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着替えは別室で、と言われ、普段着でフェイルは廊下を走る。石造りの壁にはあちこち、城内につとめる者が作った手製のタペストリーがかかっていて、いつも通り穏やかに、開きっぱなしの窓から入る風と光を受けている。靴音をさせたり潜ませたりしながら、フェイルは、それでも特別な気がしてうれしくて仕方がない。
浮かれて歩いていると、でっぷりと腹の突き出た女官が「何なさってるんですかふらふらしてー」と声をかけてきた。洗濯物をつっこんだ籠を抱えている。フェイルが小さいときからここにつとめていて、フェイルがほとんど覚えていない母親のこともよく知っている。穏やかで落ち着いた方でしたよ、耳が疲れるほど聞かされている。フェイルはあらかじめ、反射で首をすくめた。
「そのまま浮かれて外に出て、さらわれでもしたらどうするんです」
「さらわないでしょ、ユーリといた時なんか、ユーリしかさらわないのよ盗賊なんて!」
「姫っ」
小さい子のいたずらをしかるように、女官は眉をひそめる。舌を出し、フェイルはさっさと逃げ出そうと背を向ける。しかし女官は大きめな声で嘆息した。まだしゃべるつもりらしい。
「ほぉらっ、最近は隣国で悪い魔法使いが末の姫を騙し、国庫の鍵を盗んだとかで。捕まってないようですしねぇ」
「うちに盗むものなんてないじゃない」
「まぁそりゃそうですがね。そもそも王城にあのふざけた不敗の白魔女永世のジルカ・ジアン様がきて、旅人だったイルギリス様を宰相に抜擢して以来、ちっちゃいわりにどこからもいちゃもんつけられなくなりましたからねえ。喧嘩売るのには勇気がいるでしょうから、あんまりそういうのは来ないでしょう、ね」
「ジルカ、ホントにそんなに偉いのかしら」
「さあ……うせもの探しを頼んでも、ネズミに頼めって言いますしね。一応後日ネズミが銀食器くわえて広間に集まってきましたけど。あれはどうなんでしょ。偉い肩書きもってらっしゃるわりに、何もなさらないし」
「ジルカ、普段何してるんだろ」
「ぶらぶらしてるんじゃないですか、姫と同じで」
「ちょっとお、同じって言わないでよ! それにぶらぶらするのって結構体力使うのよ、暇だといらいらして気力消耗するから、体力まですり減るんだから」
「姫は、おもしろいものに飛びついて遊びますからねえ。その点、ユリアノク様がいらしたころは、少しは安心でしたけれど。外に出るしやっかいなことはしてましたが、ユリアノク様、一応はちゃんと、フェイル様と夕方には戻ってきてらして。一度ユリアノク様がお母様と実家に戻られたときなんか、姫様一人で遊びに出かけて二晩行方不明、探し回ったんですからねえ」
「それはちっちゃいときの話でしょ!? 五歳より前の話じゃないの」
「あのころから姫は、自分のことを大人だって言い張ってましたよ。子供じゃないって。そのわりにすぐにお父上に飛びついて」
立ち話が長くなる。時間を気にして、フェイルはそわそわした。落ち着かない様子の姫に、まったくもう、と女官は肩をすくめた。
「最近は物騒なんですからねえ、そもそもフェイル様だと、姫じゃない仕事なんて無理じゃありませんか。洗濯も勉強も剣もからっきしで。畑仕事はあきっぽいから無理でしょうし。それなのに姫にも向いてない。姫じゃなかったらどうやって生きるつもりですか」
「何で洗濯。裁縫もだめだけど料理は出来るし、森で弓矢を使った狩りが出来るわ。火だっておこせるし」
「一見野性的に見えますけど、姫、夜寒いとおなか壊すじゃないですか。あと三日同じことが続くとつまんなくて城中走り回るじゃないですか」
「じゃ適職って旅人くらいじゃないの」
「歌は下手だし。吟遊詩人は難しいし、いっそ旅芸人ですかね。でも不器用ですもんねえ」
しみじみと言われ、フェイルはげんなりする。
