俺の奇妙な家
目が覚めると俺は湯船に浸かっていた。
(ここは……?)
狭苦しいクリーム色の風呂場。浴槽と壁の間に貼られたゴムはすでに劣化し、くすんだ色をしている。
裸の暖色電球が微妙に瞬いた。
その明滅で狭い風呂場がグラリと揺れる。
そろそろ取り替え時だろう。
周りを見渡すと、古ぼけた桶に、ラベルの剥げかけたシャンプーに女性用のリンス。
浴壁に据え付けられた収納棚には詰め替え用のパックが佇む。
ある段にはリンスのパックと男性用の剃り髭クリームスプレーが同居している。
目を凝らしてそれらのラベルを確認すると、サラサラヘアーを風に踊らせ微笑む女、そして、隣で顎に白泡を乗せたダンディーな男がシェーバーを走らせた後の感触を確かめている。
男の目が俺をさっきからずっと観察しているような気がするが、気のせいだろうか……
「ふぅっ……」
俺は既にぬるくなった湯を顔面にぶち当てるとザバリと湯船から脱出した。
少しシャワーで身体を流す。
聞いた話によると湯船には雑菌がたくさん浮いているらしい。
だから、外に出る前のこの所作にはちゃんとした意味があるのだ。
湯船でさっきまで寝ていたためか、頭がくらくらする。
(どうして寝てしまったんだろう……これも日々の疲れってやつか?)
念入りに見えない体の汚れを落とすと、俺はハンドルを捻って湯を止めた。
そして、中折式の風呂場の扉の取っ手に力を加えた。
内圧と外圧の関係のためか想像以上に扉が重たい。
———バゴン
風呂場の中で扉の開いた音が反響する。
かなりやかましい。
風呂場から外に出ると左隣の籠に着替えとタオルがまとめて置いてあった。
俺は濡れた髪を先にタオルで乾かし、そして、身体全体を拭いた。
バスタオルでは先に髪を拭くのがマイポリシーだ。
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「上がったぞ」
寝間着を着込み、肩にタオルを掛けながら俺は風呂場からリビングに出た。
食卓では妹が参考書を開き、勉強している。
黒いストレートのサラサラヘアーがうつむき加減の横顔を隠している。
コイツも今は高3。来年には受験が控えている。
妹はこちらを振り返ると少し怒ったような顔をした。
黒縁の眼鏡をかけていた。
「遅い!いつまで入ってんのよ……ったく……」
俺は妹のきつい視線に思わずたじろぐ。
「すまん。風呂場で少し寝てたんだ」
妹は、俺の謝罪を確認すると眼鏡を外し、ドタドタと二階の寝室に着替えを取りに上がっていった。
ちらりと俺は食卓の上をみる。
ノートの上に置かれた赤色の分厚い本の表紙には『東京大学』と明朝体で書かれた黒文字。
俺の妹は東大受験生の一人だ。
俺自身は現在、地元のFラン私立大学の学生なのだから、このような大学を受験する学力を有する妹を誇らしくも、そして内心兄貴の自分が恥ずかしいとも思う。
――ドタドタドタ
階段を誰かが駆け下りる音がする。
おそらく、妹のものであろうが、しかし、もう少し静かに出来ないのだろうか。
彼女曰く、受験生は一秒たりとも時間を無駄に出来ないらしい。
(そりゃご苦労なことで)
さて、もうすぐリビングの扉を勢い良くスライドして着替えを腕に抱えた妹が入ってくるはずだ。
30秒たった。 誰も入ってこない
1分たった。 誰も入ってこない
10分たった。 状況依然変わらず。
そこで俺はさすがにおかしいと気づく。
(何やってるんだ……?)
あんなに時間を大事にする妹が10分も油を売っているとは考えられない。
俺は先ほど妹が出ていった引き戸をスライドして開けた。
すると、目の前に『何か』がいた。
地面に異様に爪の長い五本指の両手、そして昆虫のような灰色の足が奥に接着されている。
それらから天井に向かって細い腕と脚が真っ直ぐ伸びていって……
上を眺めるとその手足を持つ主を視界中央に捉えられた。
———やはり灰色の胴体だった。
身体には毛の一本もなく、胸部には歪に筋肉がついている。
ソレの双眸も俺を真っ直ぐに捉えていた。異様にデカい瞳が瞼の開閉によって見えたり見えなかったりを繰り返す。
円形の口とその円周に沿って並んだ長細い歯。
頭は巨大な体躯とは不釣り合いに小さい。
その口からはさっきから不快な鳴き声が漏れている。
「クロロ……クロロロ……」
(は?)
