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「にゃー!」
銀灰猫が爪を繰り出す。目の前には、綺麗な赤い宝石が転がっている。どこか紫みをおびていて、温度のひどく高くなった炎のような色をしている。ジルカが尾にひっかけていた、魔法使いの指輪だ。
猫の前で、茶色のリスがしゃっしゃっと威嚇音を立てる。尾を立てて、前屈みになって相手の隙をうかがう。
お互いの動きが止まり、互いが牙をむいて飛びかかろうとした、そのとき。
「ジルカー!」
開けっ放しだったドアから、フェイルが戻ってきた。
「私の部屋に戻ってたのね! 道理で見つからないわけだわ」
すがすがしい口調で言う。猫はびっくりして飛び上がったが、その隙にリスが宝石をくわえて窓から飛び出す。
「あっこら! それジルカの!」
フェイルも慌てて窓辺に飛びつくが、リスはあっと言う間に森に走り去ってしまった。
「光り物に目がないリス……雌か」
特に深い意味もなく、ルトヴィヒが呟いた。猫が窓辺でうなりをあげ、それから、フェイルがすぐ側にいるのに気づいてびくりとした。
「にゃ」
「ジルカ、どうしたの?」
猫はフェイルを見上げ、にゃ、としか鳴かない。入り口付近に立って、ルトヴィヒが物珍しそうに、猫を持ち上げたフェイルを見ている。猫がびょーんと縦長くのびたのがおもしろかったのかもしれない。
「ジルカ……魔法使いなのか? ただの猫じゃないか?」
「さっきまで喋ってたの。ジルカよ、珍しい柄だもの、見間違えないわ」
「確かに、あまり見ない模様の毛皮だ」
毛皮と言われ、一瞬猫は迷惑そうに眉間にしわを寄せた。が、一言も人間の言葉は喋らない。代わりに猫語を話すが、生憎誰も解読できなかった。
猫を抱きかかえ、フェイルはうーんとうなってみる。
「どうしよう、何か、唯一の味方が喋らない上に記憶喪失みたい」
「なぜ記憶喪失」
「喋れないだけなら、ペンと紙を使ってでも意志疎通出来るわ。でもジルカ、そうしないし。どうにか説明しようっていう気も、ないみたい」
「むしろ、ただの猫」
「猫かも」
にゃー、と猫が鳴いた。
「とりあえず、待っててもしょうがない気もする。誰か魔法使いに要請して、解いてもらいましょう」
「勇ましいが、ジルカ、は高名な魔法使いだろう。彼女が負けた相手にそうそう勝てる者がいるとでも?」
「勝ち負けじゃなくて、魔法が絡まって変化しただけなんだってば。ジルカが言ってたんだけど」
「では、ほどきかたを、教わりにいく、と。城の安全はどうする?」
「それは、ジルカが時限式の魔法をかけておいたみたいだから、大丈夫なんじゃないかしら。昨日の夜、自分が三時間以上触らなかったら発動する、城全体の防御魔法を、そこの床に書いてた」
「防御」
ぼそりと呟いたルトヴィヒが、続けて言った。
「私の目に間違いがなければ、あれは、何かをはやすようなものだと思うが。仕事柄見たことがある」
「え、」
がしゃーん、とどこかの窓が割れるような音が響いた。フェイルは身を翻し、ルトヴィヒが後に続く。猫は床に投げ出され、猫生活に慣れていないのか、胴体で床を転がった。
「こっちだ」
ルトヴィヒが、開いたままのドアに気づいて足を早める。ごく近い部屋、内部に古い甲冑があって、それが床に倒れていた。
「ここ、ちょっと高価なものが保管されてる、から」
フェイルは眉をひそめた。
「盗賊、かも」
もう城の警備が空っぽであるのに気付かれたのだろうか。城の敷地内に立っていた衛兵たちも皆倒れていたから、近くに来れば、異常はすぐに分かってしまうわけで――
「誰だ!」
ルトヴィヒが大声を出す。恫喝され、中で黒髪の男が立ちすくんだ。数拍おいて、手からばらばらと、宝飾品がこぼれた。
「あー! 泥棒ー!!」
フェイルが顔を指さして叫ぶ。反射的にルトヴィヒが彼女の手をはたきおとした。
「あ、失礼。つい。人を指さしてはいけない」
「いや痛かったけど、別にいいけど」
我に返った黒髪の青年は、慌てて背を向け、窓を踏んだ。痩身が思いのほか軽そうに、ふわりと宙に飛び出す。
「追いかけて!」
叫んでおきながらフェイルが真っ先に走り出す。床に落とされていた猫は、うちどころが悪かったのか、頭を振りながらよろよろと歩いてきた。やがてフェイルがためらいなく外へ飛ぼうとするのを見て、猫なりに悲鳴をあげる。ルトヴィヒが我に返って、フェイルの髪を引っ張ってとめた。
「ぎゃ!」
「失礼。ですが、姫、今の悲鳴は淑女としてどうかと」
「痛いし! それにジルカの宝石と色々宝石っ」
「ジルカの石を盗んだのはリスで、宝石をたくさん盗んだのは、人間の男です。歳の頃は十八、九」
「ルトヴィヒとそうかわらないみたいね、でものんびりしてると逃げられちゃう」
フェイルは落ち着くと、ルトヴィヒの手から毛先を取り返し、室内にあった簡素な弓を手に取る。もう使わないからここに放り込んであったものだ。飾りのないそれに、羽のいくらかぼさついた矢をつがえた。
「追うわよ」
