3-2
リスは手を離したら逃げそうになったが、ルトヴィヒが「どうせ、すぐに見つかる。魔法で」と真顔で言ったので、怯えて残った。そんなこんなで一行は動物の森へ向かうことになった。
リスの指示した方向へ進む。リスはアーサーの頭の上だ。あの後、「あら、これいいわねぇ」と縮れたような黒髪の毛先にもつれて、リスは落ち着いたらしい。「これ二三本いただいて帰っていいかしら」「いいけど、何に使うの?」「おいお前何勝手に人の髪の毛、」「うふふーベッドの材料にちょうどいいわぁ」
のんきな会話で、緊張は自然ととけた。
濡れたコケが滑りやすい。ルトヴィヒは湿った倒木をまたぎ越えるときに転び、白に近い金髪を泥で黒斑にした。不機嫌な薄い水色の瞳が、さらに冬空のように寒々しい。
フェイルは、悪い魔女が住んでいそうな森だなと感心していた。葉のばらばらと落ちた森、黒い幹は腐ったようにぬめり、臭いがする。堅かった地面が徐々にぬかるみ、足首まで靴が沈みそうで辛い。足下が悪いから、足が重たくなる。
猫の足が、体重でずぶずぶと沈んでいく。ルトヴィヒは猫を広い掌で拾い上げ、前屈みのまま顔面から木にぶつかった。
「何してんだよお前らー」
かかしのように時々変なポーズで止まりつつ、アーサーが呆れた声を投げる。
「何が?」
「いやお前はいーんだけどさぁ。猫とそこの、白金の」
「ジルカとルトヴィヒ?」
「そうそれ。まだ俺たちの進んでる距離の半分も進んでないじゃん」
アーサーは来し方を振り返って、腰に手を当てる。フェイルも振り返り、ようやく、自分の後ろにいたアーサーと、そろそろ見えなくなりそうな、遠近の関係で親指くらいの大きさになったルトヴィヒと猫を見つめた。
「……私、待ってようか?」
「どっか落ち着ける場所まで行ってからにしようぜ、俺腰痛い」
「案外皆軟弱ね」
「認めたくねえ事実だけどよー、姫が一番体力あるっつうのも、変だろ」
「体力というか、私乾いたところ選んでみたり、歩き方に工夫してるもの。だてに雨の日の森で狩りしてないわよ」
えへん、と胸をはった姫から目をはずし、アーサーは遠くの男におーい、と声をかけた。
「これ、もしかして偽物の姫じゃねえか?」
「……私もちょっと疑いたい」
「ルトヴィヒまで! あ、今猫も頷いたし! ジルカーっ」
猫はそっぽを向く。自慢なしっぽが、黒くてざびざびした、固まりのような土で汚れている。髭も。
「もー」
フェイルは顔がかゆい感じがして、こすった。鼻の下と眉の上に、木に手を突いたときの炭のような汚れがうつった。アーサーは指を指して笑う。
アーサーの髪の毛の中で、宝石泥棒のリスはぬくぬくと丸くなり、健やかな寝息を立てていた。
黒い沼のさらに奥、倒木七つ向こう、小さな穴があった。出入り口には背に斑模様のある蛙が二匹、頭に房飾りのあるかぶとを乗せて立っている。それですぐに、そこが蛙の城だと分かった。ナイフとフォークを左右から交差させた蛙たちは、何奴、と叫んでこちらをにらむ。人間の、男の子供のような甲高い声だ。
フェイルは「動物の森」で初めて、(このリスを除く)喋る上に服を着て、後足で立ち上がっている生き物に出会った。
「おぉおぉ、何となんと。ベルガラス一統、お仕えすべき方にちゃんと仕えておるのは感心だ」
掌二つ並べてもはみ出しそうな、大きな茶色の蛙だった。せー、せー、と呼吸が聞こえている。落ち葉で土壁を飾り立て、人間みたいな寝間着をまとい、絹の布団を敷いた木のベッドに寝ていた。豪奢な天幕がついていて、フェイルは侍従がそれを開いて王様と対面させてくれるので礼を言った。
「で、ベルガラス一統って、何ですか」
「事情については、先に、門番からの伝達で聞いておる。うむうむ。しかしこうして相まみえて、聞いていなかったことも分かった。王女が来たとは聞いたが、ベルガラスとジアン派が仲良く首を並べているのは珍しい。ジアン派がラチタの主宰法議になったとかで、てっきりベルガラス一統は宮廷付きの魔法使いを辞めてしまったものとばかり」
喉に粘っこいものをためながらも、蛙の王様は目を閉じたまま、すらすらと言ってのける。おかげで、説明の説明を頼もうとしていたフェイルはうまく口が挟めない。後ろでアーサーが、「俺めんどくさいの嫌い」と呟き、こっそりと外に出ようとしたが、狭いうろの出入り口を抜ける前にルトヴィヒに首根っこを押さえられた。足下で、銀灰猫がまだぬかるんでいる地面に四苦八苦している。
