水泳部に入りたかったんだけど
これまでの人生を振り返ってあの時こうしていたらどうなっていただろうって思うことはおそらく誰にでもあるのだろうと思う。それはたぶん高校生ぐらいの若者にも、いや中学生、いや小学生の子供にだってあるに違いない。オレも、あの時こうしていればって思うようなことは何度もあった気がする。でも、50年近く生きて来ると些細な事はだんだんどうでもよくなって来るもので、大抵の事はあれこれ考えた挙句に、結局こうしようがああしようがどのみち大して変わらなかっただろうっていう結論になって忘れてしまう。
でもむしろ、年齢を重ねて、些細な事はどうでもよくなって来るような世代になると逆に、どうしても忘れられない後悔っていうのが一つぐらいはあって、その後悔が大きすぎて他の事は全部忘れてしまうっていうことなのかもしれない。
水泳が大好きだった。どうして好きだったかって言うと、泳げたから。ただそれだけ。でも、何一つ上手くできないオレにとって、泳げるっていうのは唯一誇れることだった。
泳げるようになったのは小学校2年生の夏休みだった。運動っていうのはなんか苦手意識があって、今考えれば全然そんな苦手意識を持つ必要はなかったんだけど、4人兄弟の末っ子で、近所の子供たちもみんな自分より年上で、だから当たり前なんだけど、体は小さいし、足は誰よりも遅かったし、キャッチボールも上手くできないし、だから自分は運動神経が鈍いと思っていて、実際兄弟にも近所の子供たちにもそう言われていた。小学校1年生の時はまだ泳げなくて、同級生でも1年生の時からもう泳げるやつもいたから、やっぱり自分は泳げないし運動できないし駄目な奴なんだって思った。
でも、2年生のプールの授業の時に水中で目を開けられるようになった。思い切って開けてみたら意外とへっちゃらだった。それでもって、夏休みに学校のプールで遊んでいるうちに突然けのびが出来るようになった。けのびが出来た瞬間は、今でも8ミリ映画みたいな感じのイメージでなんとなく覚えている。本当に嬉しかった。空を飛んでいるみたいな気分になれた。
自分にも出来ることがあるって思ったら、泳ぐのが大好きになった。夏が終わり、プール納めが終わった後も、プールに行きたくて仕方がなくなってしまった。それで親に、温水プールに行きたい温水プールに行きたいって、たぶんかなりしつこく言ったんだろう。おもちゃだのお菓子だの、どれだけしつこくねだっても絶対に買ってくれないし、子供の要望なんて一切聞いてはくれないような両親だったのに、ある日温水プールに連れて行ってくれた。いや、温水プールって、実際には自分の期待していたものとはちょっと違って、自分としてはただ単に温水プールで遊びたかっただけなんだけど、そこは遊ぶようなところではなくて、スイミングクラブだった。その日以来オレは毎週土曜日にスイミングクラブへ通って水泳を教わることになった。
正直そこまでやるつもりはなかったんだけど、とにかくプールで泳ぎたかったので、スイミングクラブに通うのは全然苦にならなかった。何の野心もない、ただ泳ぎたいっていう、たったそれだけだったが、元来バカみたいに素直な性格だったので、一日も休まず通って、コーチに言われるがままに練習して、それなりに泳ぎも上達して行った。スイミングクラブに通うようになってちょっと体力もついたし、喘息がすっかりよくなって風邪も引かなくなって、体が丈夫になってなんとなくちょっと自信が出てきた。当時はスイミングクラブに通う子供なんてそんなに多くはなくて、クラスに2人3人程度だったから、他の子に比べれば泳ぎは上手だった。プールの授業でお手本の泳ぎをやるのに選ばれたりもして、そうやって目立つようになったのもちょっと嬉しかった。
小学校5年生になって、中学受験を親に命じられて、大塚だの四谷だのっていう東京の地名を二つ並べた名前の塾に通うことになった。それでも5年生のうちはスイミングクラブにも通い続けたんだけど、塾の成績が芳しくなかったために、母親に、スイミングはいつまで続けるの?って、暗に、もうスイミングはやめて勉強に専念しろっていうプレッシャーをかけられて、仕方なくスイミングクラブは5年生の途中でやめた。まだバタフライを習っている途中だった。