俺はあまりに異常な事態に思考が停止していた。
———ビィーーーーーーーッ!!!
突如、家全体に警報が鳴り響く。
そして、機械的に作られた電子音がアナウンスを始めた。
『バイオハザード発生。繰リ返ス。バイオハザード発生。第四進入口ノ緊急閉鎖開始。関係各位ハ直チニ退避セヨ』
———ゴゴゴゴ
そして、家全体の出口という出口でシャッターの降りる駆動音がした。
(何だ……なんなんだよ……何なんだコレは……)
———ガゴン
シャッターが完全に降りきり、ぶつかる音がした。
すると、それを合図にするかのようにソレの口から長細い内蔵が飛び出した——否、ソレも口であった。
赤い粘膜に包まれたそれは先端から4つに裂け、その裂け目の内側にはビッシリと小さく鋭い歯が並んでいる。
「ひっ?!」
上下左右、四方から気持ち悪いモノが迫る。
だが、それが俺を捕らえることはなかった。
———ガチッ!ズドドドドドドド!!!
激しい銃声と共に化け物の身体に多数の穴が穿たれた。
「jpjtpgjmwp?!Jack!!wgwgtgmdwpt!!」
階段の上からセーラー服姿の妹がこちらを覗いていた。
英語を喋っている。
辛うじて『ジャック』と言っているのが分かるが、生憎俺はリスニングが得意でないので彼女が全体を通して何を言っているのか理解することはできない。
そんな彼女の懐では真っ黒なアサルトライフルが銃口から白煙を吐き出しており、セーラー服と機関銃というとてつもない違和感を演出していた。
(何故に英語……?ってか、ジャックって誰だよ。
まさか俺のことか?俺にはちゃんとした日本名があるんだぞ……
そうだよ、俺の名前は……名前……)
驚愕した。
自分の名前が思い出せないのだ。
床一面に広がる血の海に自分の顔が反射する。
短髪ストレートの彫りの深い顔。
どう考えても米系の顔だ。
それは絶対に自分の顔ではない筈なのに、元の顔が思い出せない。
妹が階段を下って茫然自失の俺に近づいてきた。
何事か俺に英語で問いかける。
「gagjambxgw?」
聞き取れない。
俺は疎い英語で聞き返す。
「わ、ワッツ……?」
「agmgtodomx?」
妹が眉をひそめた。難しい顔をしている。
「gmgwkdpwmjvqms8……hxjp5ruq8q9m.
opkmljwukxQ…mpoiej……」
そして、妹はため息をつくとライフルから手を離し、両手をフリーにする。
ライフルにはスリングベルトが付けられており、彼女の腹で宙づりの状態になった。
そして彼女は腰に巻いているホルスターからシルバーの拳銃を取り出した。
銃身のスライドを引き、俺に拳銃のグリップ側を向けて差し出す。
「Kill」
彼女は命令するように一言言った。
殺せ、という意味だろうか。
足下ではまだ先ほどの化け物が小さく息をしている。
空いた穴からは細く湯気が立っていた。
肉が焼かれる不快な臭いがする。
「さ……、サー、イエッサー……」
俺は仕方なく海外の軍人の真似をして彼女から拳銃を受け取った。
その拳銃は見た目によらずかなり重たかった。
両手で化け物の頭部に狙いをつけ、引き金に人指し指をかける。
——ズドン!
