら、それはとても恐ろしい。自我を失うようなものだ。またしても事の重大さに気づいてしまったが、今度の私は頭を抱えることもなく、むしろ苦笑した。
持ったことのない感情をいざ手にしてみると、意外と軽く、みぞおちのあたりがくすぐったかった。持て余すのがわかっていても、手放すのは惜しいもののような気がした。近いうちそれに振り回されるとわかって構えていても、恐らく無駄な抵抗になる。
明日、彼女は顔を合わせてくれないかもしれない。
申し訳なく思いつつ、これからどう接したらいいのかを考える。
いつか彼女が応接間の隣のリビングで寝てしまっていた時と違い、残念ながら今回は明確なこたえが見当たらない。あの時は彼女を起こすのに気が引けて、彼女の部屋のベッドまで運んだ。左手に力が入りにくいので、先にすべての扉を開けてから運んだのだが、そういえば寝顔が愛らしかった。
自然と表情が緩む。
こういう悩みも、案外悪くない。
番外編1、おわり。