バタフライをマスターしないままスイミングクラブをやめるのはとても残念だったが、今は勉強に専念して、中学に入ったら水泳部に入ってそこでバタフライを練習しようって思った。中学の部活は水泳部以外考えられなかった。
中学受験は結局、事前の模擬試験の成績が悪すぎて、受かる見込みも全くなかったので、受験すらさせてもらえずに終わった。小学校の担任が親に、落ちてショックを受けるのは目に見えているから受けさせないほうがいいって言ったらしいのだが、こっちにしてみれば、受験する資格すらないって言われたようなもので、そのほうがよっぽどショックだった。そんなわけで中学は地元の公立中学に入学することになった。
小学校1-2年の時、同じクラスに原口って奴がいた。家も割と近かったので、帰りは一緒になることが多かった。ものすごく自分勝手で、わがままで、体も大きくて、剣道をやっていて、傘で人の喉を突いて来たりして、とにかく嫌な奴だった。なんでも自分の思い通りにしようとした。帰り道に変な道を通るのをつき合わされたり、ピンポンダッシュをやらされたりした。本当に辛かった。でもどうすることもできなかった。親に訴えても、やめろってはっきり言えって言うだけだった。それが言えれば最初から相談なんかしないのに。親には何も相談できないと思った。
3年生になる時のクラス替えで原口とは別のクラスになった。本当にせいせいした。クラスが別になっても学校の帰り道で一緒になる心配があったので、先生には、原口と一緒になったら嫌だからなんていう正直なことは言わず、この帰り道だと歩道のない道路を通ることになるので怖いからこっちにしたいと、もっともらしいことを言って、帰り道は別の道で帰ってもいいように許可をもらった。原口のいないその後の小学校生活は、まるっきり平穏だったかと言えば、やっぱりクラスに一人二人ぐらいは嫌な奴がいて、嫌な思いをする事も少なくはなかったけど、でも原口がいるよりはいくらかましだった。でも。
中学に入学したら同じクラスにまた原口がいた。かなり嫌な感じはしたけど、まあもう4年も違うクラスだったし、今さら付きまとっては来ないだろうと、そう期待した。しかしその期待はもろくも崩れ去った。4年なんていう歳月はなかったかのように、あの時と全く変わらない態度で原口は付きまとってきた。
うちの中学校はバレー部が全国大会にも出たことのあるぐらいの強豪だった。顧問の教師は他のクラスの担任で、体育と技術の教師だった。体育と技術の二教科を担当するのが果たして正当なことなのかどうか、今でも疑問に思っているが、体育に関しては生徒の眼から見ても本職とは言えないように思えた。それはともかく、その教師が、ことあるごとに教室に来ては、バレー部への勧誘を行った。おそらく他のクラスにも行っていたのだろう。そして、バレー部に入るとこんなに素晴らしいことがあると何度も何度も宣伝した。強い部活で充実した3年間を送り、卒業後も高校のバレー部で活躍できるとか、勉強でもいい成績をとって進学校に行く奴もいるとか、バレー部にはこんなに背が高い奴もいれば、背が低くてもジャンプ力で他校を圧倒して活躍する奴もいるとか、とにかくいい事ばっかり言って、中学に入学したての世間のことを何も知らない子供たちにはものすごく魅力的な部活に思えた。おまけに、この教師は他の部活動をけなすようなことも平然と言った。他の部活に入るとどんなにひどい中学校生活になるかというようなことを言った。その中には水泳部も含まれていた。あんなに強く水泳部に入ると決めていたのに、それを聞いたらバレー部に入ろうかって言う気持ちにもほんの少しだけなった。また、おそらく今でも言われているんじゃないかと思うけどバレーボールやバスケットボールをやると背が高くなるっていう迷信がはびこっていた。その教師はさすがにそこまでは言わなかったが、なんとなくそれを匂わせるようなことは言った。小学校の間もずっとクラスで一番背が低かったので、背が高くなるのはとても魅力的だった。