反動で俺の腕が持ち上がると同時に灰色の頭に親指大の穴が空いた。
顔面にもろに化物の返り血を浴びた。
彼女はフン、と鼻を鳴らす。
「OK. Good Job,Jack.」
しかし、コイツは日本語を話してはくれないのだろうか。
俺は彼女に日本語で話しかけた。
「なあ、頼むから日本語で話してくれないか?」
すると、妹が片眉を上げる。
「はあ?あんたネイティブじゃないの?」
「いやまあ確かに俺は外人の顔してるけどさ。でも、全然状況が分からないんだ。俺さ、たぶん記憶がとんじゃってるんだ。だってさっきまでずっと自分が日本人だと思ってたんだぜ」
妹はかなり困惑した表情を見せる。
「……神経性の毒ガスでも風呂場で浴びたのかしら……あなた今日、いつもより異常に風呂が長かったわよね?」
「ああ……かもしれん。自分の名前と顔すら思い出せん」
「参ったわね。じゃあ、私たち家族が完全にニセモノってことも覚えてないのね?」
俺はその事実に内心衝撃を受けながらもこくこくと頷く。
すると彼女は長々と話し始めた。
「この家全体はね、『レイン』という巨大な製薬会社の研究施設の蓋みたいな役割を担ってるの。その研究ってのが、まあ、軍事目的のヤツなんだけど、いわゆる生物兵器?って言うのかしら。連中は製薬会社というのを隠れ蓑にして、そこに転がってるような化け物を日夜、試作しては殺したり、更に改造を加えたりしていたわ。元になった研究動物たちは完全に彼らのモルモットね。職員の噂によると人間の肉体も何処かから調達したりしてイジったりしてたらしいわ。」
俺は驚愕した。
自分たちが普段、日常生活を送っている地下でそんな人道に背いたことが行われていたのか。
「そんなことよく警察にバレなかったな」
「あら、コレは政府公認のプロジェクトよ。だから機密は絶対に外に漏れてはならない。仮想敵国に研究の詳細がバレたりしたらそれこそ最悪ね。国際問題にされるわ。」
「……」
そんな国家間のバランスを揺るがすレベルのことがこの家の地下で行われていたのか。
「だから、『蓋』は厳重に警備して一般市民にバレないよう巧妙にカモフラージュしなければならなかったわ。それで私たち偽物家族がつくられたの。私もあなたも『レイン』に派遣された警備兵。偽の両親は二人ともそこの研究員よ。」
そして、彼女は「そっかー、じゃあ本当の私も知らないのかあ」と独りごちた。
すっと息を吸うと、彼女は俺に向き直る。
「改めて自己紹介するわ」
靴を鳴らし姿勢を正して俺に敬礼する。何千回もやっている動作だからだろうか。動きは淀みない。そして、喋り方も切り替わった。
「日本国防衛省陸上自衛隊特殊作戦群『春霞』所属、識別ナンバーG5。仮称、アヤカ・イチジョウであります」
(なんだそりゃ……)
「えと、俺は……」
「あなたはレインに雇われた傭兵と聞き及んでおります。名前はジャック・バルトマン。アメリカ陸軍第一特殊部隊の『デルタフォース』出身だとか。まあ、レインから一方的に知らされたことですので、ソレが本当の情報かどうかは定かではありませんけど。」
俺は腕を組み関心する。
「ふーん……何か現実感がまるでねえな。俺がデルタ出身の軍人で、お前が陸自の軍人か。そして、両親は家の地下にある巨大な軍事研究所の研究員で、しまいにはこの家族も偽物か……」
「こんなことで驚いていたらこの先は身が持ちませんよ。今から地下施設に潜入して中枢の中央管理センターまで行かねばなりません。今回のこと、恐らく裏で手引きした者がいます。その人間を拘束することが私たちの任務です。」
仮称・アヤカが敬語口調で続けた。本当に軍人らしい受け答えの良さだ。
「それは良いんだけど……外に出て応援を呼んだほうが確実じゃないか?」
俺の提案にアヤカは首を横に振る。
「それは私も考えましたが、出来ません。このシャッターは内側からは絶対に開けられない使用となっています。なにしろバイオ感染が拡大することを防ぐのを目的とした代物ですから。それに人目があるので大規模な部隊も動かせません。救援を待つのも手ですが、レインは全てに封をして本件を無かったことにするでしょうね。よって、救助も絶望的かと。でしたら、自分たちで脱出するしかありませんね。」
「しかし、その施設にはこんな感じの化け物がうようよいるんじゃないのか?」