振り返るとルトヴィヒが、窓から身を乗り出して左手をさしのべていた。
「それで捕まえられたらラッキーなんだけど」
地面を走り出した男に矢を射かける。男の服を城の側に木に縫い止め、時間稼ぎにして、フェイルは室内から縄梯子をおろし、あっと言う間におりてしまった。ルトヴィヒは一瞬面食らったが、左手をひき縄梯子をあげて、窓を閉めた。猫を拾い上げ、フェイルの部屋の戸締まりもする。
一階の一つの、外からかけられる錠前式の鍵がついた窓から外へ出た。フェイルが泥棒に詰め寄るのを、前に出て阻む。
「手柄横取りかーしけたヤローだなぁ!」
居直ったのか、くるっと毛先の巻いた短髪の男があははと笑う。が、にらまれて黙った。
「立場が分かっていないようだ」
目を細め、冷徹にルトヴィヒが男の首を絞める。服が引っかかって逃げられないだけなので、男は体をよじり、暴れて掴み合いになった。はずみで矢がはずれる。
フェイルが後ろから石を投げる。地面で猫が、くわ、とあくびをする。
「やめなさい二人とも! ルトヴィヒも、大人げない上暴力に訴えるのは誤解されやすいんだから、やめなさい」
「やめろっつうかあんたも石、」
「四の五の言わずに膝を突いて謝りなさい! あなたはこの国のものを盗んだのよ。返して、謝りなさい」
「謝ったら無罪かよ」
「そんなわけないでしょ。略式で私があなたの身元を引き受けるっていうだけのこと」
「は?」
泥で汚れた服の裾をばさばさとたたき、男はフェイルに投げつけられた石で痛んだふくらはぎを押さえる。
「何だよそれ。あんた何。警備の空っぽの城でうろうろしちゃってさ、あんただって、泥棒みたいなもんだろ」
「泥棒と一緒にしないで。ルトヴィヒ、さすがに地下牢に放りこんだって、警備が皆寝ていたら困るわよね」
「そもそもこの国には、牢に入れるほど重罪名者が出ない。他国の犯罪者は送り返し、そこでこちらの言い値の罪状で処分される約定」
「そうよね……ルトヴィヒ、やけに詳しいわね」
「城内と外とを行き来していて、そういう話に疎いとやっていけない。事情を知っておいたほうがいつか役に立つ」
「それもそうか」
うなずき、フェイルは逃げようとした相手の肩をたたく。
「女殴るのは最低だけどな、危ないときは仕方ねえや」
男が、掌底でフェイルの顎を叩き上げる。が、フェイルが動きにあわせて体をのけぞらせ、当たらない。そったフェイルの膝が男の向こう臑を蹴り上げた。
「うわ! 何すんだよ!」
「は!」
肘を相手の脇腹へ、と思ったが、フェイルは自分の足につまずいて転んだ。猫が呆れたようににゃ、とため息をつく。やっぱり中身がジルカのようだ。喋れないから高みの見物のつもりだろうか、そのまま座り込んでいる。
ルトヴィヒが慌てて男を捕まえようとしたが、男はするっとかわしてしまった。よろけながら走り出す。
「待て……っ」
二人で同時に叫んで、追いかけなおして、背中に飛びついて顔面から倒れさせた。
「おーまえらなー!」
鼻血を袖口で拭きながら、黒髪の男は首だけで振り返った。フェイルが背の上に乗っている。その上にルトヴィヒが、きょとんとした様子で乗っていた。男らしくここは立ち上がりたいところだったのだが、男は、体がそれ以上まったく動かなくてふてくされたように顎を地面に落とした。
「そうだ姫。こんなことをしている場合ではない。リスを追わなければ」
「そうね、……じゃ、とりあえず、進まなきゃ」
フェイルとルトヴィヒが離れた。自由になった男は、自分も立ち上がった後、よろけながら木にもたれかかる。フェイルの一撃がきいていたのだろう。
「で、俺も行くの、」
「当たり前でしょ」
「ふつー置いてくと思うけど。盗賊なんざ」
「盗賊って、一人ぼっちなの?」
「ひとりぼっちって何だ。一匹狼って言えよかっこわりいな、おい」
「ひとりぼっちの盗賊は、賊ではなくただの泥棒な気が」
「そっか、ルトヴィヒ頭いー」
「いえ」
照れたように顔を背ける男と、ほめた女。縛られてもいない泥棒の男は、こいつら大丈夫かよと眉をひそめる。逃げようと思えば逃げられる。城は静まり返っていて、そもそも不気味だ。ちょっと出来心で、金にならないこそ泥より大きいところからいくらかちょろまかそうと思っただけで、面倒の気配がするのに巻き込まれたくはない。
が。
「じゃ、いこうか! 名前は何?」
フェイルがあまりに笑顔だから。
「……アーサー。アーシアルだけど」
反射的に本当の名前を答えていた。舌をかみたくなったが、続けて笑顔で内情を話され、無表情の男からは「どうせ数日中に魔法使いが復活すれば、逃げ出したところであなたくらいどこからでも、いくらでものろい殺せる」と本気で物騒なことをいうので、訳が分からないまま、ついていくことになった。
「俺ってお人好しだな……」
「アーサーは違うわ。いいひとよ!」
お人好し、という言葉の持つマイナスイメージ的な気配をぬぐい去って、フェイルは見事な笑顔で言った。
後ろから猫が近づいてきて、アーサーの足に今更のようにかみついた。