それでももう水泳部に入ると決めていたので、入学当初から水泳部の練習に参加した。水泳部はアットホームな雰囲気で先輩もみんな優しかった。顧問の先生は理科の先生で、理科好きな自分にはそんなことにも好感が持てた。ところが。
原口が、頼んでもいないのに、水泳部の練習について来て、一緒に参加した。そんなことが何日か続いた。オレも、ただ一緒に練習しているだけだったので、何とも思わず、自分の練習だけに集中した。原口は、水泳部もいいけど、バレー部もいいなあ、バレー部に入ろうよと言ってきたが、オレは水泳部に入ると決めていたからと言って断った。そのうち原口はバレー部の練習に出るようになって水泳部には来なくなった。
そのまま自分だけバレー部に入ればよかったのに、その後原口はバレー部に来い来いとしつこく誘ってきた。俺もお前の練習に付き合ってやったんだからお前も付き合えと言って来た。ほんとうにうんざりだったが、たまたま水泳部の練習が休みになった日があったので、一度だけバレー部の練習に出れば奴も納得するだろうと思い、バレー部の練習に参加した。
バレー部は強豪だし、先輩も怖いんだろうと最初からかなり緊張した。部員もたくさんいた。強いんだから練習も厳しいに決まってる。顧問の教師も兄からの情報で、普段は面白いけど怒ると生徒をぶっとばす怖い先生だと聞いていた。体育館に行くと、その日初めて練習に参加した同級生も何人かいて、みんな順番に先輩から靴のサイズを聞かれ、それに答えると先輩は名前と靴のサイズをメモして行った。先輩は最後に、じゃあこのサイズでバレーシューズを注文しておくから、と言った。顧問の教師もオレの顔を見て、そうか入るのか、頑張れよと言った。
目の前が真っ白になってしまった。靴なんか買うことになったらもうやっぱりやめますなんて言えない。もうバレー部に入るしかないんだと思った。
年齢を重ねていろんな経験を積んで来た今なら「今日は見学だけなので、まだ入るかどうか決めていないので注文しないで下さい」とはっきり言える。なんでそんな簡単なことが言えなかったんだろうって、自分でも思うけど、とにかく言えなかった。
家に帰って、家族に、バレー部に入ることにしたって言ったら、親にも兄にもびっくりされた。「どうして? バレー部なんかに入ったら大変だよ」って、理由は言えなかった。
とにかく気持ちを切り替えるしかないと思った。バレー部に入ればきっと背が伸びる、先生が言っていたように充実した中学校生活を送れる、そう自分に言い聞かせた。そして、3年生の夏休みが終わって部活を引退するときまで、結局バレー部に在籍した。
確かにいいこともあった。球技には苦手意識があったけど、3年間で球技への苦手意識はなくなった。でも。そんなこととは比べ物にならないぐらいの地獄が待っていた。
3年間やったことと言えば球拾い。得意になったのはボールをたくさん抱えて運ぶこと。バレーボールは、まあそこそこ上手にはなった。球拾いばっかりやっていたとはいえ、1年間で練習が休みになる日が1日2日しかないような部活だったので、それなりにボールの扱いは上手くなった。
部活の同級生からはいじめられた。ひどいいじめだった。最後はほとんど誰とも口をきいてもらえなくなった。3年生の秋、部活の引退後に引退記念パーティーというのがあって、最後に記念写真を撮った。その写真を後から見たら、他のみんなは腕を組んで楽しそうに写真に写っていて、その前に一人だけ無表情でしゃがんで写っている自分がいた。楽しいのか、あるいはつまらないのか全くわからない、感情が全く表に出ない表情。
そんなに嫌なら途中でやめればよかったのに。やめられないわけでは決してなかった。実際途中でやめた同級生もいた。やめなかった自分にも責任がある。なぜなら、やめなかったのは実に打算的でずるい理由だったから。部活動を途中でやめたら内申に響いて希望の高校に入れないかもしれないから嫌でもとにかく続けるしかないと思っていたっていう、あきれるような理由。