俺は床の異形の怪物に目を落とす。
アヤカは笑みを浮かべながらライフルを少し持ち上げて俺に示した。
「ですから、『コレ』があるんじゃないですか。ジャックさん、ちょっとついてきて頂けますか?」
そして、俺の返事も待たずにアヤカは階段を登り始めた。俺も彼女の後に続く。
アヤカは自分の部屋に入ると閉まったクローゼットの前に立った。
ガバッとそれを開ける。
中には夏物の制服や運動用ジャージ、フリルの沢山ついた可愛らしいスカートなど女の子っぽい服が沢山かかっていた。
彼女はそれらを何もいじらずに内壁のある部分を手で押した。すると、壁からパソコンのキーボードのようなものが出てきた。
彼女がそれに何かを打ち込む。
そして、エンターキーをクリックするとクローゼットをまた閉めた。
しばらくすると、クローゼットの中で機械の駆動音のようなものがした。
彼女はクローゼットをもう一度開く。
すると、中身は先ほどまでの内容とは一変していた。
ステンレス製の鉄棒に引っかかっているのは真っ黒なプレートのついた戦闘服やヘルメット、ガスゴーグルなど、危なっかしいものばかり。ホルスターのついたベルトのようなものもかけられている。
そして、彼女はクローゼット内にある引き出しを開けた。
そこには整然と並ぶ、銃器やコンバットナイフたち。手榴弾などもある。
一か所、アサルトライフルのような形をした型があったので、アヤカはそこからさきほどの銃を取り出したのだろう。
「装備はここで整えてください。私も着替えます……後ろ、向いててくださいね?」
彼女は目的のものを取り出すと、俺の後ろに回った。
ガサゴソと衣擦れの音がする。
クローゼット内のヘルメットに付いたゴーグルを見ると着替えを進める下着姿のアヤカの姿が完全に映っていた。
もっとも、スポーツブラにタンクトップというセクシーのセの字も感じさせないものだったが。
俺は首を振って雑念を払うと自分の着替えに集中することにした。
(……ん?)
何故か手がスイスイと動く。何をどのように着て、どの装備をどこに装着すれば良いのか手が覚えているのだ。
そして、十分も経たずに着替えは完了した。
姿見を見る。
真っ黒なボディーアーマーにタクティカルスーツ、バリスティックヘルメットの上にはナイトビジョンゴーグルが水色のレンズを覗かせる。左肩と左耳には無線機器。黒いブーツはかなり軽く動きやすい。
そしてプライマリーウェポンには先のアヤカの使っていたものと同じ高性能オートマチックライフル。右腰のホルスターにはセカンダリーウェポンとして自動拳銃が収まっている。
さながら、アメリカの特殊部隊SWATといったところか。
俺は姿見を見たままアヤカに後ろ向きで尋ねる。
「もうそっち見ても良いか?」
(鏡の反射でもう着替えが済んでることは確認済みなんだけどな……)
「ええ、大丈夫ですよ」
後ろを振り向くとそこには俺と同じような恰好のアヤカがいた。
今はゴーグルを押し上げ、目だけを覗かせている。
「それでは行きましょうか……銃にセーフティはかかってますね?」
「ああ、大丈夫だ。」
俺とアヤカは二階の両親の寝室に入った。
何でもない普通の光景の中で、唯一、壁にあいた長方形の穴が目立つ。
「やっぱり……研究所に続く出入り口が開いてますね。普段は壁に遮られているのですが。
何者かが管理センターでここの扉を不正に操作した可能性があります」
「そうなのか」
「はい。……ジャックさん、ここから先は危険地帯です。私の部下も地下で『あれら』と闘っているでしょうが、何人か既に犠牲者が出ているかもしれません。感染は広がりますから、彼らもあの化け物のようになっているかもしれません。」
「たとえ、それがヒトの形をとっていても躊躇しないで下さいね。」
「ああ、当たり前だ。俺はデルタにいた兵士だったんだからな。暴れまわってやるぜ。」
「頼もしい限りです」
あやかは笑った。
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陽光照らす月曜日の朝、耳に派手なピアスを開けた金髪の少女が自室の向かいにある部屋の扉を見た。
部屋の内側からは野太い男の声がくぐもって聞こえる。「うわあああ!」とか「逃げろアヤカ!」とか何だか訳の分からないことを言っている。
