4-2
痛い。顔をしかめて振り返ると、すぐそばに、真剣な顔をしたアーサーがいた。静かに、と唇だけで呟く。少し後ろを歩いていたルトヴィヒが、足音をしのばせて、そっと隣に立った。同様に真剣なまなざしで正面の「なにものか」を見ていたが、フェイルの視線に気づき、ふっと表情を和らげた。
「大丈夫です。相手は、刺激しなければ恐れる必要はない」
「馬鹿言え。恐れ入るべきだろ。白銀の一角獣じゃねえかよ」
ささやき声すら嫌がって、アーサーは口早に言う。
「あれが一角獣……? 馬みたいだと思ったけど、よく見たら、鹿のようにも」
「馬鹿かお前。一角獣は「なにものでもない」んだよ。古代の、魔法と知恵で出来てる、自然の生き物だ。今普通にいる動物とは訳が違う」
「見た目が似てるものを例にあげただけだもの」
でも、一角獣は確かに、これまで見たどの生き物とも違っていた。どちらかというと、植物や石に似ている。自然にあって、気がついたら側にいて、通り過ぎてしまうような気配だ。つかみ所がない。それでいて、やけに清い。ちらりと、青く光る双眼が見える。背筋がぞくりとした。硬直し青ざめたフェイルに、ルトヴィヒが手を添えて、力強く言う。
「姫、ここに来られる前に、獣を殺している。弓を捨てなさい、早く!」
ささやき声で言われたが、体がうまく動かない。代わりにアーサーが実行する前に、素早く、銀灰猫が前足をのばして、弓をたたき落とした。かぁん、と石の上ではねる音が響く。緊張がいや増す。
けれど、一角獣は身じろぎしない。
やがてまばたきしてから、すうっとそっぽを向く。
アーサーが深くため息をつき、もう一度気合いを入れ直して息を詰めた。ルトヴィヒは、ふるえているフェイルの背を撫で、言葉をかけた。
「もっとも清く、殺戮による血肉や争いを厭う。水ですら、飲めば少しずつ病むほどだと言う」
「どうして水で?」
「水は、たとえば山から流れてくるだろ? そうすると、山で流れた血や、死骸が溶けた水になる。人間や動物、植物は、そういうもののほうが、体にはいいんだけど。全くとはいえないが、汚れがないものは雨水くらいのものだ」
「知識だけはまともだ」
「うるせ。だてにベルガラスんちに生まれてねぇよ」
一角獣は、悠然と歩き去った。光は相変わらず銀色に森を照らしている。
フェイルはふと足下を見た。
真っ白くて、まるで広い湖が寒さで平らに凍り付いたようだ。先ほどまでの泥やコケが、嘘のように消えてしまっている。ところどころ鏡のように光を反射し、銀色が目の端でちらちらして痛い。
不意に、銀灰猫が身をよじって暴れた。猫がもらった靴が脱げて落ちる。ルトヴィヒは蛇のようにくねる猫を支えようとしてふらついた。猫は、気まぐれにするりと、ルトヴィヒの服の中に入り込んでしまう。そのまま動かない。
困惑したように見つめられ、フェイルは、
「懐かれたみたいで、よかったね?」
ルトヴィヒの表情は大きくは変わらないが、いっそうしかめて、「そうですか?」と答えた。
ざく、と足下が鳴る。
誰の足音か、ここにいる者ではない、
他の、
「よー!」
背後から、雪を踏むような音を立てて、白いドレスの女が近づいてきた。真っ白な長い髪を高く結い上げ、丸くまとめている。ジルカ・ジアン。にいっと唇をひんまげて、彼女は細い手を天へのばした。
「諸君どうした? 何だか化け物でも見たみたいじゃないかァ?」
「何でジルカ! もう出られたの!?」
フェイルがぱっと近づくと、ジルカはフェイルの髪に絡まっていた木の枝をはずしてやった。
「違うね。残念ながら。たまたま一角獣に会っただろ、魔法の無効空間に道が連結しちまったのさァ」
「それって、どういうこと?」
「あたしらの魔法も、他人の魔法も、例外はあるが基本的には全部なかったことになってるってこと。でも時間も流れないような、なかったことになる場所だから。異次元。あんまり正しい場所じゃねェわな。体に悪いし心が歪む」