高校野球やバスケットなんかの強豪校でのいじめや教師の体罰がニュースになるたびに、バレー部の3年間を思い出す。いじめや体罰に耐え抜いた3年間。今でも人と接するときに、特に相手が男だとかなり緊張して身構えてしまう。よっぽど気心の知れた人でない限りは。特に、10人から15人程度の人数の集まり。バレー部の同級生の部員が全部で16人だったから、それぐらいの人数の集まりでは無意識につらい記憶がよみがえって来てしまうのかもしれない。
いじめられたのだってオレにも全く落ち度がなかったわけじゃない。まず朝練。とにかく朝が苦手だったから、朝練にはしょっちゅう遅刻した。遅刻するたびに、水泳部に入っていれば朝練なんてなかったのにって思った。たぶんそんな気持ちだったからしょっちゅう遅刻したんだろう。
当時は自分自身いじめにあっているとは思っていなかった、というか自分がいじめられているという事実を認めたくなかった。だから、これはいじめではなく、ただちょっと対立しているだけだと自分に思い込ませていた。だから、あれがいじめだったんだと、自分はいじめられていたんだと自分自身も認め、人にも自分がいじめられていたということを告白できるようになったのは、やはり卒業して何年もたってからのことだった。
2年生の秋からは生徒会の副会長になって、これも皮肉なことにバレー部員だからっていう理由だけで選挙で選ばれて副会長になったんだけど、その生徒会の仕事が放課後にあったので、放課後の練習にも遅刻するようになった。どうやら他の部員たちには練習がきついからサボっているんだって思われたみたいだった。球拾いしかしていなかったんだからきついわけはなかった、確かに楽しくはなかったけど。
でもどんな理由もいじめをやっていい理由にはならない。今ならはっきりそういえる。だけど当時は、中学を卒業してからもたぶん10年以上は、いじめられたのは自分にも責任があったんだ、自分もいけなかったんだってずっと思ってた。
そういえば、注文したシューズをとりに職員室へ行った時の事。全員シューズを受け取ったあと、ダンボールの中にシューズが二足ぐらい余っていた。おそらく、練習に参加してサイズを聞かれたけど、結局バレー部には入らず、断りの連絡もしないでトンズラした奴がいたんだろう。愕然とした。なんだ、それでよかったのか。しかしもう後の祭りだった。
あの時、バレー部の練習に行かないでそのまま家に帰っていれば、サイズを聞かれてもちゃんと断っていれば、あるいは、断らなくてもそのまま黙って水泳部に戻っていれば、大好きな水泳なら一生懸命練習してもっと速く泳げるようになったかもしれないとか、いろんなことを考えてしまうが、結局のところ今の自分は今の自分として生きているわけだし、失敗を教訓として生かしていないわけでもないし、それはそれとして受け入れるしかない。バレー部を引退してから卒業するまでの半年間は、高校受験の勉強があったとは言え、それはもうバラ色の中学校生活だった。あんな開放感は今までの人生の中でも間違いなく他に味わったことがない。あれを味わったから、その後の人生でも、あの開放感を味わうために、踏ん張るところで踏ん張ることができたっていうのもあるかもしれない。だから、今つらい学校生活を送っている人達も、時間は勝手に過ぎていくんだから、どうか踏ん張って、命を落とすなんていうことは絶対にしないで欲しい。きっと、時間が解決してくれるから。
そんなわけで、今でもバタフライはうまく出来ない。クロールも背泳ぎも平泳ぎも自分で言うのもなんだけど、綺麗に泳げるのに、バタフライだけはおぼれたみたいになってしまう。だから、今でも子供を連れて海水浴に行った時なんか、ちょっとバタフライやってみようかなって思うんだけど、ライフセーバーのお兄さんが勘違いして助けに来てくれちゃったりしたら恥ずかしいので、練習も出来なくて、だからいつまでたっても出来るようにならない。