取り敢えず自分を心配していることは分かったが。
だが、今本当に心配なのは———
アヤカは深々とため息をついた。
そして、部屋を後にし、一階のリビングに向かう。
珍しく父と母が居た。
父はソファに腰かけ、新聞の一面を読んでいる。母は朝食を作っている最中だ。
父は現在定年間近のしがないサラリーマン、母はパートをこなしながら家事もこなす兼業主婦だ。
アヤカはわざとらしくため息をつき、嘲笑混じりに言った。
「あの兄貴まーた訳の分かんないこと言ってるよ。何か今度は家の地下に秘密の研究施設があるんだって。」
すると、父が渋い声を上げた。
「アヤカ、自分の兄をそのように言うもんじゃない。そんなことよりお前こそ、その髪はなんだ。早く元の黒髪に戻したらどうだね。」
アヤカは話を思いっきり逸らし自分に小言を垂れる父に反論しようとしたが母の声に遮られる。
「でも私も、もう一度あの子を病院に連れていくべきだと思うわ。いくら東大生でも中退してしまったら就職先なんてないわよ。おまけに精神疾患ときたら、いよいよ絶望的だわ。
ニートなんかになられても私たちにあの子を養う貯金なんてないわよ。」
そして、母は吐き出すように文句を言う。
「はあ……何のために高い学費を払って、私立の中高にまで行かせたのやら。せっかく、東大に入っても、辞めちゃったら意味ないじゃないの……」
父は静かに新聞をテーブルに置き、眼鏡奥の皺の刻まれた目で白髪の目立つ母を見た。
「だから言ったじゃないか。お前があの子に負担をかけすぎたのがいけないんだろう。学生時代は遊ぶ時間も削らせて、机に縛り付けて勉強ばかりさせて。おかげであの子は随分いびつな人間に育ってしまったじゃないか。大学で友達が出来なかったのもそのせいだ。お前にあの子を責める権利はない。」
———ガシャーンッ!!
突然、母が床にお皿を叩きつけた。そして、絶叫する。
「あなただって何も言わなかったじゃないの?!それを今更になって『だから言ったじゃないか』ですって?!何を偉そうに!!そんな態度をとるくらいならちょっとはマシな収入でも持って帰りなさいよね?!誰のせいで私が身を粉にして働かなくなってるか自覚があるの?!」
父の声が震える。
「何だと……?」
そして、またいつもの罵り合いの喧嘩が始まった。
アヤカは耳を塞いでリビングから飛び出した。
———お父さんとお母さんの、バカ……!
———お兄ちゃんの、大バカ……!!
思い出すのは昨日、バイトで夜遅くに帰宅し、自分の部屋に向かったときのこと。
部屋からは誰も使っていないはずなのに明かりが漏れていた。
扉を開けるとそこには自分の私服を着込んだ兄がいた。
スカートの下から毛だらけの汚い脚が見えている。
床を見ると、クローゼットが開け放たれ、自分のズボンやセーラー服に、ブラやパンティなどの下着が散らばりながら打ち捨てられていたのだ。
あまりの恐怖に叫び声を上げた。
よく見ると、彼の口端から垂れた涎が自分のお気に入りの服を汚している。
兄はアヤカの叫び声を聞くと「うおおおおおお!」と言って勢いよく部屋を飛び出していったのだった。
———玄関口で座り込み、アヤカはさめざめと泣く。
兄がおかしくなり始めたのは大学に入ってからだ。
初めは平日に家を出るのが一限の終わった後になるとかそんな程度だった。
だが、徐々に遅刻は酷くなり、終いには兄は大学に行かなくなってしまっていた。
そして、兄は部屋に引きこもるようになり、言動もおかしくなった。
同じ大学の先輩に聞いたところ、兄は大学でいつも一人ぼっちだったらしい。
講義を受けるときも一人、食堂でも一人、外国語の授業でペアを組むときは誰も兄とは組みたがらなかったので、いつも講師と組まされていたらしい。
頭の良かった兄、両親の自慢の種だった兄。
馬鹿大学にしか行けなかった妹の自分にとって兄はとても尊敬する人だった。
彼はいつも自分に優しく接してくれたのだ。
だから、とアヤカは思う。
今晩も昨晩のように兄の妄想に付き合ってあげようと思う。
彼女は袖で涙をぬぐい、ポケットからモデルガンを取り出した。
ステンレス製の銃身に自分の顔が反射する。
—————だから、今度は私がジャックに優しくしなきゃ