「私も出たいのに我慢してる。お前も出るな」
「何だその理屈はー。お前眠たいなら外に出て寝てれば」
「眠くはない。お前と一緒にするな」
「憮然としちゃってさぁ。いっつも半眼だから眠そうなんだよ」
銀灰猫が、蛙の衛兵数名に話しかけられているが男二人は気づいていない。もちろんフェイルも、振り返っていないので知らない。
ルトヴィヒが感心したように声をあげる(小声だが)。
「……目つきが悪いとは言われたことはあるが、眠そうとは初めて言われた」
「眠そうなのと怖い顔ってのは同じなんだよ、眠いのにと不機嫌になるもんだろ」
「そうか?」
こそこそ喋っている二人の尻を、蛙の衛兵が二匹でつついた。
「王様の御前だぞ」
ちなみに銀灰猫は、部屋の片隅にあった人間の子供用の長靴(落とし物を拾って置いていたらしい)を他の衛兵に履かされているところだ。
「王様の御前だぞ」
蛙の衛兵二匹は、まだ喋っている男二人をあちこちつついた。
「いてえな、分かったってば」
アーサーがようやく衛兵たちと目を合わせ、はいはいと頷いた。ルトヴィヒと肩を組み、静かにすることを誓ってみせる。
フェイルには、後ろで何か仲が良さそうにしているふうにしか思えない。
(いいなぁ、二人とも)
ここで王様に会いに行く用事があるのは、フェイルだけだ。ルトヴィヒもアーサーも、特に自分の用事があってついてきているようではない。
(私がきかなきゃ)
ぐっと拳を握ったものの、王様の話が止まらない。
「そうか、そうか。竜にベルガラスにジアン、混合宗派。様々な気配をつれて、よくぞここまで」
「竜……って、大きくて翡翠みたいな鱗を持つ、ちょっと前まで空を飛び回っていた、」
やっと口を挟めたが、王様は、あるかなしかの首らしきものを振った。苦しそうなぼってりした腹も揺れて、大きなプディングのように見える。
「いや、知恵ある竜だ。姫が言っているその竜は、知恵ある者が、知恵をなくしてつい最近まで悪竜だのと言われて退治されることもあったもの。私が言う竜は、元は人のような姿を取ることもあり、人よりすぐれて魔法に近しい、生き物のことだ」
「混合宗派っていうのは」
「ジアン派でもベルガラス一統でもなく、他の派にも属さない方向の魔法使いだ。何だね、姫、あなたは聞いておられぬのか」
「ええと、はい。たぶん」
蛙の王様が、しばらく静かになった。呼吸だけが響いて、フェイルも眠たくなってくる。
「ジアンは、」
不意に王様が、大きくてはっきりした声を出した。目をこすったフェイルに、蛙の王様が黒々とした大きな目を向けた。
「ジアンは白色という色がなければ、なれない。しかも有色の白だ。ただ色素がない白ではなく、強い力のもたらす圧で、元の色が飛んで見えるだけ。魔力を失うと有色に戻る。ジルカ・ジアンは元は茶だろう」
「王様は、お詳しいんですね」
「ほ、ほ、息子ほどでもない。私の知識は、風の便りと昔の記憶ばかり。若い者の現在の見聞にはかなわないものだ、あなたはいい旅をなさい」
「……いえ、私は別に旅するためにここまで来た訳じゃなくて」
戸口に狭そうに立っていたアーサーが、暇そうにあくびをする。蛙が瞬きし、二度頷いた。
「そうだ、猫、にされた魔法使いを元に戻したいという話、でしたか」
「それと城中にかかっている眠りの魔法を、解きたいんです」
「私には、分からない。息子が向こうの沼におります。魔法に詳しい。彼に聞いてみれば分かる」
「会いに行ってみます」
頷いて、フェイルは「わざわざありがとうございました」と礼を言った。王様は目を閉じ、うん、うん、と小さな声で頷く。
「さぁお客人方。あまり長くとどまらない方がいい。ここはエルフェンの領域にして、時空のゆがみにふれた場所だ。叶うならば、一刻も早く、ご自身たちの時軸へと戻られよ」
意味が分からなくてきょとんとしたフェイルだが、
「行こう。王様、どうもありがとうございました!」
アーサーが背を肘で突いてきて、ルトヴィヒがフェイルの頭を後ろから押して下げさせた。
「うむうむ、ベルガラス一統、お仕えすべき方にちゃんと仕えておるのは感心だ」
王様がまた最初の言葉を言った。フェイルの足下で、地面に埋もれないように蛙たちによって長靴を履かされた銀灰猫が、にゃあ、と鳴いた。