「……ジルカとちゃんと会うには、ここを出てもうしばらく待たなければならないってこと?」
「まぁそういう結論でおおむね間違いはない」
銀色の目が優しげに細められる。甘さを含む香水が、きりりと鼻に届く。少し会っていないだけで、やけに懐かしい匂いだ。フェイルは、鼻水が出そうになってすん、と息を吸い込む。何だか泣きそうな気がしたが、まだ、泣くところではない。
ジルカは長い爪をゆらりと振ると、人の顔を指さした。
「でー、あんたはルトヴィヒだっけ? あたしもそう呼んでやろうか」
ルトヴィヒは黙ったままジルカを睨む。ジルカはくすくすと笑った。
「猫かわいがりしたくなるだろう」
「は?」
「アーサー君、きみもルトヴィヒ君も。ぶっ」
自分で言いながらジルカが吹き出した。
「ジルカ意味がわかんないわよ」
「あはは、フェイルといいルトヴィヒといい、アーサーといい。どいつもこいつも、何て可愛らしいんだろうねェ」
「そりゃあんたから見りゃあなぁ」
アーサーは心持ち引き気味に言う。有名な魔女を間近で見て、ただ有名なだけではなく、雰囲気の濃さに圧倒されて体が逃げる。
ジルカは笑いながら頷いてみせた。
「さっさと森を出てくれないかねェ、と、頼みに来たわけなんで、あんまりからかってる暇がないわ。また後でたっぷり可愛がってあげるから」
「いらねぇよ」
まったくだ、とルトヴィヒがアーサーに追従する。まったく気づかないふりをして、白いドレスの女は首を左右に振ってため息をついた。
「魔法が使えないから、今ここにいるんじゃ手も足も出ない。宝石から出ることも、城への監視も無理だな。だからフェイル、さっさと、出ていけ」
「どうやればいい? このまま歩いていくくらいしか出来ないけど」
「それで構わない。そのうち抜ける。迷うなよ?」
「分かってるけど……」
「ほらァ、また迷う。心が」
馬鹿にするでもなく、泣きやまない子供にするようにやれやれと、ジルカが困ったふうに笑った。腰に手を当て、前屈みになって顔を近づける。踵の高い白のピンヒールがある分、ジルカはフェイルより頭一つと少し大きい。
「何をお迷いだい、私のかわいい子」
「ジルカの子じゃあないんだけど……あの、魔法が絡まってこんなことになったってジルカは言ったけど、それ以外の可能性については、まったくないわけじゃないのよね……?」
「何でそんなにすまなさそうにするんだか」
ふんと言って、ジルカはフェイルの頭を乱暴に撫でた。
「さ、答えてごらん。誰も怒ったりしないよ」
「だって、ジルカの考えをないがしろにして、傷つけたらどうしようかって思って。信じてないわけじゃないのに、ジルカ以外の考えも、必要な気がしてて、裏切りみたいで」
「信じる信じないの問題じゃねェだろばーか」
「だって、」
言い返そうとしたフェイルの額を指先で突いて、ジルカは笑う。
「お前は俺を信じてるんだろ? でも本当にあたしの判断が「間違い」だったら、フェイル、あたし、それぞれ自分一人の問題じゃすまねェ。お前が、国全部の重みと俺とを天秤にかけるのに心が痛む、そういうことだろう、でもなァ、そういうのは違うんだよ。ばあか」
「何、」
「信じてるなら、俺に俺の言った案を任せておけばいいんだよ」
フェイルの視線を受けて、ジルカは慈愛に満ちた柔らかな声を作った。
「俺は俺のことを信じてるお前に喜びを感じる。でもお前は、俺以外のやり方を探していい。そしてそれを試すんだ。お前は信じてるから、たくさんの意見を聞いて、見て、覚えて、考えて、そうしたら適任者を信じてそいつに任すんだよ。信じるってのは、そうやってやるもんだ。任せるっていうのは、そういうことだ。なぁフェイル。お前、この国の王女だろう。たった一人の。お前が取りしきらなきゃ、いったい誰が、あれこれ同時進行で進めていくように采配が振るえる?」