「何だか、私何にも出来ないみたいじゃない。そんなこと言われたら落ち込むわ……価値がないって言われてうれしい人間なんていないのよ」
「そうですねぇ、でも姫は、姫なんだからいいんですよ。そのままで。姫はかわいらしいですし」
「美人なんていっぺんも言われたことないのに」
「美人とは一言も申し上げてませんよ。かわいいって言っただけで。ばかなこほどかわいい」
「ひどっ、」
高らかに笑いながら、女が走り去る。追いかけて走り出し、あっというまに背にたどり着く。手を伸ばす。使用人用の扉が、ばたんと閉まる。いつもだったらこじあけるのに、首根っこをつり上げて誰かに引きずられた。
「何!? 何するの!」
「失礼。ですが、一応緊急性を感じまして」
足下を、小さなリスが走っていった。窓が開きっぱなしだからそのせいかもしれない。踏んづけそうになっていたフェイルはよろけながら避けてから、首が苦しいことに気づいた。いったい自分をつりあげた犯人は誰なのか、見上げてみる。
「イルギリス!」
黒一色の背高い男が、ゆらりと立っていた。足下までの黒いローブを肩にかけ、口ひげは綺麗に切りそろえられている。冷ややかに見下ろされ、フェイルはつりあげられたという「失礼さ」について忘れて、逆にごめんなさいと言いたくなった。
黒の宰相イルギリスは、やれやれというように目を細め、冷たく呟く。
「それにしても、あなたはもう少し勉学に励まれた方が身のためだ。教養と品性が足りない」
「失礼ねー、……まぁ否定はしないけれど」
フェイルは頬を膨らませる。
テルテット・ラチタ王国は、大国と小国の間にある。北に小さめの町が一つ、南にも一つ。南側はほかの国との交通の要所で、小さな宿場町もある。あとは周りを、平らな森に囲まれていて、資源といったら、特にない。ここ十数年は戦争もないし、侵略もない。とても静かだ。
平和なところだと、フェイルは思う。それでも一応国でありフェイルは王女なので、ちゃんと姫らしく教養ぐらいは身につけて、何かあったときのために備えている、というのが本来望ましい状態だった。フェイルはあんまり勉強が得意ではない。ないが、とりあえず戦略とか人選とかは学ぶように言われている。平和だけれど、何があるかわからない。それが世の中というものだ。
「ここがどういうところか、分かっていらっしゃるならば、きちんとなさい。浮かれて廊下をはねない」
「分かってる、けど」
町から税を取り、旅券や外交対応をして、人々の代わりに魔法使いを派遣したり、知恵を貸すところ。それが王城。ここではそういうものだった。
本来ならば一人娘の誕生祝いを盛大にやるべきところ、王様はいたってふつうに、内々にやろうという決定を下した。魔女を呼んで祝福を受けるなどという、ちょっと古風なこともしてみて、フェイルは町を凱旋パレードみたいに花を振りまいて歩くというのもおもしろいと思っていたがセッティングが難しいと側近に言われて、別にこだわりもなかったし魔女だけでも父親たちに祝ってもらえるだけでうれしいにはうれしいからいいかなと思って、それで一般人の目に触れるイベントにはならなかった。幸か不幸か。
「けれど、ではない。やるかやらないかで、やれているかやれていないかという話です」
いっそう冷たく、イルギリスがフェイルを見下ろす。きっちりとなでつけられた黒髪と、隙なく着こなされた黒の、足下まですとんと落ちたローブ、切りそろえられた口ひげが、にじみ出る威圧感をさらに増して見せる。
「フェイル様。あなたは、ラチタの王女です」
「分かっ、……今日は誕生日なのに。イルギリスだって、宰相だけど魔法使いでもあるんだから、今回の祝福の七魔女の頭数に入ってるでしょ? もうちょっと手加減してくれても、」
「だからこそ、自覚を」
「ひーめー! 着替え!」
大扉の隣から若い女官が顔を出して声を張り上げた。フェイルはこれ幸いと走り出す。後ろで、イルギリスがため息をついた。