「うん」
無理矢理、といったふうに頷いて、フェイルは分かった、と答えた。
「話はついたみたいだねェ、じゃ、」
「……なぁ、あんた女だよな。時々しゃべり方変なんだけど」
「そりゃどの魔法使いだって、しゃべり方で自己統御するもんさ。どっからどこまでのことを言うにはこの言語、この語調、この相手、この空間、そうやって選ぶ。あんただって知ってるだろ、ふふ、ベルガラスなんだからァ」
爪の先で額にぐるぐると丸を描かれ、体中鳥肌を立ててアーサーが逃げる。満足げにジルカは、彼に投げキスを送ってみせた。もっと嫌がるので、もっと笑う。
「ジルカ、私行くね」
「はいはい。あァでも、忘れないで。あたしはいつも、あんたの側にいる。あのバカもね」
流し目してウインクした魔女に、フェイルは慌てた。
「ね、ジルカ、あのバカって、もしかして、ゆ」
「じゃっあねーん」
浮かれた声が、反響して、消える。
ひらりと振った手も、翻したとたん消えた。
残されたのはルトヴィヒとアーサーとフェイルと猫(ルトヴィヒの服の中)とリス(ポケットの中)だけである。
しばらくしてから、フェイルは途方に暮れたような顔をして言った。
「じゃあ、いこっか……」
「うわ暗ッ、お姫さん異様に暗いな」
「アーサーだって、ものすごい嫌そうな顔してる。自分がベルガラスなのに一言も教えてくれなかったし、泥棒だし、ジルカは普通にしてたから悪い人じゃなくて、ルトヴィヒのことも何だかジルカ知ってるし、何で竜って教えてくれなかったの、何で、」
壊れたようにたどたどしく呟きだしたフェイルに、どうしたものかとアーサーはルトヴィヒを見る。「味方は俺たちだけだぜ、どうにかしないと」
「味方と言われても。困る」
「でもよ、……前からこういうケがあるわけ? さっきまですげえあっけらかんとしてるっていうか、見てるこっちまで心配事忘れちまうような感じだったのに、何この変化」
「不安なんだろう、色々あって。普段ジルカを頼りにしてるというより、今ここで、自分以上に明るい人間を見て、どっと疲れが出るように不安があふれた」
「あー、そういうもの、」
「そう」
男連中がフェイルの心理分析をしている頃、ルトヴィヒの服から銀灰猫が飛び出し、ひらりと飛んでフェイルの側に歩み寄っていた。小さく鳴かれ、フェイルは呆然とした顔で猫を見下ろす。猫はフェイルの足に頭をこすりつけ、再び鳴いた。
「おなかすいたの?」
しゃがんで、フェイルは猫の頭を撫でる。銀色の不思議な光沢が、指で撫でるたびにきらきらと光ってうねって見える。
「お前は、きれいね。いい子、でももうちょっと待ってね、ご飯は町についてから食べましょ!」
「うわ何か今また急に元気になったな、」
「不安にしてたら進めないのと、あの猫を守らなければと奮起したせいだろうな」
「そういうもんかな」
「そうだ」
「よーし、出発!」
元気よく叫び、フェイルは猫を抱きかかえた。頬と頬をふれあわせて、笑顔になる。
それを見て、歩き出しながらアーサーはルトヴィヒに同意を求めた。
「なぁ、今思ったんだけど。特別かわいい顔してなくたってさ、笑顔がよけりゃいいんじゃねえの」
「……笑顔。それは否定しないが」
「だからさ、そうだなー、何て言うか、普段あんまりくさってないとこがいいんじゃねえの。出来ないとか姫らしくないとか言われて、むかっとしたりはしてるけど、くさってない」
「引きずってはいる」
「まぁそりゃそうかもしれないけど」
ひきずっていないとしたら、それはそれで人間としてどうなのか。
アーサーは思ったが、あまり意味のある議論になりそうにないし、歩くのがいつまで続くか分からないので、体力の無駄になりそうなことはやめておいた。ポケットでは相変わらず、リスがすっかり寝こけている。
 




